放松・野に咲く花のように

放松・・

「放」は、緊張や束縛を解いて、上下左右に自由に伸びる意味を表します。

「松」の元々の字は、鬆で、簡易化され、木偏の右側の「公」は、おおっぴらに開いている様で、鬆は、髪の毛のように動きがありさわさわと、葉が細く向こうが透ける様を形容したものです。

放松の結果に、リラックスや拙力の脱力、意識的でない自然さが生まれますが、放松は放松です。リラックスや脱力ではありません。意識すると、本末転倒ということになります。

放松の基本原理は「三才」です。天地人の宇宙の実相を表す言葉です。太極拳は全て三才勢で動きます。三才勢の基本修練は、内丹の「大周天」でも行いますが、武当派の楊式太極拳の大架式の套路には大周天が含まれています。それを当門では習います。

「地」は重力を発しています。地に引き込もうとする勢いです。これだけに、身を委ねると、体は地にへばりつき、立つこともできません。これが脱力です。こうなると、様々な弊害が出ます。気血は沈着し、上半身の気血は不足し、うつ病や上半身の虚血性疾患、抹消血管や神経の脆弱化、それにより脳出血や虚血性心疾患など様々な障害が出ると、内丹に伝わる導引法では戒めています。

最近の太極拳は、脱力するだけが多いので、主にこの重力に囚われてしまいます。ずしんと沈むような、「重」の感覚は、即ち双重の病となります。地に根が張るようなという、足裏の感覚はまさにこれです。今の中国の武当山の一部でもそう教えているから驚きです。まったく、これは弊害になります。

しかし、しっかり重力を感じて動くと、その「地」からの勢いに対して自然にその場にたたずむ勢いが、「天」から後頂を糸でつられるような感覚でおこっていることもわかります。これが天と地の陰陽和合、即ち「太極」の状態です。

逆に、天からつられるような勢いだけを感じて動くと、これも「浮」となり、フワフワとして地に足が付いていない状態となります。また、気血は上に滞り、下半身の気血が不足し、同じく上半身の末梢血管や神経の圧力が高まりすぎ、脳出血の引き金や、心筋に内圧が増し血圧が高まり、肺胞や心臓の疾患などが増え、下半身の虚血性の疾患が増え、神経症やヒステリー、パラノイア、統合失調症などの精神疾患が増えると太極拳の内丹ではされています。

こうなると、双方が浮き上がりますが、人間は片方でも立っていないといけないので、偏重の病となります。

この中間にあり、天と地をも巡る(大周天)ことが大切です。即ち、天と地の勢いの間に自然にたたずむ事が大切なのです。

その天と地の間にたたずむのが「人」です。これが天地人、太極拳の三才勢です。

人間の体だけで考えると、天の勢いは上半身、地の勢いは下半身に、人の勢いは丹田に備え動きます。これが三体勢です。これは内丹において小周天にて修練します。(大周天、小周天は、書籍「簡化24式太極拳で骨の髄まで練り上げる技法」をご覧下さい。)

放松とは、野(地)に咲く花のように、自然に天に向かって伸びる、地と天の間にただ立って、活き活きとした生命力溢れる姿です。

これが「放」(天地へ発散と収斂をして)「松」(人として鬆らかくたたずむ)です。

知られざる手揮琵琶

syukibiwarozen 楊家の三世、楊澄甫氏が演じるこの型は、太極拳の中では最もシンプルな型に見える「手揮琵琶」です。以前に実戦空手の髙段者にこの型を披露したことがあります。その彼は前足の虚歩の場合の構えは、空手の場合は猫足だといい、太極拳の構えとは違うというのですが、とんでもない、太極拳でも虚歩の構えの場合は猫足ですよと説明したことがあります。また、手揮琵琶には弓歩の構えもあり、古式楊式太極拳の実際の套路の過渡式に含まれています。
  実際に手揮琵琶を使って、彼と技で攻防を行ってみると、彼はその効果をとても納得したばかりか、その日から入門して太極拳に深くのめり込んでいきました。
 しかし、近代において太極拳が套路として伝承されてきている中で、太極拳を行っている人たちの中で、手揮琵琶の虚歩の構えが猫足であることや、弓歩の構えがあることをを知っている人に会ったことがありません。私のところの道場では、招式、散手練習における手揮琵琶の虚歩の構えは猫足で、実戦練習では弓歩も多用します。しかし、套路においては一般の套路と同じく踵を地につけた虚歩で行います。この意味がわかると、この手揮琵琶を使った技を強烈な攻防一体の技術として使えるのです。套路においては、その攻防一体の勢いを涵養しているに過ぎません。套路は構えの連続した型ではないのです 。実際の戦闘術における勢を徹底的に練り上げる練習法なのです。従って、この意味さえ知らなければ、套路の本質さえないということになります。なぜ、前足の爪先が上がっているか?楊無敵と言われた楊式太極拳の創始者である、楊露禅の行っていた太極拳の本質に立ち戻ればいいのです。そして、その本質は実際の相対の招式を行って理解できるものです。当道場では、基本を身につけた後は、応用または武道でそれらを涵養していきます。

護身

IMG_0085 ひ弱な女性や、年配者にとって、強力な筋肉と打撃力をつけて身を守ることなどナンセンスです。

 私の弟子の30代の女性たちを筆頭に、ほとんどが小柄でひ弱ですが、初心者でも強烈な護身能力を持っています。
 本来の太極拳は、寝たきりのおばあさんがとても重いタンスを火事場から持ち出したような、火事場のクソ力を、平常心で引き出す訓練をします。
意識的に鍛えた力は、潜在能力(無意識下の能力)の約10%程度しか発揮できません。
 母親が走る車を突き飛ばして子供を助けたというような話は、もう今や当たり前にあります。
 太極拳は、人間として生まれたときから、人間としての、また生物としての(生物の動きを人間の体のうちに見つける勢い)、物質としての(人間が宇宙から始まり物質としての性質もあること)の基本的勢い、人間の体の制約による反射や物理的運動の基本力学を勢いとして訓練します。
生まれながらの勢いは、日常絶え間なく無意識に働いています。しかし、約10%程度しか使用していません。
 しかし、子供の時にだだをこねる勢い、誰かに捕まりそうになると突っぱねる勢い、咄嗟に身を避ける勢い、転びそうになると元に戻そうとする勢い、数を上げるときりがありませんが、日常的に無意識でただ生きているだけで、いざというときに能力を上げて働いています。
そこで、その潜在能力を利用しようと、中国の武当山で開発された拳法が内家拳法であり、後の武当派太極拳です。
それにより、ひ弱な女性でも、頑丈に意識的に鍛えた筋肉やその強さにも簡単に勝ることができます。
 ニュートン力学のエネルギーは質量×速度の2乗であるのであるのですから、ひ弱な女性は筋肉の力やその質量を何かで補う必要があります。
 まず、徹底的に体重を無から100まで移動させる訓練を行います。これが太極拳の分虚実です。
そしてその体重がある一点(三尖)という発勁点まで100%伝わる(三節)訓練を行います。
そして、刺激を受けたらすぐに反応する無意識下の感受を使って超速に反応する訓練をします。(無為)
そして、最も小さい発動である、仙骨前の丹田という力点を使用して、骨が背骨しか無い腰を振動させて超速の動力を生み出します。(鬆腰)
これらは真の太極拳を学ばないと会得できません。まだまだ、それらを補うどころか凌駕する理合により太極拳は成り立っています。
そうするとどうでしょうか、50kgに満たない女性がある一点に100%の重量を集め、すなわち全体重をその発勁点に移動し、その速度を極めていけば、ニュートン力学のエネルギーの通り恐ろしい力を発するのです。これが発勁です。そして、その上徹底的に、急所を打つ技術を極めます。
そして円転する動力の再利用は、均衡反射の動力を鍛え上げ、太極拳独特のエネルギーの連鎖を生みだすから、絶えること無くその動力を使用できるのです。
護身術はひ弱な女性でも使えないと全く意味がありません。意識的に筋肉や拳を鍛えても、潜在に眠る能力を利用できなければ、いざというときには、強大な力を持ったプロレスラーも、ひ弱な女性に簡単に負けます。
関西で1万人以上の暴走族の長に立ち、恐ろしくケンカが強い小さな体の若者がいました。高速道路で、その人の車に乗せてもらうと、キャロルの音楽を聴きながら、まるで踊るように車と車の間をすり抜けるように走り抜けます。とても楽しそうです。その当時は、テープレコーダーだったので、何度も聞いていたのだろうと思いますが、テープが伸びていると、運転が乱れ、「おっとごめん」と言われ、ひやっとしたのを今も覚えています。彼の戦闘もまるで踊っているようで、相手が十人いて、鉄パイプを持った大男でも、彼には赤子の手を捻るようなものでした。
太極拳は、生まれながらにしての無意識下にある能力を最大限に引き出す訓練を行うのですが、それを邪魔をするのは、固定概念や条件的意識です。
だから武道は無を求めるのです。無を得れば、無意識下の能力を余すこと無く使えるようになります。火事場のクソ力を当たり前に、いざというときに使える訓練をするのです。子供の時に体にみなぎっていた勢いを思い出し、最大限に増幅し、それを使えるようにするのです。少しでも頭に意識が上れば、その意識により自分のクセや、今までの多くの運動条件が作用し、動きは沈滞し、その上、相手の体や人生を気遣い、社会的制裁が頭をよぎり、前後のことを意識し、ブレーキがかかるから、潜在能力は使い切れません。従って、太極拳は徒手戦闘術で有り、完全なる護身術で有り、格闘技では無いのです。
格闘は、格闘のための技術ですから、意識的に鍛えた技術のぶつかり合いを勝負するだけであり、定められた条件で格闘をして、その優劣などを決めて楽しむものです。
太極拳は宮本武蔵が生き抜いた剣術と同じで、本当に相手と殺し合いをするから使えるのです。柳生新陰流も、相手を殺す戦争の術として幕府に認められたに過ぎません。そうでなければ剣道になるのです。叩いて一本です。刀で相手が斬れる、それも急所を斬るから、柳生新陰流という剣術があるのです。従って、突き刺すなどの危ない技術も本当に危険なときに、徒手で使えるのも柳生新陰流なのです。柳生新陰流の勢で急所を徒手で突かれると、太極拳の点穴と同じような効果がありますが、点穴の代わりに剣先があるので、徒手を刀のように鍛える三節も必要でしょう。しかし、柳生新陰流には突きの技術に「尖」という技術があるので、徒手でもそれが使えれば点穴を使えます。転という円転から打ち出す突きは太極拳の三節三尖技術と同じです。
太極拳も同じで、いざ自分が襲われ、自分の大切なものを命がけで守るときに、相手の命を奪うことを止むなしとして使用するだけの破壊力を出すようにできあがっています。
太極拳でも散手対打をしますが、解法という特殊な技術を身につけながら、その発勁をまともに受けないように練習します。もちろん打つ方は、意識を使って制御しますから発勁も出ませんが、無意識に発勁が出ると危険です。その練習の中で、意識しないで考えないでいると、発勁点まで勁が到達することを覚えます。その発勁の感覚を覚えれば、その感覚を毎日の套路で繰りかえし、その勢いと発勁を練り上げます。そして、昼間は単錬の快拳でその実際を練り上げます。無意識下にある潜在能力を絶えず鍛え上げておくと、いざというときに現れる無意識はいつもの無意識なので、意識はそれに対して驚きもしません。すなわちパニックになりません。絶えず、危険な場面を練習で創作し、その時に現れる無意識を知り、その無意識を利用できるように訓練しておけば、パニックの時に現れる無意識は、いつもよく知る無意識であり、またその無意識を利用する術を知っているので武器になり、その上安心であり、すなわち平常心です。
意識だけを極めて格闘する癖を付けていると、いざというときに現れる無意識に翻弄されます。意識だけを極めて訓練した格闘術は、意識を持ってしか使えません。無意識に動く、すなわち生まれながらの勢の勢いに気を与え、精(心身)に100%行き渡らせ、火事場のくそ力を当たり前に使える訓練をするのです。25、6年前、深夜に二人の男性に襲われ、路地に拉致されそうになった私の30代の弟子は、小柄できゃしゃでか弱い女性です。その女性が、相手の一人の男性を頸髄損傷させてしまいました。その男性は下半身麻痺になり一生身障者になってしまいました。もう一人も鼻骨骨折の重傷です。その時のことを聞いてみると、思い出してみると数秒のことだったらしく、彼女は後から捕まれている男性の顔に、自分の頭の後頭部を無意識で打ち付け(教えていた、太極拳の海底針の発勁です)前から首を絞めようと向かってくる男性の腕に自分の左手を捻転させ、同時に喉に白蛇吐信(基本の発勁です)を虎口を開き打ち出したようだといいます。後に警察での検証で双方の話を聞いて、その通りのことが起こったことが確認できたそうです。相手が抱きつこうとする勢いと、後ろの男性の顔面を後頭部で打った反動で前に進む白蛇吐信は強烈で、後ろの男性はうずくまり、前の男性は数メートル飛び、その隙に逃げたそうです。男性の一人が彼女の働いている飲食店のことを知っていたらしく、後に警察から呼び出され事情を聞かれ、太極拳を習っていることを言ったそうですが、一笑に付されたそうです。その後正当防衛が認められましたが、彼女は太極拳をやめ、私の前からもいなくなりました。重く、彼女の人生にのしかかった負担は言葉で言い表すことができません。男性は暴力団の構成員で大学ではラグビーをしていた二十歳過ぎの若者でした。ラグビーで首を鍛えていなければと考えると恐ろしいばかりです。このような不幸が無いように祈るばかりです。
そこで、太極拳では危険を察知する感受性を高める訓練を行います。初歩では、気功などにある八触です。そしてタオの思想により、全てのことをありのままに当たり前に感受するという思想と、内丹によりその能力を高めていきます。それはセルフエスティームで有り、バウンダリーです。
当時は、彼女にこの二つの訓練をすること無く、ただ太極拳の技術を教えていたことが悔やまれます。
10年前から横浜で再開した太極拳の道場において、最近は、積極的に無意識の感受性を高め、すなわち自尊能力を最大限に高め、しきい値感知を極めるための思想訓練や、内丹術も行っています。これからは、危機に遭遇しない、危機を察知したらすぐに危険を回避する技能をも教えていきたいと思います。武当派の太極拳には、これらの技術も備わっており、相手を怒らせたり、翻弄させたり、意識をそらしたり、煙に巻いたり、嘘泣きや、嘘怒り、嘘病などの演技能力も太極幻術として鍛えていたそうです。それらの技術は、私がたまたま私の祖父達の生き様を見ていたために、悪い意味で身についていたのですが、王師と母のおかげで、それが円転して人を生かす幻術となりました。私は、これらの能力でどれだけ命拾いをしてきたか、本当に王師から教わった太極拳には感謝してもしきれません。

楊式太極拳と柳生新陰流の「勢法」

7023 武当派の楊式太極拳は勢いを重んじます。十三勢という基本勢があるため、十三勢とも呼ばれます。その勢が形に表れるのを「型」といい、型の連続が套路です。

 武当派では型のできあがりの経過を「勢法(せいほう)」と呼び、形という心身に現れる精(せい=心身)の結果は、勢いの表れであることを重視します。
 従って太極拳は、心意によって起こる気勢によって運ばれ、結果として形がある事で、気勢を陰、又は暗、形を陽、又は明として、双方一体として太極として考えるのです。
 一部の空手の流派や、形意拳の一部の流派などでは、形として現れる結果を重んじるため、見た目においては豪快で破壊力も鮮やかに見えます。明勁として表面に現れる力を重視します。下手をすると、その表面的な力に依存する傾向も生まれます。
 又、逆に、気勢のみを重んじるばかりに、その元にある「気」という目に見えない力に依存をする場合もあります。八卦掌の一部の流派などや、オカルト的な拳法、気功などスピリチュアルな傾向に走る懸念のある拳法もあります。
 日本における柳生新陰流も、剣術の型の事を「勢法」といいます。転(まろばし)という勢いは、太極拳の円転の勢と全く同じです。
 柳生新陰流は、日本にある他の剣術とは違い、まろやかであり、流れるような勢いを重視しているため、表面に現れる力強さでは、現代剣道や他の剣術には見劣りがします。
 いつごろからか、柳生新陰流の一部では「勢法」を「かた」と読み、それに「形」という字を当て、形に表れる結果を重視している流れもあるようです。
 どこの世界でも、陰陽合一の妙技を会得できない者達は、その片方の極を選び、それに依存して極めていくことで、安易な道を歩む場合が多いようです。
 太極拳には、暗明がそろって、剛柔が有り、虚実陰陽がそろっているのであるから太極拳なのです。太極拳には、快拳という暗明一体の練習法があります。そこには形意拳や八卦掌の形や気勢の全てが含まれており、お互いに暗明が融合しているので、形意拳のように表面的に明勁が形を描いたり、合気道や八卦掌のように、合気と暗勁だけで、勢いを描くこともありません。
 古式の楊式太極拳では、暗勁と明勁を一体として動く巧勁が、現在にも伝わっています。

4次元の太極拳

 太極拳は十三勢と呼ばれます。

十三の勢には、まず四正手があります。

四正手は、右攬雀尾では、掤は進行方向に向かって右前上から扌履は左後下、擠は前、按は後下から前と、右交差の3次元を描き、左の攬雀尾で左交差の3次元を描き、幅、奥行き高さである空間を全て網羅します。身の幅、眼の奥行き、手の高さの三尖で空間を描くということです。

そして四隅手ですが、野馬分鬃では、靠肘挒で因縁果の三節になり、現在から未来への時間軸を構成しています。後ろ手の採はその現在を身の中心線とすれば、三節に伴う過去の時間を表しています。靠肘挒の勢は採勢が力点となっているのです。そして中心線が支点、そして靠肘挒が作用点です。靠肘挒と進む長勁は後ろ手の採勢が力点となり、身体の中心線が重要な支点として発勁されます。

このように、四正手(空間)と四隅手(時間)が合わさって4次元という時空を構成します。
この理がわかると、四正手には四隅手の三節、四隅手には四正手の三尖が備わり、始めて4次元としての時空を備えた武道になるのです。
理論的には難しく言っていますが、身を持って太極拳の武道を経験すると、いつかはこのことがはっきりと理解できるようになります。

そして、そこに五行という方向が合わさって十三勢になります。3次元4次元には前後左右の概念がありません。まず、中定にいるのが自分であり、体が前を向いている、これで始めて前進後退右顧左眄という概念ができあがるのがわかるはずです。

このように4次元を制覇する人間(前後左右がある者なら人間と限らず何でもですが)と言うことになります。

以上のとおり、時空を制覇して現実的に生きる者の勢、これが十三勢です。

太極拳は空間を制覇し、時間を制覇し、そして人間として万象を制覇するというところから十三勢と名付けられました。
そしてその制覇は現実的で、心身を使って太極拳の基本勢としてできあがっています。

その十三勢を発見した張三豊または王宗岳らの武当派の太極拳では、古くからこの十三勢を基本に多くの型があります。

古くからの武当太極拳の古式では108式もあり、それから近代になってその108式を基にして、新らしく武当太極拳108式も生まれました。その武当太極拳108式は、楊家太極拳の楊露禅により改編されて楊式108式となり、楊澄甫により編成がまとめられ85式となりました。しかしながら、十三勢は基本勢であり、全てに貫かれています。これが時空と万象の理であるから、名付けて太極なのです。

古式108式には、纏手八卦掌や独立八卦掌などの型もあります。そして武当山にいる生き物たちの動きを備える形意拳の動きもあり、当然ながら歩法や身法で五行拳の動きもあります。古式太極拳には八卦掌、形意拳、五行拳の動きが全て含まれています。

この貴重な武当太極拳の108式も、108式などに編成される前の古式の太極拳(太極拳とはまだ言っていませんでした。武当拳法。内家拳法。太極拳法などと呼ばれていました。※カテゴリーの「内家拳」とは違います。)の型も多く残っています。
しかしながら全ては以上の十三勢の理論で構成されているのです。生き物たちも中心と前後左右があるのだから、五行があり、時空に生きているのだから四正、四隅があるのです。

このように、4次元に生きる人間の十三勢を理解でき、またそれを制覇できれば、太極拳は神明に達するのです。

これを知るためには、まずそれらが備わった太極拳の套路と武道の練習を、道を誤らずやり続けることです。

経験という膨大な情報が、これらを全て解き明かしてくれます。その時には全てが明らかになります。それを神明と言います。

呼吸は生きる。息(いき)る。生命の要。

最近の話題作映画「ハプニング」、日本でのメインフレーズは「人類は滅びたいのか」。

この映画の中では、植物が何らかの有害物質を空気中に放出し、人間がどんどんおかしくなり死んでいきます。この映画が提供しようとしているメッセージは人類と植物の関係から、人間の生命の営みである呼吸に深く関わっていくことで、生命の根幹をも脅かすかも知れない大気という空間に目を向けたもののように思います。

もともと人間にとって、大気中になくてはならない酸素は地球誕生時の大気には存在していませんでした。しかし、植物のような光合成を行うものが出現したことで大気には徐々に酸素が蓄積されていきました。まるで植物が、地球を制覇しようとするような勢いだったという人もいます。

しかし、このように、本来、酸素は強い酸化力をもった毒性の強い気体でしたが、一部の生物は酸素を利用した酸化過程を通じて大きなエネルギーを利用できるようになったのでした。これはマイナスをプラスに転換するとも、危険を克服したとも言える劇的な事実でした。そして生物と植物の共存が成しえたのです。現在、酸素を利用した代謝のできる生物は細胞内のミトコンドリアにより炭水化物を酸化し、最終産物として二酸化炭素 (CO2) と水を排出します。これが呼吸です。この様な共存と調和が生み出したシステムでもあるのです。

酸素という毒物を、体内にいるミトコンドリアが代謝し、無害にする上、エネルギーをも生み出すのです。排出される二酸化炭素は、植物によって光合成に利用され、酸素を生み出すのです。これで循環という自然代謝できあがるのですが、そのバランスが壊れつつあるのが現状です。

同じく、人間の体内でも同じ事が起こりえるのです。ミトコンドリアの代謝力が弱まると、酸素が余分になり活性酸素が生まれたり、様々な障害が起こります。酸素の毒性が体内を駆けめぐります。呼吸では糖類は二酸化炭素 (CO2) および水にまで分解され、その過程でエネルギーの元がミトコンドリアで生産されます。

この様な呼吸を重要と捉え、東洋では昔から、吐納法や気功法と言われる呼吸術がありました。

腸及び周辺にある組織の温度を上げて活性化させ、様々なホルモンを生みだし、ミトコンドリアの代謝を正常にして、本来の正常な呼吸による代謝を循環させようというのがねらいです。

逆腹式呼吸の太極拳の吐納法

この逆腹式呼吸という武術ならではのすごく優れた呼吸法は、呼吸で一定の腹圧を作る訓練です。王流では胆式という型で行います。

吸気

まず、足を閉じて立ちゆっくりと手のひらを上向きに翻しながら脇の下まで手のひらを持ってきます。ここまで息を吸う動作です。逆腹式呼吸ですが、肺を膨らませるイメージではなく、横隔膜をおなかに下げていきながら胸郭を広げる感じです。おなかがぎゅーと圧縮され、おなかの裏側背中に圧力がかかります。おなかの圧力が増します。呼吸を意識するよりも動きと呼吸が一致し、丹田(臍下のおなか)が小さく縮むイメージを持ってください。深呼吸と同じですが、肺を広げるのではなく、横隔膜を下げ、胸郭を広げます。平均3ℓはあるといわれる予備吸気です。脇の下まで吸いきったら、手をもう少し外に翻しながら肩を上げず後ろへ引き、よりおなかに圧力を加え胸郭を最大に広げてください。あくまで動きにつられて吸気します。深呼吸よりも深い吸気になります。このより深い深呼吸は体の末梢のミトコンドリアまで酸素を送り届け、エネルギーとなり、体の生体活動を活性化します。その上翻したときに次の排気のための弾性すなわち、均衡反射(ニュートラルな状態に戻すための反射)を生みます。これが漏気(ろうき)といわれる動作です。

呼気

次により強く通常の基準値に戻ろうとする力 (均衡反射力)を利用して、ゆっくりと長い排気を行います。手を上に向けたまま脇からゆっくりと腰までおろしていきます。横隔膜を緩和させる感じです。医学的には横隔膜は排気の時に緩和してドーム上に上昇し、吸気の時に収縮して下降します。鼻からゆっくりと少しずつはきます。出来るだけ長い方が良いです。そしてウエストのところで吐ききってください。その時におなかが膨らむ感じで丹田の中に大きなエネルギー玉が出来ていくイメージです。腹腔が膨らみ圧力が高まることで胸郭が狭まる感覚です。この時の圧力は小さくなったときの圧力と膨らんだときは同じ圧力を保つようにします。

吐ききったのですが、まだ残気が肺の中に残っています。これを残気を吐けるだけ吐きます。腰にある手を下により一気に下ろして残気を吐きます。この呼吸法で肺の能力は一段とアップします。デトックスという毒素排出に役立ちます。排気は脂肪を燃焼させるので、より深い排気は脂肪の中にためられた毒素も排気と一緒に排出されます。多くはこの残気が肺に滞ることにより血が汚れる原因にもなっていますから、それも改善します。又、すぐに吸気に戻り数回循環して繰り返すと体にみるみる元気が戻ります。(元気になったら止めてください。それ以上は過換気になります)

 

金鶏独立の勢

金鶏独立は85式では、独立式、24式では下勢独立として、套路で練習します。

金鶏独立の勢は上下方向に交差する十字勁を中心として、上手には中心勢を維持しながら、挑勢(下からの振り上げ)、裏勢を肩より上で働かせます。

これにより、金鶏独立は長勁として完成します。
下の手は採勢です。腰腿も十字勁によって,上手の方の足は上に、下手の方の足は下に沈みます。
以上は金鶏独立の鑚勁と長勁の用法です。

金鶏独立は、中心線をねじりながら、腰腿によって、上腿を下腿側にねじ上げて、下の腕をその上腿の膝の外側に採勢によってへばりつけます。
ちょうど、下腿と上腿と下腕がつながった状態になります。そこに上腕がその下腕の肘裏を押し出すようにして、金鶏独立がねじれて、一本の線にして立ち上がります。
これで、体の側面に下腿と上腿と下腕,上腕の壁ができあがります。纏糸勁と腰腿を使った,金鶏独立を一瞬にして立ちあげるのです。
相手の早い蹴り技を,瞬時に受ける金鶏独立の用法です。

次に金鶏独立の擒拿術ですが、相手の掌を裏返して、たくし上げる時に、十字勁と裏勢を使います。
相手の片足は浮き上がり、身動きがが取れなくなり、体の側面はガラスのようにもろくなります。
そこに金鶏独立の要領で、鑚勁による蹬脚または分脚を発勁します。

海底針と双龍拉椀

海底針は太極拳における裏勢(りせい)=(体の内側を使って抱き込むような勢)を習得する重要な招式です。

双龍拉椀(そうりゅうらわん)は海底針の示意であり、相手の手首の内側を双龍の上あごで、外側を大小の拳頭を下あごでひしぎ噛んで上あごを裏勢にもとづき内側に引き込み、上あごを前側へ押し噛んでいく手法です。

この裏勢がないと、以上の拉勁は発勁とはならないのであり、重要な練習方法となります。

海底針の裏勢は多くの擒拿術に含まれますが、この双龍拉椀は最も基本的な示意なので、単法として相対で練習をします。

双龍拉椀は相手の手が胸元にある時を想定して練習しますが、相手の冲拳を受けてから拉椀する上臂拉椀・上攔拉椀など多くの技があるので、それらを多く練習することで裏勢の発勁感覚を身につけ、套路において武道としての海底針が行えるように自己修練することが大変望ましいのです。裏勢が生きた発勁を裏勁といいます。

裏勢は転身背摔(てんしんはいそつ)などの摔角の発勁にも、扇通背の勢と合勢にて使用されるなど、多くの技においても練習することができます。

 

太極拳の四隅手における板と棒

太極拳は円の動きで動くと一般では理解されています。確かに十三勢の四正手(しせいしゅ)は円と曲の勢です。

ところが四隅手(しぐうしゅ)は直と伸の勢であり、後は五行の方角で十三勢となっているのです。

四正手は太極拳を聞いたことがある人なら円の柔らかな動きということで理解はできるでしょうが、四隅手は理解しにくいものです。

四正手も四隅手も五行も、相対の武道練習において詳しく学びますが、四隅手の勢を実感できるのは特に拳脚の相対練習になります。

冲捶は拳面で相手に打撃を与えますが、身(靠)からおこった勢は、肘、手腕(列)、尖(採・拳面)と矢のように到達します。

この時の勢の流れが四隅手、理においては三節になるのです。

冲拳では拳面ですので、身から出て肩から拳面までが、固い真っ直ぐな一本の樫の木の棒になり、その棒の先端に全体重と勢が行き着き、勁が飛び出すように突くのです。これが四隅手の勢です。

冲拳の練習においては、小指から中指の先が、手首を輪切りにした中心に突き刺さるような感覚で、拳面にまで気を通します。一本の棒になるのです。もちろん発勁の瞬間だけ棒になるのです。冲拳の練習はサンドバックなどでもできますから、一人でもできるでしょう。

 

しかし、もっと四隅手の高度な練習は、身(靠)と肘と手(列)と尖(採)を直で繋ぎ、伸ばしてしまい板にしてしまうことです。体の薄い部分とそれらを一枚の厚い板のようにしてしまい、その板の角や縁を相手にあてるという発勁です。

板の全ての重みと、その意動力が板の縁や角に集まるのであり、その威力は絶大になります。

このような四隅手の合勁の感覚を実感する技として、攔腕肘挒(らんわんちゅうれつ)があります。

攔腕肘挒は相手からの顔面への冲捶を進歩搬攔捶の欄で受けて、受けたその腕で肘挒を相手の気舎から頸脉へ鑚勁を放ちます。

この時の、発勁は四隅手の合勁となります。体から肘挒までは一枚の板になったような感覚で、そのまま急速に移動して板の縁を相手の気舎から頸脉までに斜めに「ゴン」とたたききるようにぶつける感覚です。

四隅手が理解できると、合勁が理解でき、この攔腕肘挒は完成します。

攔腕肘挒は搬攔捶(はんらんすい)という招式、套路では進歩搬攔捶という型の示意(用法)ですが、相対でこの技の練習をしていると、進歩搬攔捶の套路で前に掌が伸びながら欄勢を描いているときに、かならず四隅手の合勢を感じることができるようになります。

このように、武道の練習をしていると、套路において、とても大切な一瞬を理解できることとなり、套路自体が本物の太極拳の套路となるのです。

進歩搬攔捶にはこのように、太極拳の四隅手の板と棒が含まれていることを知ることが大切です。

太極拳は意識で動くと他で教わりました。意識で動くと無為ではないですよね。

太極拳は意識で動く?そんなことをしていたら太極拳ではなくなります。
太極拳は無意識で動きます。

無意識とは何でしょうか?

無意識とは意識がないと言うことでしょうか?

実は違うのです。

意識には顕在と、潜在があります。そのどちらも意識なのです。

潜在にある意識が、自分では顕在しないで働くことが最も多く、癖や執着などに現れます。煩悩や見えない雑念なども全てそこにあります。

太極拳で言う、無意識とは完全なる純粋な意識です。無為自然と言います。

無為自然とは三昧は近いところにあります。太極拳三昧という境地で太極拳の套路ができるようになるまで修行するものです。

それを太極拳は意識で動くなどと言う間違った考えで太極拳をやっている限りは、その域に到達するのは難しいと言えます。

意識で動く間は、動きを覚える程度の場合です。初心者とっては大切でしょう。

しかし、いずれ心意のおもむくまま套路ができるようになります。ここで初めて動禅といわれるレベルになります。瞑想太極拳と言うこともできます。

座禅にも段階があるように、意識に浮かぶ想念を受け流しながら進む套路は、想念太極拳として分類し、ただ無為三昧において、動く世界を真の套路として考えます。

武道として実戦で使う場合は、太極拳は無意識の拳法です。

死にものぐるいになったときに、最も強い力として自然な動きを発するところは、深くにある生存と存在の力です。

そこから発せられる勢が、十三勢などと呼ばれている、勢です。何も13だけではありませんが。

套路において、純粋な三昧で動くことは至福の安らぎと、エネルギーを感じます。
気持ちが良くて、最高の歓喜のようなものがわき上がります。

実際の攻防の中では、いかに無心で平常心であるかということで、見える世界が変わります。
闘争本能をあらわにした場合は、交感神経が高まり、感受も視界も狭くなります。

私たちが行う、武道練習はいかに気持ちが良く、勢と勁にあふれたさわやかなダイナミックな動きができるかと言うことを練習します。

一人でゆっくり行う套路のように、いかにその状態で動けるかを、攻防で練習するのです。

套路の感覚が、攻防でも感じるようになれば、勢と気と勁の一致の完成です。

武道練習ではその一致をひたすら、多くの技の中で発揮しながら練習します。

套路と相対練習において、その差がなくなってくる事に、修行者のレベルが上がってくるのです。

套路と、相対の相乗効果が練習の成果です。