護身

IMG_0085 ひ弱な女性や、年配者にとって、強力な筋肉と打撃力をつけて身を守ることなどナンセンスです。

 私の弟子の30代の女性たちを筆頭に、ほとんどが小柄でひ弱ですが、初心者でも強烈な護身能力を持っています。
 本来の太極拳は、寝たきりのおばあさんがとても重いタンスを火事場から持ち出したような、火事場のクソ力を、平常心で引き出す訓練をします。
意識的に鍛えた力は、潜在能力(無意識下の能力)の約10%程度しか発揮できません。
 母親が走る車を突き飛ばして子供を助けたというような話は、もう今や当たり前にあります。
 太極拳は、人間として生まれたときから、人間としての、また生物としての(生物の動きを人間の体のうちに見つける勢い)、物質としての(人間が宇宙から始まり物質としての性質もあること)の基本的勢い、人間の体の制約による反射や物理的運動の基本力学を勢いとして訓練します。
生まれながらの勢いは、日常絶え間なく無意識に働いています。しかし、約10%程度しか使用していません。
 しかし、子供の時にだだをこねる勢い、誰かに捕まりそうになると突っぱねる勢い、咄嗟に身を避ける勢い、転びそうになると元に戻そうとする勢い、数を上げるときりがありませんが、日常的に無意識でただ生きているだけで、いざというときに能力を上げて働いています。
そこで、その潜在能力を利用しようと、中国の武当山で開発された拳法が内家拳法であり、後の武当派太極拳です。
それにより、ひ弱な女性でも、頑丈に意識的に鍛えた筋肉やその強さにも簡単に勝ることができます。
 ニュートン力学のエネルギーは質量×速度の2乗であるのであるのですから、ひ弱な女性は筋肉の力やその質量を何かで補う必要があります。
 まず、徹底的に体重を無から100まで移動させる訓練を行います。これが太極拳の分虚実です。
そしてその体重がある一点(三尖)という発勁点まで100%伝わる(三節)訓練を行います。
そして、刺激を受けたらすぐに反応する無意識下の感受を使って超速に反応する訓練をします。(無為)
そして、最も小さい発動である、仙骨前の丹田という力点を使用して、骨が背骨しか無い腰を振動させて超速の動力を生み出します。(鬆腰)
これらは真の太極拳を学ばないと会得できません。まだまだ、それらを補うどころか凌駕する理合により太極拳は成り立っています。
そうするとどうでしょうか、50kgに満たない女性がある一点に100%の重量を集め、すなわち全体重をその発勁点に移動し、その速度を極めていけば、ニュートン力学のエネルギーの通り恐ろしい力を発するのです。これが発勁です。そして、その上徹底的に、急所を打つ技術を極めます。
そして円転する動力の再利用は、均衡反射の動力を鍛え上げ、太極拳独特のエネルギーの連鎖を生みだすから、絶えること無くその動力を使用できるのです。
護身術はひ弱な女性でも使えないと全く意味がありません。意識的に筋肉や拳を鍛えても、潜在に眠る能力を利用できなければ、いざというときには、強大な力を持ったプロレスラーも、ひ弱な女性に簡単に負けます。
関西で1万人以上の暴走族の長に立ち、恐ろしくケンカが強い小さな体の若者がいました。高速道路で、その人の車に乗せてもらうと、キャロルの音楽を聴きながら、まるで踊るように車と車の間をすり抜けるように走り抜けます。とても楽しそうです。その当時は、テープレコーダーだったので、何度も聞いていたのだろうと思いますが、テープが伸びていると、運転が乱れ、「おっとごめん」と言われ、ひやっとしたのを今も覚えています。彼の戦闘もまるで踊っているようで、相手が十人いて、鉄パイプを持った大男でも、彼には赤子の手を捻るようなものでした。
太極拳は、生まれながらにしての無意識下にある能力を最大限に引き出す訓練を行うのですが、それを邪魔をするのは、固定概念や条件的意識です。
だから武道は無を求めるのです。無を得れば、無意識下の能力を余すこと無く使えるようになります。火事場のクソ力を当たり前に、いざというときに使える訓練をするのです。子供の時に体にみなぎっていた勢いを思い出し、最大限に増幅し、それを使えるようにするのです。少しでも頭に意識が上れば、その意識により自分のクセや、今までの多くの運動条件が作用し、動きは沈滞し、その上、相手の体や人生を気遣い、社会的制裁が頭をよぎり、前後のことを意識し、ブレーキがかかるから、潜在能力は使い切れません。従って、太極拳は徒手戦闘術で有り、完全なる護身術で有り、格闘技では無いのです。
格闘は、格闘のための技術ですから、意識的に鍛えた技術のぶつかり合いを勝負するだけであり、定められた条件で格闘をして、その優劣などを決めて楽しむものです。
太極拳は宮本武蔵が生き抜いた剣術と同じで、本当に相手と殺し合いをするから使えるのです。柳生新陰流も、相手を殺す戦争の術として幕府に認められたに過ぎません。そうでなければ剣道になるのです。叩いて一本です。刀で相手が斬れる、それも急所を斬るから、柳生新陰流という剣術があるのです。従って、突き刺すなどの危ない技術も本当に危険なときに、徒手で使えるのも柳生新陰流なのです。柳生新陰流の勢で急所を徒手で突かれると、太極拳の点穴と同じような効果がありますが、点穴の代わりに剣先があるので、徒手を刀のように鍛える三節も必要でしょう。しかし、柳生新陰流には突きの技術に「尖」という技術があるので、徒手でもそれが使えれば点穴を使えます。転という円転から打ち出す突きは太極拳の三節三尖技術と同じです。
太極拳も同じで、いざ自分が襲われ、自分の大切なものを命がけで守るときに、相手の命を奪うことを止むなしとして使用するだけの破壊力を出すようにできあがっています。
太極拳でも散手対打をしますが、解法という特殊な技術を身につけながら、その発勁をまともに受けないように練習します。もちろん打つ方は、意識を使って制御しますから発勁も出ませんが、無意識に発勁が出ると危険です。その練習の中で、意識しないで考えないでいると、発勁点まで勁が到達することを覚えます。その発勁の感覚を覚えれば、その感覚を毎日の套路で繰りかえし、その勢いと発勁を練り上げます。そして、昼間は単錬の快拳でその実際を練り上げます。無意識下にある潜在能力を絶えず鍛え上げておくと、いざというときに現れる無意識はいつもの無意識なので、意識はそれに対して驚きもしません。すなわちパニックになりません。絶えず、危険な場面を練習で創作し、その時に現れる無意識を知り、その無意識を利用できるように訓練しておけば、パニックの時に現れる無意識は、いつもよく知る無意識であり、またその無意識を利用する術を知っているので武器になり、その上安心であり、すなわち平常心です。
意識だけを極めて格闘する癖を付けていると、いざというときに現れる無意識に翻弄されます。意識だけを極めて訓練した格闘術は、意識を持ってしか使えません。無意識に動く、すなわち生まれながらの勢の勢いに気を与え、精(心身)に100%行き渡らせ、火事場のくそ力を当たり前に使える訓練をするのです。25、6年前、深夜に二人の男性に襲われ、路地に拉致されそうになった私の30代の弟子は、小柄できゃしゃでか弱い女性です。その女性が、相手の一人の男性を頸髄損傷させてしまいました。その男性は下半身麻痺になり一生身障者になってしまいました。もう一人も鼻骨骨折の重傷です。その時のことを聞いてみると、思い出してみると数秒のことだったらしく、彼女は後から捕まれている男性の顔に、自分の頭の後頭部を無意識で打ち付け(教えていた、太極拳の海底針の発勁です)前から首を絞めようと向かってくる男性の腕に自分の左手を捻転させ、同時に喉に白蛇吐信(基本の発勁です)を虎口を開き打ち出したようだといいます。後に警察での検証で双方の話を聞いて、その通りのことが起こったことが確認できたそうです。相手が抱きつこうとする勢いと、後ろの男性の顔面を後頭部で打った反動で前に進む白蛇吐信は強烈で、後ろの男性はうずくまり、前の男性は数メートル飛び、その隙に逃げたそうです。男性の一人が彼女の働いている飲食店のことを知っていたらしく、後に警察から呼び出され事情を聞かれ、太極拳を習っていることを言ったそうですが、一笑に付されたそうです。その後正当防衛が認められましたが、彼女は太極拳をやめ、私の前からもいなくなりました。重く、彼女の人生にのしかかった負担は言葉で言い表すことができません。男性は暴力団の構成員で大学ではラグビーをしていた二十歳過ぎの若者でした。ラグビーで首を鍛えていなければと考えると恐ろしいばかりです。このような不幸が無いように祈るばかりです。
そこで、太極拳では危険を察知する感受性を高める訓練を行います。初歩では、気功などにある八触です。そしてタオの思想により、全てのことをありのままに当たり前に感受するという思想と、内丹によりその能力を高めていきます。それはセルフエスティームで有り、バウンダリーです。
当時は、彼女にこの二つの訓練をすること無く、ただ太極拳の技術を教えていたことが悔やまれます。
10年前から横浜で再開した太極拳の道場において、最近は、積極的に無意識の感受性を高め、すなわち自尊能力を最大限に高め、しきい値感知を極めるための思想訓練や、内丹術も行っています。これからは、危機に遭遇しない、危機を察知したらすぐに危険を回避する技能をも教えていきたいと思います。武当派の太極拳には、これらの技術も備わっており、相手を怒らせたり、翻弄させたり、意識をそらしたり、煙に巻いたり、嘘泣きや、嘘怒り、嘘病などの演技能力も太極幻術として鍛えていたそうです。それらの技術は、私がたまたま私の祖父達の生き様を見ていたために、悪い意味で身についていたのですが、王師と母のおかげで、それが円転して人を生かす幻術となりました。私は、これらの能力でどれだけ命拾いをしてきたか、本当に王師から教わった太極拳には感謝してもしきれません。

徹し(とおし)の発勁

太極拳の発勁で、相手の内部にまでダメージを与える打ち方があります。

鑚勁とも呼ばれ、この発勁の練習については、通常の打撃練習では習得できません。

徹しという技能を身につけます。王流の套路には徹しの発勁で打つことができるような過渡式を備えています。

基本の勢はこの套路で修練できます。

発勁には、その目的に応じて、表面的な部分に痛みを与えたり、経絡を閉ざしたり、経穴を麻痺させたり、虚を創出するものなど色々とあります。擒拿術や投げ技である摔角の作用点も発勁になります。声だけの咆哮も、相手の動きを誘ったり、気で相手を動かす凌空勁ももちろん発勁です。つばを吐きかけることも発勁です。耳や髪の毛を引っ張ったり、衣服をつかんだり、罵詈雑言を発したり、騙したり、演じたりするのも全て発勁です。

徹しに関しては、鑚勁や点穴などと同じ三節三尖の理で修練します。套路も三節三尖の理を備えています。

練習方法は、打撃点(表面)より内部を爆発点となるように打ちます。套路では無極点での移動です。

応用練習ですが、もちろん人間相手で練習など絶対にできませんから、拳法の防具の胴を吊して、それをできるだけ遠くに力を掛けずに飛ばす練習をします。

なぜかというと、打撃点で爆発すると、音は凄いですが、打撃点と爆発点の距離がほぼ0ですから、爆発の威力だけですので、相当な爆発力が無いと遠くには飛びません。

しかし、打撃点と爆発点の距離がある徹しでは、その距離の移動スピードとその質量(体重全て)がそこに働きエネルギーを創出しますから、弓を飛ばすような勢いが出るだけのエネルギーがその間で生み出されるのです。E=mc2

ですから、打撃点まではほとんど力を使いません。腕を運ぶだけのことで、体幹を使うのでほぼ無力です。

打撃点から爆発点までが徹しであり、その移動は弓を発するようなイメージですから、弓道を見てもわかるとおり、見た目はほとんど軽く打っているようにしか見えませんが、とても遠くに飛んでいきます。

飛んでいくと拾いに行くのが辛いので、公園のブランコの平行棒に吊しておくとクルクル回りますし、その回り具合で徹しの度合いがわかります。木に吊しても良いです。しかし、重いサンドバックは相手が人間と考えると、人間というのは立っているのがやっとの動物ですから、少しの移動で崩しの範囲に入りますから、サンドバックのような力点が頭上や足下で固定されているものは、人間として見立てた場合は理に合いません。崩れないものを打つのは逆に簡単であり、崩れていくもの、逆に相手が太極拳やボクサーのような体幹の使い手でも、内部に打ち込めないと意味がありません。胴程度の軽いものをできるだけ遠くに飛ばす。これが徹しの練習に必要です。

例えば、弓の矢をマイクスタンドのような受けにおいて、矢筈を徹しで打って数メートル先の的に打ち当てるような練習もできます。

また、スイカや瓜などを吊して、それを打って内部を爆発させることができるようになると、徹しは神明の域に達し、スイカや瓜と同じ構造の頭部や、肋骨で守られた心臓、それよりも柔らかい肝臓や腎臓はたまったものではありません。

このように、太極拳の徹しは徒手殺法の代表的な技術です。頭部や心臓を打つと致命的であり、肝臓や腎臓には障害を残します。

徹しの技術を会得してしまうと、背勢や、分間をとることができれば、徒手殺法としての目的は達成できます。

しかし、徒手殺法はこの日本では使うことを考えるよりも、絶対的な自信の一つとして備えるものになります。
この自信が他の太極拳の技術を、より高めていくことに役立ち、日常の生き方にも大きな恩恵をもたらすことでしょう。

横隔膜の筋肉痛と太極拳

太極拳の動きは、インナーマッスルが司ります。それも呼吸と連動する呼吸筋が主です。その内、バランス筋と連携している特に横隔膜を使用します。

従って太極拳の功夫の過程は、この部分に筋肉痛を伴うのです。

あらゆる呼吸を大切にするインナーマッスルを使用する武道においては、横隔膜の筋肉痛は、一つの鍛錬の目安でもあり、アスリートが自ら鍛え上げたい筋肉に筋肉痛を絶えず覚えるのと同じなのです。

太極拳は呼吸筋を中心に使った武道であるのですから、呼吸筋の筋肉痛なくして、太極拳をやっているとはいえないともいえます。

もちろん套路でも同じですから、85式あたりをやって筋肉痛を覚えないのであれば、套路では呼吸と共に体を動かしていないことになります。そうであればそれは太極拳とはいえません。

弓道や合気道の高手、中にはヨガやコアリズムやベリーダンス、フラメンコのダンサー、能楽師や日本舞踊の家元なども、稽古の後には横隔膜の筋肉痛を訴える人が多いようです。

横隔膜を多く使用する(腹式呼吸)歌手なども、ボイストレーニングや、長いライブの後には、横隔膜の筋肉痛を覚えます。

日本人は昔から緊張しやすいため、いざというときに力を発揮できないといわれ続けていました。その,克服として呼吸に全てを託す武士道の日本武道があり、太極拳も内丹に基づく吐納法でのいざというときの武道的克服で、不動心や平常心で呼吸をいつでも使えるようにしていました。

中国での徒手殺戮術としての太極拳や、日本の剣術における武士道の精神状態は、いつもが戦の前のようなもので、脅えや恐怖を超越した覚悟です。戦場では、追い込まれてときに少しでも脅えや恐怖があれば当然負けてしまいます。追い込まれたその先にある境地に至った時に、その超越したところで神がかりな動きができるのです。

このように、不動心や平常心、すなわち腹が据わるというところに、実は横隔膜を鍛えるということがとても深く関係しているのです。呼吸と腹を結ぶ横隔膜。そしてその腹が据わった動きを背骨を伝えて全身を動かすために、その要である横隔膜を鍛えるのです。修練するものは、現実的実感としての、腹の据わりを知ることになります。

実戦で追い込まれると、急激に腹が据わった状態になり、横隔膜が強く大きく働き、ゆっくりと腹部あたりが圧縮されてきます。息が詰まるような状況であり、景色が変わります。そして、それに耐えうるだけの横隔膜は、いつもどおりなめらかな動きを強く発し始めます。横隔膜は活性化され解放されます。これが腹が据わるという状況です。

姿勢は自然と、顎をひいて直立するような姿勢になり、気管から肺をふくめた部位と横隔膜が機能的に働き、腰で前に進むような歩きになります。まさに能です。古武術やなんば歩きも同じです。声を出す気合いは、横隔膜を強い発声で強く固めるための方法でもありますが、普段から横隔膜を鍛えてゆるやかに固める方が良いのであり、横隔膜を鍛え抜いている高手は緩やかな息づかいで十分です。このあたりも,腹が据わっているという武道家が気合いを発しないで、「ふん」という含み気合いになるところの理由です。

太極拳などの気功における吐納は、吸気で降下した横隔膜を、逆腹式呼吸でリラックスした吸気によりさらに圧下させ、胸腔内圧を陰圧にすることで自然に空気を肺に流入させるものです。胸郭の横径と腹腔容積を能動的に通常よりも圧縮します。この吐納法で套路や、単練、站椿を含む練習をしているならば、横隔膜が筋肉痛になってきます。站椿などが最も顕著であり、圧縮状態をしばらく保持していると一挙に横隔膜に筋肉痛がやってきます。

すなわち横隔膜を站椿などで鍛えておくと、この横隔膜の筋持久力だけ、息を込めることができるのです。この間はいつも腹がすわっており、太極拳では太極の状況であり、日本の武道では隙が無いということです。

横隔膜の圧下と丹田の圧縮を維持するするための吐納法が、横隔膜に持続的な刺激を与えることができます。蓄勁によって横隔膜は収縮していると平たくなっているので、丹田でその平たくなった横隔膜をバンとたたくように息を吐きながら(吐納法で)発勁します。
体の中心が地面に突き刺さっているような感覚で、その発勁が体幹に伝達され、太極拳のドッシリとした回転モーメントなどに、瞬間的なインパクト時にすべての一連の動作が凝縮されて発勁が行われます。発勁は瞬時に凝縮するので、体幹発動という運動機能の最小限の動きさえ有れば十分です。

このように、体幹や深層筋の重要性は,腹が据わっているということなのです。そしてその腹は横隔膜が担っているということを忘れてはなりません。

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金鶏独立の勢

金鶏独立は85式では、独立式、24式では下勢独立として、套路で練習します。

金鶏独立の勢は上下方向に交差する十字勁を中心として、上手には中心勢を維持しながら、挑勢(下からの振り上げ)、裏勢を肩より上で働かせます。

これにより、金鶏独立は長勁として完成します。
下の手は採勢です。腰腿も十字勁によって,上手の方の足は上に、下手の方の足は下に沈みます。
以上は金鶏独立の鑚勁と長勁の用法です。

金鶏独立は、中心線をねじりながら、腰腿によって、上腿を下腿側にねじ上げて、下の腕をその上腿の膝の外側に採勢によってへばりつけます。
ちょうど、下腿と上腿と下腕がつながった状態になります。そこに上腕がその下腕の肘裏を押し出すようにして、金鶏独立がねじれて、一本の線にして立ち上がります。
これで、体の側面に下腿と上腿と下腕,上腕の壁ができあがります。纏糸勁と腰腿を使った,金鶏独立を一瞬にして立ちあげるのです。
相手の早い蹴り技を,瞬時に受ける金鶏独立の用法です。

次に金鶏独立の擒拿術ですが、相手の掌を裏返して、たくし上げる時に、十字勁と裏勢を使います。
相手の片足は浮き上がり、身動きがが取れなくなり、体の側面はガラスのようにもろくなります。
そこに金鶏独立の要領で、鑚勁による蹬脚または分脚を発勁します。

海底針と双龍拉椀

海底針は太極拳における裏勢(りせい)=(体の内側を使って抱き込むような勢)を習得する重要な招式です。

双龍拉椀(そうりゅうらわん)は海底針の示意であり、相手の手首の内側を双龍の上あごで、外側を大小の拳頭を下あごでひしぎ噛んで上あごを裏勢にもとづき内側に引き込み、上あごを前側へ押し噛んでいく手法です。

この裏勢がないと、以上の拉勁は発勁とはならないのであり、重要な練習方法となります。

海底針の裏勢は多くの擒拿術に含まれますが、この双龍拉椀は最も基本的な示意なので、単法として相対で練習をします。

双龍拉椀は相手の手が胸元にある時を想定して練習しますが、相手の冲拳を受けてから拉椀する上臂拉椀・上攔拉椀など多くの技があるので、それらを多く練習することで裏勢の発勁感覚を身につけ、套路において武道としての海底針が行えるように自己修練することが大変望ましいのです。裏勢が生きた発勁を裏勁といいます。

裏勢は転身背摔(てんしんはいそつ)などの摔角の発勁にも、扇通背の勢と合勢にて使用されるなど、多くの技においても練習することができます。

 

太極拳の四隅手における板と棒

太極拳は円の動きで動くと一般では理解されています。確かに十三勢の四正手(しせいしゅ)は円と曲の勢です。

ところが四隅手(しぐうしゅ)は直と伸の勢であり、後は五行の方角で十三勢となっているのです。

四正手は太極拳を聞いたことがある人なら円の柔らかな動きということで理解はできるでしょうが、四隅手は理解しにくいものです。

四正手も四隅手も五行も、相対の武道練習において詳しく学びますが、四隅手の勢を実感できるのは特に拳脚の相対練習になります。

冲捶は拳面で相手に打撃を与えますが、身(靠)からおこった勢は、肘、手腕(列)、尖(採・拳面)と矢のように到達します。

この時の勢の流れが四隅手、理においては三節になるのです。

冲拳では拳面ですので、身から出て肩から拳面までが、固い真っ直ぐな一本の樫の木の棒になり、その棒の先端に全体重と勢が行き着き、勁が飛び出すように突くのです。これが四隅手の勢です。

冲拳の練習においては、小指から中指の先が、手首を輪切りにした中心に突き刺さるような感覚で、拳面にまで気を通します。一本の棒になるのです。もちろん発勁の瞬間だけ棒になるのです。冲拳の練習はサンドバックなどでもできますから、一人でもできるでしょう。

 

しかし、もっと四隅手の高度な練習は、身(靠)と肘と手(列)と尖(採)を直で繋ぎ、伸ばしてしまい板にしてしまうことです。体の薄い部分とそれらを一枚の厚い板のようにしてしまい、その板の角や縁を相手にあてるという発勁です。

板の全ての重みと、その意動力が板の縁や角に集まるのであり、その威力は絶大になります。

このような四隅手の合勁の感覚を実感する技として、攔腕肘挒(らんわんちゅうれつ)があります。

攔腕肘挒は相手からの顔面への冲捶を進歩搬攔捶の欄で受けて、受けたその腕で肘挒を相手の気舎から頸脉へ鑚勁を放ちます。

この時の、発勁は四隅手の合勁となります。体から肘挒までは一枚の板になったような感覚で、そのまま急速に移動して板の縁を相手の気舎から頸脉までに斜めに「ゴン」とたたききるようにぶつける感覚です。

四隅手が理解できると、合勁が理解でき、この攔腕肘挒は完成します。

攔腕肘挒は搬攔捶(はんらんすい)という招式、套路では進歩搬攔捶という型の示意(用法)ですが、相対でこの技の練習をしていると、進歩搬攔捶の套路で前に掌が伸びながら欄勢を描いているときに、かならず四隅手の合勢を感じることができるようになります。

このように、武道の練習をしていると、套路において、とても大切な一瞬を理解できることとなり、套路自体が本物の太極拳の套路となるのです。

進歩搬攔捶にはこのように、太極拳の四隅手の板と棒が含まれていることを知ることが大切です。

太極拳の発勁と三尖三節

「内の三合」 精気神 ・「外の三合」 手眼身 ———-以上を「内外六合」

精は手であり——–気は眼——–神(しん)は身である。

内の精気神の一致は、すなわち、手眼身の一致である。

太極拳の発勁の際の手眼身は三尖に通じ、相照する。「三尖相照」

神は身を震わせ三尖に向く

気が眼を光らせ三尖を見る

精は手(足)に三尖に爆発する。

三尖とは精気神の三が集中するところ「内の三尖」、手眼身が集中するところ「外の三尖」。

時空の内の「空間」の仕組みである。

「時間」の仕組みは三節(出発点・経過点・末端)(原因・因縁・結果)であり、三尖三節で、太極拳の発勁は完成し「懂勁」となる。

太極拳は意識で動くと他で教わりました。意識で動くと無為ではないですよね。

太極拳は意識で動く?そんなことをしていたら太極拳ではなくなります。
太極拳は無意識で動きます。

無意識とは何でしょうか?

無意識とは意識がないと言うことでしょうか?

実は違うのです。

意識には顕在と、潜在があります。そのどちらも意識なのです。

潜在にある意識が、自分では顕在しないで働くことが最も多く、癖や執着などに現れます。煩悩や見えない雑念なども全てそこにあります。

太極拳で言う、無意識とは完全なる純粋な意識です。無為自然と言います。

無為自然とは三昧は近いところにあります。太極拳三昧という境地で太極拳の套路ができるようになるまで修行するものです。

それを太極拳は意識で動くなどと言う間違った考えで太極拳をやっている限りは、その域に到達するのは難しいと言えます。

意識で動く間は、動きを覚える程度の場合です。初心者とっては大切でしょう。

しかし、いずれ心意のおもむくまま套路ができるようになります。ここで初めて動禅といわれるレベルになります。瞑想太極拳と言うこともできます。

座禅にも段階があるように、意識に浮かぶ想念を受け流しながら進む套路は、想念太極拳として分類し、ただ無為三昧において、動く世界を真の套路として考えます。

武道として実戦で使う場合は、太極拳は無意識の拳法です。

死にものぐるいになったときに、最も強い力として自然な動きを発するところは、深くにある生存と存在の力です。

そこから発せられる勢が、十三勢などと呼ばれている、勢です。何も13だけではありませんが。

套路において、純粋な三昧で動くことは至福の安らぎと、エネルギーを感じます。
気持ちが良くて、最高の歓喜のようなものがわき上がります。

実際の攻防の中では、いかに無心で平常心であるかということで、見える世界が変わります。
闘争本能をあらわにした場合は、交感神経が高まり、感受も視界も狭くなります。

私たちが行う、武道練習はいかに気持ちが良く、勢と勁にあふれたさわやかなダイナミックな動きができるかと言うことを練習します。

一人でゆっくり行う套路のように、いかにその状態で動けるかを、攻防で練習するのです。

套路の感覚が、攻防でも感じるようになれば、勢と気と勁の一致の完成です。

武道練習ではその一致をひたすら、多くの技の中で発揮しながら練習します。

套路と相対練習において、その差がなくなってくる事に、修行者のレベルが上がってくるのです。

套路と、相対の相乗効果が練習の成果です。

練習記録

右手を相手の左手で下手で捕まれて、左手を相手の左手の手首の急所にかけてから、肘勁をうちながら腰腿で抜きます。

つかんだ左手は、彎弓射虎の勢で、右手は相手の顔面へ引き広げるように打ちます。

太極拳とストレッチ・柔軟運動

本来の太極拳は、中国北派の武当山中心に修行されていた武当派といわれる拳法です。楊式太極拳を普及したとして有名な楊澄甫も、南京中央国術館の武当門門長として太極拳の普及に努めました。

このように太極拳などの武当門の拳法は内家拳と呼ばれ、少林門といわれる少林寺を中心とした門派を外家拳と呼んでいました。
内家拳と外家圏の違いは、史実からなど見ると、内家拳の創始者といわれる張三豊が道家の内家にいて創始した拳法であり、少林寺をを外家と呼んだこととか、色々説があります。
しかし、大きな違いは拳法の攻防理論にあるといわれています。
外家は功夫(鍛えて訓練すること)にて、肉を鍛えて、腹式呼吸での虚実(運動のオンとオフの切り替えのようなもの)を育て、打つときには緊張を高めます。内家は勢という自然な勢いを修練して、筋を俊敏にして、逆腹式呼吸での虚実を育て、打つときには緩和します。
このように、一つの拳法理論をしても相対した理論を示すことができるのですが、外家と内家で厳密に分けてしまうことはナンセンスであり、ただ、自ら修行する拳法の仕組みを知るための一つの考え方であるものであると思います。
そこで、最近ストレッチは有害という情報をよく目にします。
多くのスポーツ選手にとってストレッチは有用だとされていて、ほとんどの人が疑いもなく運動前や後には柔軟やストレッチ運動をしていました。しかし、現在のスポーツ研究ではもはや議論の必要すらないぐらいにストレッチは有害だというのです。
実際にストレッチを行った事が運動のパフォーマンスに与える結果を調べてみると、全然効果がないどころでは済まず、ストレッチを行った方がむしろパフォーマンスは低下し、怪我も起こしやすいという衝撃的な調査研究結果が2000年前後から次々と発表されているのです。
このようなことでも、今になって実は有害で効果がなかったという事になるぐらいですから、拳法の理論も伝統的なことをただ引き継ぐだけでなく、色々と疑問を持って研究することも大切だと思います。
さて、内家拳では身体の柔軟運動や筋をのばす運動は行わないというのが伝統です。
これには、ちゃんと理由があって伸びすぎ、固すぎを嫌うからです。
単純に伸びすぎているものはすぐに切れるし、固すぎるものはもろいということです。ストレッチは伸びすぎの部類として考えられているからです。又、人間の身体は固すぎというのはなく、太極拳の技法で相手を固めてしまうことで、固くしてしまうと考えています。採勢(採り固める)や擠勢(押し固める)などの勢で相手を固くして、壊すという考え方です。又、相手の関節の筋をのばして無力化して壊してしまう技も太極拳の擒拿術には多く有ります。擒拿術の練習で筋が伸びてしまうと良くないので、その都度、整体で伸びたところを固めて元に戻すほどです。伸びた状態を経験した人はわかりますが、その部分の脱力感と脆弱感(脆く、傷つきやすい、攻撃に対して弱いよ
うな感覚)は身をもって理解できます。
このような経験的研究から、太極拳では柔軟やストレッチをしません。
現在の研究では、伸びすぎた筋はもろく運動効率が悪いこと、エネルギー効率は、関節が硬く可動範囲が狭いスポーツマンの方が優れていて、関節が柔らかく可動範囲が広いほどエネルギー効率が悪化してゆくことも発表されています。
内家拳はもともとは道家の内丹術という、健康法と合わせて発展していったものですから、このような健康効果については相当な経験的研究が行われました。
仙人になっていつまでも若く健康に生きようと考えるほどですから、医武同源を武道に求めていったのです。
拳法の修行をして健康になり、身体もこわさず、本来の身体能力を取り戻して、有事に身を守ることができるという経験的研究に成り立った武道が太極拳です。
可動範囲を広げることで、套路などで足を高く上げるなどの動きを演出できますが、そのために無理にストレッチを行ったり、身体を柔らかくすることはお勧めできません。
それよりも、緊張する部分を解き放して、リラックスしていると、いざというときには、驚くほど身体は自然でおおらかにしなやかに動きます。
太極拳は身体を抱きかかえられていても、発勁が出せる武道です。可動範囲を得てバネを失うことよりも、バネを失わないことの方を選んでいます。もちろん、可動範囲も広くバネがあることがベターです。その修行には、まず心身をこわさないことが大切だということを本来の太極拳は考えているのです。