心息動と神気精

心と息と動きが一致して動くの太極拳であると一般に言われています。

武道としての太極拳は、心を神(しん)といい、意識される前の心のようなものをさします。

そして、息ですが、意識した呼吸をしません。意識した呼吸は気功を訓練する場合におこないます。

ちまたに言われる気功太極拳は、この息を重視して、気を動かすものです。

武道の太極拳では、先ほどの神(しん)からダイレクトに発せられる純粋な気により、無意識に呼吸する息をとらえます。無意識の呼吸ですから、深い瞑想のような太極拳によってその営みをとらえることが出来ます。

そして動ですが、それは動きです。武道における太極拳ではそれを精ととらえます。精は精神、神経、肉体、生理全てを含む人間の生命体の仕組み全てです。かたち有るものです。それは、見えない又は動いていないと見えるところでも動いています。ですから、精ととらえます。精力と言われるところの精です。

従って、一般の太極拳教室で心息動と教えられ、それをそのまま理解してしまうと、心を意識し、息をとらえ、身体を動かしてしまいます。

神気精で結果として、心息動が一致するだけです。それは意識ではなく、無為です。

一般の太極拳が意識で動くと言われているのは、用意不要力の要求からでしょうが、用意の意は神(しん)です。意識のことではありません。意識はその神(意)を認識することです。

例えば、仏教の心理学である唯識論では受想行識と最後にあるところで、最も動きとしては遅いところです。神は受といわれる感覚を受動して反応する感受の部分の基礎にある部分であり、感じると同時に働きます。その神が意であり、用意といって意を用いるのです。そして不要力ですが、力を使わないと単純に理解するのではなく、思考力を含む考えの力も力になります。

太極拳は唯物論(物質で全てのことを説明する考えかた)ではなく、唯物も唯識(物質以外のものを認識することで全てのことを説明する考え方)も合わせて考えます。

力とは精神力などと言われるように、それを動かそうとする有為(何かを目的にする)なものを表す言葉です。

意はそれとは逆に何をも目的にしていないで、ただそれに反応することです。

意識があるとは、その意を認識することが出来る状態で有り、無意識はその意を認識できることの出来ない状態です。

このように、意はどちらにもちゃんと存在していることがわかります。

一般的な太極拳では、この意を意識と教え、套路などを練習させているようですが、全くの間違いであることはおわかりいただけたでしょうか。

意は単純に意です。意識として認識したなら、用意識不要力になります。

意識で太極拳の套路を動いている限りは、太極拳が本来求めるところには到達もせず、又、随意運動は、人間の心身の不随意の自然な動きに無理な要求を行い、心身の正常なホメオスタシス(ニュートラルに戻ろうとするバネみたいなもの)をも狂わせることとなります。

このように、太極拳に要求される、用意不要力などの言葉が、全く都合良く解釈されて広められ、それを信じて太極拳を健康によいとして運動されている方には、特に楊式の太極拳は武道として武と医は同じ源にあるという内丹術であることを深く理解されることをお勧めします。

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