太極拳の無極は、仏教の空のようなものですか? 無も有も包括するような?

 

 「無極」は、「空」ですらありません。「空」は相対性の視点です。「空」といった時点で、「色」が生まれます。

「空」は、「色」とは何か、即ち、目に映る現象とは何かを解決するための理論です。

だから相対性すらない「無極」には「空」も含み「空」は含まないともいえます。

しかし、「無極」から有無が生まれ、うまれたものの状態は相対性において「空」という「無極」と同じ不確定性というカオス(混沌)の性質になっています。

しかし、このように「無極」が「空」を生んだのですが、これだけなら、「無極」は「空」を生んだだけということになります。

「無極」は「空」という状態の有無を生み出したのですが、その二つに分かれた「陰陽」は「空」として混沌(カオス)としており、一切の秩序性がありません。ところが、人間が介在し、ある視点でそれを「色」即ち現象とみた場合、見るものはそれに規則性を持たせます。それが「コスモス」という秩序性です。宇宙とも訳され、人間という見るものが居て、見られる森羅万象全てを宇宙と表現します。

太極思想は、そのような個性による「色」の、コスモスによる固定化を解決するため、この世の中はカオス(混沌には空性がある)であることを大前提として、それに安定を維持する状態を見つけ出しました。それが「太極」です。

即ち、太極は秩序性を持つカオスという、相反するものが矛盾するものが、和合する状態なのです。相反すものの内には、有無もあり、善悪もあり、全ての陰陽が含まれます。同時に含まれません。このような性質は、陰陽が「無極」に還ろうとする性質があります。即ち、二つのものがもとの完全なる無に還ろうという「核力」の仕業です。このように、「無極」は陰陽を混沌として生み出したのですが、同時にいつも見守りながら、離れず一体であるが、その陰陽の個性を自立させ、又融和させ、無極と太極という親子の連携を保ち続けているのです。だからこそ、「太極」は「無極」より生じたと言えるのです。

陰陽は全てのものの表裏です。太極拳の拳理を当門で教わっていれば、相反するもの、即ち陰陽が和合する状態を教わります。矛と盾が一体となって、矛が盾を、盾が矛を相手を和合して制します。套路はその仕組みを森羅万象を相手として練習するわけですから、武の神髄を学んでいれば、とても高度な武道の練習方法です。木曜日クラスが教えているのは、武の神髄です。

仏教はその「空」に様々な秩序性を持たせようとしますが、結局解決できるのは般若心経の「無無」(否定の否定はやってみると分かりますが、いつまでも永遠に円転します)という円転だけです。結局は太極と同じ状態になるしか有りません。

仏教の「空」といえば、例えば自分が見ているもの。これは「色」です。そこに牛が居ると見えれば、そこに牛が居るはずです。「有」です。しかし、牛は、自分が人間が牛だと思っている牛だと、自分のことを思っている保証がありません。だからそこに自分が思っている牛はそこに居るとは限りません。従って「無」でもあるのです。一つの現象「色」は自分が見ている「有」では無く、実相は「無」も含んでいるのです。

このように「空」は、あるものの現象、即ち「色」をある主観で見ると「有」だと見て、客観で見ると「無」だと見たのであれば、即ち実相は有でも無でも無いし、有でも無でもあるということで、固定的実体はないとうことです。

即ち、描かれた「色」、即ち現象は「空」そのもの、または「空」そのものが「色」であるということです。色即是空、空即是色。そうであれば、「色」が「空」と違うこともなく、「空」も「色」と違うことがないとなるわけです。色不異空、空不異色。

このように、「空」とは、無有という陰陽を含む世界です。その世界の事を仏教では「空」といい、一説では、昔に、仏教の派閥争いの中で、相手が霊魂は必ず存在するとして「有」を頑なに唱え、それを、、問答して手で輪を作って「○」と唱えたのが、「空」の始まりとされています。即ち、「空」は有無も含むということです。いるかも知れないし、いないかも知れない、だから、そんなことに実体はないということであり、太極思想の不可知論(わからないものはわからない)と同じです。

太極思想では、この有無は陰陽のカテゴリーの一つです。即ち、太極の中の単なる陰陽という両儀です。そしてあの太極図の外円が、「空」の概念です。「空」の内に、陰陽が円転して巡っています。仏教においては、「空」は、縁起(因縁果)が成立するための状態、即ち、この世界の全てがここに内包されているということです。いわゆるカオス(混沌)であり、その「空」を理解すれば、その「空」をどうすれば涅槃に向かっていくかが仏教です。その仏教の「空」の理論を単純明快に解決したのが、太極思想であり、太極図はその太極の状態という、「無極」に向かう状態を示したものです。即ち、太極で仏教のいう涅槃に行き着くということです。太極思想では涅槃では無く、単に「無極」です。

太極拳でいうと、「意」という心の働きで、気勢や発勁により、自分の「精」という生命活動が「形」を表します。平たくいうと、例えば、套路や技の動作そのものが「形」です。例えば、武道だけでいうと、この部分だけを拳理に据えたものが『形意拳』という内家拳です。そうすると、「形」は「色」、「意」という心の働きは、例えば、主観的に「有」としても、客観的には「無」も存在するとして、太極拳ではその双方を含む「空」を描きます。

この「空」の有無(陰陽)の状態を『太極』にすることが、太極拳の拳理です。平たくいうと、套路なら、自分の心身と、森羅万象全てが和合している、武道なら、相対する相手も単にその一部ということです。従って、太極拳では、随沾粘化走などを陰陽互根(おたがいが存在するからお互いが存在する)の動きとなるのです。

即ち、太極拳では、「空」なるものに有無は混沌として存在しており、それの円転して和合する状態の『太極』で動きます。だから、太極拳なのです。

仏教では「空」を0と解釈したものもいますが、「空」は0のように何も無いのでは無く、そのものの空洞のことです。空洞の内には有無もあり、有無も無いも、無があるも、有が有るも、無いも、溢れるほど有るも、溢れるほど無いこともないも、全てを内包しています。それが見るものには「色」と現れます。

外に現れた色は、自分が見る色ですから、空では無く、単なる色です。色は人それぞれ、様々な個人的な世界観(コスモス)で決まります。それを「空」だと知るのが仏教の歩む道です。太極思想では、「空」はあたりまえで、その上で、それが「無極」に向かう状態を「太極」として表しています。

太極思想の色(いろ)についていえば、あらゆる色を光を遮蔽した状態、即ち、紙などに書き足していくと黒になります。これが「陰」です。また、光を遮蔽しないで光を重ね合わせていくと白になります。太陽の光と同じです。これが『陽」です。このように、空の中に光で遮蔽されたあらゆるものが「悲」、光溢れるあらゆるものが「愛」であり、これを余すことなく、観世音、観自在するのが太極拳の実際です。即ち、小さな細い糸を紡ぐように慈しむ、慈悲と慈愛の色が、あの太極図の円という「空」の中にある、白と黒の魚のような図柄です。

その太極を生んだものが『無極』であると太極拳論にも記されているとおり、逆に言うと、太極の原因が『無極』です。無極は太極の母と記されています。無極の世界は深淵ですが、到達すると純粋で単純です。言葉だけで述べるのは大変ですが、経験すればすぐに分かります。

その『無極』を経験したものをイメージで表すと、即ち、無極の原型(共通イメージ)的なものは、仏教においては涅槃です。キリスト教ではエデンの園です。

仏教では「空」の大前提に立った上で、涅槃に向かう様々な智慧を説きます。般若心経では、その涅槃を思い出す方法としては『無無」などを説きました。否定の否定です。それらの智慧は菩提です。その智慧を人に教える人が「菩提薩埵」即ち、菩薩です。

太極思想では「無極」に向かう道を「道」としていますが、あの老子は「道」には名前も無いというほど、完全に不可知論をしいています。だから、共通イメージという概念すら排除し、無為自然という完全なるありのままとあたりまえの世界のみをといています。

従って、経験したことのみを説明するので、仏教やキリスト教とは一線を引くかも知れないのですが、元々のブッダやキリストの人間としての心意とは同じかも知れません。

まず、一般的に「無」は何もないということであり、インド思想においては、数字の「0」の概念があります。そこでは、「0」という「無」は、0乗すると「無」でもあり「無」でもない、不確定、不定、明確でない、漠然とした、あいまいな、未解決の、未定の、という状態になります。そうなると、また、「無」でも無いというのであれば、あるものが存在することを示す「有」かもしれないということになる。すなわち全てを含み、全てを含まない状態で、これが「無極」の性質です。

このように、太極思想もインド発祥の「0」の概念と同じで、「無極」という完全なる無の世界は、0の0乗のとおり不確定な世界であるが、人間という見るものが存在すると、相対性が生まれます。見るものがいてみられるものがいるという、陰陽の基本原理です。それを秩序正しく確定させようとすることをコスモス(宇宙)と表現し、それには秩序性などないという不確定な世界はカオス(混沌)として表します。これらはどちらも相対性の世界であり、太極思想では陰陽を両儀といいます。

カオスの性質は大極思想では「陽」、コスモスは「陰」となる。これを秩序性(コスモス)と和合した不秩序性(カオス)として、その状態を表したのが「太極」です。このカオスの不秩序性という性質は「無極」の性質と同質のため、「太極」は秩序性(コスモス)のある不秩序性(カオス)として表現されます。

太陽の光が「無極」の性質とすれば、日向はカオス、日陰はコスモスであるため、太極はコスモスと和合したカオスとしています。日の当たる場所も、ただ日が当たっているだけで、陰も日が当たっていないだけであり、居る場所や状態によって不確定です。だから、太極という秩序性も不確定である、即ち、太極は混沌としているという考えの下にあります。即ち、太極は法則では無く、状態ということになります。

相対世界においては、不確定性に偏るも、確定性に偏るも、双方の性質に拘るも、太極拳の言葉を使うと、双重の病、偏重の病と言うことになります。

その陰と陽の全体は、1つの○(円)として表現され、その円を含む全体が太極です。その○(円)は仏教でいう「空」でもあります。その内に有無などの陰陽のカテゴリーが表裏一体となって蠢いているのです。しかし、その内の陰陽を二つに分けると2(両儀)となります。

本来一つであるはずなのに、2つに分かれたものは、引き合い一つに戻ろうとする「核力」を保有し、「核力」により円転して融合して、完全なる一つに戻ろうとするのです。この円転の状態が「太極」であり、その円転のエネルギーの営みが「気」であり、生体においてだけいうと、「気」と勢いは「精」という生体全体を形作っていくのです。

その「核力」の原因は「無極」です。太極思想において、数量的に0で表し、太極を1、両儀を2としています。「核力」は、陰陽両儀に対し、「無極」に一体化する世界に還そうとするものです。それにより、太極図はあのように白と黒の魚のような図がお互いに円転して巡り合っています。この状態が「太極」の状態ということです。

この「太極」の状態という秩序的なカオスの状態は、完全不確定な「無極」の世界に戻ろうとするものであるから、その秩序性と不秩序性の間に、不確定な揺らぎが起こります。これが、F分の1ともいわれる、規則正しい現象(コスモス)とランダムで規則性がない現象(カオス)との中間でおこるゆらぎです。太極拳では「無極勢」といい、この揺らぎが太極の勢いを生み出します。とても心地の良い揺らぎが、套路や、武道の発勁の時に起こります。発勁時をあらゆる刹那で表現する、鼓蕩勁という発勁が太極拳の到達点ですが、その発勁で行う小架式には、全ての刹那の前後に無極勢があります。その無極勢の折畳勁(折りたたんで進む勁)によって川のせせらぎや、蛍の光などのような、いやそれ以上の言葉で言い表せない心地の良い感覚があります。例えば量子論などを参考にすると、光には鼓蕩勁という粒子の性質、折畳勁という波の性質があります。このような状態です。

このような「太極」の状態には、収斂と発散という、宇宙の縮小と膨張と同じような作用があるとして考えられ、太極拳ではそれによって太極の状態を動きます。
套路などにおいて、例えば、摟膝拗歩などの前に打ち出す発勁による発散が進むということは、完全にバランスを失う世界へ向かっていくことになります。これが例えば、「有」であるとしても、「無」も内包しています。これが太極です。「有」は益々大きくなり、「無」は益々小さくなります。「有」は拡散して蒸発し、「無」は縮小して消え去ります。しかし、至った先は「無極」です。即ち、「無極」に向かっていっただけで、そこで、融和するだけで、「有無」が無くなったわけでも、又有るわけでもない状態となります。
現実的にいうと、発勁を打ちきったら、バランス本能が働き、行きすぎた状態から元の状態へ戻そうとする勢いが生まれます。階段で転びそうになったときに働く、ホメオスタシス(恒常性維持機能)です。ブランコが、頂点に来たときと戻るときの間にある、真空状態のようなものです。武道では、その真空状態にまで打ち込む発勁を修練しますから、太極拳の発勁は人智を越えるものとなるのです。そこには有無もなく、又有無もあるという感じです。「無」ですか?「有」ですかと聞かれたら、「無」でも「有」でもない。しかし、「有」も「無」も含むから、つぎに、その「無極」から「太極」が生まれて、現実的には、摟膝拗歩なら、打ち出した手がホメオスタシスの引き戻しの慣性により自分の方へ戻ってきます。即ち、また有無が生まれます。そしてその生まれた状態は「太極」でないと、次に無極に向かえません。武道においても、套路においても、無極から太極が生まれ、同時に太極は核力により無極に向かっていきます。その繰りかえしです。

太極思想は、無極と太極の関係を明確にし、太極の内にある、陰陽の関係も明確にしています。その陰陽の関係は陰陽思想となっていますが、陰陽思想は太極思想の一部です。陰陽は、全て陰陽互根/陰陽制約/陰陽消長/陰陽転化/陰陽可分という性質を帯び、この全てが太極拳の勢いの中にあります。
陰陽可分の性質に基づき、陰陽という両儀は、その内にさらに陰陽を生みます。これらは様々な変化を起こして行きます。
十三勢で考えると、天(混沌とした空間)という陽は四正手、地(規則性を帯びた時間)という地は四隅手であり、その間に立つ人間が相対性を帯び四象を起こします。この関係が天人地の三才です。即ち、自分から見て天地の間に立って、前後左右という現実性を帯びます。これが「色」です。自分の居る位置を「定」として前後左右で五行となります。これで太極拳の十三勢です。
そして、その四象はさらに細かく永遠に陰陽に細かく分かれていくのですが、それが森羅万象を表す八卦です。八卦は即ち「空」の状態です。ありとあらゆる有無を含んでいるのです。制限無くです。この世界を読み解こうとするのが「易」であり、易は変化するものです。そして、もとの「無極」だけが「不易」です。変化しないものです。この変化しないものの原動力で、易(変化するもの)を制覇するまでが太極思想です。そしてその「道」の一つで、武を応用したものが武道である太極拳です。太極拳を真に修得すれば、フィードバックとして、この全てが経験できます。

このように「空」の状態を解決した『太極』は、「無極」による核力によりあのような状態となっているのです。黒と白の魚のような図の中に、小さな白黒があり、お互いに融合しようとして、円転で巡っているのです。その繋ぎ目に垣間見えるのが無極線です。S字になっていますね。

仏教では、涅槃というところにある完全無欠な状態は、全てがあり、全てがない世界です。ここにある知恵は無分別智です。分別しないという最高の境地です。そこは完全な無であり、「太極」はそこに戻ろうとする、またはそこから生まれた解決されたカオスの状態なのです。即ち、仏教でいう四苦(死生病老)は、そこに戻ろうとする人間のありのままのあたりまえの姿です。輪廻転生は、涅槃即ち無極に行き着けば、又新たに何かに生まれ変わって「空」が生まれ、有無の「色」を描き続けるのです。太極思想では、絶えず太極であれば、又無極から太極に戻るだけです。その太極の姿は、例えば、胎児です。太極思想では、胎児のような状態に戻ることを還虚といいます。

エデンの園もそうです。全てがあり、全てがない世界なのに、アダムとイブは知恵の実を食べて、陰陽『善悪など』を分けることをしたから、人間に堕落したとされています。

太極拳は『無極』という万物の原因があるから、『太極」という「空」の内にある『有無』を融和させ「色」を描いているのであって、「空」でなければ有無を内包できないので「太極」も無いということです。

現実的にいうと、相手も我も一体、もっというと、森羅万象も一体、他のものが見るものも我が見ることも、全て同じで同じではない。こういう世界が太極拳の世界です。「空」に有無を含み太極の状態として、その原因が「無極」の世界、即ち、仏教でいえば涅槃、キリスト教ではエデンの園のようなイメージです。しかし、太極思想は、もっと、すべてを含むという無為自然な実相を経験する世界です。だから太極拳の套路を行うのも、真の至福感が原動力で心身が太極を描くのですから、真の至福感を思い出してから法を学ぶ頓法か、太極拳を行いながら真の至福間を思い出す漸法か学び方は自由ですが、理想は双方からトンネルを掘り繋げるような感覚で学ぶのが理想的です。

これでも説明を仕切れないですが、「無極」の至福感は、経験すればすぐに分かります。何の条件も帯びず、完全に満たされているということです。
例えば、人間の死生も条件です。即ち陰陽です。しかし、生存ではなく、存在はどうでしょうか。存在の定義を人間が存在するとすると生存になります。しかし、存在とは条件がありません。人間であるという条件もないのです。自分はどのようなものでもいいのです。霊でもいいのです。千の風のように、空を漂う何らかのものでもいいのです。又、人の心の内、いや、宇宙の空間にある物質でもいいのです。そして無くても良いのです。

どのようなもので良くても満たされている。陰でも陽でも、有でも無でもです。

又、満たされなくてもいいのです。満たされなくてもいいということは、いいというのだから、満たされているということで、しかし、満たされていないということですから、即ち、満たされていないのです。しかし、満たされている。これが、『無極』が表す「空」の状態です。即ち『太極』です。太極拳の円転の動きがこれです。柳生新陰流の転もそうです。

この太極の理を人間の生存自体に応用したのが『太極拳』です。当門で太極拳を習っている人は、いつも「無極」に戻ろうという『太極』の気勢で動いていることを教わっているはずです。人生では刹那に陰陽を含み(鼓蕩)、前から引き継いだ陰陽を、今、そして次に運ぶ(折畳)となります。

このような経験の中から、生存と存在の実相をつかみ取り、一人でも多くの人が瞬間瞬間を命輝き過ごされることを、私の心からの楽しみとして、太極拳という素晴らしいメソッドを伝え続けます。

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