太極拳は筋と骨を使う

太極拳は神気精の一致で発勁となります。

精とは人間が人間として持っているものです。肉体と精神の全てです。

それは、老若男女であっても、持ってる物はなにも変わりません。

精とはその人間の基本的構造、例えば、筋繊維の数や細胞の性質、骨の数やその性質、脳の造りやその性質,その他の生理的性質など全てのことです。

この基本的構造はたとえ赤ん坊であっても、老人であっても、男性であっても女性であっても変わりません。

厳密に言えば、多少の差があったり、病気やけがでの差異はありますが、根本的なところでは なにも変わらないのです。

そのような変わらないところを使った武道が太極拳なのです。自分の変わらないところの構造や性質を精として,森羅万象にて変わらない神(しん)をエネルギー伝導の気を遣って一致させるのです。そこで相手の精も同化して、自らの神気精で相手の精を凌駕するのが、太極拳の技です。

鍛えて太くなった筋肉の肉の太さや長さを精としてとらえて、それをどうにかしようとすると、同じような筋肉の太さと長さが必要になってきます。
年齢でも男女差でも筋肉の太さは変わってきます。そのような変わる物を使えば、男女、身長、体重などで差がでてきて有利や不利が生まれてくるのは当然です。

太極拳では、精の中心には年齢や男女によって差のない筋と骨の構造と性質を使うのです。 その筋骨を使って勢を精に伝えていく気順を練習します。

筋骨は一体になって、筋は気により神からの波動を受けます。それが差異なく一致したとき神の波動は筋骨を動かすのです。それが発勁です。

神は人間の生命力以前の生理のようなものです。生命が生まれるときの発現のような純粋無為な意(い)です。

よく鍛えた筋肉の肉の方に精を伝えていると、骨を筋で動かすことがおろそかになります。太極拳では拙力と言ってこの力を区別します。遅くて固い弱い力としています。骨を使うようにするには、筋肉の収縮によって起きる力を筋肉に感じていては、骨を実感することが出来ません。 套路などでそれを確認してみるとよくわかります。

太極拳では放松という言葉を使いますが、このように力を抜くためには、骨に勁を感じることが大切です。骨には神経も筋肉もないのは当たり前で、そこはもともと硬い骨であり、それ以外のものを解き放すことで放松というのです。筋骨の力は勁として早くて柔らかい強い力としています。

筋は衝撃などの吸収や、安全のために備え付けられた、綿布団のようなものであると考えます。綿の中に筋骨という針があるのです。筋骨には意が備わっています。

太極拳は綿拳とも呼ばれることがありますが、これは太極拳がそのような性質を持っているため,一部のものがそのように呼んだのですが、綿拳は独立して新興中国武術の中に育っているようです。

どちらにしても、太極拳では意識を捨てて、骨に力をもたせ、筋により発勁を起こします。これが一体になって身体を動かすことになります。

勁の通る道は勁道であり、勁道は経絡と経穴に通り抜けるエネルギーを使って勁が通る道です。

そのしっかり通る道を太極拳の套路などで思い出しておくと、肩こりや腰や膝の故障とは無縁になります。

自分自身の放松や,経絡や経穴の気の通り、そして勁道にある勁の強弱などを,太極拳の経験により多く思い出しておき、本来の己を知っておくと、相手の己も一目見るだけでわかるようになります。

どのような環境で、例えば、自分が静であろうが動であろうが,陽であろうが陰であろうが、虚実のどちらであろうが、放松と、勁道、そして変わらないものは変わりません。

このように、太極拳は、どのような状況でも、そして老若男女同じように武道として使えるのです。

年を取っても太極拳が武道として成り立つのは、このような理由です。