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先日、当関連サイトの、太極拳に関する記事が改ざんされて、悪辣なイラストと動画が掲載される被害を受けました。

今まで、太極拳サイトで使用するメールアカウントを、国際的な公的ブラックリストに掲載されたり、徹底的なスパム攻撃を受けたりしていましたが、今回は、サイト内部まで入って来て改ざんされたのには驚きです。

以前から、だいたい複数の犯人らしきものも推測できており、太極拳サイトで使用するメールアカウントのブラックリスト掲載についてはその情報を提供したところ、やっと、ブラックリストから除かれました。

このような陰湿な攻撃は、以前には、殺人予告ともいえる暴力を加えるなどの予告もあり、警察に被害届を提出したほどです。

その他にも、色々な攻撃もあり、全て対応していますが、結構なしつこさです。

—-以上から、以下に記事を書きます。—-

太極拳の神髄を記した王宗岳の太極拳経の一節“英斯技旁門甚多。”この技の旁門は、はなはだ多し。

旁門とは似ているようであるが違う流派のことである。旁は(傍ら,付近,わき,際,あたり.という意味)で、ある門の付近やわき,際,あたりにある状態をいう。ここでの、ある門とは王宗岳が太極拳論で述べる武道である。

旁とは、そのものの傍ら,付近、わき,際,あたりにあるだけでそのものではないということである。

まるで横に居るだけでそのようなものであるように振るまうことも旁という。

 陳炎林といえば、「太極拳刀劍桿散手合編」という、太極拳の神髄を収めた書籍を発行した人物である。孤高の太極拳家として有名である。

この人物は、当時の楊家太極拳や陳家太極拳などのあらゆる太極拳と名のつくもの、その他のあらゆる中国武術、伝統であろうが制定であろうが、陳炎林はそれらを旁門と呼び、一切付き合うことをしなかった人物である。従って、そのようなところには一切名前は出ないが、「太極拳刀劍桿散手合編」を読めば、彼の太極拳の全体像が見え、他の太極拳などとは一線を画すことがはっきりわかる。私の師も、同じく、日本の太極拳の集まりや、中国の太極拳の集まりには一切関係しなかった。

陳炎林は、武道そのものの原点を説き、その武道を真摯に習得してこそ、その理によって成果を会得し、その結果として養生、行気、意気、自然呼吸、自然な力(勁)、架子(かた)、大悟、護身が備わると説いている。

従って、自分の武道からかけ離れた旁門について、自分の行う太極拳とは名は同じだが、違うものであるとしていた。これは、陳炎林の側近にいた人物も述べていたらしい。

陳炎林は戦前から戦後の満州、上海にて、特に裏社会において活動していた日本人なら、誰しもが知っている人物である。日本の満州や上海にいた軍部にも有名である。上海特別市代管業主不在房屋委員会にも尋問されている。

特に私の祖父は、陳炎林をよく知り、大阪に呼び寄せた中国人の一人に陳炎林の側近がいたらしい。これは、私の祖父の組織の関係者でもある、中国人華僑の太極拳の師から直接聞いたことである。

王師は、祖父が大阪に呼びつけた陳炎林の側近と話をしたときに、陳炎林が自分と同じ心意であったことを知り、会いたかったらしいが、祖父の組織と陳炎林の関係は、王師が陳炎林と会えるような関係では無かったらしい。

太極拳は武道であり、その理合を知り、根本を学び、良く修練してこそ、拳法の理合が心身の養生となり、健康を取り戻し、いつの間にか自分の身を守る本来の能力が呼び戻されているに過ぎない。別に戦闘のために身につけるのではない。しかし、太極拳のあらゆる効果は、あくまで武の理合である。それをゆっくり行おうが、そのエッセンスだけを取り出したといおうが、武を身につけていないものには、なにもできるはずがない。できるというなら、それが旁門である。外側だけを見て真似ただけである。当流の師範になるものは、全員、武道で『武』を身につける。これが目的では無いのは前述のとおりである。単に太極拳という全体を学ぶだけである。

武のエッセンスは、武を学んで始めて分かるものである。エッセンスは原料がなければ絞り出せない。エッセンスだけ一人歩きすれば、その元がどのようなものかは分からない。そういうことである。武が分かれば、エッセンスも絞り出せ、それを使ってゆっくりも行える。それが套路や推手、慢拳などである。武のない套路や推手、慢拳が一人歩きしても、単なる張りぼてである。

王宗岳が言うように、旁門は、その根本を学ばず、修練せず、張りぼての虎のように外側ばかりをつくろう。するとどうなるか、武道の動きである太極拳は、内部が伴わないと、張りぼての虎を無理矢理動かしたように外側が壊れる。腰や膝、首、そして、生理機能や精神が壊れる。逆に、放松だと言ってただ脱力することと勘違いし、大事な内勁という自然な力を発勁することもせず、その自然な力まで抜き去る。それが、放松だと大きな勘違いをする。武道の気勢を使って内部の気を解放できないで、その勢いを武道の理合のとおり、抹消まで気勢として巡らして発勁できないと、内部に気勢が滞り、抹消の神経や血管、細胞などには気勢が届かず、太極拳で大切な節節貫穿の効果を得ることができないばかりか、末梢血管や神経系に大きな問題が出る。末梢血管が細く脆くなり、寒い冬や血圧が上昇したときに内出血を起こす。脳に起こると一大事である。心臓の毛細血管なら、微小血管狭心症という心臓内の微小血管の狭窄及び攣縮による虚血により一大事である。そのようにならないため、当流ではゆっくりと套路を行うにしても、徹底的に武道としての気勢を身につけていく。しかし、用意不用力の太極拳は、その人の心の働きで動くわけであるから、それが身につくかどうかはその人の心次第である。従って、当流では太極拳の意を修養していくのだが、頑なに、旁門の皆さんと同じく、太極拳に対しての多数派主義の固定概念を捨てきれないものもいる。その場合は、当流を去って行く人もいるが、折角巡り合ったのだからとても心配で残念である。いつでも戻ってきて欲しい。その場合は、幼児のような還虚という素の状態に戻ってから、太極拳を学んで欲しい。

以上のような、放松を勘違いして太極拳を行うなら、ラジオ体操には放松などの拘りがないので、絶対にラジオ体操をおおらかに行う方が健康には間違い無く良い。もしもそのような太極拳に拘り続けるなら、意が変わらない限りその太極拳は変わらない。用意不用力である。そうであるなら、今すぐ、健康だけでは無く、人生のためにそのような太極拳をやめて、ラジオ体操をおおらかに行って欲しい。心から願う。命に関わる。

放松とは、実際の字は放鬆である。全てを自由に解き放ち、心身を解放したやわらかさである。心身を解放すれば、太極拳の気勢はおおらかに放たれ、心身に柔らかな鬆(す)ができる。鬆(す)とは、弾力を失っていない、スポンジのような軟らかさのことである。

これは、太極拳という武道の理合と気勢や発勁を修得しないと分かるものではない。陳炎林がいうとおりである。

武に興味が無くて太極拳をやるなら、太極拳は武であるからナンセンスな話しである。武とは戦闘ではない。例えば、太極拳の武の理合に沾粘連随(てんねんれんずい)がある。相手に水を打った障子紙のように貼り付き(沾)、深くに粘って浸透し(粘)、そして融合し(連)、相手と自分を同調する(随)。そして、相手を自分の場所へ導いていく(化)ことで、盾は矛を止める。これが太極拳の武である。これだけでいいのである。何も戦わなくても良い、この勁を発するだけの気勢と武を身につければいいのである。その多くの結果のたった一つに、強力な護身や養生ががある程度である。たった一つである。人生全体に武が生かされる。道(人道と天道)に生かされるから武道である。

太極拳は「用意不用力」である。陳炎林は意を心の働きであり、意識や意念とは別物であることを明確に知っている。書籍中の意気論を読めば分かる。意識は心の働き(意)の最終段階に、やっと顕在的に自覚できるほんの少ない部分である。意念も仏教では念はサティといい、人間が意図的に心の内の特定の物事を心に留めておくことであるから、これも狭い範囲である。そんなもので動いていれば、太極という全体和合を理とする、太極拳の武では無い。太極拳の外に現れた、張りぼてをなぞっているに過ぎない。

また、心の働きが「意」であるが、心の内には森羅万象と繋がる純粋な心である「神=しん」があるとし、自分の生命現象全てを「精」( せい )であるとしている。「神」はカテゴリーとしては心であるから、それが起こす行為や現象と合わせて「精神」とするのである。

この精神は、人間としての価値観で使用される場合は、人間としての精神、そして、もっと人間を含む全ての中の一つとしての私として使用される場合は、全ての中の一部としての精神となる。それが精神なのである。もっと例えると、武士の精神は、自分が武士であるという価値観から生まれるのである。しかし、心は、あらゆる情報を持っていて、その中から、武士として使用されている部分だけの状態が武士の精神なのであるが、その精神が森羅万象の心と繋がっていることを思い出しているか、思い出していないかで、その人の精神活動に大きな違いが生まれる。思いだしている場合は、森羅万象と一体であり、武士という精神を持つ人間として生きる事ができるから、いつも森羅万象と共に生きる安定感があり、武士という価値に拘ることもなく自由である。思いだしていない場合は、武士という価値に拘り、いつもそれに縛られ、全く不自由であり、武士の精神以外は何も見えない。同じ武士の精神でもそれほど違う。だから、武士の精神だからといって一括りではない。本質の違う武士の精神が山ほどある。太極拳も同じである、本質の違う太極拳が山ほど有る。ある太極拳を、森羅万象を全体として和合しているという本質を詳細に述べてから、その太極拳と同じ名であるが、その本質と違うのに同じようなものを、その太極拳の門から見て「旁門(ぼうもん)」と呼ぶ。周辺や横に居る者達といいう意味である。外見や名前は同じだが、全く違うものという意味である。

例えば、日本舞踊を例にあげてみよう。私は縁があって、大阪の上方舞の吉村流の五代目家元の稽古を何度も見学したことがある。四代目の家元は、吉村 雄輝であり、人間国宝、俳優池畑慎之介 (ピーター) の実父である。

日本舞踊は多くの人が様々な流派で楽しんでいる。五代目の家元には、数人特別に直接教えるものがいたのだが、「あんたらのは、日本舞踊や無い!!」と、いつも顔を真っ赤にして激高し、気の毒なほど悲しんでいた。しかし、新しく教わることになった小学生の男の子が踊る姿を見て、いつも褒め称え、ニコニコしていたことは、その場にいた人なら覚えているはずである。

この家元が、自分が「あんたらのは、日本舞踊や無い」というような日本舞踊と同列に扱われるような立場に甘んじるだろうか。もちろん、甘んじない。しかし、日本舞踊を楽しむことは勝手にやればいいことだし、舞踊の基本をしっかりと学び、その心をもって踊ることができれば、とても素晴らしいものである事も知っている。しかし、やみくもに踊ると、心身を壊す。みなさんはご存じないないかも知れないが、あの真の日本舞踊の着流しの下で何が起こっているのか。緩やかなはんなりとした動きには、人間が人間を超えた能力が発揮されているのである。ただ踊っているだけではない。ブレークダンサーのような、バレリーナのような明勁(外に現れる自然な力)では無く、暗勁(内に潜む自然な力)が超人的に発揮されている。太極拳にも匹敵するような、暗勁に森羅万象の魂を舞うのである。

それを真似て、拙力という外筋や意識を駆使して形を作っても日本舞踊のようあるが、その拙力で古典から残る踊りを舞うにはあまりにも無理があり、腰を壊し、膝を壊し、気血が滞る逆作用も生まれる。五代目の家元がそのような拙力で踊るものを見て、「あんたはオランウータンか」、「お金もうてるからいうても、もういやや、もう帰ってや」と怒鳴っていた。気持ちはとても分かるが、五代目の家元の体が心配なほどであった。

太極拳は、陳炎林が書籍として残した文字と絵図だけから、陳炎林の心である本質を見いだし、その全てを真摯に学ぼうとすれば、必ず仙人のような生命力を得ることができる。しかし、文字と絵図だけしか残っていないので、旁門はそれを真似て陳炎林の太極拳だという。

分解絵図もない、あの内容から本質を知るには、書籍の最初を占める『武』を修養するしかないのだが、その『武』を修養せず、ただ、文字と絵図で外側をなぞるように真似をしても、それは陳炎林の太極拳ではない。

書籍末尾の散手対打を、陳炎林の創作で古くからには無いものだと言うものがいるが、あれは、太極拳の日常的な相対練習のほんの一部である。逆に元はそちらで、その一人練習用として套路があり、気勢の発勁の基本練習が推手である。陳炎林氏の散手対打ではないが、当流の武道クラスでは、毎回散手対打が主な練習内容である。従って、山ほどの散手対打がある。陳炎林もその一部をまとめて、紹介したに過ぎない。技は招式で、相手を太極拳の使い手ではないとして行うから、技が最後まで決まる。対打は約束組み手で、相手を太極拳の使い手として、双方が技を行う。これは、技は最後まで決まらない。そこで、その使い手同士の攻防により高度な自由組み手(散手)を取り入れる。運用である。運用も対打、即ち、約束組み手として練習する。これが、散手対打である。陳炎林の散手対打も見ればわかるように、套路の型を使って構成しているのではない。使用しているのはその套路の武の気勢である。それがわからないと、太極拳がなぜ十三勢といわれているのかも真に理解できない。

陳炎林の散手対打も、その膨大な日常練習の中から、ほんの一部をまとめて紹介したに過ぎない。だから、末尾に掲載したのである。それを創作だ、今までには無かった、85式の型が全部含まれているなどと言うものたちの太極拳とはどのようなものかは、一目瞭然である。

そして、散手対打の分解絵図ではないので、武道が分からない場合は、これこそ太極拳の練習である散手対打も、単なる断片的な絵図のまねごとになってしまっている。太極拳という武道の本質を知っていれば、陳炎林の散手対打の絵図を見れば、その合間に何が起こっているかは、簡単に分かる。陳炎林はそう思って断片的な絵図しか掲載していないが、最初に武の心を徹底的に述べているから、それでいいのである。

だから、陳炎林が、旁門からの呼びかけにも一切関係しなかった理由は、その旁門に陳炎林の求める本質がないにも拘わらず、何も知らないものが、その旁門にそのような本質があるように錯覚し、心身を壊す事にならないようにするためである。

私も、「簡化24式太極拳で骨の髄まで練り上げる技法」を出版したり、YouTubeやサイトで、私が知る太極拳の本質を見せていこうとするのも、陳炎林氏と同じ心意も理由の一つである。だから書籍は、最も本質から遠ざかっていると私が思う、制定24式太極拳をわざわざ取り上げたのである。

おかげで、『英斯技旁門甚多。”この技の旁門は、はなはだ多し。』の、はなはだ多い当門(当流ということではない。私が本質と思う本質がある太極拳のことである)の旁門から敵対されているようである。言っておくが、旁門とは、王宗岳が言うには、王宗岳が言う拳法の旁門、私の場合は、私が言う太極拳の旁門であり、他の太極拳と名を持つ人が自分が本質だと思うものから見れば、私こそ旁門であろう。それこそ望むところである。逆に、当門の太極拳を邪道と言ってもらえるのも有り難い。しかし、当門以外の太極拳の側に寄ることはないので、その者達の旁門になることはないとだけ言っておく。

旁門でないというなら、当流の太極拳に対して陰湿に攻撃する必要は無い。自分が行っている太極拳は、当流が行っている太極拳とは全く違うものであるという自覚があれば、太極拳カテゴリーについて議論すればいいだけであり、違うものを攻撃して、当流をそちらの側に無理矢理引き寄せる必要は無い。当流の太極拳を粛正しようという必要も無いであろう。そんなことをするから、旁門なのである。

私も、太極拳で身体をこわしたりする人たちを懸念している一人である。素晴らしい太極拳は、諸刃の拳である。武道という難しい動きを、外側だけを見て真似るとどうなるか?放松という、武道における鬆ぎを知らずに、気勢を滞らせて、外に気勢を到達しないことが放松だとして真似ているとどうなるか、私は多くの人を見てきて知っている。

ただ、私は太極拳を習ったことによって、心身に重大な支障をきたす人を見ていることができないだけであり、これからも、大好きな太極拳の本質を発信し続ける。陳炎林が残した心意に共鳴するばかりである。

従って、他の太極拳のみなさんは、もし私の太極拳の本質が自分の思う本質と違うと思うなら、正々堂々と実名と連絡先を明かして、私のところにいくらでも意見を述べて欲しい。私は、あのミクシーでさえも、ツイッターにしても必ず実名と連絡先を明確に表示している、珍しい人間である。それでも、言いたいことを言える。名や連絡先を隠さないと言いたいことを言えなかったり、名や連絡先が出ると言いたいことが言えないというのであれば、その理由を聞きたい。

私はどのような意見にも、名前と連絡先を明らかにしてもらえば、時間が許す限り、完全に対応する。絶対に逃げないで、いつまでも私と話してほしい。私は率直にものを言うので、腹が立つかも知れないが、私は、それを恐れて口を紡ぐことはしない。しかし、真摯に話し合えば、必ず和合することができるはずである。いつまでも話すことを恐れないで、議論のチャンネルをブロックしたり、暴力や物理的な攻撃に訴えるなどの脅しをしたり、捨て台詞だけを残して去っていったり、感情的な言葉を連発したりして、議論することから逃げないで欲しい。逃げた人は、怨みが残り、高じれば、このような陰湿な手段にて私を攻撃することになる。

太極拳であれ、何であれ、私は全て経験によって知っていることであるから、知識や理論で説き伏せようとしても無駄である。湯水のようにいつまでも経験を思い出して、どこまでも話せるので、付いてきて欲しい。惜しい人は一人いたが、最後まで付いて来れた人が今まで一人もいないのは残念である。全員逃げ去っているから、その人達の心の内には、私への怨みが生まれるかも知れない。しかし、「知らないことが問題ではない、知らないのに知っていると思うことが問題なのである」というトムソーヤーの作者の名言のとおり、太極拳についても、トムソーヤーと同じく私は一歩も引かない。引いたように見えても、引進落空である。従うように見えても、随化である。そして、沾粘に同化して連なり、勢いが強ければ走らせて化する。そして完全に普遍性で和合するまで巡る。それが武である。武とは戦うことでは無く、和合して元々相対することがなくなることである。矛が盾に和合して止まるのである。太極拳だけではなく、人生全てがそうである。

太極拳の本質を求めることは、多くの太極拳愛好家にとってとても素晴らしいことであり、太極拳を愛するものなら、その本質を取り戻してあげようという『愛』があるはずである。その心を持つものが、太極一家である。

その『愛』を思い出して、私を攻撃する前に、私と話して欲しい。

このような行為に対応する時間も一つの経験として、私の人生の一重になる。それだけのことである。少しも、無駄でもない。

しかし、このような陰湿な行為は、自分の心身にフィードバックして行くことも忘れないで欲しい。いつでも、匿名でも、とことん誠実に対応するが、名を上げて私に対応してくれれば、そちらも逃げにくくなるはずであるから、そうしてほしい。匿名の人は、ほとんど短期の間に逃げ去る。こちらが最後までの議論を楽しみにしていても、去られたり、ブロックされるととても残念である。最後まで話せば、仲良くなるなど目的ではないが、結果的に親友のように仲良くなれる自信がある。だから、言いたいことがあれば、いくらでも、否定でも批判でも良い。但し最後まで議論を付き合って欲しい。覚悟して議論を行って欲しい。それだけである。

最後に、

私は、太極拳を愛しているだけである。私の人生にある全てのことと同じように。

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