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太極拳の楊式は、実際に使えない。これはとんでもない間違いです。

今一般に普及している太極拳は、攻防を目的にしたものではない、ただそれだけのことです。

楊式は楊無敵と言われたほどの理想的な攻防術です。しかし、それを極めるには、武道としての太極拳、すなわち、道が必要なのです。太極拳は道教の道の教えから名付けられています。しかしそんな難しいことはさておいて、簡単に自然で、無為すなわち故意ではない自然体であるときに使える武術なのです。

従って、私たちは太極拳を武術とは言いません。武道と言います。

武道としての太極拳であれば、太極拳は使えるのです。何に使えるか?こんな平和な日本で?そうです、この平和な日本で、自らが心の底から間違い無いと選択したことを、自分の意思をはっきりと言えたり、自信を持って実行できるだけの、頼れる自分自身を整え、そして、いざというときに無意識に邪を簡単に制すことが出来るという自信を持てることです。それが、人間としてこの世に生まれた当たり前のことであり、当たり前に生まれたことだけを幸せと思える無為自然の状態に戻ることなのです。(難しくは還虚といいます。)

太極拳を武道として完全に身につけると、自分の中の本来の自然な機能が完全に自分を守りきれることを知ることになります。又意識を持っては威力を発しない太極拳は、邪心があると威力が極端に落ちます。無意識にただ生きていることを幸せに思える人は、あらゆることに満足していて、邪心がありません。そこを犯されるときのみ太極拳の威力は最大限に発揮されます。それを知ることになり、清らかな心と共に大いなる自信に包まれます。

その自信の上に立って、人間としてその本能(馬にたとえられます)と自我(猿にたとえられます)を自分の無為自然な心(お師匠様にたとえられます)と共に人生を楽しむことが出来るのです。

これが孫悟空の物語の理念です。お師匠様の自信が、人生において本能と自我を解放し、大いに人生を楽しむことが出来るのです。欲望を抑えることも、自我を制限することも必要ないのです。お師匠様が完全に無為自然(悟り)に到達するまでは、猿を制御したり、馬のたずなをさばいたりする必要があったのですが、それは、本来の人間の生き方ではありません。最後に三蔵法師は悟りを得て、馬も解放して、猿も解放しますが、馬も猿もお師匠様といつまでも共にあると言って物語は終わります。

すなわち、太極拳を武道として完全に身につければ、ストレスがたまったり、不満にとらわれたり、不健康な心身に悩むなどとは縁の無い世界へ戻るだけです。

太極拳は、そのような本来の人間の自然なる無為なる輝ける自分を完全に思い出し、又その自信に満ちあふれるための手段の一つとしてとても優れている。ただそれだけのことです。

自分の中の無為なる自然な機能は、太極拳の武道修練によって研ぎ澄まされ、高齢であっても婦女子であっても優劣のない、その無為なる自然な機能によって火事場のくそ力とも言われるような勢が自然と生まれます。その勢により勁が発せられたり、動かされたりする技や型が自然と身につきます。それは無為なる自然な機能と勢を繋ぐものが気であることもすぐにわかります。(難しくは神気精の一致と言います)自分の本質である輝ける自分と心身の動きの全てである勢が一致した瞬間は、恍惚感に包まれます。それが太極拳の技の完成です。そこに太極拳の醍醐味があるのです。

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