太極者無極而生。陰陽之母也。

人間は生物である。
しかし・・特別な生物になりたがる。
例えば、新しい道路ができる。道路ができて便利になると喜ぶ。
しかし反面はそこに住んでいた人が立ち退かなくてはならない。
その話を聞いた人間がこう言う。
「そこに住んでいた人はかわいそう。」「もし、あなたがそこに住んでいたら立ち退くのはいやでしょう?」
こういう。
だから、道路ができたからって喜ぶのは不道徳だと言い始める。
これが人間である。
自分が例え、昔は森であったマンションに住んでいようが、車を乗り回していようが、森をきり開いた線路に走る電車に乗っていようが。
そこには木々や草花や小さな命たちが住んでいた。それを取り壊して奪い取ってただ楽をしているのである。
それなのに、立ち退く人間がかわいそうだ。という。
たしかに人間で考えると、不利益を被るのはかわいそうだなと思う。住み慣れた場所だろうとも思う。もちろん私も人間のエゴで不利益を被りたくない。住み慣れた場所から離れたくない。立ち退いて不利益を被り、愛着を損なうなら、私はかわいそうでしょと人に訴える。立ち退きを拒否する。ただそれだけである。そうすれば人間として得をする。愛着を損なわない。そう。私も人間である。
人間は人間である。道路ができるから立ち退く立ち退かない、喜ぶ悲しむ。勝手にやっていれば良い。そう、自然たちはただそこにいる。
私はまた自然でもある。
高速道路ができたから立ち退くのは嫌だ、もっと利益をくれ。愛着があるから離れたくない。人間として。少なくともここに無為自然の道徳も万物の善はない。
ここに善があると思ってしまうのが浅はかな人である。
またそれを人に顕示するならより愚かである。それに気付いたときに、恥ずかしくなるのだろう。気付かないなら救いようがない。
住むところを追われようが、不利益を被ろうが、私たち人間はすでに多くのものの住むところを追い立て、不利益を与えている。不利益どころか、命をも奪っている。
これからも私は人間としてこれらを行いながら参加しながら関与しながら生きていく。だから、自分の足下に気付かず人間本位の善を振りかざすのは恐ろしい。
人間本位が善であるとしてその社会性を身につけて振りかざすのは醜い。だから、自分本位の偽善を戒める。偽善の底には恐ろしい無視がある。自分本位、人間本位の完全な無視がある。その無視が万物に多くの悲劇を生み、生物たる人間にも環流する。
人間はまず偽善を見つめ直すことから始めることだ。
来年の決意は人々の偽善を知らしめていくことをワークとする。
最後に私はとても卑しい、同時に高潔な人間という生物である。
 陰と陽を不二にしてもちあわせる万物。人間も何ら他のものと一寸とも変わることのない森羅万象の一物である。
その万物の創造主の無を思い出すには、陰と陽を和合して母となる太極を思い出す以外にない。我の陰と陽を全て受け入れる。これが太極思想の根本である。
太極は無極にして生ず。陰陽の母なり。

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