あるがままに

本当は最も簡単なはずなのに、難しいものです。

本当は最も楽しいことなのに、不安で苦しい。

しかし、本当は最も簡単で、楽しいことであることを。見つけ出すことが出来ればこの世を「あるがままに」生きることが出来る。

人間があるがままに生きることが出来れば、ほとんどの他のものはあるがまま生きているので、とても素晴らしいあるがままの世界が必ず戻ってくる。

太極拳を真に修練するものは、そのようなビジョンを心の中に描いている人が多い。

達磨大師はそのような世界を現世に蘇らせるために、中国に入ってきて、少林寺で神気精の収養法を説き、同時にその収養法として拳法などを教えた。
このエピソードは、達磨大師の神(しん)と気と精が完全に一致していることを示すものである。

心が認識する現象は、その人の認識情報によって描かれた現象である。色とりどりである。
神が知る現象は「あるがまま」である。中には何もない。空っぽである。
色とりどりに見えるシャボン玉は、中は何もない。
しかし、中は何もなくても、人間が見ると色とりどりで美しいシャボン玉にもなる。美しいか悲しいかも自由である。自由であるから、何もない。
全ての現象は実際に有るものではなくて、空である。

強姦強盗が見えているシャボン玉はどの様なものか?
しかし、それは空である。

その見えている色も、その中の空洞も、全ては神(しん)から生まれている。

神(しん)を親とすれば、色も空も神の子どもである。

神(しん)すなわちあるがままでいることが出来れば、とてつもなく大きく、強盗や強姦でも、それらの全てを包括し融合することが出来る、その感覚は確かに経験するとよく分かるが、普通は生死をさまよう目にそう簡単にはあえない。

それを修練するツールの一つが太極拳であり、とても優れている。
実際「あるがまま」に、この条件だらけの現世を生き抜くことが、最も優れた修練法であるが、普通ならたぶん大変な目に遭って、へこたれる人がほとんどでしょう。太極拳をやりながら、実生活であるがままに生きてみる。

実生活を戦いと見て楽しんでみるのもとても面白い。
私は子どもの頃から「あるがまま」を掲げて戦い抜いているが、今はそれがとても楽しい。
太極拳の戦いはすなわち和合である。宮本武蔵の戦いと同じである。
自分のあるがままで、相手を包括融合するのである。すなわち戦い=親子のように仲良くなるである。敵と思ったときにお互いが傷つき。親子と思ったときにお互いが融和する。

楽しくて、簡単で、人間としてあたりまえに存在できる。
「あるがままに」だからこそである。
「あるがまま」以外のものは「必要!!」ではなくなる。

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