陳炎林の散手対打

 今年に入ってから、太極拳武道クラスの門下が全員そろって参加できる日があったため、陳炎林の「散手対打」を、新しい門下のために久しぶりにやってみることにした。

今までも、当門楊式太極拳に伝わる「散手対打」は、武道クラスでは毎回主要練習として行っていて、陳炎林の「散手対打」の数十倍もある内容になるが、陳炎林の「散手対打」のように、ここまで長く連環する散手対打は、覚える作業が必要となるので、多くても道場で行うのは10連環くらいの散手対打である。それを毎回数個の違った内容をやるのである。陳炎林の散手対打も、陳炎林が練習として対錬で行っている散手対打を、書籍に掲載するために、中国の人が好きな数字である88連環させて、最初と最後を締めくくったものであり、もちろんここに掲載された散手対打が全てのはずがない。

しかし、動作の絵図があり、教本として覚えることが容易なため、この陳炎林の「散手対打」も行うこととした。道場で毎日行っている散手対打を、このような絵図にする技術があれば、この数十倍の散手対打が記載できるが、その技術を持つものが周りにいないし、今のところ必要も無い。

陳炎林の「散手対打」は、どうも靠勁を多用する傾向にある為、背が低い人物では無かったのかと推察するが、ふんだんに太極拳の勢を取り入れた「散手対打」になっている。しかし、絵図にすべての勢を掲載しようとして、その上、招式(一つの攻防に対する攻防)を細かく取り決めをしないと次に続かないことを前提にして、仕方なく「散手対打」の形を決めているいうことを理解して、ここは柔軟性や臨機応変勢をもって練習したい。

 散手は、相手の発勁によってこちらの発勁も変わってくる。しかし、あのように絵図にしてしまうと、あの絵図と文字どおりの動作をすること(対打)が前提となるので、ここは、勁も発せられていないのに先に動かないようにするなど徹底しないと、単なる形を追うだけの体操になってしまう。

全てそうだが、一つだけ例を挙げると、散手対打26/換歩右穿梭に対して27/左掤右劈捶となるところだが、換歩右穿梭の左腕の掤が外側に勢いを生んだ場合、27/左掤右劈捶を行うと不自然である。その場合は、その勢に随い、右足を相手の左足外側に進め、相手の腎の急所に打虎式を打つのが自然である。ところがそうであるのに、絵図のとおり27/左掤右劈捶を行うとなると、意識的に足を相手の足の内側、そして、無理に掤を押し込み打つしか無い。従って散手でなくなる。太極拳でもない。その場合は、例えば、撤歩右打虎となるのが太極拳の自然な勢である。しかし、陳炎林の絵図では、ここは27/左掤右劈捶を行いたいわけであるから、散手対打26/換歩右穿梭の左腕の掤は上に跳ね上げる勢を左に流さない。であれば、27/左掤右劈捶を行うものは、左に流れない時点で左腕で相手の左腕を掤しないといけない。その掤も左側に流れると相手は腰がうねり左の背が見えるようになるので、そこに右劈捶を打つことになるから、陳炎林の絵図と文字通りにはならない。だから、ここでも、相手の掤が左に流れていく前に28/白鶴亮翅を行う事になる。このように、しっかりと武の気勢を知らないと、不自然な動きでもこの形をなぞって陳炎林の散手対打を行える。そうなると、不自然極まりない武の動きは、武を壊すばかりか、太極拳自体を失い、拙力でその形を整えることとなり、これを続けているとそれが体にしみこみ、やればやるほど、太極拳から遠ざかり、心身を壊し、武からも遠ざかる。

 陳炎林が、この散手対打を掲載したのは、自分では合間の動きやその時の気勢の詳細がすべてわかるからである。書籍の最初で、武の気勢を詳しく説明し、套路だけでなく、推手や武器術までを極めて、始めて散手対打に進むことを示唆している。この陳炎林の散手対打を演じている多くの映像もあるが、断片化して掲載されたこの陳炎林の散手対打の絵図の形を、発勁が起こる前に、そうなるように意識的に動かしているだけの、体操以前のものしかない。

散手対打は、あたりまえであるが、武の基本を会得してからしか行わない方が良い。なぜ、散手対打という名前か?散手は自由組み手、対打は約束組み手であり、矛盾する二つのものが合わさっている。この意味が分からないと散手対打はとても危険な諸刃の剣である。散手は自由組み手、即ち、相手の発勁次第で、こちらの発勁も変わってくるのがあたりまえであり、それを踏まえて、陳炎林が書き残した約束組み手を行うのである。当門のものには、それをしっかり教えるので心配は無いが、くれぐれもむやみにこの形通りになろうと、意識的に体を動かさないように願う。相手の発勁が違うのなら、それに応じて自然に無為に、発勁がでるはずである。そのように、散手になってしまった場合は、それで太極拳としては正解なのであるが、陳炎林の対打を再現したいのであれば、そこで止まり、陳炎林の対打、即ち約束組み手の発勁とはどのようなものかを、しっかりと学べばいいのである。そして、その発勁が自然にでるようにしないといけない。これが散手対打である。これが、元々武当山で、王宗岳などの太極拳法(内家拳法)の頃から、行っていた、太極拳の主流の練習方法である。その一人練習として套路や、基本練習として推手や拳推手、発勁を完結させるための招式などがあるに過ぎない。

例えば、このYouTubeの動画の散手対打などを見ればわかる。最初の1/上歩捶など、捶拳が相手の心窩にまで届かないのに、打つ前に、先に相手は逃げている。このような散手対打はあり得ない。陳炎林の絵図でもしっかりと上歩捶は心窩に届こうとしている、だからここは2/提手上勢なのである。厳密には上勢の発勁はでていないが、提手から上勢を行う気勢は既にでている。だから、相手は次の3/上歩攔捶を打て、また、次の4/搬捶に気勢が動くのである。ところがこの動画は全般において、この絵図をなぞっているだけであり、これが散手対打というのであれば、散手対打は単なる約束体操としか言えない。それどころか、4/搬捶の絵図から、3番目と4番目の間にある自然な動きが分からないから、陳炎林が文字で説明している『腰を左後方に半身となってさばくと同時に」という説明のとおりできないで、右後方に腰腿を動かし、上から相手の拳を抑えている。無茶苦茶である。不自然な動きの上、陳炎林の説明にも反している。ここは、『腰を左後方に半身となってさばく」左盼であり、左腕で内から外、下から上に搬する搬捶である。だから、その次の5/上歩左靠も内側からまず外に受ける絵図になっているのに、勝手に外側から下に受けている。だから相手の搬捶が左脇腹に食い込んでいるのである。本当ならここで散手対打は終了である。だけどまだ続けているから、おかしな散手対打になってしまっている。これなら左靠では無く提手上勢など、背勢に適した自然な発勁がある。内側から受けたから、左靠が最も自然なのである。こんなことは、散手対打を知っていればあたりまえに行える。この動画ではその次に、左靠も来ていないのに勝手に6/右打虎のために後ろに動いている。ここまで見てもう見る気も無くなったので、今日のところはもう止めることにする。しかし、悪い例として最高の教材なので、後日当門の者には全部を詳しく解説する。

全く無茶苦茶である。勝手に行うのは良いが、陳炎林の散手対打ではない。陳炎林の散手対打は、我々が行う散手対打と同じく、絵図と説明を見れば、陰炎林の癖は見えるが、完全な素晴らしい散手対打である。しかし、ただしっかりとその発勁を詳細まで知っていないといけない。陳炎林は、それを前提に書籍に記したのだが、武を知っている者にはこれでいいのである。十分分かる。分からないものが知っていると思ってやっていると、無茶苦茶になる。この動画がいい例である。

 この、陳炎林の「散手対打」は、第二次世界大戦が終わる2年前の1943年に上海で発行された「太極拳刀剣桿散手合編」として上下二冊の正本として販売されていたものである。右の広告にあるように、数冊の単行文に分けても発行されていた。

 

陳炎林は、上海租界など日本やヨーロッパの国々が自治に入り込み、その後日本がほとんど支配する上海の激動の時代に、地産という不動産業を上海の一等地で営む人間である。この陳炎林についてはほとんど現在の太極拳業界の関係人物とする資料は残っていないのは、言うなれば裏社会の黒幕でもあるから表に出ないのは当然である上、自分の太極拳の本質と違うと思われる太極拳の集団と付き合うことはしなかった。従って、今普及している一般的な太極拳には名が一切出てこない。

日本でも、当時、利権が膨大な市街地の不動産を取り仕切るものは、裏社会の実力者である。日本でも武器の使用は限定されたため、徒手による格闘術か、懲役を覚悟で真剣を帯びるものが台頭していた。真剣を使うと懲役に行くことになる確率が高いので、やはり日本でも徒手殺戮術の長けたものがその時代の裏社会を制していった。祖父の組織の長も、その道の猛者である。ましてや、激動の上海である。この時代を乗り越えるばかりか、上海で不動産を取り仕切るものとしては名を残した人物としては、相当な猛者である。

1842年からイギリスとアメリカ合衆国、フランスがそれぞれ租界を設定し、後に英米列強と日本の租界を纏めた共同租界があり、1853年9月に起きた秘密結社・小刀会の武装蜂起などがあったため、上海での武器の使用はタブーになっていた。そこで、必要なものが「徒手殺戮術」であり、陳炎林は幼少から実践的な戦闘技術を学び、楊健候や少候の一番弟子であった田兆麟から秘密裏に実戦的な太極拳を師事し、上海の裏社会をその殺戮術を駆使してのし上がったのである。陳炎林は相当な使い手であり、晩年になっても毎日練習を怠らなかったそうである。田兆麟から秘密裏に教わった太極拳は、田兆麟さえ封印したほど、当時の中国政府に知られれば抹消の対象となるものであった。しかし、裏社会に生きる陳炎林は、孤高にてその太極拳を一人と身近な側近と共に修練し抜き、人生に生かし、自分しか残せない本質を、中国政府や西洋諸国に葬られないように加工して、太極拳の本質が分かるものにしか分からない内容を散りばめて「太極拳刀剣桿散手合編」を出版した。私の太極拳の師は、1939年~1945年の第二次世界大戦の終了後、40才を超えて、中国の武当山から日本の祖父周辺の組織をたよって逃げてきた人物だが、これらの話は、私の太極拳の師王師が祖父から聞いたというの話の一部である。

(以下は、中生勝美(大阪市立大学大学院文学研究科) の論文「戦中期における上海の不動産取引と都市問題―満鉄報告書を中心に―」から抜粋)

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上海が都市として発展したのは、1842 年の南京条約に始まる。これはアヘン戦争でイギリスと清国が 交戦し、イギリスの遠征隊は南京まで迫り、揚子江を占領した。そこで江南地方から北京へ物資を運ぶ 運河が封鎖され、中国側が和平を懇願せざるを得なくなったことにより締結された条約である。これに よって、広東・厦門・福州・寧波・上海が外国貿易のために開放され、これらの都市を条約港(treaty Port) と呼んだ。つまり、上海という都市は、イギリスが租界を設定したことに始まる。それまで現在の上海 がある地域は、単に揚子江河口の寒村にすぎなかった。上海の歴史は、外国の租界が清朝政府の権力が 及ばない治外法権として設置され、イギリス・フランス・共同租界が、それぞれに母国の都市建設をもちこんだ。上海は、ヨーロッパの植民地となった他のアジアの諸都市と共通する特色を持っている。ただ、 香港は、一部がイギリスの割譲地で、大半が 1898 年の新界条約が 99 年の期間を限った租借地であった ので、中華人民共和国成立後も返還さなかったが、上海の租界地は、中華人民共和国建国に後、異なっ た歴史を歩むが、戦前は揚子江流域から世界貿易の中継点として、香港よりもはるかに繁栄した都市で あった。

上海に都市が形成される過程で、租界が果たした役割、なかんずく不動産がもたらした金融市場の形成が何よりも重要性を持った。

1930 年代の上海は、不動産市場が成立し、不動産の商品化が都市開発の 資金調達として重要な意味を持っていた。

1932 年に傀儡国家「満州国」が建国して、大規模な 地籍調査が実施された。この翌年に、上海の不動産取引に関する百貨辞書とされる、陳炎林編『上海地産大全』総数 926 ページもの大著が発行された。1937 年7月7日に 始まった盧溝橋事変は、8 月 13 日上海へ飛び火し、上海全体を戦闘に巻き込んだ。その年の暮れに、租 界以外の上海は日本軍に占領され、租界の範囲は著しく縮小した。そして、英米の企業が所有する財産を接収することになり、上海の外国権益の実態を掌握する必要が あった。太平洋戦争が始まると、日本軍は租界へ進駐し、1942 年 1 月に青年男女の英米人は憲兵隊に登録して民文証明書を受け取ることを要請され、 2 月に憲兵隊は国際スパイ機関の手入れを宣布して多くの英米人を逮捕し、11 月に「敵性国人」の財産凍結が宣告され、43 年 2 月に英米人の成人男性を強制収容所に拘禁した。そして日本軍は英米の企業を接収し、軍需工場は軍の直接管理に、その他は興亜院華中連絡部の管理下においた。※土方定一・橋本八男訳『上海史』東京:生活社、1941年(初版1940年)、14-15ページ。

日本軍の経済封鎖と物資統制政策で、上海を初めとする華中地域に深刻な生産萎縮と生活破綻をもた らした。また、中国人同士の不動産取引には、日本人の調査員が見証人となった。

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この翌年である1943年に「太極拳刀剣桿散手合編」が発行されたのである。

 私の祖父と陳炎林は相当な深い関係があった。当時王師と同じくらいの年齢であった祖父の組織は、上海に進出した日本の民間地産企業などと連携しながら上海で暗躍しており、上海地所の利権に乗り出していた頃、陳炎林と関わっていたらしく、陳炎林の地産の実力は、当時の日本軍の支配の中でも上海の地産利権の大物であったことが記録されている。その中で、祖父は何度も通った上海において、陳炎林の徒手格闘術の驚異的な実力を知っており、それが古式楊式太極拳であることを知って、当時の神戸の山口組の周辺で知り合った王師が太極拳の使い手であったことから、王師に興味を持って、祖父が王師に近づいてきたらしい。後に、王師は、祖父周辺のボディガード的な役割をしていた。

    王師は、陳炎林とは会ったことは無いが、祖父が、中国製の高級な書画に用いられる大判の用紙を袋とじにした、たいそう古物的で豪華な本で出版された、「太極拳刀剣桿散手合編」という書籍を王師に進呈したことにより、王師は陳炎林の存在を知ったということである。その後、祖父は陳炎林の側近にいた上海人を日本に連れてきて、王師に合わせたらしく、王師は陳炎林の太極拳について詳しく知った。その王師がいうには、中国においてこのような特別な環境か、王師のように海外に逃げ出して完全に身を隠した者が、中国政府の圧迫を受けず今も本物の太極拳を残すことができるらしい。台湾や香港では身を隠すにも中途半端で、香港の九龍城だけは例外だったらしい。

     このような状況で、陳炎林が当時中国政府の武術政策で管理されていた、今一般に普及している太極拳などの世界に名を出すはずもなく、また、そのようなものとの関係を一切打ち切りたいのは、王師も同じであった。随って、陳炎林は、本来の太極拳を最低限中国政府の武術政策に抵触しないように書き残そうとしたのである。危険な試みであったが、上海でかつ、裏社会に居てできたものである。結局、神髄は散手対打を一部紹介する程度に留まったのも、中国政府の武術政策の歴史的脅威を知っていたからである。

     陳炎林が最近の太極拳愛好家達から、孤高の武術家と呼ばれるのは、他の当時残存している太極拳の一団と、彼の太極拳は一線を画したものであっただけであり、当然その団体に関係することもない。しかし、書籍の内容を見れば、楊式の太極拳としてどれよりも本格的である。

     当時上海は租界のおかげで世界有数の国際都市であり、ほとんどの実力者は英語だけでなく、多国語を操り、日本語にも精通してたらしい。陳炎林も英訳した「太極拳刀剣桿散手合編」を発行していたらしいが、陳炎林は国際的にも自分の太極拳を伝えたかったと推察される。

    私が20才前後の頃、祖父が末期癌で余命1ヶ月と宣告され、葬式などの準備などを進めていた矢先であった。ちょうど、文化大革命が中国で終焉を迎える頃の1977年頃(昭和52年)、大阪ミナミの繁華街の裏世界はまだまだ無法地帯で、そんな中で、私は王師と巡り会った。祖父からの依頼だと言って、毎日起こる修羅場の中で王師は私に身を守る術だといって太極拳を執拗に教え始めた。このころ、王師だけでなく、道頓堀などの繁華街で喫茶店や飲食店にいると、いつも誰かが私の伝票をさっと取っていって、支払っていったり、車で事故をしたときや、色々なアクシデントが起こると、必ずそれ風の人が出てきて、事を治めていた。祖父は、癌で余命宣告をされて10年後癌が消滅し、最後は持病の糖尿病で亡くなった。

    後に、王師から太極拳を本格的に集中して学ぶ一日目に、「今日教えた内容はこの絵を見て明日までに完全に覚えるように」と言われて手渡された絵図が、この「太極拳刀剣桿散手合編」に掲載されていた套路の絵図を複写したもので、丁寧に絵図をつなぎ合わせて、新たに漢数字を書き換えて番号を付けてあった。陳炎林のものは105式であったが、それを85式に編集したとして、手渡された。番号もそのように付け替えてあった。

    王師は武当山内部よりも、十方叢林に集まってくる外部の武芸者達に、太極拳法大架式108式を教えていた。この太極拳法大架式108式は、楊露禅が楊露禅が武当山で大成した、太極拳法大架式108式(別名老架108式)であり、これにより後に楊氏は楊家太極拳と名付けたと王師はいっている。王師が言うには、武当山にある古式武当太极拳108式は完全大架式であり、楊露禅は小架式を好んでいたが、その大架式の神髄を学び、太極拳法大架式108式という強烈な小架を内包する大架式を生み出したそうである。これから、武当山でもこの太極拳法大架式108式を楊式太極拳として行うものが増えていたのだが、後に中国で大ブームとなった楊澄甫の85式が武当山に伝わり、古式108式を古式85式に替えて行ったものの多くのものの内の一人が王師であると言うことである。

    このように、武当山では楊澄甫の大架式が流行ったおかげで、108式が古式のまま85式に編成されたのだが、どのようないきさつでこのように105式になったのだろう、聞いてみたいものだと言っていた。どちらにしても元は同じで、内容もほとんど変わっていないが、中国語で書かれた解説は、太極拳の古式を知るものにしか理解できないだろうなとも言っていた。

 套路を完全に覚えた一週間後に、「太極拳刀剣桿散手合編」の説明を受け、その本もみせてもらった。その中に散手対打や多くの内容があったが、「散手対打」についてはこれは陳炎林のものだから、一とおり教えるが、散手対打としてはほんの一部であり、王師は私にこの数十倍にもなる散手対打を毎日私に教えた。もちろん記録する術もなく、心身に覚え込むしかないのだが、王師はいつも私に「ただ自分にある自然な気勢を思い出せばいい」それを使って散手対打するだけだと言っていた。相手の臨機応変の心意や行為に対して、あたりまえにほぼ本能的に気勢が動き、それを暗勁としてのびやかに(大架式)、結果として表面にでる激しい発勁(明勁)が相手を制する技となる(小架式)のであり、マニュアルのように「こうすればこうする」というような「散手対打」を、もし、全て書籍として残すなら、太極拳においては膨大な記述となる。また、それは、気勢や勁を練るための手段であると割り切り、「散手対打」の一部を覚えるのも有益であるかも知れないが、この「散手対打」は、太極拳のほんの一部であることも理解する必要がある。太極拳は十三勢である。この勢が根幹であり、勢から発せられる発勁は無数と言っても良い。それを套路のように一つの形を決めて行ったり、この「散手対打」や「推手」を行うのも、その勢の結果の一部を定式にしたに過ぎない。

本来は勢が臨機応変な相手の行為に対して、臨機応変に対応するものであり、無数の散手対打が成立するものである。

陳炎林も、そのことを理解した上で、快拳はもちろん、慢拳としても推手や套路のように学ぶことができる散手対打として紹介したと言うことを知るべきである。陳炎林は、無数の散手対打を行っていたということを聞き及び、王師と同じく太極拳を実際に使えた人物であると王師は確信を持ったらしい。

陳炎林については、祖父が日本に連れてきた陳炎林の側近であったという人物からからたっぷりと話を聞かされたそうで、王師が陳炎林と会いたかったらしいが、会ったことがないのは、会えるような関係では無かったということらしい。祖父と陳炎林は敵対しているわけではないが、よい関係では無く、連れ帰った人物も陳炎林とはもう会えない関係であった。

私の祖父は、私が生まれた昭和32年には、大阪難波を中心に最大勢力をもっていた老舗博徒組織の代貸(会社で言うと専務みたいなもの)で、興業や賭博、遊郭、そして元々は本業が鳶の組織である為、不動産や公共事業、大阪の公共衛生の事業まで取り仕切り、海外では上海や香港、満州、台湾にまで大きく手を広めていた。特に上海における不動産事業の利権に手を染めていたようである。

祖父の組織は、今や日本最大の指定暴力団の3代目田岡氏とも兄弟分の関係であり、王師は、その神戸の組織の関係者であったらしく、祖父はその関係で王師と知り合いになり、後に祖父の組織にも用心棒的な立場で関係していたようである。

1950年ごろには、祖父の組織の長が会長となり、田岡氏が理事となって、「全日本プロレス協会」を設立した。王師もその組織のトレーニングに加わっていたそうである。本来のプロレスと太極拳はとてもよく似ていると口癖であった。

私が生まれた頃には協会自体は消滅していたようだが、プロレス道場は健在で、小学生頃は祖父に何度も道場に連れて行かれ、当時子ども達に人気だったプロレス技を教わっていた。私がまだ、5~7才頃にも、祖父の組織の幹部であり、プロレスのプロでもある人が家にいつも豪華な「かに」などの海産物をもってやってきて、私にプロレス技を教えていて、私が唇を切って、母にこっぴどく怒られてうなだれていたことを思い出す。

私はプロレスにのめり込み、家では妹に、学校では友人にプロ並みのプロレス技をかけて遊んでいたため、妹には今でも当時の恨み辛みを言われ、学校では先生からこっぴどく注意をされていた思い出がある。

高校生頃になると、祖父に恩があるという人たちが私の前に多く現れ、当時通っていた高校の紋章と、祖父の組織の代紋がよく似ており、その代紋を付けてもいいといわれ、虎の衣を借り怖いもの知らずに繁華街に出入りし調子に乗っていた。おかげで高校を4年いくハメになった。祖父からの依頼と言うことで、そのときに京都の老舗任侠団体である組織の実戦剣術の使い手が私に近づいてきた。京都のボクシングのジムからも祖父の依頼だと言ってきたが、実戦剣術の師が「棒一本持てば、相手が何人いようとケンカで負けることはなくなる」という言葉に魅せられて、学校をサボったり、放課後に大阪の西成にある師の広い事務所(なぜか50畳くらいのコンクリートの部屋に、机がぽつんと一つだけ置いてある)に二日に一回は通い、柳生新陰流の実戦だという剣術を習った。実際、隣駅の恐ろしい男子校から目の敵にされていて、学校近くの地下街で15人くらいに傘で付いたり、袋だたきに遭ったのだが、全て受け返し、反撃はできなかったが、全くの無傷どころか、傘の鋭い先が我が身にあたった形跡はなかった。無意識であったが、よく見えており、横を我が校の国語の先生が通り、私の顔を見て助けもせずそそくさと逃げていくのも見えていた。後で、教室でその先生を国語の授業中につるし上げた、申し訳ない思い出がある。

ボクシングも、剣術も私の非行防止のためらしかったのだが、剣術の師は、特に、祖父から「裏社会をなめるな」ということを教えてくれと言われていたらしく、真剣を使った稽古や、特製の袋竹刀を首筋や頭に寸止めされる気合いと、剣術の師の凶気のすさまじさには、へこたれそうになった。後に剣術の師の話では、へこたれることを期待していたらしく、まさか乗り越えると思っていなかったらしく、笑っていた。剣の見切りができるようになるのはとても単純純粋で、その動きはプロレスの時と同じ円の動きであった。真剣を振られてもちっとも怖くなくなり、後の20才頃の京都の四条河原町の当時働く南のディスコの姉妹店カルチェラタンで起こった、数人が日本刀で切られて死ぬ事件に本店の幹部として遭遇したとき、それを止める立場にいたため止めに入ったのだが、ちっとも怖く無かったことを思い出す。

そして、最後に楊式の太極拳が最も優れた護身術だと言って、王師がやってきたのだが、そのすさまじい護身能力は、興味半分で招式を教わっただけなのに、プロレスや柳生新陰流のおかげだろうか、私に驚くような能力が備わった為、面白くて毎日起こる店内でのプロのケンカに使用するのが面白くて仕方が無かった。招式はとても面白いので、面白いところ以外教わろうともしなかったため、王師の教授は一時終了したが、後に私が死にそうなほどの重度の自立神経失調症で入院したことから、王師が再来し、そこから本格的な太極拳を習うことになったのである。

そこからは、套路を覚えて、存思套路を修得してから、即座に散手対打の毎日である。散手対打中に、王師の発勁が決まり、何度も気を失ったことがある。逆に王師も数回ある。その時の教わっていた活法が巧くいかず焦った記憶がある。その時の散手対打の中に、陳炎林の散手対打の一つ一つにある気勢は全て含まれている。だから、陳炎林の散手対打についてはっきりと経験として述べることができるのである。

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