気力が湧かないままで、どうぞ。


自殺大国日本において、最近特に女性の自殺者が増えてきています。(2012年6月8日政府の自殺対策白書)そのもっとも多くを占める原因は健康問題で全体の過半数になっています。
これらは、これといった病気ではなく、何となく活力が低下し、疲れやすさすなわち易疲労があり、今まで楽しかったことに興味がなくなってきたり(アンヘドニア)、そして何か鬱々するというものです。

そして、なかなか元気になれないというところから、食欲がなくなったり、イライラしたり、風邪をひいたような症状や、腰や膝の痛みなどと発展していき、何らかの健康に問題があるのではと感じるのです。

そして、悩みを一人で背負い込んでしまったりしてより落ち込んでしまいます。

そうなってくると、ひどい不安を招き、それらを解消するために仕事やネット。ゲーム、ギャンブルなどにのめり込んだり、アルコールを過剰摂取したり、違和感や焦りやイライラが強くなり、もうどうしようもなくなります。

そして、心気的とらわれが強くなり、焦燥感が激しくなってくると、もう誰の声も耳に入らなくなってきます。ほぼ心気症(ヒポコンドリー=hypochondria)の状態です。

これらがうつ病に移行するか、また、心身の重要な病気になるかは時間の問題です。

また、ストレスですが、MRIを使って行なった研究では、強いストレス状況下で感情や記憶の消去をつかさどる脳の部位が委縮していたことが判明したそうです。ストレスはこのような生理的な心身作用にも大きな影響を与えますから、ストレスをためておくことは、よりそれらを進行させ、または原因にもなると言うことです。

その前に、やれることがあるはずですが、病院に行くほどでもなく、漢方薬を飲もうとも、何かスポーツをやろうが、友達と会おうとも気力が湧いてきません。

 それならいっそ気力が湧いてこないまま、根本的な生命力を呼び起こす方法があります。

これが、武当派の太極拳に伝わる内丹術です。
内丹術は、完全にリラックスした状態で先天の気という生命力の気を呼び起こしていきます。
その生命力の気に押し上げられることで自然と人間社会で生きていくための気力を湧き起こしていく方法です。

太極拳は、完全な放鬆状態から、発勁ができる武道です。
放鬆状態はいうなれば、気を沈めている状態です。その状態から気を立ち上げるという技術が完成されている希な武道です。
そのために、様々な修養方法が長い歴史の中で伝承されています。
大切なことは、気力が湧いてこないのであれば、同じように気を沈めている仲間と一緒にいながら内丹術を行い、生命力自体の気を高めることです。太極拳では生命力自体の気を先天の気といいます。

後は、先天の気に押し上げられ、自然と後天的な気が起き上がってきます。後天的な気を引き上げようと無理をすればするほど、結果は悲惨なものになりがちです。
ある程度生命力が持ち上がってくれば、自分自身の「生き方」を広い視野で考え直してみるのも良いかもしれません。太極思想や道「タオ」が考え直すためのヒントにもなるかも知れません。

このように私は、自立厚生の立場から、太極拳の内丹術を積極的に提供していくべきと感じました。

私は、夕食後は妻と二人で内丹術を生活に取り入れ、そのまままどろみながら、まるで胡蝶の夢(夢か現実かわからない)のような世界を体験しながら、ベッドに入れば、入ったのも忘れるぐらいの数秒で寝てしまい、あっという間に朝を迎えています。

そこで、夜は武道練習をやめていたのですが、大阪や京都で実施していた太極拳の内丹術と瞑想を行う夜間クラスを復活することとしました。当事は瞑想太極拳クラスとして行っていました。

夜間クラスでは、一日に一つくらいは套路の型を存思(そんし)という瞑想でとても緩やかにリラックスして行いますから、楊式太極拳の套路も身につきます。生命力が立ち上がり、後天的な気も元気になれば、本格的に太極拳にも取り組んで下さい。強固な心身が呼び戻されます。

それでは、夜間クラス。ぜひ多くの方のご参加をお待ちしています。

瞑想太極拳の神髄

85式は楊式の宗家 楊露禅が大成したもので、錬丹法の一つとして黄帝内径とか気功と併せて行われ、仙人を目指す道教の太極陰陽思想の意識を内に秘めています。

中国の華僑賢人達の錬金術として伝統的に伝承され、そこから国民体育法として24式や、その他の流派の集大成として48式が生まれ、88式は85式の体育法として現在に至っています。私たちの太極拳の目的は錬丹法としての太極拳であり、太極拳を深く練っていきます。

第一に85式の形を覚え、その次に虚実陰陽、無極円心の動きを加え、体操太極拳として完成後、気と呼吸を入れて気功太極拳を完成します。

ここまでが体を中心とした錬丹法。

その次に意(心意)を動きの中に巡らせる想念法で太極拳の太極感作(陰陽虚実などを心身感覚で認識すること)を行い、心と体の動きを完全に一致させ、心身一如の太極拳を完成させます。

太極拳の動きは、太極思想といわれる自然の法則に従った動きであり、その動きに心を合わせ、その想念を意識することで、心が自然になり、又、その自然な心が意識できるようになります。

このころから、無意識呼吸で自然と気と呼吸が体を巡り、合わせて心が同調し、意識に感じます。

逆に、心や体に乱れがあると違和感を感じたり、端から見ていると自然な動きになりません。

太極拳を見ているとその人の心が分かるのはその為です。仙人といわれるような賢者は、日常の人の動きでその人の心がわかるのも、太極拳の修行のためです。

武道家が相手の動きを読むのもその為です。

最後の到達点として、無極の中で動く太極拳を行います。

殆ど無意識で自然と体が動く、動きと動きの間に無極(ギャップ)が生まれ、時間の止まった感覚が始まります。宮本武蔵の悟りと同じです。

全体はとても緩やかで、私と私の先生は山の中で85式を3時間で演じました。

全くの瞑想状態で、あらゆるものの動きが緩やかに細かく敏感に感じ取れます。

自分自身の体も空気も一体となる感覚で、この感覚を得ると、想念による太極拳の意識(認識できる心意)はそこにある一部であるということが分かり、ある時に世界が変わります。

あらゆるものが美しく光り輝き、聞こえなかったものが聞こえ、当たり前と思っていたことがそうではなかったことに気付くという世界です。

これが、瞑想太極拳への入り口です。

瞑想太極拳(存思套路)

套路は、最終的に神=しんという人間の根本的な生命力で動くことを目指します。
武当派ではそのことを、存思(そんし)といいます。
存思(そんし)とはいわゆる瞑想のことですが、仏教などで言われる瞑想とは又違います。
太極拳の源流には坐道といわれるものがありますが、そこでも行われていた瞑想法です。
存思(そんし)は人間の生命の根源、すなわち純粋無邪気な無為なエネルギーに自らを置いている状態のことです。
仏教の禅のように悟りを得るためとか、無念無想とかと又感覚が違い、もっと躍動的でかつ、無為で純粋なものです。生命の根源にあるような根本的な存在で動くのが瞑想太極拳です。

太極拳は意識で動くと他で教わりました。意識で動くと無為ではないですよね。

太極拳は意識で動く?そんなことをしていたら太極拳ではなくなります。
太極拳は無意識で動きます。

無意識とは何でしょうか?

無意識とは意識がないと言うことでしょうか?

実は違うのです。

意識には顕在と、潜在があります。そのどちらも意識なのです。

潜在にある意識が、自分では顕在しないで働くことが最も多く、癖や執着などに現れます。煩悩や見えない雑念なども全てそこにあります。

太極拳で言う、無意識とは完全なる純粋な意識です。無為自然と言います。

無為自然とは三昧は近いところにあります。太極拳三昧という境地で太極拳の套路ができるようになるまで修行するものです。

それを太極拳は意識で動くなどと言う間違った考えで太極拳をやっている限りは、その域に到達するのは難しいと言えます。

意識で動く間は、動きを覚える程度の場合です。初心者とっては大切でしょう。

しかし、いずれ心意のおもむくまま套路ができるようになります。ここで初めて動禅といわれるレベルになります。瞑想太極拳と言うこともできます。

座禅にも段階があるように、意識に浮かぶ想念を受け流しながら進む套路は、想念太極拳として分類し、ただ無為三昧において、動く世界を真の套路として考えます。

武道として実戦で使う場合は、太極拳は無意識の拳法です。

死にものぐるいになったときに、最も強い力として自然な動きを発するところは、深くにある生存と存在の力です。

そこから発せられる勢が、十三勢などと呼ばれている、勢です。何も13だけではありませんが。

套路において、純粋な三昧で動くことは至福の安らぎと、エネルギーを感じます。
気持ちが良くて、最高の歓喜のようなものがわき上がります。

実際の攻防の中では、いかに無心で平常心であるかということで、見える世界が変わります。
闘争本能をあらわにした場合は、交感神経が高まり、感受も視界も狭くなります。

私たちが行う、武道練習はいかに気持ちが良く、勢と勁にあふれたさわやかなダイナミックな動きができるかと言うことを練習します。

一人でゆっくり行う套路のように、いかにその状態で動けるかを、攻防で練習するのです。

套路の感覚が、攻防でも感じるようになれば、勢と気と勁の一致の完成です。

武道練習ではその一致をひたすら、多くの技の中で発揮しながら練習します。

套路と相対練習において、その差がなくなってくる事に、修行者のレベルが上がってくるのです。

套路と、相対の相乗効果が練習の成果です。

「涵蓄」(かんちく)

「動之則分、静之則合」

陰と陽とが分かれて最初に動きがあっても、太極拳の勢を静かに使えば陰と陽が合して一体化させることができます。

この言葉を単純に、動けば別れ、静かになれば陰陽が合一するなどと訳すのは、中国の古文の文字文化の思推方式ではありません。

動いていても、静かであっても、太極は混沌としていて、いつも離れることが無く合一です。

それが太極なのです。

陰陽が分かれる以前に太極があり、太極から陰陽が生まれます。陰陽が分かれた後を動。分かれる前が静です。静から生まれるのが太極拳の勢であり、動をも含みます。
太極の前には無極があり、そこには何もなく、ゆらぎ(1/fなど)が始まると太極になるというものです。

太極拳はこの相対性の世界(自分という主体と、それ以外の客体の存在する世界)で使われるものであるので、太極拳です。

無極から揺らぎをおこし、太極という静かな勢に、動を包括して戻していく運用法です。

動けばすなわち分かれという言葉のとおり、太極拳を知らないものは陰陽がはっきり分かれます。虚実の境目が大きいのです。

静まればすなわち合すという言葉のとおり、太極の状態は虚実が分かれていても、融合しているのです。

通常は動きだした瞬間に「分」に至り、するとすぐさま、逆に、静止しようとする意思が表れて「合」の状態になろうとします。太極拳は太極を離れませんからその境目がありません。太極を離れないためには、意識を持たず意で動くということです。

意は心、識は認識です。心のままで動くことを用意不要力といい、決してちまたの太極拳で言われているのような、意識で動くことではありません。

意識は心を顕在していることです。そこには、顕在した人の自我が働きますので、純粋な心ではありません。ですから、心を顕在しないことを無意識と言います。それは意識では表せない深いものです。完全なる無である無極と、このような太極の心で無意識で動けるのが太極拳です。

套路を意識を持って動くと日本語で教えられているのは、日本に入ってきたときの翻訳の誤りです。にもかかわらず、多くの太極拳を教える人たちは、いつの間にか意識で動くと間違って解釈して、そして実際に太極拳を運用しています。

認識という意識は、左脳の言語脳を使って脳内の言語で考えますから、次は手をこうだして、足はこう出す、教典の要求はこうだからこうする、実戦なら敵がこうきたらこう受けるという具合に考えることになりますから、そうしていたのでは間に合うはずもなく、太極の勢など出るはずがありません。意識になっていると、もう既にその主体者の後天的な条件まみれなのです。ですから、太極拳の套路で多くの人が身体をこわすのは、高度で純粋な太極拳の動きを、自分が今までに知っている条件の下で、太極として完成された姿勢や形をすぐさまに要求され、相当な無理がかかるからです。

五感・六感から得た感受で、すぐに動くことができなければ、遅れをとることになるどころか、後天的に人間のシステムで構成された、狭い条件の元でのみしか身体が動きませんから、相手の攻撃を融合させることなどできるはずがありません。条件と条件がぶつかり合い、とんでもないことになります。その条件を強化したものが、同じ条件下で勝るだけのことです。いつまでたっても、相手の条件に勝るためにその部分を追いかけ、追い越し、年をとって衰え、若い者には負け、男女の身体の違い、筋肉のつけ具合を追いかけていくしか有りません。このような有形のものはいつかなくなるものです。

太極拳は、人間の単細胞生物の時代から遺伝子に蓄積された膨大な情報を使います。感受と同時に動き、脳の中心部にある本能よりも前の脳の情報です。

これを、太極拳では「涵蓄」(かんちく) といいます。涵蓄は人間の最も奥深いところでの生命力を養い、その勢いを内に秘めて蓄積することをいいます。この涵蓄を練るのが太極拳の本来の套路です。意識を使えば使うほど涵蓄は衰え、意識を使わないで動くほど涵蓄は勢いを増します。套路を覚える段階はもちろん意識的に覚えないといけませんが、意識的よりも大切な深層からわき出る意を感じながら勝手に動く勢と、教えられた太極拳の動きが同じであるという感覚で、套路を覚えていかないと、何の意味もありません。

套路は最終的に瞑想と同じような働きを生み、最終的には三昧と同じような還虚を迎えます。武当派の高手の套路が瞑想太極拳と呼ばれたのもこのような理由からです。

このような涵蓄が太極拳の神髄であり、生命力が活発になり、若返り、本能的以前に自分の心身を守るだけの能力が思い出され練られるのです。

套路の過渡式が太極拳の神髄

現在行われている太極拳の套路で、型の姿勢、ひどい場合には手の形や足の裏の形などを正しく行うように要求があるとされていますが、実はその套路の型自体は、他の武道と同じく、構えもしくは、残心という、技の始まり部分と終了部分だけなのです。

もちろん構えと残心は大切ですが、その途中にある過渡式が実は技なのです。套路で行う技は基本勢による技が主体ですが、構えて技を練って技を終えて残心、そして連続技で套路が構成されている運用なのです。

一般に普及している套路は過渡式らしきものがありますが、前の構え(残心)と残心(次の構え)をただ連続させるためのものになっています。これは歴史上このようになったのであり仕方がないことです。(詳しくは太極拳の歴史をご覧ください)

従って、太極拳の套路を行うなら、その技の練習を多くこなしておかないと、構えと残心の間にある勢の練習などを套路でできるわけがありません。

体操としては良いでしょうが、套路の型は構えであり残心であることを正しく理解して、構えと残心の間にある技を多く練習する以外に套路が武術練習になるはずがないということです。

又、健康効果にしても、構えと残心をいくら繰り返しても、本来の内丹や動功になることもありません。

太極拳は武術ですので、構えて攻防を行って残心します。当たり前です。

その攻防の勢が一切ない套路は、武道ではあり得ない、構えから残心に直接移動するだけですので、途中のなめらかな勁道や、勢の巡りがないため、型も残心も安全な範囲に留めておかないと、関節や筋などを壊す原因になります。

套路を安全に行うよりも、ラジオ体操の方が安全な体操だと思います。制定太極拳は安全域の中で作られているのでほぼ安心ですが、伝統太極拳は武道だなどと思って動いてしまうと、多くの場合障害があります。

伝統太極拳も復興されて再構成されたものです。制定拳と何ら変わりがありません。

太極拳の套路を行うなら、しっかりと武術の基本練習をして、基本勢を身につけ、そして武術の技として過渡式をしっかりと含む練習をして、それから套路を繰り返して練習する事が大切です。

以上のように、構えから残心までの一連の動きを一つの技として使える事ができる者が套路を教えないと、その套路は何の意味もないどころか心身に障害もでかねないものになります。

制定太極拳をまじめに安全域でやることも良いかもしれません。私はラジオ体操の方をすすめますが。太極拳の伝統拳はいくら体操化されたとはいえ、まだまだ武術要素は形だけ残っています。

その武術要素部分を套路でやろうとすると、太極拳を武術として経験していないもにとっては無理があり、必ずといって腰や股関節、膝、そして首、そして経絡、そして神経系統、血流関係(特に心臓)などに無理がかかります。

套路をしているときには呼吸法を正しく行うと副交感神経が優位になり、とても気持ちが良いのですが、表面的な呼吸による引率による副交感神経優位ですので、日常生活においては、その後に交感神経が反動的に活発になります。そうなると、心身の神経系にも障害が生まれます。

一日中呼吸法を正しくしていれば別ですが、根本的な心意がその域に達していないと、そう簡単にはできるものではありません。どのようなときも平常心、不動心であり、武息という意識的な激しい呼吸も、文息という穏やかな呼吸の時も、はしゃいでいるときも穏やかなときでも関係なくです。

套路は、構えと残心の間にある過渡式の中に太極があります。太極とは陰陽の和合、すなわち、神経でだけいうと交感神経と副交感神経の混沌とした和合です。

一般的に普及している套路の型は構えと残心ですが、そこには極があります。リラックスしてできている人は副交感神経が優位になり、意識を入れてとか、形や姿勢にこだわっている人は交感神経が優位になります。

どちらにしても有極です。

瞑想太極拳と私が名付けている套路は、その過渡式の合極が大事なのです。それは武術として技を多く練って無為自然にその技が使えるようにならないと、合極など得ることができません。合極を得て動いている套路は見ればわかります。

太極拳が無敵だと言われたのは、その技の合極の拳理が武術理論として完全であったからです。套路で行うならそこは眠るような無の状態です。瞑想のような中で武術の技があるのです。

ですから、太極拳と呼ばれたのです。武当山の道家が太極理論と同じ動きが当然人間の心身にもあり、その根本的なもので攻防を行うことができることを、当たり前のように理解し、そしてそれを太極拳法として修練したのです。

ですから、陰陽理論とそしてあらゆる人間の心身の動きが一致している中で、太極拳の套路も武術も修練しないといけません。

しかし、一般的な套路が構えと残心に偏っている限り、そして、その理解がない場合は、太極拳の套路で健康になったり、又武術の練習の一つになる域に到達するはずがないのです。

太極拳の套路はゆっくり行う。

太極拳の套路はゆっくり行う。(想念太極拳・瞑想太極拳)

太極拳は陰陽が離れず、ずっと気によって連綿とつながっている。

ゆっくりやればやるほど、気を連綿と維持するのが難しい。

実戦においてその気の途切れが、隙となる。また技が崩れるところである。

相手のスピードがゆっくりに変化したとき、そのゆっくりと動くところでの気の維持ができなければ、相手に勢を委ねてしまう。要は相手の勢によってこちらが制御されるのである。

ゆっくりと動いても気が途切れない。

ゆっくり動くと、心の中にも多くの雑念や煩悩が現れる。

張り巡らされた配水管に勢いよく水を通せば、少々のつまりがあっても水が勢いよく循環する。

しかし、ゆっくりと水を通すと、てきめんにそのつまりにより勢いが減少する。そしてそこによりつまりが増える。

ゆっくりと動けば、よく自分のつまりがわかる。(想念太極拳・勢起)

そのつまりのない動きをもって全てを調整する。(想念太極拳・勢収)

詰まっているところが実戦においては致命的である。

太極拳の套路で気を通し、その心のつまりを取り去り神(しん)を通し神通力を得て、その身体のつまりを取り去り精(せい)を通して精通し、気を流し、神通力で精通する太極拳の境地を得るためには、最低でも24式なら30分、85式なら2時間位で動けるような套路の練習が必要である。

気を大河が流れるように連綿と維持する。難しいように思うかも知れないが、それが当たり前にできないところに、人間の心身の問題が生まれていることを知る。

先天(生まれながら)において、ひとは気は絶えず連綿と大河の流れのように流通している。

しかし、後天(生まれた後)において、多くの滞りを持ってしまっている。それが人生を健康に元気に生き抜けない理由の根幹である。

ゆっくりとした套路を、自らの人生の生まれてから死ぬまでと想像して、いかに楽しく気を滞ることなくやり終えるか。

そしていつの間にか当たり前に気が通り、神通し、精通し、その套路の刹那にのみ全てが存在するという、三昧の境地で太極拳が動くようになる。気がついて終わってみると85式であれば3時間もたっていた。これが瞑想太極拳である。

人生のその時その時をただ楽しく生き抜いた。気がつけば◯年もたっていた。

人生もまたこれと同じである。

太極拳では膝を壊す人が多いですが、膝を壊さず瞑想太極拳まで至るにはどうすればいいですか。

メールでご質問いただきました。ありがとうございました。

もともと太極拳の動きは、基本をしっかりしていないと膝を壊すのは当然の動きなんです。その他の武道も同じだと思います。

日本で普及している太極拳は、お年寄りでもすぐに始めることが出来る運動として普及しています。

しかし、基礎的な武道としての動きの基本を修練していないと、太極拳の高度な動きは当然、膝だけでなく、腰や首などの関節部分を痛めるのです。

そこで、制定太極拳は、その痛めることのない安全な範囲で動けるように制定されたものです。けが人が続出したりすると、もちろん普及もままなりません。

又、年配の方がすぐに行えないのであれば、手軽な健康運動という目的も達成できません。

しかし、その安全な範囲を維持するのは、太極拳の本来の自然でおおらかな自由な動きと相反するのです。

従って、太極拳の動きはいくら安全範囲で動く姿勢や型を習っても、ついその範囲を超えてしまうものです。

その時に、太極拳の動きはその範囲を超えた部分にダメージを及ぼします。

近年太極拳をしている人の多くの方が、膝や腰を壊している方が多く見受けられます。同時に首や背骨の異変から、肩こりや内臓疾患に問題を持っている方も増えてきています。

私たちからすると当たり前のことで、私の先生は以前から指摘していました。

もちろん武道家にも多いですね。その人達は主に交感神経を多用している武道に多く見られます。太極拳は副交感神経を主にして発勁しますので、全く心配はありません。

そこで、ご質問へのお答えですが、太極拳の套路を行う前に必ず基本を身につけると言うことが最も重要です。

一般に普及している太極拳の基本は、安全域を維持するための、膝を足先より前に出さないや、足のグリップの方法や姿勢の維持などが基本ですが、本来の武道としての太極拳の基本は逆です。

どのような体勢にになっても、例えば膝が足先よりも前に出ても、膝に何の負荷もかからないし、又その体勢が自然に復帰するような動きを身につけることが基本です。

従って、健康太極拳として安全に日常のささやかなリラックス運動として行うなら、私たちは太極拳よりラジオ体操をおすすめします。ラジオ体操をゆっくりとリラックスして気を巡らせて行うのが一番いいと思っています。

太極拳は武道ですので、基本を行っていないと必ずといっていいほど身体をこわします。

しかし、太極拳は、人間の潜在能力を極限まで引き出し、そのあらゆる動く範囲まで全てを太極拳として練るものです。まるで大河が悠々とおおらかに何の制限もなく流れているイメージです。

本当の太極拳を身につけると、人間としての最大限の可能性に及ぶまでの範囲を、自らの生命エネルギー(気)で満たすことが出来るようになります。

そこで、私たちは太極拳の練習の時に行っている基本練習を、誰でもが楽しく簡単に効率的にできるようにするため、エアロタイチという太極拳の基本単練とエアロビクス(吐納法=気功法)を組み合わせた基本修練を広めていくことで、せっかく広まった太極拳の本当のすばらしさを多くの方に知ってもらえるようにと活動しています。

エアロタイチでは、一つ又は組み合わせた太極拳の型を特別な歩法を使って、吐納法を使ってミドルテンポのリズムで動きます。

特別な歩法とは、人間の身体にある均衡反射という動物としての本来的な自然な動きを使います。この均衡反射は、階段で転びそうになったり色々なバランスが壊れたときに発揮されるものです。そこのところを普段から呼び水をするように呼び起こす訓練が特別な歩法練習です。

吐納法はとても重要です。呼吸と動きは一体であり、自然な呼吸と自然な動きの中で人間の本来の反射や動きが起こります。緊張しているときに一番けがが多いのはそのためです。その均衡反射などの動きは反射という人間の最も無為なところで起こります。ですから、エアロタイチを行うときなどは音楽を聴きながら、何も考えることないリラックスした状態で、その動きを呼び起こします。

その動きで発勁という動きの最大点を迎えるときに、通常の武道の呼吸は主に緊張状態の時にあります。太極拳ではその時に、逆腹式呼吸を使用してリラックスを維持します。

その時にちょうど、膝などが最大に進むところまで進んでいるので、ここで均衡反射が正常に行われ、その反射と合致した動きが自然と行われないと、もちろん膝を壊すのです。

リラックスをしていて、自然な均衡反射に沿って膝が回る。その訓練を最初は小さな動きからだんだんと早く大きな動きに替えていきます。

これが歩法の部分だけの基本練習です。これを続けている内に、型を使って歩法や呼吸法など、又上半身や手先、首や背中腰の動きまで細かく、基本の動きを身につけていくと、いつの間にか套路の型は覚えてしまうのです。

後は順番とその過渡式を覚えると套路は完成です。

自然な型を覚えてしまうと、過渡式は次の自然な型へつながる自然な動きですから、いとも簡単につなげることが出来ます。

全ては基本です。站椿や推手も大事ですが、套路をやるなら武道としての太極拳の基本を身につけることが大切です。

最大の可能性の範囲まで本来の動きを取り戻した人間の身体は、外で誰かにぶつかられたときなども同じようにその能力を自然に発揮してくれます。

安全範囲で太極拳を行っている限りは、私は套路をすることをお進めしません。

なぜなら、人間の身体は何もしなければどんどん衰えます。安全範囲はどんどん縮小すると考えてください。

安全とは、その限界から遠ざかることです。安全な範囲で行っていると、その限界はより安全に行っている範囲まで近づいてきます。又そこから遠ざかることが安全範囲になります。

従って、今、膝を足先より出さない範囲が安全だと思っていても、膝は安全範囲をどんどん狭めてきます。そこで言われたとおりやっていても膝を壊すのです。

しかし、その限界を超えるのは、その限界を無理なく超えた人から教わるしか有りません。たぶん昔も多くの人が膝を壊し、本来の自然な動きが出来た人だけが、太極拳の本当の使い手となったのでしょう。使い手だと言われている人で膝を壊したり身体をこわした人は論外で、本来の使い手は、仙人のように若々しく、元気で、健康でバイタリティあふれるようになるのが当たり前です。

太極拳は武当派と言われる中国の武当山の仙人修行の人たちが源流のものがあります。

今は、世界中に分散していますが、健康太極拳とは全く別のものと考えた方がいいと思います。

メールをいただいた方は、私の24式の動画を自分の身体が求めている動きであると感じたと言っていただきました。

そうなんです。本来の自分の身体が求めている動きをすることが太極拳なんです。安全のための細かい姿勢や型を気にせずおおらかに動けてこそ太極拳です。

中国では昔から、太極拳は幸福と健康 願望の実現法でした。

中国では昔から、太極拳は幸福と健康 願望の実現法でした。 これからは平和と福祉の時代と言われています。 その時代に備え、心身の健康と、自分を超えた全てのものとの繋がりを思い出し、本来の人間の気を充実させる。そのトレーニング法の一つとして、現在でも行われている華僑賢人の知恵、瞑想太極拳をご紹介します。 本格的な楊家の伝統太極拳古式85式と、制定簡化24式による瞑想太極拳で無常でない幸福と、真の健康、そして、願望実現のための心身を造ります。

頭推按を施してきました。

自分の心の持ち様は表面的な意識だけでは計り知れません。

テレビに登場しバイタリティ溢れ、しっかりしたコメントをされている人、大きな会社を素晴らしい能力でリーダーシップをとっている人、どこから見ても心の持ちようは心配がないようですが・・・

二人とも、無理をしているようなので、以前太極拳を勧めたのですが、忙しすぎてなかなか出来ないと言うことなので、しばらく様子を見ていました。

案の定、男性更年期障害のような症状が出ると言うことでした。

二人は友人同士でしたので、内科、循環器、精神科、心療内科などの医者にも相談したらしいのですが、いつもどおりの要領しか得なかったので、とうとう私に相談しようと言うことになったらしいのです。

私は、まず硬い体と体中の経絡・神経などをほぐすために、簡単に甩手を10分位していただきました。

その後、一人は別室で待たせ、一人一人いつものように(いつものようにといっても3年ぶりぐらいですが)頭推按という頭部への気功術を施しながら、色々なことを話しました。    頭推按では経穴の緊張や緩和で、その人の心身や深層心理などの状態が分かります。

それに合わせて、カウンセリングのように話をしながら、頭部や顔面の経絡と経穴を両手の五指で太極拳をやっているように、気を計りながら押し流して動かします。すべてが繋がり始めます。

いつもそうですが、二人に限らず、終わった後は、多かれ少なからずですが、世界が変わったと言います。 体は雲の上にいるようで軽くなり、緑や空の色があざやかになり、なにか眠くなったようなゆったりしたような感覚になると言います。  そのまま、毎日を過ごせばいいと言いましたが、彼らはたぶんまた元に戻るでしょう。  再度瞑想太極拳を勧めておきました。

頭推按をした後、中には号泣する人もいます。テレビのニュースでの政界がらみの大きな事件で逮捕され強ぶっていた人も泣きます。  中には寝てしまう人。完全に不安が無くなってしまった人は、まれですが、相手が女性の場合は、これ以上書けないことも起こります。仕方がないことです。完全に受容した状態になっているからです。女性だけとは限りません。男性の場合は精神的なものですが。  彼らも不安の根にある緊張は半分くらいとれたので、5回くらい続ければもしかしたら、行くところまで行けるかもと言ったのですが、翌日にはとても体が見違えるように調子が良く、気分も最高だということで、感謝されて、その後はまた調子が悪くなったら頼むと言われました。次からは、私にとっての優先順位は下がります。本気で生きる意味を考えたい人が優先です。

頭推按をやっていくと滞っていた緊張のような不安のこりが少しずつ溶けていきます。

その時に考えることは、過去の出来事も不安の反対側にある温かい感覚で再経験したように考えるようになり、新たな認識を再創造でき、未来のまだ起こっていないことへの愚かな不安も希望に溢れます。

カウンセリング理論でもそうですが、不安への受容があって、今度は自分への受容が始まり、その後に問題解決のための解釈が始まり、問題が解決していくと同時に、あらゆる事が、その解決した理解で驚くように好転し、一挙に再創造に向かいます。

頭推按は、その不安によって滞った経穴や経絡から緊張をほぐし、気の流れに呼び水を起こすことのフィードバックです。

感受性を高め、ゆっくりと体に流れる気(エネルギーの流れ)を感じ取りながら、その流れの滞りを、経絡という川の流れに沿いながらゆるやかに流していくことが大切です。その行き先は深層に有る不安の根です。そこに水が流れ込むことで、不安は育ち飽和して愛に転化します。  この感覚を感じ取りながらやるのです。

私は頭推按を施した後、とても気持ちが良く、それでお金がもらえるなんて、楽しい限りですが、頭推按をやったって、その場だけであれば何の意味もありません。

毎日太極拳をやったり、酒たばこをやめ、規則正しい生活、自立した健康維持、少しは自分を内観して、弁証して、再創造する。  心身の新陳代謝と、存在の新陳代謝です。

とても大事です。

ちゃんと言っておきましたが。

愛に飢えている自分を真に発見し、受け入れることが出来なければ、頭推按もその場しのぎです。

頭推按のお陰で、不安がとれた分だけ、多くのことを受容して理解は出来たようですが・・・

後は彼たち次第です。

最近思うことですが、子どもの頭の経絡や経穴が気になります。  子どもは頭推按をすると、心の底から快感が有るみたいで、よだれを垂らすほどです。何回もねだられます。

子どもの頭推按で呼んでくれないかな。  とても面白いですし、終わった後の笑顔がとても好きです。一緒に同じように笑いがこみ上げてきます。

大人でもそう言う人に巡り会うのを楽しみにしています。