光溢れる生命の時期のように

taichisoul 太極拳における動作は、無為自然の純粋な心、即ち「神=しん」がエネルギーの働き「気」によって、ありのままのあたりまえの色(現象)、即ち、色、声、香、味、触、法(法とは質のこと)という六境(六つの対象)を、感覚器官である眼、耳、鼻、舌、身、意(心の働き)という六根(六つの感受器官)で受容したありのままをもって、行として動くものである。行は慣性、すなわち勢いである。六根は例えば眼であれば、視神経と眼球のように二つがそろって根として完全であり、眼球があっても映像を感受する神経が無いと眼の働きを成さない。「意」も同じで、心があってもそれが働かなければ「意」ではない。
 これらの六根が最初に受容した感覚は、ありのままであたりまえの現象であり、何にも染まっていない。これを無為自然という。これをそのまま感じて、行として発揮することができれば、太極拳の無為自然の行は完成である。感受は膨大であり完全である。最大の感受性を発揮する。
 しかしながら、人間は後天的に、認識による観念や概念を持ち、それが薫習されて、深層の心に宿り、仏教で言う阿頼耶識や、末那識、前意識、意識などにそのフィルターが根付く。そのフィルターによって、六根を捉え、それが、独自の眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識を持つのである。これが六識である。人は感覚器官で感受した原点が「根」であり、その「根」に「識」が影響しなければ、感覚は余すこと無く行に現れる。これを太極拳に於いて修行するのである。意識で動くなどは即ち本末転倒であり、武道に於いては考えるな感じろが常套であるのに、日本の太極拳では意識で動くがまかり通っている。意識することなど、瞑想に於いてさえ入り口にも立てない姿勢である。
 静かにして目をつむって一生生きていくつもりなら瞑想も良いであろうが、太極拳は動いていながらその修行を行う事により、高度な無為自然の「意」を思い出すことができる。
 私たちの太極拳には、その修行法が体系的に伝わっている。従って「導引法」と言われる。
 五根が感受したそのままを得ることができれば、その感覚は絶大である。
 例えば、「マリファナ」を吸うと、感受した神経から、それを意識するまでの経過にある神経伝達物質が鈍麻する。そうすると、この感受性は最大となり、全ての五感はありのままになり、驚くような世界を経験できる。考えたり、意識するまでの前の感覚だけが高まる。しかし、行為となる思考や行為に至る神経伝達も鈍麻するため、運動神経も鈍る。従って、感受性が最大になるだけであり、勢いも鈍磨する。しかし、後ろにいる人間の気配もわかるようになり、風が頬をかすめるだけで、そのいのちを感じる。虫の羽音が聞こえ、森の空気の流れも見える。自分の身体の内側に流れる気の動きも、相手の心の動きも感じるようになる。触れ合った肌は溶け合うように一体化する。後天的な意識も鈍磨し平和的にもなる。これが、「マリファナ」の作用である。しかし、太極拳の導引法を修行すれば、その感覚はいとも簡単に得ることができるようになり、又、運動神経も鈍麻することは無く、その感覚をそのまま行為に生かすことができる。だから、違法で、何らかの心身に害がありそうな薬物など使用することなどばからしい。薬物にそれを求めるより、太極拳を徹底的に心底修行することをお勧めする。そのメソッドは完全である。太極拳の修行はそれを目指すことで、般若心経にある「無」の悟りを得る。それを、漸法という。逆に「無」の悟りを得て、現実に活かす。それを頓法という。その総合的な無の世界を「無極」という。そこまで戻ることを「還虚」として修行する。
 このように、太極拳の導引法の場合は、感受性を最大にして、行(慣性、勢い)にまで及ぼすために、その運動や生理機能に至るまでの神経経路をクリアにしていく。雑念や煩悩などの意識の滞り、人体の生理循環における気血の滞り、気の渋滞による経絡の鈍麻などを、導引、行気、内丹や存思(瞑想)により解決していく。皮膚感覚は研ぎ澄まされ、八触という経験を得るようになる。八触を得るほど感覚が研ぎ澄まされれば、太極拳で重要な聴勁は神明の域に達する。その他の眼法は十目を得て、耳はあらゆる音を聞き、鼻は人の気の臭いを察し、舌は空気の味までわかる。しかし、根は感覚器官だけが研ぎ澄まされても、その神経が働かなければ用を足さないし、又、それが勢い(蓄勁や発勁)に即座にクリアに反応しなければ、身体の生理に用を足すことは無い。それらを総合的に訓練するのが、套路という素晴らしい練習法なのである。この理合を知って、修行すれば、心身共に有益なことは言わずともわかるはずである。
 太極拳は感受したそのままを、「行」という慣性に生かす武道である。慣性は勢いであり、これが無為自然の十三勢の原理である。医武同源を太極拳に求めるなら、生まれながらにして持つ先天の、最大の感受性と、クリアな心、そして素直な勢いを思い出せば良い。まるで子供の時の光溢れる生命の時期のように。

太極拳、十三勢とはこのようなもの

buto5 哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているライプニッツは、「昨日を背負い、明日を孕んでいる今日」と時空の観念を表現している。
太極拳は、四正手と四隅手で空間と時間を創造し、中定という自己の存在を主体として、四方を客体として和合した五行で生きる自分の存在を、無尽の縁起的関係を受け入れながら、ミクロからマクロまでの無限の空間と、無始無終の永遠の時間の中心に、その刹那に自分を置いている、壮大な一瞬の輝きである。そして常に有るものでは無く、移り変わっていくもの。
従って、太極拳はただ「楽しい」「気持ちがいい」、その感覚が結果として、その一瞬に表れる。
その結果が現れてこそ太極拳であり修慧、論じたことは単なる思慧である。しかし、結果が現れたところにこそ、その理があることを知る。それが全てである。修慧は思慧も聞慧も含む三慧である。因縁、縁起の和合である。
太極拳の形を師から真似る。聞慧即ち「守」。太極拳の理を教わり、それで動くことができるようになる。思慧すなわち「破」。最後には、あたりまえに一人で、ただ気持ちが良く、楽しく動くことができる。そこには結果としての「理」があり、結果としての「形」がある。
「形」を知って論じる事なかれ、「理」を知って論じる事なかれ、太極拳が楽しくなれば、そこに理と形があるに過ぎない。そうなれば、その理を話すことができる。形を表すことができる。その形は、見えているだけであり、次の瞬間には消え失せる。それだけである。しかし、全てのものを含んでいる。般若心経に言う。色即是空。空即是色。
時空と五行。十三勢とはこのようなものである。

太極拳のアファメーション「affirmation」

7023 目覚めた直後のポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」は、一日を全く違うものにしてくれます。
武当派の太極拳において、楊式の套路を早朝に行うのは、套路を行う事によって、自分自身を自然との一体として肯定することから始まります。無為自然の自分自身を肯定することで、一日はそのポジティブな自分によって流れていきます。

この毎日のポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」は、その積み重ねにより、科学でも証明されている神経を含む可塑性がある人体の生理を大きく変貌させていきます。人間の心身は可塑性を持ち、その変貌を内丹術では理論化しています。

導引法はその可塑性を踏まえて、ポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」の効果を最大限に高めるものです。

このように、真の太極拳は人間にとって自然との一体である自分に蘇らせるための、最高のポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」なのです。

その効果により、精神は一切の変化(易)に左右されることの無い、無為自然の状態を堅強に維持することになります。

このような効果を得るための、ポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」は、タオのエッセンスである「愛」が根幹にあります。その「愛」は無極であり、あらゆるものを受け入れることができ、またそれらと一体である自分の自己肯定は、強烈なる歓喜となるのです。

このような太極拳の套路を行うためには、太極思想にある真意を理解する事も必要です。太極拳には本来それらを体現する動きが含まれており、それを読み解くために太極思想やタオがあります。読み解いた真意は太極拳の套路の勢と一致したとき、真の太極拳すなわち導引法となるのです。

その導引法を学ぶには、それら全てが自分の内にあることを知ることができ、またそれを肯定することができるメソッドが必要です。そのメソッドには、套路の型を1つ覚えるにしても、綿密なる蓋然性が必要です。

その蓋然性は、経験と実証、そして、それを表現する理論によって形作られています。

本来このようなことが備わってこそ、武道(武それは道という意味です。武の道ではありません。)であり、太極拳もこれで人生の素晴らしい一部となるものです。

そうでなければ、太極拳という張りぼての代物に頼ることによる害は免れません。

私たちは、そのような太極拳の重く沈む本質を、軽く浮いている流行によって覆い被されて見えなくならないように、日々、真の太極拳を発信していきます。

太極者無極而生。陰陽之母也。

人間は生物である。
しかし・・特別な生物になりたがる。
例えば、新しい道路ができる。道路ができて便利になると喜ぶ。
しかし反面はそこに住んでいた人が立ち退かなくてはならない。
その話を聞いた人間がこう言う。
「そこに住んでいた人はかわいそう。」「もし、あなたがそこに住んでいたら立ち退くのはいやでしょう?」
こういう。
だから、道路ができたからって喜ぶのは不道徳だと言い始める。
これが人間である。
自分が例え、昔は森であったマンションに住んでいようが、車を乗り回していようが、森をきり開いた線路に走る電車に乗っていようが。
そこには木々や草花や小さな命たちが住んでいた。それを取り壊して奪い取ってただ楽をしているのである。
それなのに、立ち退く人間がかわいそうだ。という。
たしかに人間で考えると、不利益を被るのはかわいそうだなと思う。住み慣れた場所だろうとも思う。もちろん私も人間のエゴで不利益を被りたくない。住み慣れた場所から離れたくない。立ち退いて不利益を被り、愛着を損なうなら、私はかわいそうでしょと人に訴える。立ち退きを拒否する。ただそれだけである。そうすれば人間として得をする。愛着を損なわない。そう。私も人間である。
人間は人間である。道路ができるから立ち退く立ち退かない、喜ぶ悲しむ。勝手にやっていれば良い。そう、自然たちはただそこにいる。
私はまた自然でもある。
高速道路ができたから立ち退くのは嫌だ、もっと利益をくれ。愛着があるから離れたくない。人間として。少なくともここに無為自然の道徳も万物の善はない。
ここに善があると思ってしまうのが浅はかな人である。
またそれを人に顕示するならより愚かである。それに気付いたときに、恥ずかしくなるのだろう。気付かないなら救いようがない。
住むところを追われようが、不利益を被ろうが、私たち人間はすでに多くのものの住むところを追い立て、不利益を与えている。不利益どころか、命をも奪っている。
これからも私は人間としてこれらを行いながら参加しながら関与しながら生きていく。だから、自分の足下に気付かず人間本位の善を振りかざすのは恐ろしい。
人間本位が善であるとしてその社会性を身につけて振りかざすのは醜い。だから、自分本位の偽善を戒める。偽善の底には恐ろしい無視がある。自分本位、人間本位の完全な無視がある。その無視が万物に多くの悲劇を生み、生物たる人間にも環流する。
人間はまず偽善を見つめ直すことから始めることだ。
来年の決意は人々の偽善を知らしめていくことをワークとする。
最後に私はとても卑しい、同時に高潔な人間という生物である。
 陰と陽を不二にしてもちあわせる万物。人間も何ら他のものと一寸とも変わることのない森羅万象の一物である。
その万物の創造主の無を思い出すには、陰と陽を和合して母となる太極を思い出す以外にない。我の陰と陽を全て受け入れる。これが太極思想の根本である。
太極は無極にして生ず。陰陽の母なり。

体のさびと気順

 全身に気を巡らしていく。套路をするにも、対錬をするにも、この気順があってこそ太極拳です。

全身の細胞にエネルギーを行き渡らせ、新陳代謝し、酸素を消費し、又供給する。体に呼吸と気がみなぎる。

30代と言わず、20代から、いや子供の頃から、全身に気が巡り、酸素を健康に新陳代謝する能力を維持し続けることは、将来の健康な生活の保険のようなものです。

太極拳を修行するものの心得として、30年前の心身の状況が、現在の心身の状態の基盤を作っていると考え、30年後の未来を想定して、今を生きています。又逆に、30年前の状況が今我が心身の基底であることを認識して、今を生きています。

太極拳は、放鬆(全てをやわらげる)と三節(出発点・中継点・末梢の循環)という技法を用いて、気や勢と共に血や津液、酸素などを巡らします。無理な消費も、無理な取り入れも全てこれで解決していきます。

気順ができるようになると、何も無くても掌が真っ赤になるほど、気血が巡ります。
さびは、油の行き渡らないところに酸素によって酸化されて生まれます。人間の体のさびも同じで、気が行き渡らないところに酸素が滞り酸化します。

滞りの無い純粋な心(神=しん)そして、折れることの無い爽やかな気(真気)そして、健康な身体(精=せい・生理や脳も含む)を取り戻そうとする太極拳の修行は、過去も未来も今ここにある。その精神にもとづき、この瞬間を全ての命をもって生き抜いているのです。これが人生における気順であると、考えています。過去も未来もこの今にある。ここから始まる気順は過去も未来も気が巡り、そして過去のひずみや滞り、未来の心身のひずみや滞りをなめしていくことになります。

年齢に関係なく、過去未来のさびを浄化することを、今すぐに始めること、それをお勧めします。

65歳を超えると、7%の人がアルツハイマー病になります。100人中7人ですから、かなり高い確率です……しかし、「まだアルツハイマー病になる年齢じゃないから関係ないや」と思っていませんか?

それは大間違いです。アルツハイマー病に限らず、多くの病気はある日突然なるわけではありません。

30歳を超えたあたりから、気づかない間に少しずつ少しずつ、しかし確実に、体内に「活性酸素」のサビつきがたまっていき、そのダメージがある限界を超えたとき、症状が出てくるようになるのです。

つまり、症状が出るころには、かなりサビついているということなのです。

引用元: 澤田彰史:30代から始める、アルツハイマー病予防法- 毎日キレイ.

導引法

「小さな池の中にいる鯉。その鯉たちは、原気を解放しているのであろうか?解放したなら、この池をもてあますのだろうか?いや、すさまじい原気を他と融合させる。生き物たちは先天的にその理で生きている。我ら人間も生き物。その生き物たちのように原気の解放を思いだしたなら、同時に融合がある。それを忘れては元も子もない。それを忘れさせてしまうのが後天の病である。我ら人間が陥っている途方も無い病である。」

行き場所の無い解放された気を融合する、そして又新たな気を解放して融合させる、これが導引法です。

例えば息を吸い続けると息を吐きたいという気が生まれます。そして、その気を解放して息を吐くととそこで快感が生まれますが、続けて吐き続けていくと、同時に苦しくなり、今度は吸いたくなります。この繰り返しになります。このような状態は、気が高まれば高まるほど苦しさをただ伴います。これはあたりまえのことです。

そこで内丹は、無極という陰も陽も無い、極が無い世界を元々の源としてます。
呼と吸が一体となった世界、陰と陽が一体となった世界、気が膨張して高まる陽の世界、気が圧縮して静まる陰の世界を一挙にして同化することができるのです。膨張の場合は飽和。圧縮の場合は消滅です。

これをもっとも、素早く身につけるのが、太極拳の武道における発勁なのです。技の中でその発勁をしたときの快感をもって、経験的にその理を実証していきます。

無極における発勁が太極拳の技の完成の到達点です。実物としての相手と技を掛け合い、その発勁の瞬間を自分だけでは無く、他を同化して体験する。これが、内丹を極めるための最も早い方法であり、頓法と言います。

現実的に融合して技を完成させた感覚。これが大事なのです。その感覚を覚えた上で、その感覚を得ながら套路を毎日やる。家で静坐や站椿、内丹術をやる。又他のクラスでもやるも良しです。

内丹を身につけても、それは単なる手段です。我が身が健康になり、気が充実して解放されても、他との融合を得ることが無ければ、悶々ともてあますだけで無く、それらの気は行き所を失います。行き所を失った気は、闇雲に自らを傷つけ苦しめ、他者をも容易に傷つけます。そのようにして解放された気は快感と苦しみを伴いながら、矛盾を繰り返していきます。これを相乗・相侮すなわち乗侮の状態と言います。そして気ばかりが高まり、いつまでたってもその苦しみからは逃れることはできません。お酒を飲みたくなって、お酒をたらふく飲むと一挙に快感が押し寄せ高まり、同時に苦しみも伴うという感覚です。わかりやすいと思います。いつまでもお酒を飲み続け快感も高まり続け、苦痛も高まり続け、いつかは廃人又は病人です。ヨガであれ、内丹であれ多くの人が簡単に陥るところです。

武道で無くても、太極拳でその丹と、そこから発せられる気と勢いを実生活で他者と融合していけるなら、それがもっとも素晴らしいことです。しかしながらその実感はなかなか得ることができません。ですから理論や、知識だけで自らを満たそうとすると、より現実からの逃避と、気の解放の放置に甘んじるしか有りません。そこで生まれたのが太極拳などの武道にある導引法です。
ですから、その実感の積極的な現実として武道としての太極拳があるのです。真の日本の武道もそれらと同じ原理を目指しています。

技が完成すると、とても気持ちの良い快感と楽しさが生まれます。技ができなかったときの違和感や苦しさも無くなります。
ここで積極的にこれを身につければ、現実生活にあるあらゆる事象も同じように融合しながら楽しめます。攻撃してくる相手と融合して自らの勢とするのですから、実生活ならいとも簡単です。武当派では、そのような人法と言うべき陰陽術も太極拳としての武道の体系に組み込んでいますから驚きです。
そして、武道の練習では、何も考えずに、楽しくて気持ちの良い感覚で技が完成することを多く経験すれば良いのです。
あとは、そこで知った感覚を認識していくために色々な理論を知っていけば良いだけです。そこに無為自然があるのを発見するのです。真の日本の武道と同じですね。

又、太極拳の套路だけで丹と勢を得て、その太極拳の型を覚えたなら、それを実際に使って武道をたしなむこともできます。
これはその丹と勢の結果を知ることになります。これが漸法です。どちらにしても武道は、それらの結果を経験しながら実証して行く方法としては最適です。もちろん丹と勢のある套路を身につけて、その丹と勢を生きていくあらゆる事象の中で使っていくのも良しです。
気を全てと融合させる、これが最も大切なことなのです。そしてこれが気功も含む内丹術の行く境地です。太極拳はその地に導く優れた方法の一つ、すなわち導引法なのです。

流水は腐らない。

私たちは、日常では動かすところが決まっています。
ラジオ体操をしても、スポーツや武術の訓練をしても、その動きの特性に応じた動きがあります。
その部分の流れはスムーズになり、人間の体はほとんどが水でできているのですから、その水が流れるようになります。
もちろん腐らないので、よく動きその部分は健康です。

ところがどうでしょうか?

水の流れは、流れていないところにどんどんとゴミをため、汚れをため、よどみます。
そしてそこの水は腐ります。
特定の流れを作ってしまうと、このような弊害が生まれます。

太極拳は元々は養生の技術です。
どのようにすれば体全体のよどみをなくすことができるのかを経験的に探求し抜きました。

簡単です。水が流れないところを作らないことです。そして太極拳ができあがっています。(古くは内家拳法)
太極拳の運動は、体のうちをどのようにも水が流れる運動です。
それを探求し抜いた結果が、四正手で立体的網羅、四隅手で時間経過的網羅、五行で流れる方向を網羅して、完全に水がよどむところを無くした武道です。十三勢です。

ですから、太極拳の練習では、動きを考えると一挙によどみます。水が流れるように自然に任せて動くから、実戦においても、自然とどのような対応も可能な、対実戦武道なのです。
実戦での対応は、ただ、まるで水が流れるようにです。

よく外家拳が剛だとか、内家拳が柔だと言われますが、そうであるなら太極拳は内家拳ではありません。

水は、岩をも砕く剛の性質と、どのような形にもなる柔の性質を合わせもっています。
よどみの原因となる部分を砕きながらまろやかにして流れるから、よどむところは無くなり、体内の水は腐らないのです。
水の腐りは、病と直結です。腰や膝の痛みなど全てそうです。

太極整体はそのようなことを理解した上で、よどみを発見し、太極拳の技術でそのよどみを取り去り、水を流します。

よく間違われるのが、太極拳はただ柔らかいという風に思っている人がいますが、それは水では無く空気でも無く、柔らかいだけです。

水も空気も剛の性質は恐ろしい力を発します。自然災害を見ればわかるはずです。

空気もよどむと濁ります。腐り、邪気を発します。それらを観じるのも太極拳では護身技術の一つです。
体内は水です。環境は空気で、それらの流れを網羅するのが太極拳なのです。

水の流れる力が無いと、大きな岩も動かせません。一切の力を用いないのでは無く、水のような力(勁)すなわち、楊式では主に沾粘勁を用いて、拙力を使わないと言うことです。
太極拳経の「察四兩撥千斤之句」の四両も千斤を撥くということ、最小の力で大きなものをはじき飛ばすという意味ですから、全く力を使わないと言うことではないのです。

水の力、空気の力のようなものを勁、それ以外の柔軟性の無いものを拙力として分けています。
水も空気も流れますから、体の隅々、環境の隅々までを網羅します。

体内の流水は、筋骨、内臓、脳や神経血管などあらゆる生理に、柔軟な勁を加えながら、よく柔和して、伸びやかで弾性を生み出し、強固で調和したものへと変化させます。

体中に水が流れるような太極拳の修練は、体中の大河や小川せせらぎに至まで、清らかな水が時には柔らかく、時には力強く流れる様をイメージするものです。

太極拳は中国のものですが、インドから流れてきた根本養生の道です。
日本でも剣術の中でも特に柳生新陰流は、行雲流水を理とするものでした。

流水は腐らない。今からでも遅くありません。体の中の水の流れを太極拳で取り戻してください。
剛柔一体を常とする太極拳は、人間の体のうちの水を活き返らせてくれます。

ただ、闇雲に太極拳を柔らかく動いても、その本質部分が理解されて、またそれを行う事ができないのなら、逆に体の中の水のよどみを作ることになります。

剛の性質が無いただ柔らかいだけの太極拳は、流れの無い河です。
最近、太極拳で身体をこわす方が増えています。ですから、私は敢えて言います。
太極拳でより体が衰えていく。膝や腰を痛める。以上の理屈を考えると否定できないことです。

太極拳だけに限らず武道や運動・スポーツも諸刃の剣。これも真実です。
その諸刃の利点を得るには、それらの本質を得ることなのです。
水の本質、空気の本質、太極拳の本質、それらを経験すれば、必ず得ることができるのはあたりまえのことです。

流水は腐らないのです。

気力が湧かないままで、どうぞ。


自殺大国日本において、最近特に女性の自殺者が増えてきています。(2012年6月8日政府の自殺対策白書)そのもっとも多くを占める原因は健康問題で全体の過半数になっています。
これらは、これといった病気ではなく、何となく活力が低下し、疲れやすさすなわち易疲労があり、今まで楽しかったことに興味がなくなってきたり(アンヘドニア)、そして何か鬱々するというものです。

そして、なかなか元気になれないというところから、食欲がなくなったり、イライラしたり、風邪をひいたような症状や、腰や膝の痛みなどと発展していき、何らかの健康に問題があるのではと感じるのです。

そして、悩みを一人で背負い込んでしまったりしてより落ち込んでしまいます。

そうなってくると、ひどい不安を招き、それらを解消するために仕事やネット。ゲーム、ギャンブルなどにのめり込んだり、アルコールを過剰摂取したり、違和感や焦りやイライラが強くなり、もうどうしようもなくなります。

そして、心気的とらわれが強くなり、焦燥感が激しくなってくると、もう誰の声も耳に入らなくなってきます。ほぼ心気症(ヒポコンドリー=hypochondria)の状態です。

これらがうつ病に移行するか、また、心身の重要な病気になるかは時間の問題です。

また、ストレスですが、MRIを使って行なった研究では、強いストレス状況下で感情や記憶の消去をつかさどる脳の部位が委縮していたことが判明したそうです。ストレスはこのような生理的な心身作用にも大きな影響を与えますから、ストレスをためておくことは、よりそれらを進行させ、または原因にもなると言うことです。

その前に、やれることがあるはずですが、病院に行くほどでもなく、漢方薬を飲もうとも、何かスポーツをやろうが、友達と会おうとも気力が湧いてきません。

 それならいっそ気力が湧いてこないまま、根本的な生命力を呼び起こす方法があります。

これが、武当派の太極拳に伝わる内丹術です。
内丹術は、完全にリラックスした状態で先天の気という生命力の気を呼び起こしていきます。
その生命力の気に押し上げられることで自然と人間社会で生きていくための気力を湧き起こしていく方法です。

太極拳は、完全な放鬆状態から、発勁ができる武道です。
放鬆状態はいうなれば、気を沈めている状態です。その状態から気を立ち上げるという技術が完成されている希な武道です。
そのために、様々な修養方法が長い歴史の中で伝承されています。
大切なことは、気力が湧いてこないのであれば、同じように気を沈めている仲間と一緒にいながら内丹術を行い、生命力自体の気を高めることです。太極拳では生命力自体の気を先天の気といいます。

後は、先天の気に押し上げられ、自然と後天的な気が起き上がってきます。後天的な気を引き上げようと無理をすればするほど、結果は悲惨なものになりがちです。
ある程度生命力が持ち上がってくれば、自分自身の「生き方」を広い視野で考え直してみるのも良いかもしれません。太極思想や道「タオ」が考え直すためのヒントにもなるかも知れません。

このように私は、自立厚生の立場から、太極拳の内丹術を積極的に提供していくべきと感じました。

私は、夕食後は妻と二人で内丹術を生活に取り入れ、そのまままどろみながら、まるで胡蝶の夢(夢か現実かわからない)のような世界を体験しながら、ベッドに入れば、入ったのも忘れるぐらいの数秒で寝てしまい、あっという間に朝を迎えています。

そこで、夜は武道練習をやめていたのですが、大阪や京都で実施していた太極拳の内丹術と瞑想を行う夜間クラスを復活することとしました。当事は瞑想太極拳クラスとして行っていました。

夜間クラスでは、一日に一つくらいは套路の型を存思(そんし)という瞑想でとても緩やかにリラックスして行いますから、楊式太極拳の套路も身につきます。生命力が立ち上がり、後天的な気も元気になれば、本格的に太極拳にも取り組んで下さい。強固な心身が呼び戻されます。

それでは、夜間クラス。ぜひ多くの方のご参加をお待ちしています。

4次元の太極拳

 太極拳は十三勢と呼ばれます。

十三の勢には、まず四正手があります。

四正手は、右攬雀尾では、掤は進行方向に向かって右前上から扌履は左後下、擠は前、按は後下から前と、右交差の3次元を描き、左の攬雀尾で左交差の3次元を描き、幅、奥行き高さである空間を全て網羅します。身の幅、眼の奥行き、手の高さの三尖で空間を描くということです。

そして四隅手ですが、野馬分鬃では、靠肘挒で因縁果の三節になり、現在から未来への時間軸を構成しています。後ろ手の採はその現在を身の中心線とすれば、三節に伴う過去の時間を表しています。靠肘挒の勢は採勢が力点となっているのです。そして中心線が支点、そして靠肘挒が作用点です。靠肘挒と進む長勁は後ろ手の採勢が力点となり、身体の中心線が重要な支点として発勁されます。

このように、四正手(空間)と四隅手(時間)が合わさって4次元という時空を構成します。
この理がわかると、四正手には四隅手の三節、四隅手には四正手の三尖が備わり、始めて4次元としての時空を備えた武道になるのです。
理論的には難しく言っていますが、身を持って太極拳の武道を経験すると、いつかはこのことがはっきりと理解できるようになります。

そして、そこに五行という方向が合わさって十三勢になります。3次元4次元には前後左右の概念がありません。まず、中定にいるのが自分であり、体が前を向いている、これで始めて前進後退右顧左眄という概念ができあがるのがわかるはずです。

このように4次元を制覇する人間(前後左右がある者なら人間と限らず何でもですが)と言うことになります。

以上のとおり、時空を制覇して現実的に生きる者の勢、これが十三勢です。

太極拳は空間を制覇し、時間を制覇し、そして人間として万象を制覇するというところから十三勢と名付けられました。
そしてその制覇は現実的で、心身を使って太極拳の基本勢としてできあがっています。

その十三勢を発見した張三豊または王宗岳らの武当派の太極拳では、古くからこの十三勢を基本に多くの型があります。

古くからの武当太極拳の古式では108式もあり、それから近代になってその108式を基にして、新らしく武当太極拳108式も生まれました。その武当太極拳108式は、楊家太極拳の楊露禅により改編されて楊式108式となり、楊澄甫により編成がまとめられ85式となりました。しかしながら、十三勢は基本勢であり、全てに貫かれています。これが時空と万象の理であるから、名付けて太極なのです。

古式108式には、纏手八卦掌や独立八卦掌などの型もあります。そして武当山にいる生き物たちの動きを備える形意拳の動きもあり、当然ながら歩法や身法で五行拳の動きもあります。古式太極拳には八卦掌、形意拳、五行拳の動きが全て含まれています。

この貴重な武当太極拳の108式も、108式などに編成される前の古式の太極拳(太極拳とはまだ言っていませんでした。武当拳法。内家拳法。太極拳法などと呼ばれていました。※カテゴリーの「内家拳」とは違います。)の型も多く残っています。
しかしながら全ては以上の十三勢の理論で構成されているのです。生き物たちも中心と前後左右があるのだから、五行があり、時空に生きているのだから四正、四隅があるのです。

このように、4次元に生きる人間の十三勢を理解でき、またそれを制覇できれば、太極拳は神明に達するのです。

これを知るためには、まずそれらが備わった太極拳の套路と武道の練習を、道を誤らずやり続けることです。

経験という膨大な情報が、これらを全て解き明かしてくれます。その時には全てが明らかになります。それを神明と言います。

護身の極限

護身には「起きないようにどうするか」「起きてしまったらどうするか」の二つのアプローチがあります。
太極拳と柳生新陰流においては、生死の境の心境をどちらの場合でも心意に備えておくことが必要です。
これが、生の尊さからくる死に対する極限の護身なのです。 そして、これが、セルフエスティームです。

宮本武蔵が、どこまでも生き残ったのは、死の恐ろしさと対比する生と、またその生の中で生きる自分の尊さがあるからこそ、生死の境で使える護身の剣を生み出しています。
その自分を尊いとする感覚は、その自分を尊いものでは無い、すなわち犯そうとするものを、自分のセルフエスティームを高めた能力で、感知するのがバウンダリーです。
例えば宮本武蔵の枕の先です。

彼は相当バウンダリー能力が高かったのでしょう。

映画なのでも、ドラマ「24」や映画「ミッションインポッシブル」・その他色々、必ず生き残っているのはバウンダリー能力の高いものです。その察知能力は最重要として描かれています。

そしてあまりにもベタですが、そのバウンダリー能力は自尊心というセルフエスティーム、映画では《愛》などと言って表現されています。
この二つを高めていくと、当然ならがプロファイルと言って、想像力によって色々な危険な場面が情報収集と共に検証され、その中で生き抜く技術が生まれてきます。これが武道なのです。

高尚な精神は愛に裏付けされ、破邪の拳として邪を感知し、邪を知り尽くす。そして、そこから、万能な護身術が生まれてくるのです。

ですから、護身理論がしっかりしているアメリカで基本と言うよりも、実は日本の武士道は葉隠れにあるように、日本でも護身の基本なのです。

全てこの仁(じん)という人間世界の愛、そして義(ぎ)というそれを選び取る能力、そして忠(ちゅう)というそれに従い、孝(こう)というよく自らの心身の性状を見つめて練り、(礼)というそれらが、何の条件もなくあたりまえに拳や剣として繰り出されるのです。

日本の精神性の武道では基本の基本です。心が豊かであれば、最後には相手の邪を制覇することができるようになっています。護身も同じです。

護身の極限は生死の境にある自尊心と、その境自体、そしてその境にある現象を知り尽くすことです。

今更知り尽くすのも何ですから、そこから生み出された太極拳はとてもありがたいものだと思います。

太極拳を知ってから、そこに起こる現象を修行で多く経験し、その境を経験し、そして、自尊心に、本当の尊い自分に行き着いたとき、太極拳は神明に達します。

正もしかり、逆もしかり。入り口からで有ろうが、出口からで有ろうが、その内を知るのはどちらも同じなのです。