木漏れ日の光と影《太極拳三昧》

1095今日は昨日までの天気から好転して晴れである。
木々からこぼれる日差しは、光と影を美しく織りなしている。
この世の現象は、陰と陽。光と影が混沌として生み出す。
それを自然におさめていくのが太極である。
そしてその自然を絶対的なものとして位置づけたのが、二進法である。
ONとOFF、実と虚で全てが解決する。全世界が描ける。曼荼羅と同じである。
太極拳は二進法と同じ原理で、武道を完全なものにしている。
最も単純で、簡単で、三千世界を一瞬にして描ける。
単純な原理で臨機応変に、あらゆる事に対応できる武道である。
もちろん、心身の内なる調整から、縁である外との関係においても同じである。
内丹と武術の兼ね合いである。
二進法の2ビットの値は4種類であり、00・01・10・11
それを10進値では、0・1・2・3である。
太極拳の内丹の修行は3から始める。
神(無為自然な真理の心)・気・精(人間の心身と現象の全て)=3である。
それら一つ一つをしっかりと整える。
この三が別個に存在し、相対の世界に生きながら、分かれているうちは、お互いが相対し合って、調整し合っている。バランスの段階である。
ここでバランスを重視する太極拳が生まれている。意識や形で制御しようとする。そうすると、太極拳で双重の病、偏重の病に陥る。二進法においては制御されている状態である。
そこから修行は進み、気と精を練り合わせる。すると炁(き)というものができあがる。
簡単にいうと、心身に気がみなぎるようになったのである。同時に周囲に起こる現象にも気がみなぎったように明るくなる。ここまでは気功でも到達できる。また気功術も成り立つ。
3から2になった状態で有り、二進法では制御が解かれ、相対であるが、陰陽のどちらかに移動できる状態である。
心身に気がみなぎるが、まだ、陰陽に左右される心身と現象である。
ただ何かしら楽しく、元気溢れる心身になる。套路も楽しい。
神と炁=2である。
次に、元気な心身を神(無為自然な真理の心)に融合させていく。
炁が神に一体になり一つになる。神が動くだけで、元気な心身が動き、現象が生まれる。
このような状態である。無為自然な真理の心で思ったことが全て行動になり、現象になる。
楽しいだけではなく、歓喜を伴う。心地良さはずば抜けている。自由な感覚である。
この状態が太極であり、すなわち1である。どちらにも分かれない融合した、どちらも受け入れた状態で有る。
二進法ではONの状態である。ONは太極である。全てが躍動的に混沌と動く。
ONの原動力は、OFFにある。OFFがONを生み出す。このギャップがあるから、1がある。
0から1へのビックバーンは、とてつもないエネルギーである。
太極拳はそれを生み出す武道である。
木々から漏れる日は、木々が風に揺られて、陰を一瞬にして日向にする。その陰の世界は一瞬にして光の世界に一変する。
また、逆に、光の世界は一瞬にして陰の世界に変化する。その世界は世界が反転するのであるから、とてつもない大きな変化である。しかし、木々や風の勢により世界が反転したとしても、結局は光の源にある太陽の仕業である。
太陽はただ無為に自然に光を降り注ぐ、そこには神(しん)も気も精もない。すなわち0である。
最後には1を練っていくと、0になる。完全な楽しさと、喜びが一瞬たりとも無くならない状態になる。なにがあってもである。
00完全なる無。これが全てを含むOFFである。OFFはONを生みだし、その強弱などの陰陽の変化を生み出し、それらを固定する制御まで全て生み出すことができる。それら全てがあるから、現象もある。
太極拳は、太陽として、木々の木漏れ日を、ただ自然に司るものである。
太陽を自分に置き換えて、日向や日陰を、套路の心身の自然な動きで生み出しているような感覚を得る。
存思には瞑想の以前に、想念という段階がある。
色々な感覚に浮かぶ想念は、自らの動きとともに世界を描いている。
それを観自在(自由自在に観察する)することが、想念太極拳である。
想念太極拳は内丹を練るのには最適である。想念は現象を感受する段階であるからだ。
太極拳の朝の套路は、太陽から始まり、木々の木漏れ日とともにあり、最後にまた太陽に戻る。

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