太極拳、十三勢とはこのようなもの

buto5 哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているライプニッツは、「昨日を背負い、明日を孕んでいる今日」と時空の観念を表現している。
太極拳は、四正手と四隅手で空間と時間を創造し、中定という自己の存在を主体として、四方を客体として和合した五行で生きる自分の存在を、無尽の縁起的関係を受け入れながら、ミクロからマクロまでの無限の空間と、無始無終の永遠の時間の中心に、その刹那に自分を置いている、壮大な一瞬の輝きである。そして常に有るものでは無く、移り変わっていくもの。
従って、太極拳はただ「楽しい」「気持ちがいい」、その感覚が結果として、その一瞬に表れる。
その結果が現れてこそ太極拳であり修慧、論じたことは単なる思慧である。しかし、結果が現れたところにこそ、その理があることを知る。それが全てである。修慧は思慧も聞慧も含む三慧である。因縁、縁起の和合である。
太極拳の形を師から真似る。聞慧即ち「守」。太極拳の理を教わり、それで動くことができるようになる。思慧すなわち「破」。最後には、あたりまえに一人で、ただ気持ちが良く、楽しく動くことができる。そこには結果としての「理」があり、結果としての「形」がある。
「形」を知って論じる事なかれ、「理」を知って論じる事なかれ、太極拳が楽しくなれば、そこに理と形があるに過ぎない。そうなれば、その理を話すことができる。形を表すことができる。その形は、見えているだけであり、次の瞬間には消え失せる。それだけである。しかし、全てのものを含んでいる。般若心経に言う。色即是空。空即是色。
時空と五行。十三勢とはこのようなものである。

知られざる手揮琵琶

syukibiwarozen 楊家の三世、楊澄甫氏が演じるこの型は、太極拳の中では最もシンプルな型に見える「手揮琵琶」です。以前に実戦空手の髙段者にこの型を披露したことがあります。その彼は前足の虚歩の場合の構えは、空手の場合は猫足だといい、太極拳の構えとは違うというのですが、とんでもない、太極拳でも虚歩の構えの場合は猫足ですよと説明したことがあります。また、手揮琵琶には弓歩の構えもあり、古式楊式太極拳の実際の套路の過渡式に含まれています。
  実際に手揮琵琶を使って、彼と技で攻防を行ってみると、彼はその効果をとても納得したばかりか、その日から入門して太極拳に深くのめり込んでいきました。
 しかし、近代において太極拳が套路として伝承されてきている中で、太極拳を行っている人たちの中で、手揮琵琶の虚歩の構えが猫足であることや、弓歩の構えがあることをを知っている人に会ったことがありません。私のところの道場では、招式、散手練習における手揮琵琶の虚歩の構えは猫足で、実戦練習では弓歩も多用します。しかし、套路においては一般の套路と同じく踵を地につけた虚歩で行います。この意味がわかると、この手揮琵琶を使った技を強烈な攻防一体の技術として使えるのです。套路においては、その攻防一体の勢いを涵養しているに過ぎません。套路は構えの連続した型ではないのです 。実際の戦闘術における勢を徹底的に練り上げる練習法なのです。従って、この意味さえ知らなければ、套路の本質さえないということになります。なぜ、前足の爪先が上がっているか?楊無敵と言われた楊式太極拳の創始者である、楊露禅の行っていた太極拳の本質に立ち戻ればいいのです。そして、その本質は実際の相対の招式を行って理解できるものです。当道場では、基本を身につけた後は、応用または武道でそれらを涵養していきます。

4次元の太極拳

 太極拳は十三勢と呼ばれます。

十三の勢には、まず四正手があります。

四正手は、右攬雀尾では、掤は進行方向に向かって右前上から扌履は左後下、擠は前、按は後下から前と、右交差の3次元を描き、左の攬雀尾で左交差の3次元を描き、幅、奥行き高さである空間を全て網羅します。身の幅、眼の奥行き、手の高さの三尖で空間を描くということです。

そして四隅手ですが、野馬分鬃では、靠肘挒で因縁果の三節になり、現在から未来への時間軸を構成しています。後ろ手の採はその現在を身の中心線とすれば、三節に伴う過去の時間を表しています。靠肘挒の勢は採勢が力点となっているのです。そして中心線が支点、そして靠肘挒が作用点です。靠肘挒と進む長勁は後ろ手の採勢が力点となり、身体の中心線が重要な支点として発勁されます。

このように、四正手(空間)と四隅手(時間)が合わさって4次元という時空を構成します。
この理がわかると、四正手には四隅手の三節、四隅手には四正手の三尖が備わり、始めて4次元としての時空を備えた武道になるのです。
理論的には難しく言っていますが、身を持って太極拳の武道を経験すると、いつかはこのことがはっきりと理解できるようになります。

そして、そこに五行という方向が合わさって十三勢になります。3次元4次元には前後左右の概念がありません。まず、中定にいるのが自分であり、体が前を向いている、これで始めて前進後退右顧左眄という概念ができあがるのがわかるはずです。

このように4次元を制覇する人間(前後左右がある者なら人間と限らず何でもですが)と言うことになります。

以上のとおり、時空を制覇して現実的に生きる者の勢、これが十三勢です。

太極拳は空間を制覇し、時間を制覇し、そして人間として万象を制覇するというところから十三勢と名付けられました。
そしてその制覇は現実的で、心身を使って太極拳の基本勢としてできあがっています。

その十三勢を発見した張三豊または王宗岳らの武当派の太極拳では、古くからこの十三勢を基本に多くの型があります。

古くからの武当太極拳の古式では108式もあり、それから近代になってその108式を基にして、新らしく武当太極拳108式も生まれました。その武当太極拳108式は、楊家太極拳の楊露禅により改編されて楊式108式となり、楊澄甫により編成がまとめられ85式となりました。しかしながら、十三勢は基本勢であり、全てに貫かれています。これが時空と万象の理であるから、名付けて太極なのです。

古式108式には、纏手八卦掌や独立八卦掌などの型もあります。そして武当山にいる生き物たちの動きを備える形意拳の動きもあり、当然ながら歩法や身法で五行拳の動きもあります。古式太極拳には八卦掌、形意拳、五行拳の動きが全て含まれています。

この貴重な武当太極拳の108式も、108式などに編成される前の古式の太極拳(太極拳とはまだ言っていませんでした。武当拳法。内家拳法。太極拳法などと呼ばれていました。※カテゴリーの「内家拳」とは違います。)の型も多く残っています。
しかしながら全ては以上の十三勢の理論で構成されているのです。生き物たちも中心と前後左右があるのだから、五行があり、時空に生きているのだから四正、四隅があるのです。

このように、4次元に生きる人間の十三勢を理解でき、またそれを制覇できれば、太極拳は神明に達するのです。

これを知るためには、まずそれらが備わった太極拳の套路と武道の練習を、道を誤らずやり続けることです。

経験という膨大な情報が、これらを全て解き明かしてくれます。その時には全てが明らかになります。それを神明と言います。

海底針と双龍拉椀

海底針は太極拳における裏勢(りせい)=(体の内側を使って抱き込むような勢)を習得する重要な招式です。

双龍拉椀(そうりゅうらわん)は海底針の示意であり、相手の手首の内側を双龍の上あごで、外側を大小の拳頭を下あごでひしぎ噛んで上あごを裏勢にもとづき内側に引き込み、上あごを前側へ押し噛んでいく手法です。

この裏勢がないと、以上の拉勁は発勁とはならないのであり、重要な練習方法となります。

海底針の裏勢は多くの擒拿術に含まれますが、この双龍拉椀は最も基本的な示意なので、単法として相対で練習をします。

双龍拉椀は相手の手が胸元にある時を想定して練習しますが、相手の冲拳を受けてから拉椀する上臂拉椀・上攔拉椀など多くの技があるので、それらを多く練習することで裏勢の発勁感覚を身につけ、套路において武道としての海底針が行えるように自己修練することが大変望ましいのです。裏勢が生きた発勁を裏勁といいます。

裏勢は転身背摔(てんしんはいそつ)などの摔角の発勁にも、扇通背の勢と合勢にて使用されるなど、多くの技においても練習することができます。

 

太極拳の四隅手における板と棒

太極拳は円の動きで動くと一般では理解されています。確かに十三勢の四正手(しせいしゅ)は円と曲の勢です。

ところが四隅手(しぐうしゅ)は直と伸の勢であり、後は五行の方角で十三勢となっているのです。

四正手は太極拳を聞いたことがある人なら円の柔らかな動きということで理解はできるでしょうが、四隅手は理解しにくいものです。

四正手も四隅手も五行も、相対の武道練習において詳しく学びますが、四隅手の勢を実感できるのは特に拳脚の相対練習になります。

冲捶は拳面で相手に打撃を与えますが、身(靠)からおこった勢は、肘、手腕(列)、尖(採・拳面)と矢のように到達します。

この時の勢の流れが四隅手、理においては三節になるのです。

冲拳では拳面ですので、身から出て肩から拳面までが、固い真っ直ぐな一本の樫の木の棒になり、その棒の先端に全体重と勢が行き着き、勁が飛び出すように突くのです。これが四隅手の勢です。

冲拳の練習においては、小指から中指の先が、手首を輪切りにした中心に突き刺さるような感覚で、拳面にまで気を通します。一本の棒になるのです。もちろん発勁の瞬間だけ棒になるのです。冲拳の練習はサンドバックなどでもできますから、一人でもできるでしょう。

 

しかし、もっと四隅手の高度な練習は、身(靠)と肘と手(列)と尖(採)を直で繋ぎ、伸ばしてしまい板にしてしまうことです。体の薄い部分とそれらを一枚の厚い板のようにしてしまい、その板の角や縁を相手にあてるという発勁です。

板の全ての重みと、その意動力が板の縁や角に集まるのであり、その威力は絶大になります。

このような四隅手の合勁の感覚を実感する技として、攔腕肘挒(らんわんちゅうれつ)があります。

攔腕肘挒は相手からの顔面への冲捶を進歩搬攔捶の欄で受けて、受けたその腕で肘挒を相手の気舎から頸脉へ鑚勁を放ちます。

この時の、発勁は四隅手の合勁となります。体から肘挒までは一枚の板になったような感覚で、そのまま急速に移動して板の縁を相手の気舎から頸脉までに斜めに「ゴン」とたたききるようにぶつける感覚です。

四隅手が理解できると、合勁が理解でき、この攔腕肘挒は完成します。

攔腕肘挒は搬攔捶(はんらんすい)という招式、套路では進歩搬攔捶という型の示意(用法)ですが、相対でこの技の練習をしていると、進歩搬攔捶の套路で前に掌が伸びながら欄勢を描いているときに、かならず四隅手の合勢を感じることができるようになります。

このように、武道の練習をしていると、套路において、とても大切な一瞬を理解できることとなり、套路自体が本物の太極拳の套路となるのです。

進歩搬攔捶にはこのように、太極拳の四隅手の板と棒が含まれていることを知ることが大切です。

套路の過渡式が太極拳の神髄

現在行われている太極拳の套路で、型の姿勢、ひどい場合には手の形や足の裏の形などを正しく行うように要求があるとされていますが、実はその套路の型自体は、他の武道と同じく、構えもしくは、残心という、技の始まり部分と終了部分だけなのです。

もちろん構えと残心は大切ですが、その途中にある過渡式が実は技なのです。套路で行う技は基本勢による技が主体ですが、構えて技を練って技を終えて残心、そして連続技で套路が構成されている運用なのです。

一般に普及している套路は過渡式らしきものがありますが、前の構え(残心)と残心(次の構え)をただ連続させるためのものになっています。これは歴史上このようになったのであり仕方がないことです。(詳しくは太極拳の歴史をご覧ください)

従って、太極拳の套路を行うなら、その技の練習を多くこなしておかないと、構えと残心の間にある勢の練習などを套路でできるわけがありません。

体操としては良いでしょうが、套路の型は構えであり残心であることを正しく理解して、構えと残心の間にある技を多く練習する以外に套路が武術練習になるはずがないということです。

又、健康効果にしても、構えと残心をいくら繰り返しても、本来の内丹や動功になることもありません。

太極拳は武術ですので、構えて攻防を行って残心します。当たり前です。

その攻防の勢が一切ない套路は、武道ではあり得ない、構えから残心に直接移動するだけですので、途中のなめらかな勁道や、勢の巡りがないため、型も残心も安全な範囲に留めておかないと、関節や筋などを壊す原因になります。

套路を安全に行うよりも、ラジオ体操の方が安全な体操だと思います。制定太極拳は安全域の中で作られているのでほぼ安心ですが、伝統太極拳は武道だなどと思って動いてしまうと、多くの場合障害があります。

伝統太極拳も復興されて再構成されたものです。制定拳と何ら変わりがありません。

太極拳の套路を行うなら、しっかりと武術の基本練習をして、基本勢を身につけ、そして武術の技として過渡式をしっかりと含む練習をして、それから套路を繰り返して練習する事が大切です。

以上のように、構えから残心までの一連の動きを一つの技として使える事ができる者が套路を教えないと、その套路は何の意味もないどころか心身に障害もでかねないものになります。

制定太極拳をまじめに安全域でやることも良いかもしれません。私はラジオ体操の方をすすめますが。太極拳の伝統拳はいくら体操化されたとはいえ、まだまだ武術要素は形だけ残っています。

その武術要素部分を套路でやろうとすると、太極拳を武術として経験していないもにとっては無理があり、必ずといって腰や股関節、膝、そして首、そして経絡、そして神経系統、血流関係(特に心臓)などに無理がかかります。

套路をしているときには呼吸法を正しく行うと副交感神経が優位になり、とても気持ちが良いのですが、表面的な呼吸による引率による副交感神経優位ですので、日常生活においては、その後に交感神経が反動的に活発になります。そうなると、心身の神経系にも障害が生まれます。

一日中呼吸法を正しくしていれば別ですが、根本的な心意がその域に達していないと、そう簡単にはできるものではありません。どのようなときも平常心、不動心であり、武息という意識的な激しい呼吸も、文息という穏やかな呼吸の時も、はしゃいでいるときも穏やかなときでも関係なくです。

套路は、構えと残心の間にある過渡式の中に太極があります。太極とは陰陽の和合、すなわち、神経でだけいうと交感神経と副交感神経の混沌とした和合です。

一般的に普及している套路の型は構えと残心ですが、そこには極があります。リラックスしてできている人は副交感神経が優位になり、意識を入れてとか、形や姿勢にこだわっている人は交感神経が優位になります。

どちらにしても有極です。

瞑想太極拳と私が名付けている套路は、その過渡式の合極が大事なのです。それは武術として技を多く練って無為自然にその技が使えるようにならないと、合極など得ることができません。合極を得て動いている套路は見ればわかります。

太極拳が無敵だと言われたのは、その技の合極の拳理が武術理論として完全であったからです。套路で行うならそこは眠るような無の状態です。瞑想のような中で武術の技があるのです。

ですから、太極拳と呼ばれたのです。武当山の道家が太極理論と同じ動きが当然人間の心身にもあり、その根本的なもので攻防を行うことができることを、当たり前のように理解し、そしてそれを太極拳法として修練したのです。

ですから、陰陽理論とそしてあらゆる人間の心身の動きが一致している中で、太極拳の套路も武術も修練しないといけません。

しかし、一般的な套路が構えと残心に偏っている限り、そして、その理解がない場合は、太極拳の套路で健康になったり、又武術の練習の一つになる域に到達するはずがないのです。

歴史2:太極拳経の著者・王宗岳

太極拳経の著者、王 宗岳(おう そうがく、生没年不詳)は、清・乾隆年間に活躍した武術家です。張三豐が始めた内家拳法をより実戦的に道家内でしっかりと技術体系化した太極拳法という武術と、剣法と陰符槍法を得意としていました。

清朝は禁武政策の中でも、道教を保護していましたから、 山西人で乾隆56年から60年(1791年 – 1795年)にかけて、若き道士を集めるため河南、洛陽、開封などに滞在し太極拳法の宣伝に努めることができました。その時に、河南省温県にある長拳・砲捶の武術が盛んな陳家溝を訪れて滞在し太極拳法を教えました。逸話によると、一夜その土地に留まりその土地の武術を学ぶもの達と武術談義になり、翌日王 宗岳が陳家溝を離れようとして出発したところ、昨夜の論議に飽き足らなかった村人達は腕の立つもの数名を選んで王 宗岳を襲わせたところ、王 宗岳はやむなく立ち会いその数人をことごとく打ち負かしたといいます。村人達は王宗岳の太極拳法の強さを知り、逆に王 宗岳に教えを求めました。これは清朝の禁武政策の中、思うように武術練習ができなかった若者達の欲求に合致し、王宗岳はそのまま陳家溝に留まり、素質の良いものを選んで太極拳法を教えました。その中で一番上達したのが蒋発というものであり、後に陳 長興(ちん ちょうこう、チェン・チャンシン、1771年 – 1853年)に太極拳法の奥義を伝えました。陳 長興は、清朝時代の実在した武術家で、中国武術のひとつである太極拳の陳氏十四世で陳家太極拳の中興の祖です。

陳家溝において陳王廷(ちん おうてい、生没年不詳。約1600年~1680年)が陳家太極拳の創始者といわれていますが、この頃は三十二勢長拳と呼ばれていて、後に陳 長興のころに王 宗岳の影響を受けて太極拳法と呼ぶようになりましたが、清(1616ー1912)296年間の時代の複数の皇帝たちは、その帝位の間、ほぼおなじ理由で民間武術など一切を禁止していて、陳家溝では、家の窓に厳重にカーテンをしたうえに、部屋の明かりを消して1人で型練習するしか方法がありませんでした。従って、この状況下で拳法を学ぶことは難しく、太極拳法を真に学びたいものはほとんど王宗岳と共に道家に入山しましたので、陳家溝での太極拳法は名ばかりで従来通りの長拳・砲捶の武術が主体になっていたうえに、ほとんど武術の練習ができなくなっていました。

そのような中で、一人で練習する陳 長興に武術の教えを乞うたがが断られ、こっそり盗み見して武術を覚えたのが楊露禅(1799年 – 1872年)であり、楊家太極拳の創始者です。その後武当山に入り彼も太極拳法を修行しました。そこで行われていた套路が後の大架式になっています。

このように王 宗岳は武当山で行われていた内家拳を、完全に道教理論と一体化させたものとして大成させ、その強力さを諸国漫遊で当時の清の王朝の保護を受けながら流布しました。ここで多くの道士が太極拳法を学ぶことを魅力として武当山に入山をしてきました。王 宗岳は自らの役割を成功させたのです。このことはTaichiMasterというジェットリー主演の映画で、王 宗岳とその師である張三豐を重ね合わせた映画を作っていますが、このような史実に基づいて創作されたものでしょう。

王流の楊式太極拳は、この王 宗岳の太極拳法を中興の祖としています。

無意識で動く太極拳の真の武術性

太極拳生活を続けていると、布団の中に入るとすぐに深い眠りにつき、そして、深い眠りの中でも異変ですぐに目が覚めます。

深い睡眠でも違和感に対し即座に目が覚めるのは、太極拳の副交感神経を使った練習で、深層意識を使った聴勁(相手や環境の気を感じ取ること)が自然に身につくからです。

動物としての本能を思い出すみたいなもので、深いリラックスの中で、気が動く訓練を行います。

このような練習を続けていると、深い眠りの中で、少しの違和感にさっと目が覚める深層的な自信が身につきます。

柳生新陰流の伝書では、半寝で身構える武士は昼間には力が出ないと言われ、熟睡の術を身につけます。安心して熟睡できるこそ、本来の武士であるといわれています。

葉隠れなどに書かれている武士道は死んで生きるという境地です。いつ寝首を切られても当たり前であるという時代ですから、体は寝ていても気は起きていて、気が体を守ることができるように修練する必要がありました。

太極拳の套路でも深層で瞑想のように行う套路は、意識や体は寝ていても気は起きているという感覚です。

そこでのリラックスで覚えた套路の型は意識の深いところに刻まれます。それが、緊張と緩和など様々な場面で体が動くときのニュートラルとなり、それ以外の動きは違和感を持つのです。

太極拳では型や套路も頭で考えるのではなく、違和感が無くなるように心身共に調整する練習を行います。

深い眠りと同じような、瞑想のような状態の中で、気を飽和させ、外部との接点を融和して自らの一部のように感じ取っていく練習が太極拳の套路です。

深い眠りでも、自分以外の環境が自分の体や心の一部なら、そこに異変があったときにはもちろんすぐに目が覚めます。

太極拳で全てのものとの一体感を多く経験することは、道を歩いているときにも、寝ているときにも、自分以外のものの異変にいち早く気づくことにきっと役に立つと思います。

相対するものを知る太極拳

強弱とは単に相対するものです。

強弱とは単に相対するものです。
左と右、上と下、女と男などと同じように性質として考えるのが太極拳です。
強いから良い、弱いから悪いのではありません。

強いところはどこか、弱いところはどこかそれを知ります。
何に強いのか、何に弱いのかそれを知ります。

よく観察すると、強いところには弱いものが混在しています。
そして弱いところには強いものが混在しています。

それが太極と呼ばれる混沌とした状態です。

太極拳の強い発勁の発動には、相手の強い反動を吸収できる弱い部分が必要です。
例えば太極拳の発勁による掌などは、相手の身体に当たったときは弱く柔らかく、内部に浸透して行くにつれその弱さが強さに変化し、相手の固い表面は弱く変化していくことで、内部まで食い込み発勁が爆発します。

人生においても楽しいとは、強いことと弱いことのお互いが受け入れあっていることです。
男性と女性、上と下、右と左、善と悪、このように考えると色々と見えてくるものです。

太極拳はこのような融合理論を、攻防という一体の理論の中にも見いだしています。

それを実際に心身の動きとして修練するのが太極拳です。

心も体も、強くて弱い。ある免疫が強すぎるとアレルギー体質になり、又弱すぎるとガンが育つのは、強さと弱さのバランスが崩れているのです。

例えば、文武が一体となると色々な事が楽になってきます。呼吸においても文息と武息といって緩やかな呼吸と意識的な強い呼吸がバランスを保っているときが、最も充実した状態です。

文とは理解であり、己を知ることです。武とは運動であり、己を発することです。
その二つのものが一体になったものが武道です。

武道の高手になると武と道の双方に高手になります。当然のことです。

右の高手は左の高手。男の高手は女の高手。悪の高手は善の高手、これはキリスト教の愛の概念の一部です。

太極拳はこのように、日常の散歩においても、人間関係においても、山で修行するにおいても、生きていくことにおいても、全てにおいて太極であることを見つけていく武道です。

強さに偏ろうが、弱さに偏ろうが、武に偏ろうが、文に偏ろうが、そうなると片方を求めたり、又それに対した無理が生まれるのです。

男に偏るのも、女に偏るのも同じです。

偏ると身体も弱り、無理が生まれ、又弱まるという螺旋の下降を生みます。

努力に逃げることも、無理をすることもせず、現実の中でしっかりと相対するものを見つめていくことだけで、武道としての太極拳の仕組みが見えてくるはずです。

太極拳は虚実、陰陽を見つめて知り尽くしていくことから始まると言っていいでしょう。

このような太極拳であるからこそ、生きていく中で大いに役立ちます。

囚人から人に戻る太極拳

囚われを見つけ出すのが太極拳の套路です。

囚われという字は人を囲みの中に閉じ込めている字です。

囚人の囚です。

物理的に檻に閉じ込められていいるのではなく、色々な条件に囲まれている状態です。

例えば、功名富貴(こうめいふき)という四本の線を取りはからえることが出来れば、並外れた人間になることが出来、そしてもっとレベルの高い話では、道徳と仁義という四本の線を重視する心を解き放すことが出来れば、聖人の仲間入りが出来ると、あの論語と並んで広く読まれている菜根譚(さいこんたん)の前集33項にも書かれています。

道徳や仁義さえ囚われることのないところが囚人でないところです。

太極拳はあらゆる条件を放松します。解き放します。そこから生まれる気によってのみ勢が生まれ、型となり技となるのです。

この囚われない套路が理解できたとき、日常の全ての心身の動きもつながって理解でき過ごせるようになります。

意識や感覚に囚われ惑わされていると、套路の動きが滞ることは,ゆっくりと動く経験するとよくわかります。身体がとても重くなってきます。

重くなれば、勢いもなく、行動も遅くなります。 武道として太極拳をするのなら致命的です。

太極拳は,その囚われを逆に扱えるようにする訓練をします。 五行という中心に自らを据えて、四方八方を自由に扱えるようにします。

五行は進(前進)、退(後退)、顧(右向き)、盼(左向き)、定(中心)で、性質的エレメントは水、火、木、金、土です。八卦は掤、履、擠、按、採、挒、肘、靠で,その内の掤、履、擠、按、を四正とし、採、挒、肘、靠を四隅として、その囚われの入り口である各四門(しもん)を自由に扱えるようにする訓練をします。

あらゆる方角である八卦(八門)と、時間軸である五行(五歩)にある囚われを解放する術を身につけるのが、太極拳の武術です。

そして套路はその基本練習です。基本は十三勢と呼ばれます。

ですから、太極拳の套路は、姿勢や動きの正誤なども囚われとなり、一般に普及している太極拳の要求すらも囚われとなります。

そのようなものに囚われている限りは、そのようなものと運命を共にするしかありません。姿勢が崩れると一緒に連れて行かれ、動きが崩れると一緒に動かされ、意識が動くと意識と共に身体が動きます。相手がそれを自由に操れるもの(太極拳の高手)であれば、相手の自由自在にならざるを得ません。又、日常生活でも、そのような動きに右往左往するしかありません。いつも姿勢を正し、動きを正しくして生きていくしかありません。安全な域でです。

無になろうとする意識すら囚われとなるのです。いくら無視しようとしても無視する事も、いくら乗り越えようとしても克服する事もできないのです。

太極拳の套路は、道徳や仁義さえ人を囲む四本の線として囚になるということも超えて、無になろうとする意識すら、目や鼻、口や耳の四本の線すら放松したところで行うものです。

囚われのない動きで大河のように滔々と流れた套路の姿が、人として天地の間に立ったときこそ、太極拳は心も体もまるで雲の中を歩いているような感覚に導いてくれます。

その感覚で一日を過ごす。これこそが太極拳の目指すところです。このような囚われが見えていないと、対処する事もできません。 まず自分が囚われている限りは、相手を自由に扱う沾粘や走や化などの勁を発することは出来ません。

まず、囚われを全て取り去ってから、囚われを扱うのです。このような修行は遠回りだと思って、今は、まず囚われを教えている太極拳がほとんどですが、囚われを覚える近道は囚われを近道で覚えたに過ぎません。いつまでたっても真の放松に到達することはありません。まず、囚われを捨てる修行から始める、そしてその囚われを扱う道が太極拳の道なのです。