「霊機於頂」太極拳は考えない。

考えないで行動するなとよく言われますが、太極拳では考えないで感じたままに反応することを練習します。

人間はまず感覚をもって、何かを感じます。そして、それから、視床下部のある古い脳の奥深くでその感覚を受けます。感受と言います。

音楽などは感受を主に働かせるので、奥深い脳が活性化します。

感受を受けてから想念という、考えの前にある念が生まれます。まだ考えとして意識に出ていません。

これは例えば好き嫌いなどの感情、愛情などが代表的です。トラウマやPTSDなどで植え付けられた感受は、ここで、心の奥深く気づかないところで想いとして芽生えています。そして、その気づかない想いが言動に表れます。いくら考えてから行動しようとしても、既に表情や体調、仕草などに現れてしまうのが、ここで言う言動です。その本来の心と違う行動をしようとする場合は、考えないといけません。考えることもこの社会では必要とされているようですが、実戦としての武道では役に立ちません。私は社会でも心に思ったまま考えずに行動できるように修行しています。

太極拳は、ここまでの一連した感覚・感受・想念・言動(業)までを太極拳では反応として、わざとして動くように修練します。

そこで、以上の反応はその反応をしたものによって認識されます。その認識は自分自身で反応について感覚も含めて総合的に一つの固まりとしてメモリーすることです。それが観念です。今後はこの観念が、その後の外部からの刺激や、自分自身の心の中に生まれた刺激にまず反応しようとします。ですから、太極拳では、良い観念を持てる練習をするのです。それが套路です。又散手においても、ゆるやかに感覚・感受・想念を追いながら、邪念や固定された観念が入り込まないように、清らかに保つ練習をするのです。

これが、太極拳を練習するときに語られる「霊機於頂」です。

霊の清らかな人間以前の自然体のことであり、それには人間としての条件がないので、優れた不思議な傑出した素早い働きという意味もあります。機はあらゆる事柄のその機会です。相手から攻撃を受けたときも機です。大脳を使って考えるというのは相当な時間を要しますので、相手の攻撃に対して、頭で考えていたのでは間に合いません。しかし、人間には人間が原子だった頃からの素晴らしい智慧が受け継がれています。太極拳はそれに全てを託す修練と言ってもいいものです。

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