太極拳の経験を通じて変化する脳

buto 太極拳は、その経験を通じて根本的な生き方が変化します。この変化は、導引法という古代からのタオの修行によって伝承されています。導引法は、人間の心を、人間以前の自然としての生命心のある境地へ連れ戻すことにあります。それは、脳自体の能力を万物の能力に回復させることであり、その生命心の状態を「神=しん」と呼びます。そのような機能と構造をもつ脳は生理である「精=せい」の一部です。その生命心である「神」が万物に存在するエネルギーを使用して「精」を動かします。その時に生まれるエネルギーの動作を「気」と呼びます。「神」が「気」によって「精」を生かせるのです。人間においても、自然においてもそれは同じです。天は天の生命心によって気が動作し自然に宿る精が生きるのです。花の精、石の精、全ては同じ原理です。精は神によって起こされた気の影響を受けて変化していきます。その変化は「易」です。このように、人間は様々な経験をしますが、太極拳の導引は自然の生命心による経験です。その自然の気により精が変化します。すなわち脳や体、血液、リンパなどがその「神」に対応するように変化するのです。体中に巡る神経系も同じように、常に機能的、構造的な変化を起こしていくのです。太極拳はこのような、経験的実証によりそれを古くから発見し、導引術で「神」を、行気で「気」を、房中術で「精」を無為自然に回復します。

最近の科学では、神経の可塑性などが科学によって明らかになりましたが、導引法による太極拳の修行法の根拠の一部が科学的に証明されたに過ぎません。

神経の可塑性
神経系は外界の刺激などによって常に機能的、構造的な変化を起こしており、この性質を一般に“可塑性”と呼んでいる。神経の可塑性は大きく3つに分けられる。1つ目は脳が発生していく時や発達していく段階にみられる可塑性。2つ目は老化や障害を受けた時などに神経の機能単位が消失するが、それが補填・回復されていく場合。3つ目は記憶や学習などの高次の神経機能が営まれるための基盤となっているシナプスの可塑性(synaptic plasticity)である。特に神経科学にとっては3つ目が重要で、その機構についても徐々に明らかにされている。記憶には、短期記憶と長期記憶があるが、短期記憶は主にシナプスでの伝達効率の変化により、長期記憶はシナプス結合の数や形態の変化により達せられると考えられる。

(今西二郎 京都府立医科大学大学院教授 / 2007年)

引用元: 神経の可塑性(しんけいのかそせい)とは – コトバンク.

導引法

「小さな池の中にいる鯉。その鯉たちは、原気を解放しているのであろうか?解放したなら、この池をもてあますのだろうか?いや、すさまじい原気を他と融合させる。生き物たちは先天的にその理で生きている。我ら人間も生き物。その生き物たちのように原気の解放を思いだしたなら、同時に融合がある。それを忘れては元も子もない。それを忘れさせてしまうのが後天の病である。我ら人間が陥っている途方も無い病である。」

行き場所の無い解放された気を融合する、そして又新たな気を解放して融合させる、これが導引法です。

例えば息を吸い続けると息を吐きたいという気が生まれます。そして、その気を解放して息を吐くととそこで快感が生まれますが、続けて吐き続けていくと、同時に苦しくなり、今度は吸いたくなります。この繰り返しになります。このような状態は、気が高まれば高まるほど苦しさをただ伴います。これはあたりまえのことです。

そこで内丹は、無極という陰も陽も無い、極が無い世界を元々の源としてます。
呼と吸が一体となった世界、陰と陽が一体となった世界、気が膨張して高まる陽の世界、気が圧縮して静まる陰の世界を一挙にして同化することができるのです。膨張の場合は飽和。圧縮の場合は消滅です。

これをもっとも、素早く身につけるのが、太極拳の武道における発勁なのです。技の中でその発勁をしたときの快感をもって、経験的にその理を実証していきます。

無極における発勁が太極拳の技の完成の到達点です。実物としての相手と技を掛け合い、その発勁の瞬間を自分だけでは無く、他を同化して体験する。これが、内丹を極めるための最も早い方法であり、頓法と言います。

現実的に融合して技を完成させた感覚。これが大事なのです。その感覚を覚えた上で、その感覚を得ながら套路を毎日やる。家で静坐や站椿、内丹術をやる。又他のクラスでもやるも良しです。

内丹を身につけても、それは単なる手段です。我が身が健康になり、気が充実して解放されても、他との融合を得ることが無ければ、悶々ともてあますだけで無く、それらの気は行き所を失います。行き所を失った気は、闇雲に自らを傷つけ苦しめ、他者をも容易に傷つけます。そのようにして解放された気は快感と苦しみを伴いながら、矛盾を繰り返していきます。これを相乗・相侮すなわち乗侮の状態と言います。そして気ばかりが高まり、いつまでたってもその苦しみからは逃れることはできません。お酒を飲みたくなって、お酒をたらふく飲むと一挙に快感が押し寄せ高まり、同時に苦しみも伴うという感覚です。わかりやすいと思います。いつまでもお酒を飲み続け快感も高まり続け、苦痛も高まり続け、いつかは廃人又は病人です。ヨガであれ、内丹であれ多くの人が簡単に陥るところです。

武道で無くても、太極拳でその丹と、そこから発せられる気と勢いを実生活で他者と融合していけるなら、それがもっとも素晴らしいことです。しかしながらその実感はなかなか得ることができません。ですから理論や、知識だけで自らを満たそうとすると、より現実からの逃避と、気の解放の放置に甘んじるしか有りません。そこで生まれたのが太極拳などの武道にある導引法です。
ですから、その実感の積極的な現実として武道としての太極拳があるのです。真の日本の武道もそれらと同じ原理を目指しています。

技が完成すると、とても気持ちの良い快感と楽しさが生まれます。技ができなかったときの違和感や苦しさも無くなります。
ここで積極的にこれを身につければ、現実生活にあるあらゆる事象も同じように融合しながら楽しめます。攻撃してくる相手と融合して自らの勢とするのですから、実生活ならいとも簡単です。武当派では、そのような人法と言うべき陰陽術も太極拳としての武道の体系に組み込んでいますから驚きです。
そして、武道の練習では、何も考えずに、楽しくて気持ちの良い感覚で技が完成することを多く経験すれば良いのです。
あとは、そこで知った感覚を認識していくために色々な理論を知っていけば良いだけです。そこに無為自然があるのを発見するのです。真の日本の武道と同じですね。

又、太極拳の套路だけで丹と勢を得て、その太極拳の型を覚えたなら、それを実際に使って武道をたしなむこともできます。
これはその丹と勢の結果を知ることになります。これが漸法です。どちらにしても武道は、それらの結果を経験しながら実証して行く方法としては最適です。もちろん丹と勢のある套路を身につけて、その丹と勢を生きていくあらゆる事象の中で使っていくのも良しです。
気を全てと融合させる、これが最も大切なことなのです。そしてこれが気功も含む内丹術の行く境地です。太極拳はその地に導く優れた方法の一つ、すなわち導引法なのです。

タントラとしての太極拳

 王流の楊式太極拳は武当山で修養されていた内丹術としての行でもあります。

天地万物の構成要素としての気を、行気・運気・導引・存思・吐納などを修養し、身中の「内丹」を練り上げ、身心を変容させて、道(タオ)への回帰を目指し、性命を内側から鍛練する東洋の伝統的な修行法です。

『老子』第四十二章の「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」

根源たる「道」すなわち完全なる無。そこから先天の一気が生じ、一気は陰陽の二気と成り、陰陽二気は交わり,解け合い融合するようでふれあいながらの沖和の気を生じ、陰陽と沖和の三気から万物が生じます。
道からすなわちその象徴である神(しん)から気がが生じて,その気が陰陽に分かれながら交わって精を生み出すということです。

原子力の融合と分裂の仕組みと同じですね。また宇宙の化成も同じであると考えます。

内丹術は、人間が生成するときの順序も天地万物が化成するときの順序も当然として同じであると見るのが内丹術の考えです。

何も無いところから、陰も陽も何も無いところから、完全な無からまず神(しん)が純粋に生まれます。
その神から気が生まれます。神は一気。そして陰陽に分かれ二気になり。例えば、男女。陽子と電子。に分かれます。その一気の神と気が融合したところに精が生まれるのです。
精は生成のであり。人間であれば人間が生じて一気。男女として二気(例:アニマとアニムスで男女に混在)です。それが融合して胎児が生まれる。これが三です。胎児はまた神として一気になり。男女として別れ、三の生成を繰り返します。その循環を生むのです。

陰陽のもとは無です。陰陽が変転する太極は、どちらももとは無であるから太極なのです。すなわち人間という以前に自然であり、自然の中で精を得た場合に陰陽の気が生まれ、また自然に戻ろうとするのです。それが人の生死です。
一が二になって世に存在し、その陰陽が癒合しようとするのです。これが内丹で一に戻るということです。
すなわち、男女で言うならば、男女が融合するということです。沖和の気(愛情)をもって、神気精共に融合するのです。
これがタントラです。

このように、陰陽変転の基盤にあるのは、不易。変わらないもの。すなわち一なのです。一は無から生まれた最初の一気であり、元々は一つのものです。
それが分かれたから、一に戻ろうとするのです。変化をしない最も安定した状態に。無為で自然な状態に。
一が、二になって、すなわち神が気を生む。神と気は何も生み出さない。神と気が変換を繰り返すだけです。
純粋な心がエネルギーを生み出す。純粋な揺らぎがエネルギーを生み出す。
ただそれだけです。

無が無であるためには、有を生み出す。これが一です。一気なのです。相対性を生み出す両儀がここで生まれます。
純陽の中に一陰が生まれるのです。この一陰が純陰です。
一気は純陰。すなわち神は純陰です。無の純陽の中に一気が生まれる。宇宙のおこりのビックバーンです。
一気はここで二気になります。一つは神、そしてもう一つは気と呼ばれます。物理学では陽子と電子。すなわち総称して、陰と陽ですが、その変換は神が自らを知るために無を見ると無が陰になり変換するのです。相対性の理論です。

そして、その陰陽が混沌としながら移り変わるのです。これを太極といいます。

この別のものが交換しながら融合して一に戻ろうとする。二でなくなろうとする。完全に一つに戻ろうとする。すなわち沖和。これがタントラの行なのです。密教にもこの思想を簡単に表に出せないので、この部分を秘密にしました。男女の融合を神気精の一致として,二が一に戻ろうとして,三を生み出す過程として説明するには、ただおししようも無く、行に収めようとしたのです。密教のことはこれぐらいにしておきます。

そしてこの神気の二が、この世に現象を起こそうとするのです。新たなものを生み出そうとするのです。すなわち生成です。森羅万象を生み出します。すなわち易です。変化するものです。そして精が生まれます。人間なら、そこで人としての全てを生成します。

このように、太極拳は融合を求めることを重視するのです。それは陰陽和合であり、ひたすら一を求めます。
多くの武術は生成、すなわち精の生成を求めるようです。神と気から生まれ出た結果を鍛えるのです。収斂を続けます。そして後天に蓄えて、また分散します。この三を求めた場合は、充分な肉体鍛錬を欠くことはできません。しかし、最後には三も一に戻ることで武術の完成があります。

太極拳はただ一に戻ります。そして先天を取り戻します。
タントラもただ一を求めます。神気精が一致した融合を目指します。肉体的な鍛錬は、先天にあるものだけで良いのです。

太極拳もタントラも、最初の一気でひとまとまりに神気精を一に戻します。
最後の境地を一挙に得るのです。このような道を、タントラといい、太極といいます。

太極もタントラも、一挙に全てを手に入れます。
一挙に愛し合います。一挙に相手を融合して制すします。

太極拳もタントラ同様、頓法[急速に進む方法]ですが、全てが一致していないと、とてつもなく成就し難いものです。

そこで太極拳にはその成就のために、漸法[ゆっくり進む方法]として内丹術が用意されているのです。内丹術はゆっくりとその無から一・一から二・二から三・三から二・二から一・一から無の修行を理解していきます。

しかし、太極拳は一挙にそれを得ることができます。それを得ないと太極拳にならないからです。
タントラもそうであす。純粋に愛し合うことができれば、すぐに男女は融合できます。そこになんのこだわりがあってはならないのです。そのこだわりを捨てるために、太極拳でも道があるのです。タントラにも法があるのです。それを学ぶのです。

しかし、私たちは学ぶより経験を教えます。それが太極拳の経験です。

太極拳の神明を得るまでは,内丹と道(タオ)を一緒に学べば良いのです。また学ばなくても良いのですが、内丹の理解は経験と共に身につきます。

タントラも、男女が純粋に愛し合えるまでは、まず愛し合うことから始めるのです。なんのこだわりも無くです。タントラは、その中で、法(ヴェーダ)やヨガを学べば良いのです。密教では、空海がそこを明確に説いていますが割愛します。

このように、私たちが学ぶ太極拳は、タントラとしての太極拳でもあるのです。一挙に融合を得る。一に戻る。
それができないのであれば、私たちは太極拳とは言わないからです。

新羅万象を陰と陽から一に戻す力。これを愛と呼びます。凄い力ですね。

太極拳もタントラもこれを修行します。

才能

才能(さいのう) 生まれながら持つ神・気・精で、あらゆる物事を巧みになしとげることができる、生まれつきの能力である。

神(しん) 全てのものに存在する原質(純粋な心)。全体としての普遍性(全てと通じる価値観)。普遍性から揺らぎと共に気が起こる。発想(想いの始まり。個性になっていく)のはじまりとなる。
気(き) その原質から発生するエネルギーの動き。全体とその一部である個との融和。神(しん)を感じ、そのエネルギーはそれを感受する、感性の目覚め。

精(せい) そのエネルギーが作用する対象。人間であれば、精神と肉体。そこに、エネルギーによって想念や、思考、行為、言動が生まれる。

そして、その全てが認識され、心としてすなわち情報として蓄積され、精気神を心が顕在・潜在で意識する。

その精を気で練りつくし、その原質を神(しん)を見つけ出す心を知り尽くす。
そして、自分の原質を見つけ出し、歓喜と共に楽しくて仕方が無くなる。

そうなってしまえば、猫も小さな花も、雑草も、人間も才能には差はない。

太極拳はこの才能を発掘・発見するとても優れたツールであり、そしてその才能を使う武道である。

太極拳の発勁と三尖三節

「内の三合」 精気神 ・「外の三合」 手眼身 ———-以上を「内外六合」

精は手であり——–気は眼——–神(しん)は身である。

内の精気神の一致は、すなわち、手眼身の一致である。

太極拳の発勁の際の手眼身は三尖に通じ、相照する。「三尖相照」

神は身を震わせ三尖に向く

気が眼を光らせ三尖を見る

精は手(足)に三尖に爆発する。

三尖とは精気神の三が集中するところ「内の三尖」、手眼身が集中するところ「外の三尖」。

時空の内の「空間」の仕組みである。

「時間」の仕組みは三節(出発点・経過点・末端)(原因・因縁・結果)であり、三尖三節で、太極拳の発勁は完成し「懂勁」となる。

太極拳は意識で動くと他で教わりました。意識で動くと無為ではないですよね。

太極拳は意識で動く?そんなことをしていたら太極拳ではなくなります。
太極拳は無意識で動きます。

無意識とは何でしょうか?

無意識とは意識がないと言うことでしょうか?

実は違うのです。

意識には顕在と、潜在があります。そのどちらも意識なのです。

潜在にある意識が、自分では顕在しないで働くことが最も多く、癖や執着などに現れます。煩悩や見えない雑念なども全てそこにあります。

太極拳で言う、無意識とは完全なる純粋な意識です。無為自然と言います。

無為自然とは三昧は近いところにあります。太極拳三昧という境地で太極拳の套路ができるようになるまで修行するものです。

それを太極拳は意識で動くなどと言う間違った考えで太極拳をやっている限りは、その域に到達するのは難しいと言えます。

意識で動く間は、動きを覚える程度の場合です。初心者とっては大切でしょう。

しかし、いずれ心意のおもむくまま套路ができるようになります。ここで初めて動禅といわれるレベルになります。瞑想太極拳と言うこともできます。

座禅にも段階があるように、意識に浮かぶ想念を受け流しながら進む套路は、想念太極拳として分類し、ただ無為三昧において、動く世界を真の套路として考えます。

武道として実戦で使う場合は、太極拳は無意識の拳法です。

死にものぐるいになったときに、最も強い力として自然な動きを発するところは、深くにある生存と存在の力です。

そこから発せられる勢が、十三勢などと呼ばれている、勢です。何も13だけではありませんが。

套路において、純粋な三昧で動くことは至福の安らぎと、エネルギーを感じます。
気持ちが良くて、最高の歓喜のようなものがわき上がります。

実際の攻防の中では、いかに無心で平常心であるかということで、見える世界が変わります。
闘争本能をあらわにした場合は、交感神経が高まり、感受も視界も狭くなります。

私たちが行う、武道練習はいかに気持ちが良く、勢と勁にあふれたさわやかなダイナミックな動きができるかと言うことを練習します。

一人でゆっくり行う套路のように、いかにその状態で動けるかを、攻防で練習するのです。

套路の感覚が、攻防でも感じるようになれば、勢と気と勁の一致の完成です。

武道練習ではその一致をひたすら、多くの技の中で発揮しながら練習します。

套路と相対練習において、その差がなくなってくる事に、修行者のレベルが上がってくるのです。

套路と、相対の相乗効果が練習の成果です。

太極拳練習に準備運動はいらない。

どのような運動でも武道でも、準備運動というものを行います。

太極拳も練習の前には準備運動をおこないますが、実際に武道として太極拳を使うということを考えると、本来準備運動はいらないのです。

まず、太極拳の練習の前には、経絡を刺激する運動として、指龍という、五指を動かして体の気の通り道、経絡とその通過点の経穴の緊張をやわらげる準備運動を行います。

しかし、指を動かすだけなので、これが準備運動かというほどのものです。指龍は、厳密に言うと朝起てから、畑仕事やちょっとした家事、朝ご飯の用意をするときに、柔らかなリラックスした動きをして経絡がなめらかに刺激されていればいれば、もう練習を行う前には必要のない準備運動です。朝起きたときから自然と準備はできているということになります。

又、甩手と言う準備運動も行いますが、これも全く指龍と同じです。朝起きてリラックスして自然に身体を動かしていれば、甩手をしているようなものです。ただこの無為自然という身体の動きがなかなか実感することができないので、太極拳の套路などでその動きを思い出すことが必要なのです。

普段の日常生活で、普通の場合は、朝起きたときから緊張を含む動きがすっかり身についてしまっています。これらの緊張の動きは全ての病気の元凶でもあり、そう簡単にその癖が取れるものではありません。

太極拳を長くやっていると、自然なリラックスした動きとはどういうものか理解でき、上達するとそれが身につき、最後には当たり前になります。

しかし、まだ無為自然な動きを思い出していない内は、太極拳の動きを使って指龍や甩手などで経絡の緊張を緩和します。

このように、太極拳の練習をする前に行う準備運動は、本来は日常生活で朝起きたときから自然とされているはずのものなんです。

ただ、誰もがそのようにできているとは限らないので、練習前には全員で指龍と甩手を行いますが、実際に太極拳を武道として使えるようになるためには、朝起きたときから、もっというと、寝ている間にも経絡や筋を無為自然でなめらかな活性化された良い状態に保っていることが大切です。

本来は、準備運動などしなくてもすぐに練習に入れるというのが理想なのです。

このように太極拳の準備運動は、柔軟運動などではなく、経絡と勁道のなめらかさを呼び起こすもので、いつもそうであるなら必要がないものです。

太極拳などの武道でもし自身を守るとき、いざというときに準備運動をしていたのでは間に合わないのは当たり前です。

太極拳の動きは、何も相手が人間でなくても、例えば自転車がぶつかってきたとき、階段で押されたとき、地震にあったとき等々、色々な事故に合ったときに役立つ動きです。

準備運動で暖まった体でないと使えないような武道では意味がないと言うことです。普段の状態の体で使えるのが太極拳なのです。

太極拳では、徹底的に無理な力を抜き、自然な状態で力(勁)の出やすい状態を思い出しておきます。

肉体をほぐしたり、筋をのばしたり、身体を温めるための準備体操をしてから、太極拳の練習をすると、それが癖になり、そうでないと十分な動きができなくなるという弊害が出てきます。

それは、肉体がほぐれていない時とほぐれている時、 身体が暖まっていない時と暖まっている時、筋が伸びていない時と伸びている時とは、全く使う筋肉や神経系統も違うからです。

スポーツや格闘技では必ずといっていいほど準備運動が必要です。

しかし、武道はスポーツや格闘技の競技や試合のようにその時まで待ってはくれません。いつでもどのようなときにでも同じように動けないと意味がないのです。普通でない、例えば身体が暖まったり、筋がのばされたり、肉体をほぐしたりした後の心身は特別なものであり、本来の人間の普通の機能とは違って、いずれ衰えたり消滅していくものです。

このように、変化しない普通の状態でできるだけ多くの練習をするのが太極拳です。

私たちが、歩く前に準備運動をしないように、当たり前の普通の状態をしっかりと思い出しきっておくだけでいいのです。

その練習が太極拳の練習なのです。ですから太極拳の武道練習はいくらでも楽しく練習できるのです。そして疲れないのです。

普通の状態で練習する、だから準備運動は本来は必要がないということです。普通の状態でないから普通の状態に戻してから、いわば緊張状態でないようにするのが指龍や甩手なのです。

套路の過渡式が太極拳の神髄

現在行われている太極拳の套路で、型の姿勢、ひどい場合には手の形や足の裏の形などを正しく行うように要求があるとされていますが、実はその套路の型自体は、他の武道と同じく、構えもしくは、残心という、技の始まり部分と終了部分だけなのです。

もちろん構えと残心は大切ですが、その途中にある過渡式が実は技なのです。套路で行う技は基本勢による技が主体ですが、構えて技を練って技を終えて残心、そして連続技で套路が構成されている運用なのです。

一般に普及している套路は過渡式らしきものがありますが、前の構え(残心)と残心(次の構え)をただ連続させるためのものになっています。これは歴史上このようになったのであり仕方がないことです。(詳しくは太極拳の歴史をご覧ください)

従って、太極拳の套路を行うなら、その技の練習を多くこなしておかないと、構えと残心の間にある勢の練習などを套路でできるわけがありません。

体操としては良いでしょうが、套路の型は構えであり残心であることを正しく理解して、構えと残心の間にある技を多く練習する以外に套路が武術練習になるはずがないということです。

又、健康効果にしても、構えと残心をいくら繰り返しても、本来の内丹や動功になることもありません。

太極拳は武術ですので、構えて攻防を行って残心します。当たり前です。

その攻防の勢が一切ない套路は、武道ではあり得ない、構えから残心に直接移動するだけですので、途中のなめらかな勁道や、勢の巡りがないため、型も残心も安全な範囲に留めておかないと、関節や筋などを壊す原因になります。

套路を安全に行うよりも、ラジオ体操の方が安全な体操だと思います。制定太極拳は安全域の中で作られているのでほぼ安心ですが、伝統太極拳は武道だなどと思って動いてしまうと、多くの場合障害があります。

伝統太極拳も復興されて再構成されたものです。制定拳と何ら変わりがありません。

太極拳の套路を行うなら、しっかりと武術の基本練習をして、基本勢を身につけ、そして武術の技として過渡式をしっかりと含む練習をして、それから套路を繰り返して練習する事が大切です。

以上のように、構えから残心までの一連の動きを一つの技として使える事ができる者が套路を教えないと、その套路は何の意味もないどころか心身に障害もでかねないものになります。

制定太極拳をまじめに安全域でやることも良いかもしれません。私はラジオ体操の方をすすめますが。太極拳の伝統拳はいくら体操化されたとはいえ、まだまだ武術要素は形だけ残っています。

その武術要素部分を套路でやろうとすると、太極拳を武術として経験していないもにとっては無理があり、必ずといって腰や股関節、膝、そして首、そして経絡、そして神経系統、血流関係(特に心臓)などに無理がかかります。

套路をしているときには呼吸法を正しく行うと副交感神経が優位になり、とても気持ちが良いのですが、表面的な呼吸による引率による副交感神経優位ですので、日常生活においては、その後に交感神経が反動的に活発になります。そうなると、心身の神経系にも障害が生まれます。

一日中呼吸法を正しくしていれば別ですが、根本的な心意がその域に達していないと、そう簡単にはできるものではありません。どのようなときも平常心、不動心であり、武息という意識的な激しい呼吸も、文息という穏やかな呼吸の時も、はしゃいでいるときも穏やかなときでも関係なくです。

套路は、構えと残心の間にある過渡式の中に太極があります。太極とは陰陽の和合、すなわち、神経でだけいうと交感神経と副交感神経の混沌とした和合です。

一般的に普及している套路の型は構えと残心ですが、そこには極があります。リラックスしてできている人は副交感神経が優位になり、意識を入れてとか、形や姿勢にこだわっている人は交感神経が優位になります。

どちらにしても有極です。

瞑想太極拳と私が名付けている套路は、その過渡式の合極が大事なのです。それは武術として技を多く練って無為自然にその技が使えるようにならないと、合極など得ることができません。合極を得て動いている套路は見ればわかります。

太極拳が無敵だと言われたのは、その技の合極の拳理が武術理論として完全であったからです。套路で行うならそこは眠るような無の状態です。瞑想のような中で武術の技があるのです。

ですから、太極拳と呼ばれたのです。武当山の道家が太極理論と同じ動きが当然人間の心身にもあり、その根本的なもので攻防を行うことができることを、当たり前のように理解し、そしてそれを太極拳法として修練したのです。

ですから、陰陽理論とそしてあらゆる人間の心身の動きが一致している中で、太極拳の套路も武術も修練しないといけません。

しかし、一般的な套路が構えと残心に偏っている限り、そして、その理解がない場合は、太極拳の套路で健康になったり、又武術の練習の一つになる域に到達するはずがないのです。

王流 楊式太極拳の歴史

最近、王流楊式太極拳でも、自立厚生運動の広報の一環として、話題のツィッターやFaceBookなどに実名で自動的に記事が投稿されるように設定しています。

そのためか、数人の武術家の方達から、当王流の歴史を教えてほしいという要望がありました。

もちろん、私の師の王征(又は宗)家からきいていた歴史はとても明確で、近代中国史と共に、又私のつじつまを求める質問に答えるように、ことごとく違和感のない、つじつまのあった答えをいただいていたのでその歴史は知っています。

あえてここに掲載する必要もないと思っていましたが、大阪で師の代理で教えているときには、プリントしたものを配っていたときもあります。

しかしながら、私の師の武術は武道としてあり、又私もその歴史がどうであれ、又それが真実であるか真実でないかよりも、先人達の心がどのようなものであって、その源流が今どのようにこの今ある王流楊式太極拳の中にあるのかが大切です。

一番わかりやすいのが、王宗岳の太極拳経ですが、私の師は彼を祖先として持つともいっていましたが、彼自身も明確な系図も知らないし、もしかしたら、道家特有の血縁のない太極一家としての祖先観かもしれないといっていました。ですから、私の師が王宗岳の血縁であるかどうかは、彼自身も気にとめていませんが、しかし、完全に私の師の拳法そして、王流楊式太極拳は太極拳経の理論に完全に一致しています。

そんなこともあって、又、色々とネット上でも議論されている情報と、私の師から聞いていて明確に答えがあるものと、史実などと照合して、王流楊式太極拳の歴史を記載することにしました。新たな事実がわかりましたら改編することもありますが、みなさんも気軽に参考程度にお読みください。

歴史4:王師が楊式太極拳を武当山で修行

楊家太極拳の楊露禅は1840年ごろ、40才を過ぎて北京で王朝の武術指南役となりますが、優雅な生活の長い王朝の中では、武術のような単練を好むものは少なく、彼自身も思う存分練習もできないため、絶えず武当山へ修行のためと称して入山していました。

武当山の太極拳法(武当派太極拳)の套路は多種多様有り複雑ですが、楊露禅は貴族達に教えるために108式を採用または整理し、(同時期に武当山でも武当太極拳として108式を套路としてよく行っており、現在も武当山で伝承されています。このように、楊露禅が整理したものか古くから武当山に伝承されていたものを楊露禅が採用したものかは不明ですが、どちらにしても武当山と楊露禅は同じ套路をこの時点では行っていたことは事実です。)そしてその套路は子らに受け継がれ楊澄甫が85式の大架式を整理して、貴族達でも練習を楽しめる套路として王朝や貴族に教えていました。楊澄甫の父健侯が套路を健康運動化と簡素化したいと考え、澄甫がまだ若い頃に85式を考えさせたといいます。
楊澄甫は1912年に清朝が滅び、諸外国の監視下の元、北京市長が設立した北平体育研究社で楊氏三世として太極拳を広めることになります。その時に一挙に85式の大架式が貴族の残党やブルジョア達の中で人気を得て広まります。義和団の蜂起などで痛手を被った諸外国がこれを暗黙したのも、この太極拳を見て武術ではなく健康体育であると判断したということが理由です。

1900年の義和団鎮圧の後と清朝崩壊の後には、多くの王朝や貴族の残党や義和団の残党が道教寺院に逃げ込みました。特に道教の十方叢林(宗教専門学校)には多くの武術家が逃げ込んできて拳法を修行しています。その頃に楊式の85式の大架式套路が武当山に環流(元々は武当山の108式の套路を楊露禅が採用または整理したものであるから)し、複雑な武当派の套路をより整理した楊式の85式を取り入れて太極拳法の練習をするものが増えました。(108式の時と同じように武当山でも85式をよく行うようになりましたが、朝廷でお留め武術となったため、武当山内では伝承されませんでした。)その頃から、武当派の太極拳が楊式太極拳とも呼ばれ始めました。楊家ではないので楊式という呼び名です。又、清朝崩壊後に楊澄甫は何度が武当山を訪れていますが、体重が増えていたため、套路を披露する程度であったといいます。

しかし楊澄甫は、そのようなことから、中国国民党の指導の下で、1928年に南京中央国術館武当門長となり、内家拳を統括するのと同時に、武当山武術をも事実上監視することになりました。
又これまで清朝では迫害されていたため、陳家溝から表に出ることがなかった陳家の長拳なども、武当山の王宗岳の伝授を受けた太極拳であると名乗り初めて南京中央国術館の武当門部門に統制されることになり、陳家太極拳と呼ばれるようになりました。17代目の 陳発科(ちん はっか、1887年 – 1957年)41才でした。

その監視下の元で、太極拳法は武当山で楊式太極拳と呼ばれながらも、今までどうり内家拳としての内丹と精神修養、そして実戦武道として門外不出で独自の道を歩みました。

楊 澄甫は1937年に54才でなくなります。(糖尿病などを患っていたという話もあります。)

このような中で、王師は清朝が滅ぶ少し前に道家の子として武当山付近で生まれ、武当山で幼い頃から修行して、武当派の楊式太極拳を身につけたというのは、この史実にぴったりと整合します。王師は毎日が美しい自然と楽しい生活の中で、武道を無我夢中で遊びながら身につけている感覚だったと子供の頃のことを回顧しています。