太極拳を教わっていることを誰にも言うな

shapeimage_1-2私が、太極拳を教わり始めたのは20代の時ですが、王師からは「印可を受けるまでは、私から太極拳を教わっていることを誰にも言わないで欲しい」と言われていました。その理由を聞いたところ、「太極拳は自分の家族と一族のみに伝えることになっている。その理由は、心が通え合えないと太極拳は伝わらないからだ」と言われました。そして「心が通じ合っていれば、必ず印可を与えることができる。印可を与えたと言うことは、心が通じ合ったからだ」と言われ、とても納得したことを覚えています。

今は、王師から印可を受けたので、しっかりと王氏の名前を表面に出していますが、確かに、今、様々な流派の多くの太極拳の協会や団体が、日本にて活動していますが、どのように心が通じ合ったから、日本人は中国の人から太極拳を真に教わったのでしょうか。とても興味があるところです。太極拳は用意不用力です。意とは心の働きそのものです。心にて全てできあがっているのが太極拳です。まして、太極拳などの武道は中国の人たちの心の奥にある誇りのようなものです。その誇りのようなものを、心が通じ合ってもいない人たちに伝授するところには、どのような理由があるのか探りたいものです。

当初、王師は「日本人には太極拳を教えてはならない」と言っていましたが、「僕は日本人なのになぜ教えるのか」と聞いたのことに、一つだけ言えることは、古来の中国人は「水を飲むときは、井戸を掘った人の恩を忘れてはならない」という信念があり、例えば、有名な政治家田中角栄氏の恩に対して、中国の政治家達は絶えず角栄氏を訪れ感謝の意を表し、角栄氏の死後も娘には必ず訪問するとなど、恩に対する心情は深いものであるようです。

私の祖父が、王師の命を救ったらしく、その孫である私に、自分のできることを全てすることがあたりまえと言っていました。

太極拳は、王師にとっても「誇り」であり、その誇りを私に伝えてくれたのです。私が今、太極拳を教えるのも「心通じ合う」ものへのあたりまえのことです。これからも、太極拳の意を共有できる人たちが、ここに集まってくることを楽しみにしています。

“太極拳を教わっていることを誰にも言うな” への2件の返信

  1. 石山 敏明

    武術や健康は日本人や中国人に限った関心事ではないでしょう。間違いなく世界中の人間が大切だと思いあるいは思ってきたことである。武術にしても健康にしてもそれを得るための方法は様々。その方法が拙ければ消えてゆくだろうし優れていれば広まるだろう。太極拳にしても様々な流派があり活動をしているが、それらの流派のやっている事を太極拳でないと思いますか。様々な流派に学ぶ人達は充分に納得し満足しているからこそ日本に多くの太極拳愛好家が育っているのだと思う。
    今の日本で数あるスポーツの中から太極拳に興味を持ち習おうとする人達は少なくとも西欧式のスポーツにないものを求めている人達だと思う。その一点でも教える先生と習う生徒とのつながりが出来ているのではないか。そのつながりが強くなるか、消えてしまうかは双方の思い次第だと思う。「太極拳が好きだ、だからやり続けている」と言うその一点にこそ「通じ合う心がはぐぐまれる大地」だと思います。

    (上記への返信)

    太極拳
    (まず、これは上記リンクへのコメントなのですか?もし違うのなら、ごめんなさい。一応対応します。石山さんの質問に対して、括弧内で答えます。長いので分けます)

    武術や健康は日本人や中国人に限った関心事ではないでしょう。

    (こんなことはあたりまえのことですし、日本人や中国人に限った関心事であるとは言ってもいないし、考えた事もありませんが、これは、上記へのコメントでは無く、単に石山さんの思っていることですか?質問ですが、それにしても、なぜ、こんなあたりまえのことを今更わざわざ力説しているのですか?)

    間違いなく世界中の人間が大切だと思いあるいは思ってきたことである。

    (これはどうでしょうか。人生の苦は四苦八苦、四苦は生死病老と仏教でも言われていますから、多くの人は健康は大切と思っているでしょうが、中には、健康よりもお金が大切と思っている人や様々な大切があると思いますよ。例えば、愛する人の命の方が自分よりも大切と思うこともありますね。健康などどうでも良い、命さえあれば良いと思うこともありますね。このように、間違い無くは疑問ですが、武術はさておき健康に関してはほぼそのように思います。ただ、健康とは何か?武術とは何か?人の概念や価値観は様々ですから、ここは決めつけないでいきましょう)

     武術にしても健康にしてもそれを得るための方法は様々。その方法が拙ければ消えてゆくだろうし優れていれば広まるだろう。

    (優れた匠の技は、伝承がなく消えていきます。単純にそれを拙とはいえないでしょう。優れていても消えていくものも有り、優れていなくてもその人々の価値観により受け容れられれば残ります。これが優れているかは別の話です。優れていなくても、その時の人の欲求に受け容れられたものは広まります。これを優れている優れていないと評価するのは、その人の価値観ですから千差万別です。優れていると評価するのも、拙であると評価するのもその人の価値観です。ここも、拙ければ消えてゆくだろうし優れていれば広まると言う固定概念は置いておきましょう)

    太極拳にしても様々な流派があり活動をしているが、それらの流派のやっている事を太極拳でないと思いますか。様々な流派に学ぶ人達は充分に納得し満足しているからこそ日本に多くの太極拳愛好家が育っているのだと思う。

    (まず太極拳とは何か。これも人それぞれです。その人が思っている太極拳が太極拳なら、その人にとってそれが太極拳で、納得して満足しているのでしょう。私がとやかく言うものではありません。うちは王流や古式としているように、その人達の太極拳とは少し違いますよとちゃんと表明しています。ですから、逆に他のところのものは太極拳そのものです。いつもそう言っていますし、太極拳で無いなど言うはずがありません。それが現在の太極拳ですから。
     しかし、私のところの太極拳は寝たきりになっていても養生になり、優れた健康体操でもあり、健康術であり、そして護身術であり、心の調整法であり、そして楽しいスポーツや娯楽でもあり、そして太極拳という武道です。私のところの太極拳は、生きていること全体に通じる行であることは、門下には口酸っぱく言っています。それを全て含んで太極拳であり、そうでないものはその一部分だけを切り取ったものだと思っています。それでも太極拳ですが。しかし、体操だけを切り取るなら、安全なラジオ体操というものも有るでしょう。武術だけを切り取るなら、ピストルを持った方が良いでしょう。養生だけを切り取るなら、全体医療(ホーリズム医療)などがお勧めです。そして楽しいスポーツや娯楽なら他に山ほどあるでしょう。しかし、それもその人にとって太極拳です。しかし、それだけを教えるのであれば、私が王師から受け継いだ太極拳とは違うと言えます。ただそれだけのことです。私のところでは、娯楽であろうが武術であろうが、どれかの一部分に興味を示して入門した人にでも、それだけでは無く全体を教えます。それが気に入らない人もいるかも知れませんが、残念ですが、それは仕方がありません。基本クラスでも、そのように教えています。しかし、娯楽として楽しんでいても、続けてもらえば、いつのまにか意が通じ合い、武術まで身についていきます。最初の興味のとおり、いつまでも娯楽として楽しんでいただくだけで良いのです。しかし、いつの間にか養生も身についています。そういうことです。このように、太極拳の理を生かして、養生から護身まで通じることができるので、体操といえどもその理が通じていないとなりません。その理の一つが、用意不用力です。意という心の働きです。体操にもこれがあれば、優れた太極拳の体操術になります。「簡化24式太極拳で骨の髄まで練り上げる」という私が書いた本は、体操と言われる24式太極拳に骨の髄まで意を貫くための本です。王師の太極拳は、王氏の誇りです。生きること全てに及ぶ誇りですから、私のところでも、瞑想から養生、体育導引(気功)、護身から徒手殺戮術にまで、生きている全ての心身に及ぶ全てを教えます。)

    今の日本で数あるスポーツの中から太極拳に興味を持ち習おうとする人達は少なくとも西欧式のスポーツにないものを求めている人達だと思う。
    (質問です。西欧式のスポーツにないものとは何ですか?)

    その一点でも教える先生と習う生徒とのつながりが出来ているのではないか。
    (そうですね。西欧式のスポーツにないものを求めている人と、それを教える人は、繋がりますね。あたりまえですが、需要と供給ですね。これも心の一つです。それはもちろん否定しません。ただ私のところは、人生全てのどんなことででも、入門していただければ全てそれを受け容れますから、その一点も含み、それだけでなくつながれます。毎日生きるのが辛いとして、太極拳を習いに来た人もいます。私のところの太極拳は、そのようなことにも応えることができます。もともと武当派の太極拳の役割は人生全体の調整だったからです。ただ、最初はその繋がりはその一点でも、いつか全てを通じ合う関係が生まれると思っています。なぜなら、何度も言いますが、太極拳は全てを含んでいるからです。すると、西欧式のスポーツにないものを求めて入門した人も、いつか健康で、人生が活き活きとなり、自然と護身ができるようになっていたと言うだけのことです。)

    そのつながりが強くなるか、消えてしまうかは双方の思い次第だと思う。
    「太極拳が好きだ、だからやり続けている」と言うその一点にこそ「通じ合う心がはぐぐまれる大地」だと思います。
    (それもあるでしょうが、その一点ではありません。通じ合う心は愛です。全てを受け容れる心さえあれば、いつか通じ合います。一点に限定すると「太極拳が好きだ、だからやり続けている」を持たない人は通じ合えないのですか?太極拳は好きではないが、いつもいじめられているから、武術を身につけたい。太極拳は好きではないが、優れた健康術として身につけたい。太極拳には、自分の知らない何かあるのではないかと探りたい。などなどあるでしょう。その人の知っている太極拳など好きで無くても良いのです。入門したその人の持っている全てを受け容れるから、通じ合うのです。
     石山さんは、ふと、犬や動物と心が通じ合うことはないのですか?電車の中で巡り合った女性と心通じあうことはないのですか。私は今の妻と一瞬で心が通じ合いました。本当にその場で一瞬です。
     好き嫌いはその人の価値観です。価値観で判断している限りは、太極拳とは何かと言うことの需要と供給の世界ですね。とても狭い危うい世界です。いつまでもその需要と供給を行うしか有りません。好き嫌いが少し違うと終わりです。
     その千差万別の価値観を全て受け入れる事ができるから、太極というのです。私のところの太極拳はこのようなものです。)

     (しかし、このリンクは、王師のような心を持つ中国人と日本人の関係における太極拳に限定した話なので、このコメントはこのリンクに対するコメントではないように感じましたが、とりあえず、しっかりと私のところの太極拳の立場について、発表の場を与えていただいたことに感謝します。)

    (上記に対する返信)

    石山 敏明

    「武術や健康は日本人や中国人に限った関心事ではないでしょう。」に対して
    (こんなことはあたりまえのことですし、日本人や中国人に限った関心事であるとは言ってもいないし、考えた事もありませんが、これは、上記へのコメントでは無く、単に石山さんの思っていることですか?質問ですが、それにしても、なぜ、こんなあたりまえのことを今更わざわざ力説しているのですか?)

    リンク元のタイトル「太極拳を教わっていることを誰にも言うな」とその内容が閉鎖的に感じられたので確認したかったから。

    「間違いなく世界中の人間が大切だと思いあるいは思ってきたことである。」に対して
    (これはどうでしょうか。人生の苦は四苦八苦、四苦は生死病老と仏教でも言われていますから、多くの人は健康は大切と思っているでしょうが、中には、健康よりもお金が大切と思っている人や様々な大切があると思いますよ。例えば、愛する人の命の方が自分よりも大切と思うこともありますね。健康などどうでも良い、命さえあれば良いと思うこともありますね。このように、間違い無くは疑問ですが、武術はさておき健康に関してはほぼそのように思います。ただ、健康とは何か?武術とは何か?人の概念や価値観は様々ですから、ここは決めつけないでいきましょう)

    僕は健康の事を身体に限定しておりません。

    「武術にしても健康にしてもそれを得るための方法は様々。その方法が拙ければ消えてゆくだろうし優れていれば広まるだろう。」に対して
    (優れた匠の技は、伝承がなく消えていきます。単純にそれを拙とはいえないでしょう。優れていても消えていくものも有り、優れていなくてもその人々の価値観により受け容れられれば残ります。これが優れているかは別の話です。優れていなくても、その時の人の欲求に受け容れられたものは広まります。これを優れている優れていないと評価するのは、その人の価値観ですから千差万別です。優れていると評価するのも、拙であると評価するのもその人の価値観です。ここも、拙ければ消えてゆくだろうし優れていれば広まると言う固定概念は置いておきましょう)

    優れた匠の技も人に伝わらなくては消える以前の問題、伝承がなければ優れた匠個人のものではないでしょうか。僕の言う拙い、優れている、は太極拳という武術の普及についての方法についての一般論としてです。

    (質問です。西欧式のスポーツにないものとは何ですか?)

    西洋医学にとらわれないで人間生理を伸ばそうとするもの。農作物を農薬・化学肥料ではなく無農薬・有機肥料で行う、究極は無農薬無肥料で作物が育つようにするというようなもの。と思っています。

    ところでどうして「太極拳を教わっていることを誰にも言うな」という内容の記事を書いたのですか? 僕はこの記事を読んで大変排他的な印象を受けたのでコメントをした次第、僕のみの印象であれば僕がおかしいのですが。先生の返信を読んで安心しています。

    最後に
    このコメント及び返信は、もとのリンクの記事にコメントに転載しても良いですか?
    という事ですが、全然かまいません。僕の回答も参考にしてください。

    (上記に対する返信)

    太極拳

    ところでどうして「太極拳を教わっていることを誰にも言うな」という内容の記事を書いたのですか?」ですが、王師語録で書いたのですから、中国の人が日本の人に太極拳を教えているという記事を見て、私も教わったわけですから、同じ立場として、王師のことを思い出し、王師が言っていたことを思い出して、それに対する心情を言葉に述べたまでです。

    「「太極拳を教わっていることを誰にも言うな」とその内容が閉鎖的に感じられたので確認したかったから。」ですが、どの当たりが閉鎖的に感じたのでしょうか?その部分を教えてください。「太極拳を教わっていることを誰にも言うな」は王師の言葉であり、私も閉鎖的に感じたので聞いてみて納得したのも私です。内容は私が書いたので、その部分を教えてください。

    「僕は健康の事を身体に限定しておりません。」ですが、誰が健康のことを体に限定しているのですか?僕はと言うことからすると、している人がいるのですか。普通は健康とは心身のものです。なぜ、ここで、わざわざ「僕は健康の事を身体に限定しておりません。」と言うのですか?以上の私の文のどこにかかってくるのか教えてください。

    「西洋医学にとらわれないで人間生理を伸ばそうとするもの。農作物を農薬・化学肥料ではなく無農薬・有機肥料で行う、究極は無農薬無肥料で作物が育つようにするというようなもの。と思っています。」ですが、これ、スポーツのことですか?農業のことじゃないのですか?石山さん。今時間があれば、少し座って、坐道をしてみて下さい。落ち着くと思います。

    「優れた匠の技も人に伝わらなくては消える以前の問題、伝承がなければ優れた匠個人のものではないでしょうか。僕の言う拙い、優れている、は太極拳という武術の普及についての方法についての一般論としてです。」そら普及の技術に優れていれば広まるでしょうし、そうでなければうまくいきません。優れている優れていないは、内容では無く、その手法と言うことですか?石山さん。ごまかしていません?

    (上記に対する返信)

    石山 敏明

    最初の僕がコメントした理由に戻ります。
    リンク元「太極拳を教わっている事はだれにも言うな」の原文中
    (王師からは「印可を受けるまでは、私から太極拳を教わっていることを誰にも言わないで欲しい」と言われていました。その理由を聞いたところ、「太極拳は自分の家族と一族のみに伝えることになっている。その理由は、心が通え合えないと太極拳は伝わらないからだ」と言われました。そして「心が通じ合っていれば、必ず印可を与えることができる。印可を与えたと言うことは、心が通じ合ったからだ」と言われ、とても納得したことを覚えています。」)

    先生は
    「太極拳を教わっていることを誰にも言うな」は王師の言葉であり、私も閉鎖的に感じたので聞いてみて納得したのも私です。」と言う。
    だとしたら、先生の言っている事には矛盾がある。王師は「印可を与えたもの、家族と一族にのみに伝える」といっている。先生は心の通じ合えるものを拡大解釈しているのではないですか? 上記抜粋部分だけでなく全文に目を通しての事です。

    尚、今回の議論はこの回答をもっておしまいにします。

    (上記に対する返信)

    太極拳

    「印可を受けるまでは、私から太極拳を教わっていることを誰にも言わないで欲しい」これは、表層ですね。言葉として表れた形です。ですから真意を聞く必要があるのです。
     そこで、王師は「太極拳は自分の家族と一族のみに伝えることになっている。その理由は、心が通え合えないと太極拳は伝わらないからだ」ですが、「太極拳は自分の家族と一族のみに伝えることになっている。」これは王師の自由ですが、これにも閉鎖的な違和感があります。しかし、これは清朝が終わる頃当たりまでの、中国の武門の一般的な考えです。そして、これも表層です。形です。その言葉には真意があるはずです。そしてその真意は、多種多様で、一族の利権を守るため、子供に後を継がせたいため、値打ちを付ける、お金儲けなど色々あるでしょう。しかし、王師はすかさず、その真意を「その理由は、心が通え合えないと太極拳は伝わらないからだ」と私に伝えたのです。こちらが実体です。王師のような心を持つ中国の人は、そのようにして太極拳を伝えたいのです。これは自由です。何も閉鎖的ではありません。そして、私はその真意にそのまま素直に納得したのであり、何の拡大解釈もありません。王師は家族や一族の伝えるように、自分の誇りとする太極拳を伝えたい。ただそれだけのことであり、とてもその心に太極拳に対する誇りを感じたものでした。
     太極拳と同じで、套路の型に現れる形は、誰が見ても同じものでも、その内にある意が違えば、違うものです。そして形にその意は現れます。同じ意を持つ者が見ればわかります。私は王師と面と向かってその言葉を聞いており、真意に偽りはないと信じることができました。それは、「太極拳は自分の家族と一族のみに伝えることになっている。」という言葉に王氏の意を感じたからです。これは石山さんには分かりません。王師を知らないのですから。分からないことを勝手に解釈するのは良くありません。まして、王師ははっきりと真意を述べています。即ち、家族のように心さえ通え合えば良いと自分で言っているのです。私はこの言葉を信じたまでで、拡大解釈も矛盾もありません。
     たぶん、石山さんは形に囚われ、最初に「太極拳は自分の家族と一族のみに伝えることになっている。」という言葉として表れた形が全てであると思い込んでいるのでしょう。しかし、例えば、ファミリーレストランで、有り難いとも思わないのに、マニュアルで「ありがとう」と言わなくてはならないと思っているウェイトレスがいたとしましょう。もう一人は、心の底から有り難いと思ったから、「ありがとう」と思った人がいたとしましょう。その二人とも、笑顔で「ありがとう」と言いました。石山さんはその「ありがとう」が全てであり、その真意を聞いたとしてもそちらよりも形を優先し、真意には石山さんの解釈を置き換えるのでしょう。これは、全くの間違いです。その二人共の人生はとても深く、一概にそれだけでも判断できません。しかし、私は王師と深く接しています。それでもわからないから、もっと深く広く心を繋げていくのです。王師と私は、太極拳を通じて親子のように通じ合いました。
    王師のいうとおり「心が通じ合えば教える」のだから、私が印可を受ければ、教わったと発言して良いとのことは、その王師の真意を裏付けるばかりです。
     即ち、恩があり恩に対する心情は何よりも重いから、自分のポリシーに反して教えるが、心通じないと、即ち印可を与えることができるほどでないと、教えたと言うことにはしない。ということです。これほど誠実で重みのある言葉はないほどです。
     世界中にいる優れた匠が、弟子を取らず消えていくのは、このようなポリシーを持っているものは少なく有りません。そして、これは王師の自由です。良い悪いなど有りません。その人の人生です。そして凄く理解できます。日本の柳生新陰流や、多くの優れた武道は、元々は一族にしか伝えませんでした。柳生新陰流の古典を読むと王師と同じ真意です。近代になって、石山さんの言う普及の技術や、多くの人の思惑が入り交じり現在も多くの人に一部ですが伝承されいますが、しかし、果たしてその伝承にある真意はいかがなものでしょうか。なぜ、一族にしか真伝を伝えることのなかった剣術の柳生新陰流が、、その一部だけでも一族以外に伝わったのか、、お留め剣術となったことも理由でしょうが、これも同じように研究したい項目です。なぜなら、楊式太極拳も真伝は元々の武当山の内家拳法の一族(王師はその一族)と楊家の家族と一族のみと言われています。だから、内家拳は武当門と言うようです。そして清朝のお留め拳法となったから、一部だけですが一族以外にも伝わりました。そして、このような伝承方法は、この人達の自由です。しかし、その真意に狭い閉鎖的なものと、そうではなく、王師のような真意があるものとでは大きく違います。
     太極拳の套路の形は、ほとんど誰が行っても同じです。しかし、その内側の意が違えば、全く醸し出すものは荘厳と陳腐ほど差があるのは、石山さんもご存じではないですか。
     そして、私は、王師とは違います。私は、既に人間だけでなく森羅万象は最も根本的な心で繋がっているという信念を持っています。ですから、全ての人に太極拳を教えます。ただそれだけのことです。繋がっているのに、それを思い出せない人も多くいますが、実質は繋がっているので、思い出せば良いだけです。そう思っています。これも私の自由です。これが私の太極拳です。
     これでいかがですか。「議論が終わり」と委員長みたいなことを言われたので、石山さんへ問いながら話したかったのですが、しかたがなく、一方的に書いてしまいましたが、石山さんの言いたいことを勘違いしているところ、まだ分からないことがあればどんどん指摘してくださいね。

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