太極拳練習に準備運動はいらない。

どのような運動でも武道でも、準備運動というものを行います。

太極拳も練習の前には準備運動をおこないますが、実際に武道として太極拳を使うということを考えると、本来準備運動はいらないのです。

まず、太極拳の練習の前には、経絡を刺激する運動として、指龍という、五指を動かして体の気の通り道、経絡とその通過点の経穴の緊張をやわらげる準備運動を行います。

しかし、指を動かすだけなので、これが準備運動かというほどのものです。指龍は、厳密に言うと朝起てから、畑仕事やちょっとした家事、朝ご飯の用意をするときに、柔らかなリラックスした動きをして経絡がなめらかに刺激されていればいれば、もう練習を行う前には必要のない準備運動です。朝起きたときから自然と準備はできているということになります。… 続きを読む

套路の過渡式が太極拳の神髄

現在行われている太極拳の套路で、型の姿勢、ひどい場合には手の形や足の裏の形などを正しく行うように要求があるとされていますが、実はその套路の型自体は、他の武道と同じく、構えもしくは、残心という、技の始まり部分と終了部分だけなのです。

もちろん構えと残心は大切ですが、その途中にある過渡式が実は技なのです。套路で行う技は基本勢による技が主体ですが、構えて技を練って技を終えて残心、そして連続技で套路が構成されている運用なのです。… 続きを読む

王流 楊式太極拳の歴史

最近、王流楊式太極拳でも、自立厚生運動の広報の一環として、話題のツィッターやFaceBookなどに実名で自動的に記事が投稿されるように設定しています。

そのためか、数人の武術家の方達から、当王流の歴史を教えてほしいという要望がありました。

もちろん、私の師の王征(又は宗)家からきいていた歴史はとても明確で、近代中国史と共に、又私のつじつまを求める質問に答えるように、ことごとく違和感のない、つじつまのあった答えをいただいていたのでその歴史は知っています。… 続きを読む

歴史1:王流の源祖は張三豐

元・明代に生きた遼東(遼寧省)出身の道士で仙人。字は君宝、幼名は全一。張三豐(1247年 – ?)が技を学ぶために少林寺に入門しています。

張三豐はとても文武とも優秀であったため数年を経ずして首席になりました。

彼は道教の道を求めて、少林寺を出ていきました。

彼は、湖北の武當山に至ると、そこは天の柱のような峰が奥深く静まり返り、しかも清冽であり、無為自然な心身を求める神仙の道がある龍の峰であるとして、中でも3つの峰がずば抜けていて、青々として素晴らしいものであったと記しています。… 続きを読む

歴史2:太極拳経の著者・王宗岳

太極拳経の著者、王 宗岳(おう そうがく、生没年不詳)は、清・乾隆年間に活躍した武術家です。張三豐が始めた内家拳法をより実戦的に道家内でしっかりと技術体系化した太極拳法という武術と、剣法と陰符槍法を得意としていました。

清朝は禁武政策の中でも、道教を保護していましたから、 山西人で乾隆56年から60年(1791年 – 1795年)にかけて、若き道士を集めるため河南、洛陽、開封などに滞在し太極拳法の宣伝に努めることができました。その時に、河南省温県にある長拳・砲捶の武術が盛んな陳家溝を訪れて滞在し太極拳法を教えました。逸話によると、一夜その土地に留まりその土地の武術を学ぶもの達と武術談義になり、翌日王… 続きを読む

歴史3:王流楊式太極拳と文聖拳

私の師がしきりに同じ流れから派生した拳法だといっていた文聖拳というものがあります。文聖拳はは17世紀中葉の明末、清朝の初期の時期に劉奉天(1617―1689)を創始として起源します。彼は元々は武当山で幼少から修行道家として張三豐の内家拳を修行していましたが、思想が孔子(文聖)の儒教に傾き始めその思想を元に文聖拳を興しました。張三豐の内家拳が少林寺の禅宗から袂を分かち道教で育ち、又その中から、袂を分かち文聖拳に育っていったのも理解ができます。… 続きを読む

歴史4:王師が楊式太極拳を武当山で修行

楊家太極拳の楊露禅は1840年ごろ、40才を過ぎて北京で王朝の武術指南役となりますが、優雅な生活の長い王朝の中では、武術のような鍛錬を好むものは少なく、彼自身も思う存分練習もできないため、絶えず武当山へ修行のためと称して入山していました。

武当山の太極拳法(武当派太極拳)の套路は多種多様有り複雑ですが、楊露禅は貴族達に教えるために108式を採用または整理し、(同時期に武当山でも武当太極拳として108式を套路としてよく行っており、現在も武当山で伝承されています。武当山と楊露禅は同じ套路をこの時点では行っていたことは事実です。)そしてその套路は子らに受け継がれ楊澄甫が85式の大架式を整理して、貴族達でも練習を楽しめる套路として王朝や貴族に教えていました。… 続きを読む

歴史5:王師は戦後の中国から逃れ日本へ

その後、1939年〜1945年の第二次世界大戦後急激に他の武術メッカと同じく、武当山へも弾圧が強まります。その時に40才を超えていて武当山で太極拳の指導者であった王師は不穏な動きを察して、知り合った日本社会の裏世界の人間の紹介で、混乱期にすぐに神戸にやってきたということです。

そこで、大阪で老舗任侠団体の組織の代貸であった私の祖父や、神戸の裏組織などと懇意になり、特に大阪では私の祖父には恩を受けたと王師はいっていました。私の祖父は戦後に大阪難波を中心に縄張りを広め、大阪歌舞伎座などでプロレスなどの興業を仕切っていた人物です。その時に、王氏の実戦的太極拳はとても役に立つと言って、色々と一緒に仕事をさせてもらったと王師から聞いていました。中国人が日本で生きていくのは大変だったと言うことですが、戦後の裏社会もいかに縄張りを広げるかというときに、又興業や博打場や遊郭などを持つ祖父の組織の用心棒的存在として、徒手武術の秀でる高手の力を借りたのもその当時なら当然のことでしょう。… 続きを読む

歴史6:王師との出会い

その後、1980年に文化大革命が誤りだったとされました。民衆の怒りを収めるために、政府の体育機構は中国人の数千年の文化の中にあった伝統武術の復興を救済すると発表して、武当山周辺にも武術学校を設立して、武当山の武術を復興させようとしましたが、当たり前ですがもう既に武当山に太極拳などの武術は残っていませんでした。そこで、しかたがなくスポーツ化された武術指導家達に武当山周辺の武術学校を運営させ面目をはかりましたが、結構これが成功し、民衆は新しい政府に対し怒りの矛先を少し納めたようです。… 続きを読む

無意識で動く太極拳の真の武術性

太極拳生活を続けていると、布団の中に入るとすぐに深い眠りにつき、そして、深い眠りの中でも異変ですぐに目が覚めます。

深い睡眠でも違和感に対し即座に目が覚めるのは、太極拳の副交感神経を使った練習で、深層意識を使った聴勁(相手や環境の気を感じ取ること)が自然に身につくからです。

動物としての本能を思い出すみたいなもので、深いリラックスの中で、気が動く訓練を行います。

このような練習を続けていると、深い眠りの中で、少しの違和感にさっと目が覚める深層的な自信が身につきます。… 続きを読む