光溢れる生命の時期のように

taichisoul 太極拳における動作は、無為自然の純粋な心、即ち「神=しん」がエネルギーの働き「気」によって、ありのままのあたりまえの色(現象)、即ち、色、声、香、味、触、法(法とは質のこと)という六境(六つの対象)を、感覚器官である眼、耳、鼻、舌、身、意(心の働き)という六根(六つの感受器官)で受容したありのままをもって、行として動くものである。行は慣性、すなわち勢いである。六根は例えば眼であれば、視神経と眼球のように二つがそろって根として完全であり、眼球があっても映像を感受する神経が無いと眼の働きを成さない。「意」も同じで、心があってもそれが働かなければ「意」ではない。
 これらの六根が最初に受容した感覚は、ありのままであたりまえの現象であり、何にも染まっていない。これを無為自然という。これをそのまま感じて、行として発揮することができれば、太極拳の無為自然の行は完成である。感受は膨大であり完全である。最大の感受性を発揮する。
 しかしながら、人間は後天的に、認識による観念や概念を持ち、それが薫習されて、深層の心に宿り、仏教で言う阿頼耶識や、末那識、前意識、意識などにそのフィルターが根付く。そのフィルターによって、六根を捉え、それが、独自の眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識を持つのである。これが六識である。人は感覚器官で感受した原点が「根」であり、その「根」に「識」が影響しなければ、感覚は余すこと無く行に現れる。これを太極拳に於いて修行するのである。意識で動くなどは即ち本末転倒であり、武道に於いては考えるな感じろが常套であるのに、日本の太極拳では意識で動くがまかり通っている。意識することなど、瞑想に於いてさえ入り口にも立てない姿勢である。
 静かにして目をつむって一生生きていくつもりなら瞑想も良いであろうが、太極拳は動いていながらその修行を行う事により、高度な無為自然の「意」を思い出すことができる。
 私たちの太極拳には、その修行法が体系的に伝わっている。従って「導引法」と言われる。
 五根が感受したそのままを得ることができれば、その感覚は絶大である。
 例えば、「マリファナ」を吸うと、感受した神経から、それを意識するまでの経過にある神経伝達物質が鈍麻する。そうすると、この感受性は最大となり、全ての五感はありのままになり、驚くような世界を経験できる。考えたり、意識するまでの前の感覚だけが高まる。しかし、行為となる思考や行為に至る神経伝達も鈍麻するため、運動神経も鈍る。従って、感受性が最大になるだけであり、勢いも鈍磨する。しかし、後ろにいる人間の気配もわかるようになり、風が頬をかすめるだけで、そのいのちを感じる。虫の羽音が聞こえ、森の空気の流れも見える。自分の身体の内側に流れる気の動きも、相手の心の動きも感じるようになる。触れ合った肌は溶け合うように一体化する。後天的な意識も鈍磨し平和的にもなる。これが、「マリファナ」の作用である。しかし、太極拳の導引法を修行すれば、その感覚はいとも簡単に得ることができるようになり、又、運動神経も鈍麻することは無く、その感覚をそのまま行為に生かすことができる。だから、違法で、何らかの心身に害がありそうな薬物など使用することなどばからしい。薬物にそれを求めるより、太極拳を徹底的に心底修行することをお勧めする。そのメソッドは完全である。太極拳の修行はそれを目指すことで、般若心経にある「無」の悟りを得る。それを、漸法という。逆に「無」の悟りを得て、現実に活かす。それを頓法という。その総合的な無の世界を「無極」という。そこまで戻ることを「還虚」として修行する。
 このように、太極拳の導引法の場合は、感受性を最大にして、行(慣性、勢い)にまで及ぼすために、その運動や生理機能に至るまでの神経経路をクリアにしていく。雑念や煩悩などの意識の滞り、人体の生理循環における気血の滞り、気の渋滞による経絡の鈍麻などを、導引、行気、内丹や存思(瞑想)により解決していく。皮膚感覚は研ぎ澄まされ、八触という経験を得るようになる。八触を得るほど感覚が研ぎ澄まされれば、太極拳で重要な聴勁は神明の域に達する。その他の眼法は十目を得て、耳はあらゆる音を聞き、鼻は人の気の臭いを察し、舌は空気の味までわかる。しかし、根は感覚器官だけが研ぎ澄まされても、その神経が働かなければ用を足さないし、又、それが勢い(蓄勁や発勁)に即座にクリアに反応しなければ、身体の生理に用を足すことは無い。それらを総合的に訓練するのが、套路という素晴らしい練習法なのである。この理合を知って、修行すれば、心身共に有益なことは言わずともわかるはずである。
 太極拳は感受したそのままを、「行」という慣性に生かす武道である。慣性は勢いであり、これが無為自然の十三勢の原理である。医武同源を太極拳に求めるなら、生まれながらにして持つ先天の、最大の感受性と、クリアな心、そして素直な勢いを思い出せば良い。まるで子供の時の光溢れる生命の時期のように。

太極拳、十三勢とはこのようなもの

buto5 哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているライプニッツは、「昨日を背負い、明日を孕んでいる今日」と時空の観念を表現している。
太極拳は、四正手と四隅手で空間と時間を創造し、中定という自己の存在を主体として、四方を客体として和合した五行で生きる自分の存在を、無尽の縁起的関係を受け入れながら、ミクロからマクロまでの無限の空間と、無始無終の永遠の時間の中心に、その刹那に自分を置いている、壮大な一瞬の輝きである。そして常に有るものでは無く、移り変わっていくもの。
従って、太極拳はただ「楽しい」「気持ちがいい」、その感覚が結果として、その一瞬に表れる。
その結果が現れてこそ太極拳であり修慧、論じたことは単なる思慧である。しかし、結果が現れたところにこそ、その理があることを知る。それが全てである。修慧は思慧も聞慧も含む三慧である。因縁、縁起の和合である。
太極拳の形を師から真似る。聞慧即ち「守」。太極拳の理を教わり、それで動くことができるようになる。思慧すなわち「破」。最後には、あたりまえに一人で、ただ気持ちが良く、楽しく動くことができる。そこには結果としての「理」があり、結果としての「形」がある。
「形」を知って論じる事なかれ、「理」を知って論じる事なかれ、太極拳が楽しくなれば、そこに理と形があるに過ぎない。そうなれば、その理を話すことができる。形を表すことができる。その形は、見えているだけであり、次の瞬間には消え失せる。それだけである。しかし、全てのものを含んでいる。般若心経に言う。色即是空。空即是色。
時空と五行。十三勢とはこのようなものである。

太極拳のアファメーション「affirmation」

7023 目覚めた直後のポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」は、一日を全く違うものにしてくれます。
武当派の太極拳において、楊式の套路を早朝に行うのは、套路を行う事によって、自分自身を自然との一体として肯定することから始まります。無為自然の自分自身を肯定することで、一日はそのポジティブな自分によって流れていきます。

この毎日のポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」は、その積み重ねにより、科学でも証明されている神経を含む可塑性がある人体の生理を大きく変貌させていきます。人間の心身は可塑性を持ち、その変貌を内丹術では理論化しています。

導引法はその可塑性を踏まえて、ポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」の効果を最大限に高めるものです。

このように、真の太極拳は人間にとって自然との一体である自分に蘇らせるための、最高のポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」なのです。

その効果により、精神は一切の変化(易)に左右されることの無い、無為自然の状態を堅強に維持することになります。

このような効果を得るための、ポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」は、タオのエッセンスである「愛」が根幹にあります。その「愛」は無極であり、あらゆるものを受け入れることができ、またそれらと一体である自分の自己肯定は、強烈なる歓喜となるのです。

このような太極拳の套路を行うためには、太極思想にある真意を理解する事も必要です。太極拳には本来それらを体現する動きが含まれており、それを読み解くために太極思想やタオがあります。読み解いた真意は太極拳の套路の勢と一致したとき、真の太極拳すなわち導引法となるのです。

その導引法を学ぶには、それら全てが自分の内にあることを知ることができ、またそれを肯定することができるメソッドが必要です。そのメソッドには、套路の型を1つ覚えるにしても、綿密なる蓋然性が必要です。

その蓋然性は、経験と実証、そして、それを表現する理論によって形作られています。

本来このようなことが備わってこそ、武道(武それは道という意味です。武の道ではありません。)であり、太極拳もこれで人生の素晴らしい一部となるものです。

そうでなければ、太極拳という張りぼての代物に頼ることによる害は免れません。

私たちは、そのような太極拳の重く沈む本質を、軽く浮いている流行によって覆い被されて見えなくならないように、日々、真の太極拳を発信していきます。

知られざる手揮琵琶

syukibiwarozen 楊家の三世、楊澄甫氏が演じるこの型は、太極拳の中では最もシンプルな型に見える「手揮琵琶」です。以前に実戦空手の髙段者にこの型を披露したことがあります。その彼は前足の虚歩の場合の構えは、空手の場合は猫足だといい、太極拳の構えとは違うというのですが、とんでもない、太極拳でも虚歩の構えの場合は猫足ですよと説明したことがあります。また、手揮琵琶には弓歩の構えもあり、古式楊式太極拳の実際の套路の過渡式に含まれています。
  実際に手揮琵琶を使って、彼と技で攻防を行ってみると、彼はその効果をとても納得したばかりか、その日から入門して太極拳に深くのめり込んでいきました。
 しかし、近代において太極拳が套路として伝承されてきている中で、太極拳を行っている人たちの中で、手揮琵琶の虚歩の構えが猫足であることや、弓歩の構えがあることをを知っている人に会ったことがありません。私のところの道場では、招式、散手練習における手揮琵琶の虚歩の構えは猫足で、実戦練習では弓歩も多用します。しかし、套路においては一般の套路と同じく踵を地につけた虚歩で行います。この意味がわかると、この手揮琵琶を使った技を強烈な攻防一体の技術として使えるのです。套路においては、その攻防一体の勢いを涵養しているに過ぎません。套路は構えの連続した型ではないのです 。実際の戦闘術における勢を徹底的に練り上げる練習法なのです。従って、この意味さえ知らなければ、套路の本質さえないということになります。なぜ、前足の爪先が上がっているか?楊無敵と言われた楊式太極拳の創始者である、楊露禅の行っていた太極拳の本質に立ち戻ればいいのです。そして、その本質は実際の相対の招式を行って理解できるものです。当道場では、基本を身につけた後は、応用または武道でそれらを涵養していきます。

太極拳の経験を通じて変化する脳

buto 太極拳は、その経験を通じて根本的な生き方が変化します。この変化は、導引法という古代からのタオの修行によって伝承されています。導引法は、人間の心を、人間以前の自然としての生命心のある境地へ連れ戻すことにあります。それは、脳自体の能力を万物の能力に回復させることであり、その生命心の状態を「神=しん」と呼びます。そのような機能と構造をもつ脳は生理である「精=せい」の一部です。その生命心である「神」が万物に存在するエネルギーを使用して「精」を動かします。その時に生まれるエネルギーの動作を「気」と呼びます。「神」が「気」によって「精」を生かせるのです。人間においても、自然においてもそれは同じです。天は天の生命心によって気が動作し自然に宿る精が生きるのです。花の精、石の精、全ては同じ原理です。精は神によって起こされた気の影響を受けて変化していきます。その変化は「易」です。このように、人間は様々な経験をしますが、太極拳の導引は自然の生命心による経験です。その自然の気により精が変化します。すなわち脳や体、血液、リンパなどがその「神」に対応するように変化するのです。体中に巡る神経系も同じように、常に機能的、構造的な変化を起こしていくのです。太極拳はこのような、経験的実証によりそれを古くから発見し、導引術で「神」を、行気で「気」を、房中術で「精」を無為自然に回復します。

最近の科学では、神経の可塑性などが科学によって明らかになりましたが、導引法による太極拳の修行法の根拠の一部が科学的に証明されたに過ぎません。

神経の可塑性
神経系は外界の刺激などによって常に機能的、構造的な変化を起こしており、この性質を一般に“可塑性”と呼んでいる。神経の可塑性は大きく3つに分けられる。1つ目は脳が発生していく時や発達していく段階にみられる可塑性。2つ目は老化や障害を受けた時などに神経の機能単位が消失するが、それが補填・回復されていく場合。3つ目は記憶や学習などの高次の神経機能が営まれるための基盤となっているシナプスの可塑性(synaptic plasticity)である。特に神経科学にとっては3つ目が重要で、その機構についても徐々に明らかにされている。記憶には、短期記憶と長期記憶があるが、短期記憶は主にシナプスでの伝達効率の変化により、長期記憶はシナプス結合の数や形態の変化により達せられると考えられる。

(今西二郎 京都府立医科大学大学院教授 / 2007年)

引用元: 神経の可塑性(しんけいのかそせい)とは – コトバンク.

簡化二十四式太極拳について

kanka24image 現在、世界中で普及する太極拳は、現在の中国政府が健康体操として制定したもので、制定太極拳とも言います。特に簡化二十四式太極拳は最も普及しています。
 しかしながら、古武道である太極拳を制定して体操化した時点で、武当山の内丹修行者の導引術として発達した「宗門の行」である多くの技法は全く失われています。
 特に楊式の太極拳を基にした二十四式や八十八式の制定太極拳は、形だけが残され、「宗門の行」として行われていた太極拳と形はほとんど同じですが、歩法や勢い、気の発し方、型の繋ぎ目、型の動きなど全く違うものになっています。
 簡化二十四式は腐っても楊式の太極拳の形を残しており、誰でもが簡単に動くことができるもので、太極拳の入り口として最適です。
 しかしながら、体操のような太極拳の形をまねたとしても、多くの普及型の太極拳愛好者に、腰や膝、首などの故障する人が多いのも実情です。
 本来の太極拳は、座って坐道で自然体と中心を練り、立って腰と股、膝と首などの捻転を練り、気の通り道を経絡により練り上げて行きながら、套路という総合練習を行うものです。それらをおろそかにして、ただ単に体操として太極拳を行うのであれば、太極拳の皮だけを被った体操としか言えません。
 書籍「簡化二十四式太極拳で骨の髄まで練り上げる技法」は、とても深くて難しい領域を最初から練り上げながら、二十四式といえども、優れた導引術を身につける入門編です。
 独特であるように見えますが、今日本で普及している現在の中国政府が政策として制定した太極拳自体が、「宗門の行」である古式の太極拳から見ると独特であるとも言えます。この書籍を教本として太極拳を学べば多くの理解を得るはずです。
 現在、簡化二十四式などを学ばれている方は、今の形をせっかく覚えたのですから、動きがやや違うから、独特だなどと排除せず、その形の内にある骨肉を身につけることを求めれば、形も荘厳な内容のある質の高い太極拳に練り上げることができます。形に拘らず、太極拳は十三勢と言われている「勢い」を根幹とする武道ですから、その勢いを得て結果として形があることがわかれば、自ずから古式の素晴らしい真の太極拳の形になります。

護身

IMG_0085 ひ弱な女性や、年配者にとって、強力な筋肉と打撃力をつけて身を守ることなどナンセンスです。

 私の弟子の30代の女性たちを筆頭に、ほとんどが小柄でひ弱ですが、初心者でも強烈な護身能力を持っています。
 本来の太極拳は、寝たきりのおばあさんがとても重いタンスを火事場から持ち出したような、火事場のクソ力を、平常心で引き出す訓練をします。
意識的に鍛えた力は、潜在能力(無意識下の能力)の約10%程度しか発揮できません。
 母親が走る車を突き飛ばして子供を助けたというような話は、もう今や当たり前にあります。
 太極拳は、人間として生まれたときから、人間としての、また生物としての(生物の動きを人間の体のうちに見つける勢い)、物質としての(人間が宇宙から始まり物質としての性質もあること)の基本的勢い、人間の体の制約による反射や物理的運動の基本力学を勢いとして訓練します。
生まれながらの勢いは、日常絶え間なく無意識に働いています。しかし、約10%程度しか使用していません。
 しかし、子供の時にだだをこねる勢い、誰かに捕まりそうになると突っぱねる勢い、咄嗟に身を避ける勢い、転びそうになると元に戻そうとする勢い、数を上げるときりがありませんが、日常的に無意識でただ生きているだけで、いざというときに能力を上げて働いています。
そこで、その潜在能力を利用しようと、中国の武当山で開発された拳法が内家拳法であり、後の武当派太極拳です。
それにより、ひ弱な女性でも、頑丈に意識的に鍛えた筋肉やその強さにも簡単に勝ることができます。
 ニュートン力学のエネルギーは質量×速度の2乗であるのであるのですから、ひ弱な女性は筋肉の力やその質量を何かで補う必要があります。
 まず、徹底的に体重を無から100まで移動させる訓練を行います。これが太極拳の分虚実です。
そしてその体重がある一点(三尖)という発勁点まで100%伝わる(三節)訓練を行います。
そして、刺激を受けたらすぐに反応する無意識下の感受を使って超速に反応する訓練をします。(無為)
そして、最も小さい発動である、仙骨前の丹田という力点を使用して、骨が背骨しか無い腰を振動させて超速の動力を生み出します。(鬆腰)
これらは真の太極拳を学ばないと会得できません。まだまだ、それらを補うどころか凌駕する理合により太極拳は成り立っています。
そうするとどうでしょうか、50kgに満たない女性がある一点に100%の重量を集め、すなわち全体重をその発勁点に移動し、その速度を極めていけば、ニュートン力学のエネルギーの通り恐ろしい力を発するのです。これが発勁です。そして、その上徹底的に、急所を打つ技術を極めます。
そして円転する動力の再利用は、均衡反射の動力を鍛え上げ、太極拳独特のエネルギーの連鎖を生みだすから、絶えること無くその動力を使用できるのです。
護身術はひ弱な女性でも使えないと全く意味がありません。意識的に筋肉や拳を鍛えても、潜在に眠る能力を利用できなければ、いざというときには、強大な力を持ったプロレスラーも、ひ弱な女性に簡単に負けます。
関西で1万人以上の暴走族の長に立ち、恐ろしくケンカが強い小さな体の若者がいました。高速道路で、その人の車に乗せてもらうと、キャロルの音楽を聴きながら、まるで踊るように車と車の間をすり抜けるように走り抜けます。とても楽しそうです。その当時は、テープレコーダーだったので、何度も聞いていたのだろうと思いますが、テープが伸びていると、運転が乱れ、「おっとごめん」と言われ、ひやっとしたのを今も覚えています。彼の戦闘もまるで踊っているようで、相手が十人いて、鉄パイプを持った大男でも、彼には赤子の手を捻るようなものでした。
太極拳は、生まれながらにしての無意識下にある能力を最大限に引き出す訓練を行うのですが、それを邪魔をするのは、固定概念や条件的意識です。
だから武道は無を求めるのです。無を得れば、無意識下の能力を余すこと無く使えるようになります。火事場のクソ力を当たり前に、いざというときに使える訓練をするのです。子供の時に体にみなぎっていた勢いを思い出し、最大限に増幅し、それを使えるようにするのです。少しでも頭に意識が上れば、その意識により自分のクセや、今までの多くの運動条件が作用し、動きは沈滞し、その上、相手の体や人生を気遣い、社会的制裁が頭をよぎり、前後のことを意識し、ブレーキがかかるから、潜在能力は使い切れません。従って、太極拳は徒手戦闘術で有り、完全なる護身術で有り、格闘技では無いのです。
格闘は、格闘のための技術ですから、意識的に鍛えた技術のぶつかり合いを勝負するだけであり、定められた条件で格闘をして、その優劣などを決めて楽しむものです。
太極拳は宮本武蔵が生き抜いた剣術と同じで、本当に相手と殺し合いをするから使えるのです。柳生新陰流も、相手を殺す戦争の術として幕府に認められたに過ぎません。そうでなければ剣道になるのです。叩いて一本です。刀で相手が斬れる、それも急所を斬るから、柳生新陰流という剣術があるのです。従って、突き刺すなどの危ない技術も本当に危険なときに、徒手で使えるのも柳生新陰流なのです。柳生新陰流の勢で急所を徒手で突かれると、太極拳の点穴と同じような効果がありますが、点穴の代わりに剣先があるので、徒手を刀のように鍛える三節も必要でしょう。しかし、柳生新陰流には突きの技術に「尖」という技術があるので、徒手でもそれが使えれば点穴を使えます。転という円転から打ち出す突きは太極拳の三節三尖技術と同じです。
太極拳も同じで、いざ自分が襲われ、自分の大切なものを命がけで守るときに、相手の命を奪うことを止むなしとして使用するだけの破壊力を出すようにできあがっています。
太極拳でも散手対打をしますが、解法という特殊な技術を身につけながら、その発勁をまともに受けないように練習します。もちろん打つ方は、意識を使って制御しますから発勁も出ませんが、無意識に発勁が出ると危険です。その練習の中で、意識しないで考えないでいると、発勁点まで勁が到達することを覚えます。その発勁の感覚を覚えれば、その感覚を毎日の套路で繰りかえし、その勢いと発勁を練り上げます。そして、昼間は単錬の快拳でその実際を練り上げます。無意識下にある潜在能力を絶えず鍛え上げておくと、いざというときに現れる無意識はいつもの無意識なので、意識はそれに対して驚きもしません。すなわちパニックになりません。絶えず、危険な場面を練習で創作し、その時に現れる無意識を知り、その無意識を利用できるように訓練しておけば、パニックの時に現れる無意識は、いつもよく知る無意識であり、またその無意識を利用する術を知っているので武器になり、その上安心であり、すなわち平常心です。
意識だけを極めて格闘する癖を付けていると、いざというときに現れる無意識に翻弄されます。意識だけを極めて訓練した格闘術は、意識を持ってしか使えません。無意識に動く、すなわち生まれながらの勢の勢いに気を与え、精(心身)に100%行き渡らせ、火事場のくそ力を当たり前に使える訓練をするのです。25、6年前、深夜に二人の男性に襲われ、路地に拉致されそうになった私の30代の弟子は、小柄できゃしゃでか弱い女性です。その女性が、相手の一人の男性を頸髄損傷させてしまいました。その男性は下半身麻痺になり一生身障者になってしまいました。もう一人も鼻骨骨折の重傷です。その時のことを聞いてみると、思い出してみると数秒のことだったらしく、彼女は後から捕まれている男性の顔に、自分の頭の後頭部を無意識で打ち付け(教えていた、太極拳の海底針の発勁です)前から首を絞めようと向かってくる男性の腕に自分の左手を捻転させ、同時に喉に白蛇吐信(基本の発勁です)を虎口を開き打ち出したようだといいます。後に警察での検証で双方の話を聞いて、その通りのことが起こったことが確認できたそうです。相手が抱きつこうとする勢いと、後ろの男性の顔面を後頭部で打った反動で前に進む白蛇吐信は強烈で、後ろの男性はうずくまり、前の男性は数メートル飛び、その隙に逃げたそうです。男性の一人が彼女の働いている飲食店のことを知っていたらしく、後に警察から呼び出され事情を聞かれ、太極拳を習っていることを言ったそうですが、一笑に付されたそうです。その後正当防衛が認められましたが、彼女は太極拳をやめ、私の前からもいなくなりました。重く、彼女の人生にのしかかった負担は言葉で言い表すことができません。男性は暴力団の構成員で大学ではラグビーをしていた二十歳過ぎの若者でした。ラグビーで首を鍛えていなければと考えると恐ろしいばかりです。このような不幸が無いように祈るばかりです。
そこで、太極拳では危険を察知する感受性を高める訓練を行います。初歩では、気功などにある八触です。そしてタオの思想により、全てのことをありのままに当たり前に感受するという思想と、内丹によりその能力を高めていきます。それはセルフエスティームで有り、バウンダリーです。
当時は、彼女にこの二つの訓練をすること無く、ただ太極拳の技術を教えていたことが悔やまれます。
10年前から横浜で再開した太極拳の道場において、最近は、積極的に無意識の感受性を高め、すなわち自尊能力を最大限に高め、しきい値感知を極めるための思想訓練や、内丹術も行っています。これからは、危機に遭遇しない、危機を察知したらすぐに危険を回避する技能をも教えていきたいと思います。武当派の太極拳には、これらの技術も備わっており、相手を怒らせたり、翻弄させたり、意識をそらしたり、煙に巻いたり、嘘泣きや、嘘怒り、嘘病などの演技能力も太極幻術として鍛えていたそうです。それらの技術は、私がたまたま私の祖父達の生き様を見ていたために、悪い意味で身についていたのですが、王師と母のおかげで、それが円転して人を生かす幻術となりました。私は、これらの能力でどれだけ命拾いをしてきたか、本当に王師から教わった太極拳には感謝してもしきれません。

楊式太極拳と柳生新陰流の「勢法」

7023 武当派の楊式太極拳は勢いを重んじます。十三勢という基本勢があるため、十三勢とも呼ばれます。その勢が形に表れるのを「型」といい、型の連続が套路です。

 武当派では型のできあがりの経過を「勢法(せいほう)」と呼び、形という心身に現れる精(せい=心身)の結果は、勢いの表れであることを重視します。
 従って太極拳は、心意によって起こる気勢によって運ばれ、結果として形がある事で、気勢を陰、又は暗、形を陽、又は明として、双方一体として太極として考えるのです。
 一部の空手の流派や、形意拳の一部の流派などでは、形として現れる結果を重んじるため、見た目においては豪快で破壊力も鮮やかに見えます。明勁として表面に現れる力を重視します。下手をすると、その表面的な力に依存する傾向も生まれます。
 又、逆に、気勢のみを重んじるばかりに、その元にある「気」という目に見えない力に依存をする場合もあります。八卦掌の一部の流派などや、オカルト的な拳法、気功などスピリチュアルな傾向に走る懸念のある拳法もあります。
 日本における柳生新陰流も、剣術の型の事を「勢法」といいます。転(まろばし)という勢いは、太極拳の円転の勢と全く同じです。
 柳生新陰流は、日本にある他の剣術とは違い、まろやかであり、流れるような勢いを重視しているため、表面に現れる力強さでは、現代剣道や他の剣術には見劣りがします。
 いつごろからか、柳生新陰流の一部では「勢法」を「かた」と読み、それに「形」という字を当て、形に表れる結果を重視している流れもあるようです。
 どこの世界でも、陰陽合一の妙技を会得できない者達は、その片方の極を選び、それに依存して極めていくことで、安易な道を歩む場合が多いようです。
 太極拳には、暗明がそろって、剛柔が有り、虚実陰陽がそろっているのであるから太極拳なのです。太極拳には、快拳という暗明一体の練習法があります。そこには形意拳や八卦掌の形や気勢の全てが含まれており、お互いに暗明が融合しているので、形意拳のように表面的に明勁が形を描いたり、合気道や八卦掌のように、合気と暗勁だけで、勢いを描くこともありません。
 古式の楊式太極拳では、暗勁と明勁を一体として動く巧勁が、現在にも伝わっています。

違和感

違和感。
清々しい命(生命ではなく、刹那の命)、爽やかな性(先天的な人間としての性)、絶対的な理(何の相対的な条件も影響しない理)が丹、それ以外のものを違うと感じる、その違和感です。
美しい真珠を選定するときに、ひたすら美しい真珠を愛でてその命と性、その理を感じ尽くしてから、多くの真珠の中から違和感のあるものを感性で取り除いていく、そして残ったものが高潔な真珠として世に出て行く。

太極拳では、坐道(静坐)や存思(瞑想)でひたすらこの感受性を高めていきます。

武道においては、丹は内勁に有ります。この内勁に違和感のある動きを、武道練習の中で見つけ出し、それを消し去っていきます。

套路においても、この違和感は命を濁らせ、性を蝕み、理が合わず、型を崩し、丹を失い、勢を留めます。
相対練習においても、技を流し、自らが崩れます。自らが崩れると、自らの命、性、理が共に崩れ、内勁は育ちません。

内勁を教わることで、その内勁との違和感を感じ取りながら、自らの内勁を育てていきます。
すなわち、内勁には命と性と理が備わります。丹が備わり技も完成します。

実は、備わるというよりも、ただ思いだしただけです。元々にある先天の能力を。

丹が備わり、人生の日常においても、それに対する違和感を感受すれば、ただ道を歩いているときもあらゆる危険を察知し、人と交わるときも、その邪を見いだし破り、また違和感が無いものとはすぐに融合し、人を活かしていくことは、まるで内勁が備わる太極拳のようです。

このように、違和感というものは、丹を中心にして感受されるものであり、すなわちその丹を極めること、それが大事なのです。

そして、聴勁にしても凌空勁にしてもあらゆる発勁は、その感受によって発せられるのが太極拳です。
宮本武蔵が極めた枕の先。これも全て丹と感受の賜です。

違和感に無意識で動けるようになれば、太極拳も剣術も人生も神明に達することができるのです。