雷の光を見て耳をふさぐ

太極拳の実戦的動きを表現するときに、緩やかに速いといわれます。

なぜ緩やかに早いのか?拳のスピードや、動きの速さもそうですが、太極拳の心法に理由があります。

心法においての太極拳の発動の仕組みは、雷が光ると、耳をふさぐという例えになります。

雷鳴がなり始めると耳をふさぐ反射神経は、後天的に備わっています。

雷は光と音と衝撃がその全体です。
音の前には光があり、音の後には衝撃があります。
相手が拳を打つ前を気勢、打った拳が音、自分に当たるところが衝撃として考えてみます。

気勢の光を見て、次に来る相手の拳を制すための動きが始まります。
そして、その後の衝撃に同化し、自らの勢を発します。

例えば、楊式太極拳の圧掌打虎という招式の場合は、相手が打ってきた上段進歩捶(拳を縦にして型の線で真っ直ぐに打ち出す拳)を圧掌(上から下へ圧して拳を掌で押さえる)で受けて、背勢に入り打虎式を相手の太陽穴に打ちます。その後は背勢にいるので自由自在に相手を次の技で制します。

相手の気勢があったときに、相手が打ち出した拳を心法において受けているのです。 これが雷の光を見て耳をふさぐと言うことです。

上段に目の前に繰り出された相手の拳は、すでに圧掌で受け終わっていて、すでにその時には次の動きがあるのです。

次の動き、すなわちこれが採勢(下に抑え込む勢)や拍勢(拍手のようにはね飛ばす勢)などの動きです。

圧掌から、例えば拍勢が相手の拳を先に捉えて、相手の勢を崩します。 これは、光を見たときに耳をふさぐ動作、すなわち圧掌があり、相手が音を発したすなわち拳を吐き出したときに、こちらはすでに圧掌を終えて、拍撃を相手の腕に加えて、相手の身体の勢を崩しているのです。 そして、相手は運動神経により、勢を立て直そうとします。これが衝撃です。

勢が崩れていないと、相手は自分の勢で新たな攻撃、または守りを行います。

雷の光、音、衝撃を一つの纏まりとしてみることができると、この衝撃が有ることも知っています。 相手が身体を立て直すという虚勢を知っているのです。

この虚の間に、こちらは相手の背勢に入って打虎(腰腿を使ってフックのような鍵型で打ち込む特殊な打ち方)を太陽穴に打ち終わっています。 これが、圧掌打虎です。

背勢に入って打虎を打つには、相手に0.5の虚をいつも造り上げていきます。

光を見て耳をふさぎ、音を聞いたときには、身を弛め、衝撃があったときにはもうそこにはいない。 太極拳の心法の一つです。

その0.5の間を無極といい、虚も実も無く、ただとてもおだやかな静寂さがあります。

相手が止まっているようでもあり、また、自らはとても心地良い感覚になります。 光を見て耳をふさぐ先導を、潜在能力の中から思い出し、この境地を目指します。

套路においての過渡式は、この無極の修得にとても重要です。ふっと気が遠ざかるようなおだやかな感覚。実戦においてもこの感覚がとても重要な観自在な心法を生み出します。

相手の隙を虚を見いだして、それを先駆けるのはこのような心法によって成り立っていきます。

相対練習の際には、実戦と同じような心構えで、このような心法を鍛錬することはとても重要です。

総合教程

招式(圧掌打虎)

徹し(とおし)の発勁

太極拳の発勁で、相手の内部にまでダメージを与える打ち方があります。

鑚勁とも呼ばれ、この発勁の練習については、通常の打撃練習では習得できません。

徹しという技能を身につけます。王流の套路には徹しの発勁で打つことができるような過渡式を備えています。

基本の勢はこの套路で修練できます。

発勁には、その目的に応じて、表面的な部分に痛みを与えたり、経絡を閉ざしたり、経穴を麻痺させたり、虚を創出するものなど色々とあります。擒拿術や投げ技である摔角の作用点も発勁になります。声だけの咆哮も、相手の動きを誘ったり、気で相手を動かす凌空勁ももちろん発勁です。つばを吐きかけることも発勁です。耳や髪の毛を引っ張ったり、衣服をつかんだり、罵詈雑言を発したり、騙したり、演じたりするのも全て発勁です。

徹しに関しては、鑚勁や点穴などと同じ三節三尖の理で修練します。套路も三節三尖の理を備えています。

練習方法は、打撃点(表面)より内部を爆発点となるように打ちます。套路では無極点での移動です。

応用練習ですが、もちろん人間相手で練習など絶対にできませんから、拳法の防具の胴を吊して、それをできるだけ遠くに力を掛けずに飛ばす練習をします。

なぜかというと、打撃点で爆発すると、音は凄いですが、打撃点と爆発点の距離がほぼ0ですから、爆発の威力だけですので、相当な爆発力が無いと遠くには飛びません。

しかし、打撃点と爆発点の距離がある徹しでは、その距離の移動スピードとその質量(体重全て)がそこに働きエネルギーを創出しますから、弓を飛ばすような勢いが出るだけのエネルギーがその間で生み出されるのです。E=mc2

ですから、打撃点まではほとんど力を使いません。腕を運ぶだけのことで、体幹を使うのでほぼ無力です。

打撃点から爆発点までが徹しであり、その移動は弓を発するようなイメージですから、弓道を見てもわかるとおり、見た目はほとんど軽く打っているようにしか見えませんが、とても遠くに飛んでいきます。

飛んでいくと拾いに行くのが辛いので、公園のブランコの平行棒に吊しておくとクルクル回りますし、その回り具合で徹しの度合いがわかります。木に吊しても良いです。しかし、重いサンドバックは相手が人間と考えると、人間というのは立っているのがやっとの動物ですから、少しの移動で崩しの範囲に入りますから、サンドバックのような力点が頭上や足下で固定されているものは、人間として見立てた場合は理に合いません。崩れないものを打つのは逆に簡単であり、崩れていくもの、逆に相手が太極拳やボクサーのような体幹の使い手でも、内部に打ち込めないと意味がありません。胴程度の軽いものをできるだけ遠くに飛ばす。これが徹しの練習に必要です。

例えば、弓の矢をマイクスタンドのような受けにおいて、矢筈を徹しで打って数メートル先の的に打ち当てるような練習もできます。

また、スイカや瓜などを吊して、それを打って内部を爆発させることができるようになると、徹しは神明の域に達し、スイカや瓜と同じ構造の頭部や、肋骨で守られた心臓、それよりも柔らかい肝臓や腎臓はたまったものではありません。

このように、太極拳の徹しは徒手殺法の代表的な技術です。頭部や心臓を打つと致命的であり、肝臓や腎臓には障害を残します。

徹しの技術を会得してしまうと、背勢や、分間をとることができれば、徒手殺法としての目的は達成できます。

しかし、徒手殺法はこの日本では使うことを考えるよりも、絶対的な自信の一つとして備えるものになります。
この自信が他の太極拳の技術を、より高めていくことに役立ち、日常の生き方にも大きな恩恵をもたらすことでしょう。

横隔膜の筋肉痛と太極拳

太極拳の動きは、インナーマッスルが司ります。それも呼吸と連動する呼吸筋が主です。その内、バランス筋と連携している特に横隔膜を使用します。

従って太極拳の功夫の過程は、この部分に筋肉痛を伴うのです。

あらゆる呼吸を大切にするインナーマッスルを使用する武道においては、横隔膜の筋肉痛は、一つの鍛錬の目安でもあり、アスリートが自ら鍛え上げたい筋肉に筋肉痛を絶えず覚えるのと同じなのです。

太極拳は呼吸筋を中心に使った武道であるのですから、呼吸筋の筋肉痛なくして、太極拳をやっているとはいえないともいえます。

もちろん套路でも同じですから、85式あたりをやって筋肉痛を覚えないのであれば、套路では呼吸と共に体を動かしていないことになります。そうであればそれは太極拳とはいえません。

弓道や合気道の高手、中にはヨガやコアリズムやベリーダンス、フラメンコのダンサー、能楽師や日本舞踊の家元なども、稽古の後には横隔膜の筋肉痛を訴える人が多いようです。

横隔膜を多く使用する(腹式呼吸)歌手なども、ボイストレーニングや、長いライブの後には、横隔膜の筋肉痛を覚えます。

日本人は昔から緊張しやすいため、いざというときに力を発揮できないといわれ続けていました。その,克服として呼吸に全てを託す武士道の日本武道があり、太極拳も内丹に基づく吐納法でのいざというときの武道的克服で、不動心や平常心で呼吸をいつでも使えるようにしていました。

中国での徒手殺戮術としての太極拳や、日本の剣術における武士道の精神状態は、いつもが戦の前のようなもので、脅えや恐怖を超越した覚悟です。戦場では、追い込まれてときに少しでも脅えや恐怖があれば当然負けてしまいます。追い込まれたその先にある境地に至った時に、その超越したところで神がかりな動きができるのです。

このように、不動心や平常心、すなわち腹が据わるというところに、実は横隔膜を鍛えるということがとても深く関係しているのです。呼吸と腹を結ぶ横隔膜。そしてその腹が据わった動きを背骨を伝えて全身を動かすために、その要である横隔膜を鍛えるのです。修練するものは、現実的実感としての、腹の据わりを知ることになります。

実戦で追い込まれると、急激に腹が据わった状態になり、横隔膜が強く大きく働き、ゆっくりと腹部あたりが圧縮されてきます。息が詰まるような状況であり、景色が変わります。そして、それに耐えうるだけの横隔膜は、いつもどおりなめらかな動きを強く発し始めます。横隔膜は活性化され解放されます。これが腹が据わるという状況です。

姿勢は自然と、顎をひいて直立するような姿勢になり、気管から肺をふくめた部位と横隔膜が機能的に働き、腰で前に進むような歩きになります。まさに能です。古武術やなんば歩きも同じです。声を出す気合いは、横隔膜を強い発声で強く固めるための方法でもありますが、普段から横隔膜を鍛えてゆるやかに固める方が良いのであり、横隔膜を鍛え抜いている高手は緩やかな息づかいで十分です。このあたりも,腹が据わっているという武道家が気合いを発しないで、「ふん」という含み気合いになるところの理由です。

太極拳などの気功における吐納は、吸気で降下した横隔膜を、逆腹式呼吸でリラックスした吸気によりさらに圧下させ、胸腔内圧を陰圧にすることで自然に空気を肺に流入させるものです。胸郭の横径と腹腔容積を能動的に通常よりも圧縮します。この吐納法で套路や、単練、站椿を含む練習をしているならば、横隔膜が筋肉痛になってきます。站椿などが最も顕著であり、圧縮状態をしばらく保持していると一挙に横隔膜に筋肉痛がやってきます。

すなわち横隔膜を站椿などで鍛えておくと、この横隔膜の筋持久力だけ、息を込めることができるのです。この間はいつも腹がすわっており、太極拳では太極の状況であり、日本の武道では隙が無いということです。

横隔膜の圧下と丹田の圧縮を維持するするための吐納法が、横隔膜に持続的な刺激を与えることができます。蓄勁によって横隔膜は収縮していると平たくなっているので、丹田でその平たくなった横隔膜をバンとたたくように息を吐きながら(吐納法で)発勁します。
体の中心が地面に突き刺さっているような感覚で、その発勁が体幹に伝達され、太極拳のドッシリとした回転モーメントなどに、瞬間的なインパクト時にすべての一連の動作が凝縮されて発勁が行われます。発勁は瞬時に凝縮するので、体幹発動という運動機能の最小限の動きさえ有れば十分です。

このように、体幹や深層筋の重要性は,腹が据わっているということなのです。そしてその腹は横隔膜が担っているということを忘れてはなりません。

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太極拳の発勁と三尖三節

「内の三合」 精気神 ・「外の三合」 手眼身 ———-以上を「内外六合」

精は手であり——–気は眼——–神(しん)は身である。

内の精気神の一致は、すなわち、手眼身の一致である。

太極拳の発勁の際の手眼身は三尖に通じ、相照する。「三尖相照」

神は身を震わせ三尖に向く

気が眼を光らせ三尖を見る

精は手(足)に三尖に爆発する。

三尖とは精気神の三が集中するところ「内の三尖」、手眼身が集中するところ「外の三尖」。

時空の内の「空間」の仕組みである。

「時間」の仕組みは三節(出発点・経過点・末端)(原因・因縁・結果)であり、三尖三節で、太極拳の発勁は完成し「懂勁」となる。

太極拳の妙技 2を限りなく1にする

武道において、相手の攻撃を受けて攻撃するという攻防について述べます。

攻防において、相手の攻撃を受けて反撃する。

一般の武道では、相手が息を吐いて撃ってくれば、(実)こちらも息を吐いて受ける(実)というものが多いようです。

それから息を吸い込み、又吐いて反撃する。受け側は、吸って(吐く前に吸っているから)、吐いて、また吸って吐くという4呼吸と考えることとします。

この場合は双方が実、双方が虚、双方が実と一致しているので、お互いに効果的な発勁は行えません。

なぜなら実の時は、身体も防御するだけの緊張をしているので、内部に勁は浸透しにくいからです。

相手が虚であるからこそ、こちらの攻撃が効果的に相手の内部に浸透するのは、武道の常識です。

従って、効果的な技を発するためには、相手の虚を作るための当て身や、何らかの作戦が必要となってくるのです。

または、お互いに実であったとしても効果的な打撃を行うために、双方の実と実の力の優越を、筋肉などの力を増強したり固くしたりして、その力の強い方が相手の実を打ち砕いたり、実と虚の移り変わりの差をスピードで勝り、相手の虚を突くために、スピードを司る筋肉を鍛えていくことに努力するという功夫の修練を行っていくことになります。

功夫はこのように体の外側を鍛えるので、外家拳の性質の一つとして論じられる場合もあるようです。

そこで、太極拳の通常について。

太極拳は、相手が息を吐いて撃ってくれば、(実)こちらも息を吸って受ける(虚)のです。だから太極拳というのであり、これが基本なのです。

それから自然に次の動作として吐いて反撃するのです。吸っているときは蓄勁、吐いているときが発勁です。

この単純な太極理論を武道に発見したのが太極拳法(当事はそう呼ばれていました)であり、道教の僧が創始したのも頷けます。

このように、受け側は、吸って(受けたときに吸って)吐くだけであり、2呼吸と考えることとします。

このように、太極拳は反撃を2呼吸で行えるのです。

そうであるから、相手の動きを受けてから、こちらが動くという、後の先の武道なのです。

このように相手が撃った実の後に、相手は当然に虚に戻りますが、こちらのは受けたときに虚であるので、相手の虚の時に攻撃(実)するのですから、相手は相当なダメージがあり、又、スピードは相手が攻撃を終わらせるのと同時に攻撃を終わらせるのですから、普通の人間の筋力とスピードで十分なのです。ですから老人になっても、ひ弱な女性でも最低限の効果を得ることができ、何も鍛えなくても、力が衰えても、自転車に乗れるように使えるのです。

今までは当たり前の誰でもわかることですが、いよいよ本題です。

実は、太極拳には、その2呼吸を1に近づける吐納技術を用いる技が多くあるのです。

相手が息を吐いて撃ってくれば、(実)こちらも息を吸って受け(虚)る時に、吐納法(丹田呼吸)を使って吸気を圧縮し、その吸気と吐く息を同化させながら反撃するという技術です。

相手は攻撃という実が終わり、虚に戻っていきます。呼吸だけで言うと、相手は息を吐いた後に吸う呼吸が始まると言うことです。

こちらは、相手の攻撃を息を吸って受けて、相手が攻撃を息を吐いて行った後に、息を吸うことを始めるまでに、こちらは息を吐き始めて、相手が実から虚に移り変わる加速に同化して追いかけながら、相手が息を吸い始めて虚になったところにすぐに発勁するのです。

相手は、虚から実に移る間もないだけでなく、実から虚に移る勢いを利用されて、より虚に陥っていくのですから、内部への勁の浸透は加速的で深部までこちらの実が浸透します。

このように、虚の圧縮技術は吐納法という逆腹式呼吸で修練しますが、これは分勁(テイクバック動作の無い発勁)の技術そのものであり、分勁ができるようになると、この技もできるようになります。

分勁はテイクバックをしていないのでは無く、テイクバックを極端に0に近づけているのです。そこで、蓄勁を圧縮して行っているのです。

この技術は套路の起勢などで修練できますが、この勁を悟ると、套路の式全体にある過渡式(普及している一般的な套路には過渡式が無い場合がほとんどです。)などでもいくらでも修練できます。

そうなってくると、あっという間に熟練してきます。

このように太極拳の修練においては、悟るべき多くの事があるのですが、もしそれらを悟らずにして、修行を続けていると、太极拳経の末尾にあるように、最初の少しの間違いは、すぐに何千里もかけ離れてしまう。ということになります。

最初にこのような太極拳の真理を知って、練習をしていれば、套路を練習すればするほど、太極拳が上達します。ですから、武道としての太極拳の修練はとても重要なのです。なぜなら、太極拳は武道だからです。

しかし、武道としての理を経験せずして套路をやり続けていると、どんどん遠くにかけ離れていってしまうのも太極拳です。

王流の套路クラスは、武道としての理を会得した指導者が、武道としての動きでしか構成されていない套路を教えています。一切省いていません。安全域も形も何も制定していません。その代わりに武道の理があるので、套路で思い切りおおらかに動いても、怪我も無くどこも痛めません。それは実証されています。

より武道を極めたければ、武道クラスで相対で武道練習に参加すれば、套路に流れる武道の理がより実戦的に現実的になり、套路の理想がより現実化していきます。

このように武道としての動きでだけで構成された套路であれば、套路だけ行っていても、太極拳の心身の健康効果と、すくなからずの自然な護身能力は呼び戻されます。

武道クラスに参加すれば、套路との相乗効果を生みながら、心身の健康と積極的な護身能力に飛躍的な効果を生みます。

武道クラスも套路クラスも基本は同じですので、太極拳は武道であるということを理解しておくことがとても重要です。

太極拳は意識で動くと他で教わりました。意識で動くと無為ではないですよね。

太極拳は意識で動く?そんなことをしていたら太極拳ではなくなります。
太極拳は無意識で動きます。

無意識とは何でしょうか?

無意識とは意識がないと言うことでしょうか?

実は違うのです。

意識には顕在と、潜在があります。そのどちらも意識なのです。

潜在にある意識が、自分では顕在しないで働くことが最も多く、癖や執着などに現れます。煩悩や見えない雑念なども全てそこにあります。

太極拳で言う、無意識とは完全なる純粋な意識です。無為自然と言います。

無為自然とは三昧は近いところにあります。太極拳三昧という境地で太極拳の套路ができるようになるまで修行するものです。

それを太極拳は意識で動くなどと言う間違った考えで太極拳をやっている限りは、その域に到達するのは難しいと言えます。

意識で動く間は、動きを覚える程度の場合です。初心者とっては大切でしょう。

しかし、いずれ心意のおもむくまま套路ができるようになります。ここで初めて動禅といわれるレベルになります。瞑想太極拳と言うこともできます。

座禅にも段階があるように、意識に浮かぶ想念を受け流しながら進む套路は、想念太極拳として分類し、ただ無為三昧において、動く世界を真の套路として考えます。

武道として実戦で使う場合は、太極拳は無意識の拳法です。

死にものぐるいになったときに、最も強い力として自然な動きを発するところは、深くにある生存と存在の力です。

そこから発せられる勢が、十三勢などと呼ばれている、勢です。何も13だけではありませんが。

套路において、純粋な三昧で動くことは至福の安らぎと、エネルギーを感じます。
気持ちが良くて、最高の歓喜のようなものがわき上がります。

実際の攻防の中では、いかに無心で平常心であるかということで、見える世界が変わります。
闘争本能をあらわにした場合は、交感神経が高まり、感受も視界も狭くなります。

私たちが行う、武道練習はいかに気持ちが良く、勢と勁にあふれたさわやかなダイナミックな動きができるかと言うことを練習します。

一人でゆっくり行う套路のように、いかにその状態で動けるかを、攻防で練習するのです。

套路の感覚が、攻防でも感じるようになれば、勢と気と勁の一致の完成です。

武道練習ではその一致をひたすら、多くの技の中で発揮しながら練習します。

套路と相対練習において、その差がなくなってくる事に、修行者のレベルが上がってくるのです。

套路と、相対の相乗効果が練習の成果です。

太極拳とストレッチ・柔軟運動

本来の太極拳は、中国北派の武当山中心に修行されていた武当派といわれる拳法です。楊式太極拳を普及したとして有名な楊澄甫も、南京中央国術館の武当門門長として太極拳の普及に努めました。

このように太極拳などの武当門の拳法は内家拳と呼ばれ、少林門といわれる少林寺を中心とした門派を外家拳と呼んでいました。
内家拳と外家圏の違いは、史実からなど見ると、内家拳の創始者といわれる張三豊が道家の内家にいて創始した拳法であり、少林寺をを外家と呼んだこととか、色々説があります。
しかし、大きな違いは拳法の攻防理論にあるといわれています。
外家は功夫(鍛えて訓練すること)にて、肉を鍛えて、腹式呼吸での虚実(運動のオンとオフの切り替えのようなもの)を育て、打つときには緊張を高めます。内家は勢という自然な勢いを修練して、筋を俊敏にして、逆腹式呼吸での虚実を育て、打つときには緩和します。
このように、一つの拳法理論をしても相対した理論を示すことができるのですが、外家と内家で厳密に分けてしまうことはナンセンスであり、ただ、自ら修行する拳法の仕組みを知るための一つの考え方であるものであると思います。
そこで、最近ストレッチは有害という情報をよく目にします。
多くのスポーツ選手にとってストレッチは有用だとされていて、ほとんどの人が疑いもなく運動前や後には柔軟やストレッチ運動をしていました。しかし、現在のスポーツ研究ではもはや議論の必要すらないぐらいにストレッチは有害だというのです。
実際にストレッチを行った事が運動のパフォーマンスに与える結果を調べてみると、全然効果がないどころでは済まず、ストレッチを行った方がむしろパフォーマンスは低下し、怪我も起こしやすいという衝撃的な調査研究結果が2000年前後から次々と発表されているのです。
このようなことでも、今になって実は有害で効果がなかったという事になるぐらいですから、拳法の理論も伝統的なことをただ引き継ぐだけでなく、色々と疑問を持って研究することも大切だと思います。
さて、内家拳では身体の柔軟運動や筋をのばす運動は行わないというのが伝統です。
これには、ちゃんと理由があって伸びすぎ、固すぎを嫌うからです。
単純に伸びすぎているものはすぐに切れるし、固すぎるものはもろいということです。ストレッチは伸びすぎの部類として考えられているからです。又、人間の身体は固すぎというのはなく、太極拳の技法で相手を固めてしまうことで、固くしてしまうと考えています。採勢(採り固める)や擠勢(押し固める)などの勢で相手を固くして、壊すという考え方です。又、相手の関節の筋をのばして無力化して壊してしまう技も太極拳の擒拿術には多く有ります。擒拿術の練習で筋が伸びてしまうと良くないので、その都度、整体で伸びたところを固めて元に戻すほどです。伸びた状態を経験した人はわかりますが、その部分の脱力感と脆弱感(脆く、傷つきやすい、攻撃に対して弱いよ
うな感覚)は身をもって理解できます。
このような経験的研究から、太極拳では柔軟やストレッチをしません。
現在の研究では、伸びすぎた筋はもろく運動効率が悪いこと、エネルギー効率は、関節が硬く可動範囲が狭いスポーツマンの方が優れていて、関節が柔らかく可動範囲が広いほどエネルギー効率が悪化してゆくことも発表されています。
内家拳はもともとは道家の内丹術という、健康法と合わせて発展していったものですから、このような健康効果については相当な経験的研究が行われました。
仙人になっていつまでも若く健康に生きようと考えるほどですから、医武同源を武道に求めていったのです。
拳法の修行をして健康になり、身体もこわさず、本来の身体能力を取り戻して、有事に身を守ることができるという経験的研究に成り立った武道が太極拳です。
可動範囲を広げることで、套路などで足を高く上げるなどの動きを演出できますが、そのために無理にストレッチを行ったり、身体を柔らかくすることはお勧めできません。
それよりも、緊張する部分を解き放して、リラックスしていると、いざというときには、驚くほど身体は自然でおおらかにしなやかに動きます。
太極拳は身体を抱きかかえられていても、発勁が出せる武道です。可動範囲を得てバネを失うことよりも、バネを失わないことの方を選んでいます。もちろん、可動範囲も広くバネがあることがベターです。その修行には、まず心身をこわさないことが大切だということを本来の太極拳は考えているのです。

練習記録 高探馬帯穿掌

高探馬帯穿掌の穿掌の打ち方は手法でやります。主にに点穴で使いますが、この場合の穿掌の場合は龍の勢の一つ竜頭を使いますので、特別な打ち方が必要です。筒の中に槍が仕込んであって、筒を鞭のようにのように差し出すて、急に止めると中の槍が勢いよく飛び出します。これが高探馬帯穿掌です。

大事なのは、この高探馬帯穿掌の過渡式勢です。高探馬帯穿掌は高探馬からの過渡式に重要な勢があります。これを練習します。高探馬から左足が前に進みながら、急激に止まります。その勢は差し出した穿掌の先から飛び出ます。

高探馬帯穿掌は、穿掌ではなく冲拳など他の手法でも使えますが、高探馬帯穿掌での練習で何を練習しているかというと、この勢です。

点穴で鑚勁を用いるときに有効な勁であり、相手の経穴に深く早く鋭く入り込みます。この勁は一般に走られていない発勁ですが、射勁と呼ばれるものです。

練習記録 散手 把式(解法)

散手 把式(解法)

両者手揮琵琶-甲・右手揮琵琶・乙左手揮琵琶

  1. (正上手把靠挒)乙が左手で甲の右手首を下からつかみ引き寄せ、乙の右拳で甲の顔面を打ってくる。甲は乙が引き寄せる勢に合わせ、撇身捶の勢により左に入りながら、乙の右拳を受けて、甲は右手を龍の勢を扌履勢と採勢にて後部右に解くと同時に、右靠勁を乙の胸部や顎に、できるなら頭部を相手の顔面の急所に発勁を放ち、抜いた右手は扌履勢から採勢の円圏を翻して、腰腿の勢で乙の後頭部などへ挒勢をもって発勁を放つ。
  2. (逆上手把托挒)乙が右手で甲の右手首を下からつかみ引き寄せ、乙の左拳で甲の顔面を打ってくる。甲は乙が引き寄せる勢に合わせ、撇身捶の勢により左に入りながら、乙の脇部や顔面側面に攻撃や、上腕を托すなどを行って、甲は右手を扌履勢と採勢にて後部右に解き、抜いた右手は扌履勢から採勢の円圏を翻して、腰腿の勢で乙の首や顔面の側面の急所などへ挒勢をもって発勁を放つ。(逆上手把托頸摔)又は、首に腕をかけてそのまま後ろへ摔角を行い、乙を後頭部から地面にたたきつける。

相対するものを知る太極拳

強弱とは単に相対するものです。

強弱とは単に相対するものです。
左と右、上と下、女と男などと同じように性質として考えるのが太極拳です。
強いから良い、弱いから悪いのではありません。

強いところはどこか、弱いところはどこかそれを知ります。
何に強いのか、何に弱いのかそれを知ります。

よく観察すると、強いところには弱いものが混在しています。
そして弱いところには強いものが混在しています。

それが太極と呼ばれる混沌とした状態です。

太極拳の強い発勁の発動には、相手の強い反動を吸収できる弱い部分が必要です。
例えば太極拳の発勁による掌などは、相手の身体に当たったときは弱く柔らかく、内部に浸透して行くにつれその弱さが強さに変化し、相手の固い表面は弱く変化していくことで、内部まで食い込み発勁が爆発します。

人生においても楽しいとは、強いことと弱いことのお互いが受け入れあっていることです。
男性と女性、上と下、右と左、善と悪、このように考えると色々と見えてくるものです。

太極拳はこのような融合理論を、攻防という一体の理論の中にも見いだしています。

それを実際に心身の動きとして修練するのが太極拳です。

心も体も、強くて弱い。ある免疫が強すぎるとアレルギー体質になり、又弱すぎるとガンが育つのは、強さと弱さのバランスが崩れているのです。

例えば、文武が一体となると色々な事が楽になってきます。呼吸においても文息と武息といって緩やかな呼吸と意識的な強い呼吸がバランスを保っているときが、最も充実した状態です。

文とは理解であり、己を知ることです。武とは運動であり、己を発することです。
その二つのものが一体になったものが武道です。

武道の高手になると武と道の双方に高手になります。当然のことです。

右の高手は左の高手。男の高手は女の高手。悪の高手は善の高手、これはキリスト教の愛の概念の一部です。

太極拳はこのように、日常の散歩においても、人間関係においても、山で修行するにおいても、生きていくことにおいても、全てにおいて太極であることを見つけていく武道です。

強さに偏ろうが、弱さに偏ろうが、武に偏ろうが、文に偏ろうが、そうなると片方を求めたり、又それに対した無理が生まれるのです。

男に偏るのも、女に偏るのも同じです。

偏ると身体も弱り、無理が生まれ、又弱まるという螺旋の下降を生みます。

努力に逃げることも、無理をすることもせず、現実の中でしっかりと相対するものを見つめていくことだけで、武道としての太極拳の仕組みが見えてくるはずです。

太極拳は虚実、陰陽を見つめて知り尽くしていくことから始まると言っていいでしょう。

このような太極拳であるからこそ、生きていく中で大いに役立ちます。