練神還虚

内家拳の武術家の中には、心の赴くままに意識を練っていくと、心と意識と一つになっていく状態を「練神還虚」と教える人もいます。しかし、武当派でそうではありません。

「練神還虚」とは、「神(しん)」という人間の深層奥深くにある、人間が生まれる前から持つ存在の為のあらゆる情報で、生物以前の例えば素粒子の時代からの、人間の個性以前の本質と考えられているもので、その無為自然の本質に併せ練っていくことで、自分の心身、個性などが虚という無為自然の本質と一体に成っていくという段階のことをいいます。道教や神道、インディアンなどと同じアミニズムの思想と同じです。

心と意識が一体であることは儒教にある誠(せい)と言って大切ですが、その心という人間の一部、そして心身一如として、体も含めて虚に還ることを目指すのが、「練神還虚」の段階であり、太極拳の修練でもあるのです。

決して、心の赴くままに意識を練っていくことそのものが、「練神還虚」ではないのです。この基本的な理解がないと、全く修行を間違えてしまいます。太極拳の修行の基本は人間の心以前にある、儒教で言えば仁という愛の精神の源にあります。ちなみに仁丹とは、その源の未知なるものの物質化への象徴でもあるのです。

すなわり、「練神還虚」とは、心身を練って心身を無為自然と一体に戻すことを言うのです。

意識とは、その上でのことであり、考えてみれば分かりますが、意識もその意識する人間の心次第なのです。すなわち有為なのです。

「練神還虚」は元々は内丹の修行段階の言葉です。

まず最初の段階では、精という人間の生存を構成する基本的な物質を、気に融合させていくことを練精化気といって元気が出てきます。

その気を、無為自然の神(しん)に融合させていくことで、万物と一体になったような気力がみなぎってきます。そこでは、気があること自体が楽しくなってくる。練気化神の段階です。

そして、元気な心身と、楽しい無為自然が一体となって、元気で楽しい、精力あふれ、気力あふれ、万物と一体で楽しい不安も不満もないおおらかな、練神還虚の段階に向かうのです。

このように、心の赴くままに意識を練っていくと、心と意識と一つになっていく状態を「練神還虚」というのとは全く違っているのです。

心がどの様に赴くか、全て意識にかかっているのであれば、本末転倒になります。

「練神還虚」とは、その心の動きの元になる陽神(気で意識される肉体)を練り還虚することであり、そこで始めて心がどの様に赴くかということになのです。いうなれば修行の結果、意識がそのようになるだけです。

心は、多様性があり、先天も後天も含んでいます。陰も陽も、全ての現象に関わる情報そのものです。それを精と神によって動かす。それを精神といいます。精と神が一致していれば、心もその一致した心。 精と神が一致していなければ、整合性のない心。 気はそれをつなぐ重要な役目と、それを融合させるものとなるのです。

精神で動かされた心が「意」です。心は素材であり、基礎であり、ありとあらゆるものを含んでいるのです。仏教ではその動きを知ることを「識」といいます。その心の動きを自分で認めた部分を認識といいます。

修行はまず、基本。そして、練精化気・練気化神という段階を経て、練神還虚があるのです。

その段階も知らず、心の赴くまま意識を練っていくという考えは、自我にまみれる金欲 や虚栄などの無常に染まり赴く心に、有為で自我の意識が融合していく姿を想像すれば目に浮かぶように、あまりにも安易としかいいようがありません。

意識を心に合わせる前に、まず無為自然になることが大切です。意識すら捨てるのです。無為自然になれば、自然と心も意識も無為自然になるのです。それが太極拳の意識であり、そして単なる結果です。

練神還虚とはあるがままに全てが戻ることです。それから、その心の赴くまま意識を練っていかないと、全く武道でも健康術でもない逆のものと大欲拳は化してしまいます。

これが太極拳を始めるための基本なのです。基本を間違えると、気がついたときには手遅れになるのです。 有為な意識がふくれあがって、重たくなり、手がつけられなくなり、心身を病むのであり、これも、心の赴くまま意識を練っていくことによる悲しい現実なのです。 これを練神還虚とはとんでもないことです。

煉神還虚は、心静かにすれば分かるとか、分かるものには分かるとかというものではありません。心の赴くまま意識を練っていくなど、意識が修行されていない結果であるのに、その意識を使って太極拳を動けなどというのは全くの誤魔化しと言い切ることもできます。

しかし、言葉は単にその経験やもっと言葉に出来ないものを、説明するために字という記号や音を使って意味を持たせているだけに過ぎないのです。

意識という言葉がどのような現実なのか、煉神還虚とは、意とは?など言葉ではなく、その理解と共に多くの経験を繰り返していくことが、太極拳の修行なのです。

 

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