本日の武道練習2015.5.24

①散手運用

攻守散手・胴をつけて攻守拳脚
②右進右射虎掌
右に気を進め、相手の右太陽穴に右射虎掌を放つ。
③散手対打
右進右射虎掌〜転身按〜換歩左掌〜圧掌独立膝撃〜下按
④招式
(立腕を両手で握られた場合の攻防)※握る又は上下に移動の場合(海底針解腕)※懐中抱月(倒攆猴式)に対する攻防(抱掌解腕盤肘撃「野馬分鬃」)※懐中抱月(倒攆猴式)の練習※補足「懐中抱月(高探馬式)」
⑤招式
右手を右に大きく振られて踢脚を心窩に蹴り込まれる(相手の左手の場合は、斜飛脚、相手の右手の場合は十字脚)今回は十字脚のときの攻防(転身大扌履摔)摔角(転身大扌履撅)擒拿※補足・別式に抱掌射虎撃があり※十字脚の練習(胴をつけて)※補足(十字脚の内外への攻防、斜飛脚の内外への攻防を整理しておくこと※どちらも解法からの拳脚・擒拿・摔角あり)
⑥招式
右手を両手で下に押し下げられたときの攻防(沈肘解靠)解法※野馬分鬃
復習(左眄栽撩拳)
⑦招式
金的蹴りを脚で受けて、相手の金的に蹴り返す。内からの金的攻撃(腿防分脚)外からの金的攻撃(腿防指襠捶)

■詳細

※本日の練習の相対招式の技術を詳細に記載しています。要訣など、随時加筆していきます。

 

知られざる手揮琵琶

syukibiwarozen 楊家の三世、楊澄甫氏が演じるこの型は、太極拳の中では最もシンプルな型に見える「手揮琵琶」です。以前に実戦空手の髙段者にこの型を披露したことがあります。その彼は前足の虚歩の場合の構えは、空手の場合は猫足だといい、太極拳の構えとは違うというのですが、とんでもない、太極拳でも虚歩の構えの場合は猫足ですよと説明したことがあります。また、手揮琵琶には弓歩の構えもあり、古式楊式太極拳の実際の套路の過渡式に含まれています。
  実際に手揮琵琶を使って、彼と技で攻防を行ってみると、彼はその効果をとても納得したばかりか、その日から入門して太極拳に深くのめり込んでいきました。
 しかし、近代において太極拳が套路として伝承されてきている中で、太極拳を行っている人たちの中で、手揮琵琶の虚歩の構えが猫足であることや、弓歩の構えがあることをを知っている人に会ったことがありません。私のところの道場では、招式、散手練習における手揮琵琶の虚歩の構えは猫足で、実戦練習では弓歩も多用します。しかし、套路においては一般の套路と同じく踵を地につけた虚歩で行います。この意味がわかると、この手揮琵琶を使った技を強烈な攻防一体の技術として使えるのです。套路においては、その攻防一体の勢いを涵養しているに過ぎません。套路は構えの連続した型ではないのです 。実際の戦闘術における勢を徹底的に練り上げる練習法なのです。従って、この意味さえ知らなければ、套路の本質さえないということになります。なぜ、前足の爪先が上がっているか?楊無敵と言われた楊式太極拳の創始者である、楊露禅の行っていた太極拳の本質に立ち戻ればいいのです。そして、その本質は実際の相対の招式を行って理解できるものです。当道場では、基本を身につけた後は、応用または武道でそれらを涵養していきます。

護身

IMG_0085 ひ弱な女性や、年配者にとって、強力な筋肉と打撃力をつけて身を守ることなどナンセンスです。

 私の弟子の30代の女性たちを筆頭に、ほとんどが小柄でひ弱ですが、初心者でも強烈な護身能力を持っています。
 本来の太極拳は、寝たきりのおばあさんがとても重いタンスを火事場から持ち出したような、火事場のクソ力を、平常心で引き出す訓練をします。
意識的に鍛えた力は、潜在能力(無意識下の能力)の約10%程度しか発揮できません。
 母親が走る車を突き飛ばして子供を助けたというような話は、もう今や当たり前にあります。
 太極拳は、人間として生まれたときから、人間としての、また生物としての(生物の動きを人間の体のうちに見つける勢い)、物質としての(人間が宇宙から始まり物質としての性質もあること)の基本的勢い、人間の体の制約による反射や物理的運動の基本力学を勢いとして訓練します。
生まれながらの勢いは、日常絶え間なく無意識に働いています。しかし、約10%程度しか使用していません。
 しかし、子供の時にだだをこねる勢い、誰かに捕まりそうになると突っぱねる勢い、咄嗟に身を避ける勢い、転びそうになると元に戻そうとする勢い、数を上げるときりがありませんが、日常的に無意識でただ生きているだけで、いざというときに能力を上げて働いています。
そこで、その潜在能力を利用しようと、中国の武当山で開発された拳法が内家拳法であり、後の武当派太極拳です。
それにより、ひ弱な女性でも、頑丈に意識的に鍛えた筋肉やその強さにも簡単に勝ることができます。
 ニュートン力学のエネルギーは質量×速度の2乗であるのであるのですから、ひ弱な女性は筋肉の力やその質量を何かで補う必要があります。
 まず、徹底的に体重を無から100まで移動させる訓練を行います。これが太極拳の分虚実です。
そしてその体重がある一点(三尖)という発勁点まで100%伝わる(三節)訓練を行います。
そして、刺激を受けたらすぐに反応する無意識下の感受を使って超速に反応する訓練をします。(無為)
そして、最も小さい発動である、仙骨前の丹田という力点を使用して、骨が背骨しか無い腰を振動させて超速の動力を生み出します。(鬆腰)
これらは真の太極拳を学ばないと会得できません。まだまだ、それらを補うどころか凌駕する理合により太極拳は成り立っています。
そうするとどうでしょうか、50kgに満たない女性がある一点に100%の重量を集め、すなわち全体重をその発勁点に移動し、その速度を極めていけば、ニュートン力学のエネルギーの通り恐ろしい力を発するのです。これが発勁です。そして、その上徹底的に、急所を打つ技術を極めます。
そして円転する動力の再利用は、均衡反射の動力を鍛え上げ、太極拳独特のエネルギーの連鎖を生みだすから、絶えること無くその動力を使用できるのです。
護身術はひ弱な女性でも使えないと全く意味がありません。意識的に筋肉や拳を鍛えても、潜在に眠る能力を利用できなければ、いざというときには、強大な力を持ったプロレスラーも、ひ弱な女性に簡単に負けます。
関西で1万人以上の暴走族の長に立ち、恐ろしくケンカが強い小さな体の若者がいました。高速道路で、その人の車に乗せてもらうと、キャロルの音楽を聴きながら、まるで踊るように車と車の間をすり抜けるように走り抜けます。とても楽しそうです。その当時は、テープレコーダーだったので、何度も聞いていたのだろうと思いますが、テープが伸びていると、運転が乱れ、「おっとごめん」と言われ、ひやっとしたのを今も覚えています。彼の戦闘もまるで踊っているようで、相手が十人いて、鉄パイプを持った大男でも、彼には赤子の手を捻るようなものでした。
太極拳は、生まれながらにしての無意識下にある能力を最大限に引き出す訓練を行うのですが、それを邪魔をするのは、固定概念や条件的意識です。
だから武道は無を求めるのです。無を得れば、無意識下の能力を余すこと無く使えるようになります。火事場のクソ力を当たり前に、いざというときに使える訓練をするのです。子供の時に体にみなぎっていた勢いを思い出し、最大限に増幅し、それを使えるようにするのです。少しでも頭に意識が上れば、その意識により自分のクセや、今までの多くの運動条件が作用し、動きは沈滞し、その上、相手の体や人生を気遣い、社会的制裁が頭をよぎり、前後のことを意識し、ブレーキがかかるから、潜在能力は使い切れません。従って、太極拳は徒手戦闘術で有り、完全なる護身術で有り、格闘技では無いのです。
格闘は、格闘のための技術ですから、意識的に鍛えた技術のぶつかり合いを勝負するだけであり、定められた条件で格闘をして、その優劣などを決めて楽しむものです。
太極拳は宮本武蔵が生き抜いた剣術と同じで、本当に相手と殺し合いをするから使えるのです。柳生新陰流も、相手を殺す戦争の術として幕府に認められたに過ぎません。そうでなければ剣道になるのです。叩いて一本です。刀で相手が斬れる、それも急所を斬るから、柳生新陰流という剣術があるのです。従って、突き刺すなどの危ない技術も本当に危険なときに、徒手で使えるのも柳生新陰流なのです。柳生新陰流の勢で急所を徒手で突かれると、太極拳の点穴と同じような効果がありますが、点穴の代わりに剣先があるので、徒手を刀のように鍛える三節も必要でしょう。しかし、柳生新陰流には突きの技術に「尖」という技術があるので、徒手でもそれが使えれば点穴を使えます。転という円転から打ち出す突きは太極拳の三節三尖技術と同じです。
太極拳も同じで、いざ自分が襲われ、自分の大切なものを命がけで守るときに、相手の命を奪うことを止むなしとして使用するだけの破壊力を出すようにできあがっています。
太極拳でも散手対打をしますが、解法という特殊な技術を身につけながら、その発勁をまともに受けないように練習します。もちろん打つ方は、意識を使って制御しますから発勁も出ませんが、無意識に発勁が出ると危険です。その練習の中で、意識しないで考えないでいると、発勁点まで勁が到達することを覚えます。その発勁の感覚を覚えれば、その感覚を毎日の套路で繰りかえし、その勢いと発勁を練り上げます。そして、昼間は単錬の快拳でその実際を練り上げます。無意識下にある潜在能力を絶えず鍛え上げておくと、いざというときに現れる無意識はいつもの無意識なので、意識はそれに対して驚きもしません。すなわちパニックになりません。絶えず、危険な場面を練習で創作し、その時に現れる無意識を知り、その無意識を利用できるように訓練しておけば、パニックの時に現れる無意識は、いつもよく知る無意識であり、またその無意識を利用する術を知っているので武器になり、その上安心であり、すなわち平常心です。
意識だけを極めて格闘する癖を付けていると、いざというときに現れる無意識に翻弄されます。意識だけを極めて訓練した格闘術は、意識を持ってしか使えません。無意識に動く、すなわち生まれながらの勢の勢いに気を与え、精(心身)に100%行き渡らせ、火事場のくそ力を当たり前に使える訓練をするのです。25、6年前、深夜に二人の男性に襲われ、路地に拉致されそうになった私の30代の弟子は、小柄できゃしゃでか弱い女性です。その女性が、相手の一人の男性を頸髄損傷させてしまいました。その男性は下半身麻痺になり一生身障者になってしまいました。もう一人も鼻骨骨折の重傷です。その時のことを聞いてみると、思い出してみると数秒のことだったらしく、彼女は後から捕まれている男性の顔に、自分の頭の後頭部を無意識で打ち付け(教えていた、太極拳の海底針の発勁です)前から首を絞めようと向かってくる男性の腕に自分の左手を捻転させ、同時に喉に白蛇吐信(基本の発勁です)を虎口を開き打ち出したようだといいます。後に警察での検証で双方の話を聞いて、その通りのことが起こったことが確認できたそうです。相手が抱きつこうとする勢いと、後ろの男性の顔面を後頭部で打った反動で前に進む白蛇吐信は強烈で、後ろの男性はうずくまり、前の男性は数メートル飛び、その隙に逃げたそうです。男性の一人が彼女の働いている飲食店のことを知っていたらしく、後に警察から呼び出され事情を聞かれ、太極拳を習っていることを言ったそうですが、一笑に付されたそうです。その後正当防衛が認められましたが、彼女は太極拳をやめ、私の前からもいなくなりました。重く、彼女の人生にのしかかった負担は言葉で言い表すことができません。男性は暴力団の構成員で大学ではラグビーをしていた二十歳過ぎの若者でした。ラグビーで首を鍛えていなければと考えると恐ろしいばかりです。このような不幸が無いように祈るばかりです。
そこで、太極拳では危険を察知する感受性を高める訓練を行います。初歩では、気功などにある八触です。そしてタオの思想により、全てのことをありのままに当たり前に感受するという思想と、内丹によりその能力を高めていきます。それはセルフエスティームで有り、バウンダリーです。
当時は、彼女にこの二つの訓練をすること無く、ただ太極拳の技術を教えていたことが悔やまれます。
10年前から横浜で再開した太極拳の道場において、最近は、積極的に無意識の感受性を高め、すなわち自尊能力を最大限に高め、しきい値感知を極めるための思想訓練や、内丹術も行っています。これからは、危機に遭遇しない、危機を察知したらすぐに危険を回避する技能をも教えていきたいと思います。武当派の太極拳には、これらの技術も備わっており、相手を怒らせたり、翻弄させたり、意識をそらしたり、煙に巻いたり、嘘泣きや、嘘怒り、嘘病などの演技能力も太極幻術として鍛えていたそうです。それらの技術は、私がたまたま私の祖父達の生き様を見ていたために、悪い意味で身についていたのですが、王師と母のおかげで、それが円転して人を生かす幻術となりました。私は、これらの能力でどれだけ命拾いをしてきたか、本当に王師から教わった太極拳には感謝してもしきれません。

違和感

違和感。
清々しい命(生命ではなく、刹那の命)、爽やかな性(先天的な人間としての性)、絶対的な理(何の相対的な条件も影響しない理)が丹、それ以外のものを違うと感じる、その違和感です。
美しい真珠を選定するときに、ひたすら美しい真珠を愛でてその命と性、その理を感じ尽くしてから、多くの真珠の中から違和感のあるものを感性で取り除いていく、そして残ったものが高潔な真珠として世に出て行く。

太極拳では、坐道(静坐)や存思(瞑想)でひたすらこの感受性を高めていきます。

武道においては、丹は内勁に有ります。この内勁に違和感のある動きを、武道練習の中で見つけ出し、それを消し去っていきます。

套路においても、この違和感は命を濁らせ、性を蝕み、理が合わず、型を崩し、丹を失い、勢を留めます。
相対練習においても、技を流し、自らが崩れます。自らが崩れると、自らの命、性、理が共に崩れ、内勁は育ちません。

内勁を教わることで、その内勁との違和感を感じ取りながら、自らの内勁を育てていきます。
すなわち、内勁には命と性と理が備わります。丹が備わり技も完成します。

実は、備わるというよりも、ただ思いだしただけです。元々にある先天の能力を。

丹が備わり、人生の日常においても、それに対する違和感を感受すれば、ただ道を歩いているときもあらゆる危険を察知し、人と交わるときも、その邪を見いだし破り、また違和感が無いものとはすぐに融合し、人を活かしていくことは、まるで内勁が備わる太極拳のようです。

このように、違和感というものは、丹を中心にして感受されるものであり、すなわちその丹を極めること、それが大事なのです。

そして、聴勁にしても凌空勁にしてもあらゆる発勁は、その感受によって発せられるのが太極拳です。
宮本武蔵が極めた枕の先。これも全て丹と感受の賜です。

違和感に無意識で動けるようになれば、太極拳も剣術も人生も神明に達することができるのです。

海底針と双龍拉椀

海底針は太極拳における裏勢(りせい)=(体の内側を使って抱き込むような勢)を習得する重要な招式です。

双龍拉椀(そうりゅうらわん)は海底針の示意であり、相手の手首の内側を双龍の上あごで、外側を大小の拳頭を下あごでひしぎ噛んで上あごを裏勢にもとづき内側に引き込み、上あごを前側へ押し噛んでいく手法です。

この裏勢がないと、以上の拉勁は発勁とはならないのであり、重要な練習方法となります。

海底針の裏勢は多くの擒拿術に含まれますが、この双龍拉椀は最も基本的な示意なので、単法として相対で練習をします。

双龍拉椀は相手の手が胸元にある時を想定して練習しますが、相手の冲拳を受けてから拉椀する上臂拉椀・上攔拉椀など多くの技があるので、それらを多く練習することで裏勢の発勁感覚を身につけ、套路において武道としての海底針が行えるように自己修練することが大変望ましいのです。裏勢が生きた発勁を裏勁といいます。

裏勢は転身背摔(てんしんはいそつ)などの摔角の発勁にも、扇通背の勢と合勢にて使用されるなど、多くの技においても練習することができます。

 

太極拳の四隅手における板と棒

太極拳は円の動きで動くと一般では理解されています。確かに十三勢の四正手(しせいしゅ)は円と曲の勢です。

ところが四隅手(しぐうしゅ)は直と伸の勢であり、後は五行の方角で十三勢となっているのです。

四正手は太極拳を聞いたことがある人なら円の柔らかな動きということで理解はできるでしょうが、四隅手は理解しにくいものです。

四正手も四隅手も五行も、相対の武道練習において詳しく学びますが、四隅手の勢を実感できるのは特に拳脚の相対練習になります。

冲捶は拳面で相手に打撃を与えますが、身(靠)からおこった勢は、肘、手腕(列)、尖(採・拳面)と矢のように到達します。

この時の勢の流れが四隅手、理においては三節になるのです。

冲拳では拳面ですので、身から出て肩から拳面までが、固い真っ直ぐな一本の樫の木の棒になり、その棒の先端に全体重と勢が行き着き、勁が飛び出すように突くのです。これが四隅手の勢です。

冲拳の練習においては、小指から中指の先が、手首を輪切りにした中心に突き刺さるような感覚で、拳面にまで気を通します。一本の棒になるのです。もちろん発勁の瞬間だけ棒になるのです。冲拳の練習はサンドバックなどでもできますから、一人でもできるでしょう。

 

しかし、もっと四隅手の高度な練習は、身(靠)と肘と手(列)と尖(採)を直で繋ぎ、伸ばしてしまい板にしてしまうことです。体の薄い部分とそれらを一枚の厚い板のようにしてしまい、その板の角や縁を相手にあてるという発勁です。

板の全ての重みと、その意動力が板の縁や角に集まるのであり、その威力は絶大になります。

このような四隅手の合勁の感覚を実感する技として、攔腕肘挒(らんわんちゅうれつ)があります。

攔腕肘挒は相手からの顔面への冲捶を進歩搬攔捶の欄で受けて、受けたその腕で肘挒を相手の気舎から頸脉へ鑚勁を放ちます。

この時の、発勁は四隅手の合勁となります。体から肘挒までは一枚の板になったような感覚で、そのまま急速に移動して板の縁を相手の気舎から頸脉までに斜めに「ゴン」とたたききるようにぶつける感覚です。

四隅手が理解できると、合勁が理解でき、この攔腕肘挒は完成します。

攔腕肘挒は搬攔捶(はんらんすい)という招式、套路では進歩搬攔捶という型の示意(用法)ですが、相対でこの技の練習をしていると、進歩搬攔捶の套路で前に掌が伸びながら欄勢を描いているときに、かならず四隅手の合勢を感じることができるようになります。

このように、武道の練習をしていると、套路において、とても大切な一瞬を理解できることとなり、套路自体が本物の太極拳の套路となるのです。

進歩搬攔捶にはこのように、太極拳の四隅手の板と棒が含まれていることを知ることが大切です。

太極拳は意識で動くと他で教わりました。意識で動くと無為ではないですよね。

太極拳は意識で動く?そんなことをしていたら太極拳ではなくなります。
太極拳は無意識で動きます。

無意識とは何でしょうか?

無意識とは意識がないと言うことでしょうか?

実は違うのです。

意識には顕在と、潜在があります。そのどちらも意識なのです。

潜在にある意識が、自分では顕在しないで働くことが最も多く、癖や執着などに現れます。煩悩や見えない雑念なども全てそこにあります。

太極拳で言う、無意識とは完全なる純粋な意識です。無為自然と言います。

無為自然とは三昧は近いところにあります。太極拳三昧という境地で太極拳の套路ができるようになるまで修行するものです。

それを太極拳は意識で動くなどと言う間違った考えで太極拳をやっている限りは、その域に到達するのは難しいと言えます。

意識で動く間は、動きを覚える程度の場合です。初心者とっては大切でしょう。

しかし、いずれ心意のおもむくまま套路ができるようになります。ここで初めて動禅といわれるレベルになります。瞑想太極拳と言うこともできます。

座禅にも段階があるように、意識に浮かぶ想念を受け流しながら進む套路は、想念太極拳として分類し、ただ無為三昧において、動く世界を真の套路として考えます。

武道として実戦で使う場合は、太極拳は無意識の拳法です。

死にものぐるいになったときに、最も強い力として自然な動きを発するところは、深くにある生存と存在の力です。

そこから発せられる勢が、十三勢などと呼ばれている、勢です。何も13だけではありませんが。

套路において、純粋な三昧で動くことは至福の安らぎと、エネルギーを感じます。
気持ちが良くて、最高の歓喜のようなものがわき上がります。

実際の攻防の中では、いかに無心で平常心であるかということで、見える世界が変わります。
闘争本能をあらわにした場合は、交感神経が高まり、感受も視界も狭くなります。

私たちが行う、武道練習はいかに気持ちが良く、勢と勁にあふれたさわやかなダイナミックな動きができるかと言うことを練習します。

一人でゆっくり行う套路のように、いかにその状態で動けるかを、攻防で練習するのです。

套路の感覚が、攻防でも感じるようになれば、勢と気と勁の一致の完成です。

武道練習ではその一致をひたすら、多くの技の中で発揮しながら練習します。

套路と相対練習において、その差がなくなってくる事に、修行者のレベルが上がってくるのです。

套路と、相対の相乗効果が練習の成果です。

太極拳とストレッチ・柔軟運動

本来の太極拳は、中国北派の武当山中心に修行されていた武当派といわれる拳法です。楊式太極拳を普及したとして有名な楊澄甫も、南京中央国術館の武当門門長として太極拳の普及に努めました。

このように太極拳などの武当門の拳法は内家拳と呼ばれ、少林門といわれる少林寺を中心とした門派を外家拳と呼んでいました。
内家拳と外家圏の違いは、史実からなど見ると、内家拳の創始者といわれる張三豊が道家の内家にいて創始した拳法であり、少林寺をを外家と呼んだこととか、色々説があります。
しかし、大きな違いは拳法の攻防理論にあるといわれています。
外家は功夫(鍛えて訓練すること)にて、肉を鍛えて、腹式呼吸での虚実(運動のオンとオフの切り替えのようなもの)を育て、打つときには緊張を高めます。内家は勢という自然な勢いを修練して、筋を俊敏にして、逆腹式呼吸での虚実を育て、打つときには緩和します。
このように、一つの拳法理論をしても相対した理論を示すことができるのですが、外家と内家で厳密に分けてしまうことはナンセンスであり、ただ、自ら修行する拳法の仕組みを知るための一つの考え方であるものであると思います。
そこで、最近ストレッチは有害という情報をよく目にします。
多くのスポーツ選手にとってストレッチは有用だとされていて、ほとんどの人が疑いもなく運動前や後には柔軟やストレッチ運動をしていました。しかし、現在のスポーツ研究ではもはや議論の必要すらないぐらいにストレッチは有害だというのです。
実際にストレッチを行った事が運動のパフォーマンスに与える結果を調べてみると、全然効果がないどころでは済まず、ストレッチを行った方がむしろパフォーマンスは低下し、怪我も起こしやすいという衝撃的な調査研究結果が2000年前後から次々と発表されているのです。
このようなことでも、今になって実は有害で効果がなかったという事になるぐらいですから、拳法の理論も伝統的なことをただ引き継ぐだけでなく、色々と疑問を持って研究することも大切だと思います。
さて、内家拳では身体の柔軟運動や筋をのばす運動は行わないというのが伝統です。
これには、ちゃんと理由があって伸びすぎ、固すぎを嫌うからです。
単純に伸びすぎているものはすぐに切れるし、固すぎるものはもろいということです。ストレッチは伸びすぎの部類として考えられているからです。又、人間の身体は固すぎというのはなく、太極拳の技法で相手を固めてしまうことで、固くしてしまうと考えています。採勢(採り固める)や擠勢(押し固める)などの勢で相手を固くして、壊すという考え方です。又、相手の関節の筋をのばして無力化して壊してしまう技も太極拳の擒拿術には多く有ります。擒拿術の練習で筋が伸びてしまうと良くないので、その都度、整体で伸びたところを固めて元に戻すほどです。伸びた状態を経験した人はわかりますが、その部分の脱力感と脆弱感(脆く、傷つきやすい、攻撃に対して弱いよ
うな感覚)は身をもって理解できます。
このような経験的研究から、太極拳では柔軟やストレッチをしません。
現在の研究では、伸びすぎた筋はもろく運動効率が悪いこと、エネルギー効率は、関節が硬く可動範囲が狭いスポーツマンの方が優れていて、関節が柔らかく可動範囲が広いほどエネルギー効率が悪化してゆくことも発表されています。
内家拳はもともとは道家の内丹術という、健康法と合わせて発展していったものですから、このような健康効果については相当な経験的研究が行われました。
仙人になっていつまでも若く健康に生きようと考えるほどですから、医武同源を武道に求めていったのです。
拳法の修行をして健康になり、身体もこわさず、本来の身体能力を取り戻して、有事に身を守ることができるという経験的研究に成り立った武道が太極拳です。
可動範囲を広げることで、套路などで足を高く上げるなどの動きを演出できますが、そのために無理にストレッチを行ったり、身体を柔らかくすることはお勧めできません。
それよりも、緊張する部分を解き放して、リラックスしていると、いざというときには、驚くほど身体は自然でおおらかにしなやかに動きます。
太極拳は身体を抱きかかえられていても、発勁が出せる武道です。可動範囲を得てバネを失うことよりも、バネを失わないことの方を選んでいます。もちろん、可動範囲も広くバネがあることがベターです。その修行には、まず心身をこわさないことが大切だということを本来の太極拳は考えているのです。

撇身捶は太極拳の拳脚攻防の単練の宝庫です。

この撇身捶を招式という一つの技に分割すると、さっと50ぐらいはあげることができます。

85式の套路には撇身捶が数回出てきますが、その撇身捶を全て違う招式や用法を想定して練習するのが最も太極拳を使えるようになるための効果的な套路練習です。

武当派の流れをくむ王流は実戦的な徒手武術です。その套路にある撇身捶は基本勢のみを練り上げる基本式です。

王流にはその撇身捶の基本勢をもって行う多くの招式があります。主に拳脚による攻防が中心です。もちろん把式も多くあります。

撇身捶は、その後の進歩搬攔捶につながっていき、合法となったり、撇身捶の進歩が分脚となったり、円圏を使用した防御と攻撃になったりと多種多様です。

例えば、進歩栽捶からの撇身捶などは、もともとは二段蹴り(二起脚)などの飛び技を行う前の過渡式として招式で練習していました。しかし、套路であるので、その勢は同じですので、撇身捶で良いのです。

この場合は、その後の進歩搬攔捶と右蹬脚が二段蹴りとなっているのです。

王流では、このように撇身捶は拳脚の基本練習の時に基本性の練習としてよく取り上げます。

撇身捶の撇身自体は後ろからの攻撃などに使う体裁きですが、撇身しないで過渡式を重視して練習することが大切です。撇身の勢は撇身の勢として十分練習します。撇身の勢は五行の一つですので、基本の基本として習得してください。

王流の門下の方は套路を順基本勢として分類することを教わっていると思いますので、体系の中での撇身捶の位置づけを確認しておいてください。

太極拳練習に準備運動はいらない。

どのような運動でも武道でも、準備運動というものを行います。

太極拳も練習の前には準備運動をおこないますが、実際に武道として太極拳を使うということを考えると、本来準備運動はいらないのです。

まず、太極拳の練習の前には、経絡を刺激する運動として、指龍という、五指を動かして体の気の通り道、経絡とその通過点の経穴の緊張をやわらげる準備運動を行います。

しかし、指を動かすだけなので、これが準備運動かというほどのものです。指龍は、厳密に言うと朝起てから、畑仕事やちょっとした家事、朝ご飯の用意をするときに、柔らかなリラックスした動きをして経絡がなめらかに刺激されていればいれば、もう練習を行う前には必要のない準備運動です。朝起きたときから自然と準備はできているということになります。

又、甩手と言う準備運動も行いますが、これも全く指龍と同じです。朝起きてリラックスして自然に身体を動かしていれば、甩手をしているようなものです。ただこの無為自然という身体の動きがなかなか実感することができないので、太極拳の套路などでその動きを思い出すことが必要なのです。

普段の日常生活で、普通の場合は、朝起きたときから緊張を含む動きがすっかり身についてしまっています。これらの緊張の動きは全ての病気の元凶でもあり、そう簡単にその癖が取れるものではありません。

太極拳を長くやっていると、自然なリラックスした動きとはどういうものか理解でき、上達するとそれが身につき、最後には当たり前になります。

しかし、まだ無為自然な動きを思い出していない内は、太極拳の動きを使って指龍や甩手などで経絡の緊張を緩和します。

このように、太極拳の練習をする前に行う準備運動は、本来は日常生活で朝起きたときから自然とされているはずのものなんです。

ただ、誰もがそのようにできているとは限らないので、練習前には全員で指龍と甩手を行いますが、実際に太極拳を武道として使えるようになるためには、朝起きたときから、もっというと、寝ている間にも経絡や筋を無為自然でなめらかな活性化された良い状態に保っていることが大切です。

本来は、準備運動などしなくてもすぐに練習に入れるというのが理想なのです。

このように太極拳の準備運動は、柔軟運動などではなく、経絡と勁道のなめらかさを呼び起こすもので、いつもそうであるなら必要がないものです。

太極拳などの武道でもし自身を守るとき、いざというときに準備運動をしていたのでは間に合わないのは当たり前です。

太極拳の動きは、何も相手が人間でなくても、例えば自転車がぶつかってきたとき、階段で押されたとき、地震にあったとき等々、色々な事故に合ったときに役立つ動きです。

準備運動で暖まった体でないと使えないような武道では意味がないと言うことです。普段の状態の体で使えるのが太極拳なのです。

太極拳では、徹底的に無理な力を抜き、自然な状態で力(勁)の出やすい状態を思い出しておきます。

肉体をほぐしたり、筋をのばしたり、身体を温めるための準備体操をしてから、太極拳の練習をすると、それが癖になり、そうでないと十分な動きができなくなるという弊害が出てきます。

それは、肉体がほぐれていない時とほぐれている時、 身体が暖まっていない時と暖まっている時、筋が伸びていない時と伸びている時とは、全く使う筋肉や神経系統も違うからです。

スポーツや格闘技では必ずといっていいほど準備運動が必要です。

しかし、武道はスポーツや格闘技の競技や試合のようにその時まで待ってはくれません。いつでもどのようなときにでも同じように動けないと意味がないのです。普通でない、例えば身体が暖まったり、筋がのばされたり、肉体をほぐしたりした後の心身は特別なものであり、本来の人間の普通の機能とは違って、いずれ衰えたり消滅していくものです。

このように、変化しない普通の状態でできるだけ多くの練習をするのが太極拳です。

私たちが、歩く前に準備運動をしないように、当たり前の普通の状態をしっかりと思い出しきっておくだけでいいのです。

その練習が太極拳の練習なのです。ですから太極拳の武道練習はいくらでも楽しく練習できるのです。そして疲れないのです。

普通の状態で練習する、だから準備運動は本来は必要がないということです。普通の状態でないから普通の状態に戻してから、いわば緊張状態でないようにするのが指龍や甩手なのです。