歴史6:王師との出会い

その後、1980年に文化大革命が誤りだったとされました。民衆の怒りを収めるために、政府の体育機構は中国人の数千年の文化の中にあった伝統武術の復興を救済すると発表して、武当山周辺にも武術学校を設立して、武当山の武術を復興させようとしましたが、当たり前ですがもう既に武当山に太極拳などの武術は残っていませんでした。そこで、しかたがなくスポーツ化された武術指導家達に武当山周辺の武術学校を運営させ面目をはかりましたが、結構これが成功し、民衆は新しい政府に対し怒りの矛先を少し納めたようです。… 続きを読む

中国の禁武政策

  • 589年-960年の隋唐五代の371年間隋末の農民大決起(農民一揆)により、これを鎮圧できなかった煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われていました。618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及兄弟らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺されてしまい隋は滅んでしまいます。そこで618年5月、煬帝が殺されたと知ると李淵がこの一揆を鎮圧して、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となり。新たに唐王朝を興しました。この時に李淵がとった政策が、隋を滅ぼす要因になった民間武術を廃絶すると云うものでした。そして、唐の後の五代までこの政策は、続く事になるのです。
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太極拳の源流

太極拳は少林寺の内家で修行されていた宗門の行で、世に出て長拳となりスポーツ化されました。記録はインダス文明の時から発展した、カラリパヤットが原型と言われています。その内家の本質を維持するために、武当山などの道教の寺院内家で宗門修行されていて、攻防理論などは道教の太極理論と全く一致しているので太極拳と名付けられました。そして、禁武政策でこの強烈な武術は完全に骨を抜かれて、新たに制定又は伝統とされ、全く武術要素のない、積極的に武術になり得ないものとして再生されました。それが今普及している太極拳です。現在の太極拳の多くの老師は禁武政策の後に生まれた人ばかりです。… 続きを読む