気力が湧かないままで、どうぞ。


自殺大国日本において、最近特に女性の自殺者が増えてきています。(2012年6月8日政府の自殺対策白書)そのもっとも多くを占める原因は健康問題で全体の過半数になっています。
これらは、これといった病気ではなく、何となく活力が低下し、疲れやすさすなわち易疲労があり、今まで楽しかったことに興味がなくなってきたり(アンヘドニア)、そして何か鬱々するというものです。

そして、なかなか元気になれないというところから、食欲がなくなったり、イライラしたり、風邪をひいたような症状や、腰や膝の痛みなどと発展していき、何らかの健康に問題があるのではと感じるのです。

そして、悩みを一人で背負い込んでしまったりしてより落ち込んでしまいます。

そうなってくると、ひどい不安を招き、それらを解消するために仕事やネット。ゲーム、ギャンブルなどにのめり込んだり、アルコールを過剰摂取したり、違和感や焦りやイライラが強くなり、もうどうしようもなくなります。

そして、心気的とらわれが強くなり、焦燥感が激しくなってくると、もう誰の声も耳に入らなくなってきます。ほぼ心気症(ヒポコンドリー=hypochondria)の状態です。

これらがうつ病に移行するか、また、心身の重要な病気になるかは時間の問題です。

また、ストレスですが、MRIを使って行なった研究では、強いストレス状況下で感情や記憶の消去をつかさどる脳の部位が委縮していたことが判明したそうです。ストレスはこのような生理的な心身作用にも大きな影響を与えますから、ストレスをためておくことは、よりそれらを進行させ、または原因にもなると言うことです。

その前に、やれることがあるはずですが、病院に行くほどでもなく、漢方薬を飲もうとも、何かスポーツをやろうが、友達と会おうとも気力が湧いてきません。

 それならいっそ気力が湧いてこないまま、根本的な生命力を呼び起こす方法があります。

これが、武当派の太極拳に伝わる内丹術です。
内丹術は、完全にリラックスした状態で先天の気という生命力の気を呼び起こしていきます。
その生命力の気に押し上げられることで自然と人間社会で生きていくための気力を湧き起こしていく方法です。

太極拳は、完全な放鬆状態から、発勁ができる武道です。
放鬆状態はいうなれば、気を沈めている状態です。その状態から気を立ち上げるという技術が完成されている希な武道です。
そのために、様々な修養方法が長い歴史の中で伝承されています。
大切なことは、気力が湧いてこないのであれば、同じように気を沈めている仲間と一緒にいながら内丹術を行い、生命力自体の気を高めることです。太極拳では生命力自体の気を先天の気といいます。

後は、先天の気に押し上げられ、自然と後天的な気が起き上がってきます。後天的な気を引き上げようと無理をすればするほど、結果は悲惨なものになりがちです。
ある程度生命力が持ち上がってくれば、自分自身の「生き方」を広い視野で考え直してみるのも良いかもしれません。太極思想や道「タオ」が考え直すためのヒントにもなるかも知れません。

このように私は、自立厚生の立場から、太極拳の内丹術を積極的に提供していくべきと感じました。

私は、夕食後は妻と二人で内丹術を生活に取り入れ、そのまままどろみながら、まるで胡蝶の夢(夢か現実かわからない)のような世界を体験しながら、ベッドに入れば、入ったのも忘れるぐらいの数秒で寝てしまい、あっという間に朝を迎えています。

そこで、夜は武道練習をやめていたのですが、大阪や京都で実施していた太極拳の内丹術と瞑想を行う夜間クラスを復活することとしました。当事は瞑想太極拳クラスとして行っていました。

夜間クラスでは、一日に一つくらいは套路の型を存思(そんし)という瞑想でとても緩やかにリラックスして行いますから、楊式太極拳の套路も身につきます。生命力が立ち上がり、後天的な気も元気になれば、本格的に太極拳にも取り組んで下さい。強固な心身が呼び戻されます。

それでは、夜間クラス。ぜひ多くの方のご参加をお待ちしています。

脱力

本来人間は、健康な体を維持できる恒常性を持って生きています。

そのバランスが崩れたときに、病気にかかってしまうわけです。

例えば、体の中では常にガン細胞が作られていますが、発生する場合としない場合があります。

発症する原因は、心的ストレスや暴飲暴食、肉体疲労など何らかの原因からくる自然治癒力の低下にあります。この自然治癒力の維持こそ、最近話題となっている予防医学と繋がってくるところでしょう。

この自然治癒力とは、東洋医学で言う『気』(生命が活動するためのエネルギー)が全身を流れてクリーニング&メンテナンスをしてくれる活動のことです。

『気』は、緊張している部分は避けて通る習性があります。つまり、筋肉・内臓・脳の全てが脱力していることが自然治癒力を高める最大のポイントになるということです。

ところで、『気』には二とおり有ります。病を作るような悪い気と、自然界や宇宙と繋がっている良い気です。

脱力により全身のツボが開かれていると、そこから自分の中の不要な気『邪気』を排泄し、自然治癒力を助ける宇宙自然からの気『生気』が入ってくるのです。

◎筋肉の脱力◎

太極拳でも、『用意不要力』という言葉があります。『意を用いて、力は要らず』という意味です。早起きして公園に行った日は、その言い伝えどおり体の力を抜き、ゆっくりした動きの中でエネルギーを全身にめぐらせ宇宙の気と繋がる感覚で太極拳を行うと、体があったかくなり、自然と一体になった体感ができます。これこそ、本来の人間の姿なのでしょう。しかし、普段の生活では、いかに無意識で慌ただしく動いていることが多いことか。知らぬ間に心や体を緊張させてしまっているのですね。そこで、縮んでいる筋肉に体重をかけ、ねじったり伸ばしたりして筋肉や関節を元の脱力した状態に戻すことのが太極拳を使った自力整体なのです。つまり、体が脱力して初めて整体が行われ、ゆがみやこり、痛みを無くせるということです。

■自然な脱力状態をつくる

体のゆがみは人それぞれで、そのゆがみによって全体のバランスがとれている場合もあります。

しかし、単なる生活習慣による癖で起きたゆがみは、体に不調をもたらします。

その一番の原因は、急いだり、頑張って力んでしまったりすることです。急ぐと、上半身に力が入って緊張し逆に下半身の力が抜けてしまいます。この様な無意識の習慣が、ゆがみになってしまうのです。背骨を中心とした体の中心軸を保ち、しなやかでありながらどっしり地に足のついた下半身に重心がある脱力状態を作り出すには、先のことをあれこれ気にもまず、今この瞬間に焦点を当てて楽しむこころ構えが一番大切です。そして普段の行動においても、次のように少し意識することで脱力状態を増やすことができます。

<歩き方>

代表的な歩き方としては、二とおりあります。一つは、腕を前後に振りながら腕と足を逆方向にして歩く『行動型股関節歩行』で、西洋型とも言われています。

もう一つは、腕を振らずに同じ側の腕と足を同時に出して歩く『ナンバ歩き型骨盤歩行』で、日本型と言われるものです。この歩き方の違いは、西洋人と日本人の体型の違いからきたものなので、日本人にとって一番緊張のない歩き方としては『ナンバ歩き』なのでしょうが、結果的にその人にあった長く歩いても疲れない歩き方が理想です。

そう言われてみると、日本の時代劇では、みんな上半身が板のようにまっすぐな状態で歩いていました。初めは着物が着崩れないための楽な歩き方でそうなったのかと思いましたが、体型的な理由があったのですね。また数年前、陸上競技の短距離走オリンピック選手が、今まで腕を前後に振っていた走り方のフォームをナンバ走りに変えたところ、タイムがグッと縮まったといったドキュメント番組を見たことを思い出しました。

<荷物の持ち方>

疲れない荷物の持ち方は、できるだけ体に近いところでものを持つことです。特に、ウエストポーチやリュックサックのように体の中心部に密着させている荷物ほど、軽く感じられます。確かに、山歩き用の大きなリュックを背負うときは、重量30㎏くらいあるものなのに、ウエストベルトを締めて荷物と体を密着させると、ほとんど重みが感じられなくなります。重いものを持ち上げる場合も、荷物を体に引き寄せて体の中心と荷物の中心を合わせると持ち上げやすいです。

逆に、体の末端つまり手先に持っている荷物ほど、重く感じられます。買い物袋をぶら下げて持つときは、小指と薬指で袋を引っかけるようにして持つと、肘がしまって肩に力が入らないので脱力して持つことができます。私も実験してみましたが、肩と肘は張らないので楽な感じです。しかし、普段あまり使わない指に力が入るので、そこが少しつらいところでした。

◎内臓の脱力◎

体の筋肉の脱力は分かりやすいですが、自然治癒力を高めて健康を維持するには、内臓の脱力も欠かせません。それには、空腹状態で脱力した睡眠時間が重要になってきます。快眠・快便によって内臓を脱力させ、食事に関しては、栄養のとりすぎは体調不良の元であると言う考え方です。実際、人間の体は空腹には強いけれど、過食や満腹には弱くできています。長い歴史をさかのぼって、狩猟生活の時代を想像すればわかることです。人間の内臓は、一日のうち2時間くらいが腹八分目で、あとは空腹であることが当たり前として作られているのです。現代人は、昔の人と比べて約3倍の内臓エネルギーを浪費しているそうです。私たちの老化や死は、老廃物の蓄積によるものです。体内で発生する老廃物の処理が出来ずに溜まると毒素に変化し、その毒素が体内組織の細胞分裂を阻害していくと死に至ります。多く食べるから内臓が疲れて老廃物や毒素が溜まり、少なく食べることで老廃物や毒素が排出されやすくなるのです。

◎こころの脱力◎

普段の生活で感じる様々な不安、恐怖などは、素直に受け入れ、それにとらわれない生き方が重要です。先のことを不安がって妄想したときには、何かしら心の動きが生じているはずです。それをしっかり自覚して受け入れることによって、新たな選択が生まれてきます。そしてやると選択したものは覚悟して楽しんでやることが、脱力したこころの生き方です

王師語録#1

伝統を守ることはよいことだと思う。しかし、その伝統が間違っていないとは言えない。

歴史を振り返ってみればよくわかることだ。

古き伝人のやり方にこだわっていると、真実の道を見つけることはできない。

しかし、伝統の中にも真実がある。この矛盾を受け入れることが太極の道である。

(王師と話していた事を回想して語録に記録しています。下記にはその回想のきっかけになった事柄などを記載しています。)

映画英国王のスピーチの一場面「ガラス玉を口いっぱいにほおばり話す練習をするという、ギリシャ時代の練習法をする場面」を見ての回想

太極拳の散手練習

太極拳の練習方法でも、実際に実戦を想定して攻防を行う散手という練習方法があります。
ところが太極拳は自然に出る勢を使う武道のため、一般に行われているようなルールや、一線を超えてはならないという、意識下で使えるものでもありません。
実際に生命を脅かされるような場面に出くわすと、こうすればあのような技を出すなどに考えて、うまくいくことがないことは、実戦経験があるものにとっては当たり前のことです。

私たちの太極拳の練習は、いかに太極拳の長い歴史の中で、先人達が精選して抽出した、人間の根本にある強烈で純粋な勢を、当たり前に使えるかということを練習するものです。

そのために、多くの技を練習しますが、その練習はあくまでその勢をあたりまえに使っていると言うことを忘れてはなりません。

套路は、その勢を持って連続して動けるようにした、素晴らし練習方法です。

しかしながら、実戦で果たしてその勢を一人で套路をやっているときのように、スムーズに当たり前におおらかにリラックスして気持ちよく繰り出すことができるかというと、私たちがやっているような運用練習が必要なのです。

実際に実戦として使えるのは、火事場のくそ力のような、当たり前に考える前に反応する勢による技です。

それをひたすら練習します。それも多くの技を臨機応変に対応できるようにやるのです。

しかし全て勢の実践です。それしかありません。

相手の対応は千差万別です。その時その時に応じて当たり前に自然に技が出るのが太極拳です。

考えない。技を覚えようとしない。こんな時はどうするなどあり得ないのです。

こんな時は、そんなときに合わせて、勢が自然と出るような練習をする。

その練習として技を相対で運用する。この練習理論を理解しているといないでは、大きく太極拳の武道としての習得が変わってきます。

私が大阪で教えている頃は、弟子達が一般人ではありませんでしたから、少々、ダメージを与えても平気でしたから、加減を少なめにして練習をしていました。

しかし調子に乗ってくると太極拳は、図らず大変なダメージを与えてしまいます。そんなときに、活法ができないと大変なことになります。

できても、活法では追いつかないこともあり、病院に行くことも多くありました。今は、仕事を持っている人ばかりですので、教えるときは、あぶないですから、調子に乗らないようにしています。

太極拳を本気で散手などして練習できるはずもありません。いかに、リラックスしていれば、視野が広くて、気持ち良く勢が出るかと言うことを、多く経験しておくことで、いざという場面でその自信が役に立ちますから、わざわざ、殺し合いをすることもありません。又、いくら実戦だと言って仕合をしても、非情で人殺しでなければ、自分が殺されることもない相手を殺すなどできるはずがありません。

ですから、太極拳の散手練習は、お互いにスピードを合わせ、おおらかに、勢を暢やかに、技を掛け合うことが大切なのです。女性でも子供でも老年の方でも同じ勢を持っていますし、変わることがありません。ですから、その勢でおおらかに柔らかく練習しますから、十分安全に太極拳を練ることができるのです。強く撃つことも、強く受けることも、強く握ることも、投げることも必要有りません。

スピードを上げていっても、その勢が失われなければ、そのスピードを上げて練習して、套路で、その勢をじっくりと感覚で伸ばしていきながら、相乗効果で自らの太極拳の勢をより発露させていき、いずれは当たり前に、何の障害もなく技として勢が発勁されるようになるのです。

その自信は、必ず散手練習で身につきます。その自信は套路でより練られ、又散手練習で生かされます。これが太極拳の武道です。

副交感神経を優位にした状態での太極拳の発勁は、相手の動きもゆっくりと見え、又視野も広く、相手の動きに合わせて、下手な考えや深層の癖も執着や緊張もなく、当たり前に自然におおらかに、人間本来の強い生きる力として発せられます。これが、太極拳の神髄です。

套路の過渡式が太極拳の神髄

現在行われている太極拳の套路で、型の姿勢、ひどい場合には手の形や足の裏の形などを正しく行うように要求があるとされていますが、実はその套路の型自体は、他の武道と同じく、構えもしくは、残心という、技の始まり部分と終了部分だけなのです。

もちろん構えと残心は大切ですが、その途中にある過渡式が実は技なのです。套路で行う技は基本勢による技が主体ですが、構えて技を練って技を終えて残心、そして連続技で套路が構成されている運用なのです。

一般に普及している套路は過渡式らしきものがありますが、前の構え(残心)と残心(次の構え)をただ連続させるためのものになっています。これは歴史上このようになったのであり仕方がないことです。(詳しくは太極拳の歴史をご覧ください)

従って、太極拳の套路を行うなら、その技の練習を多くこなしておかないと、構えと残心の間にある勢の練習などを套路でできるわけがありません。

体操としては良いでしょうが、套路の型は構えであり残心であることを正しく理解して、構えと残心の間にある技を多く練習する以外に套路が武術練習になるはずがないということです。

又、健康効果にしても、構えと残心をいくら繰り返しても、本来の内丹や動功になることもありません。

太極拳は武術ですので、構えて攻防を行って残心します。当たり前です。

その攻防の勢が一切ない套路は、武道ではあり得ない、構えから残心に直接移動するだけですので、途中のなめらかな勁道や、勢の巡りがないため、型も残心も安全な範囲に留めておかないと、関節や筋などを壊す原因になります。

套路を安全に行うよりも、ラジオ体操の方が安全な体操だと思います。制定太極拳は安全域の中で作られているのでほぼ安心ですが、伝統太極拳は武道だなどと思って動いてしまうと、多くの場合障害があります。

伝統太極拳も復興されて再構成されたものです。制定拳と何ら変わりがありません。

太極拳の套路を行うなら、しっかりと武術の基本練習をして、基本勢を身につけ、そして武術の技として過渡式をしっかりと含む練習をして、それから套路を繰り返して練習する事が大切です。

以上のように、構えから残心までの一連の動きを一つの技として使える事ができる者が套路を教えないと、その套路は何の意味もないどころか心身に障害もでかねないものになります。

制定太極拳をまじめに安全域でやることも良いかもしれません。私はラジオ体操の方をすすめますが。太極拳の伝統拳はいくら体操化されたとはいえ、まだまだ武術要素は形だけ残っています。

その武術要素部分を套路でやろうとすると、太極拳を武術として経験していないもにとっては無理があり、必ずといって腰や股関節、膝、そして首、そして経絡、そして神経系統、血流関係(特に心臓)などに無理がかかります。

套路をしているときには呼吸法を正しく行うと副交感神経が優位になり、とても気持ちが良いのですが、表面的な呼吸による引率による副交感神経優位ですので、日常生活においては、その後に交感神経が反動的に活発になります。そうなると、心身の神経系にも障害が生まれます。

一日中呼吸法を正しくしていれば別ですが、根本的な心意がその域に達していないと、そう簡単にはできるものではありません。どのようなときも平常心、不動心であり、武息という意識的な激しい呼吸も、文息という穏やかな呼吸の時も、はしゃいでいるときも穏やかなときでも関係なくです。

套路は、構えと残心の間にある過渡式の中に太極があります。太極とは陰陽の和合、すなわち、神経でだけいうと交感神経と副交感神経の混沌とした和合です。

一般的に普及している套路の型は構えと残心ですが、そこには極があります。リラックスしてできている人は副交感神経が優位になり、意識を入れてとか、形や姿勢にこだわっている人は交感神経が優位になります。

どちらにしても有極です。

瞑想太極拳と私が名付けている套路は、その過渡式の合極が大事なのです。それは武術として技を多く練って無為自然にその技が使えるようにならないと、合極など得ることができません。合極を得て動いている套路は見ればわかります。

太極拳が無敵だと言われたのは、その技の合極の拳理が武術理論として完全であったからです。套路で行うならそこは眠るような無の状態です。瞑想のような中で武術の技があるのです。

ですから、太極拳と呼ばれたのです。武当山の道家が太極理論と同じ動きが当然人間の心身にもあり、その根本的なもので攻防を行うことができることを、当たり前のように理解し、そしてそれを太極拳法として修練したのです。

ですから、陰陽理論とそしてあらゆる人間の心身の動きが一致している中で、太極拳の套路も武術も修練しないといけません。

しかし、一般的な套路が構えと残心に偏っている限り、そして、その理解がない場合は、太極拳の套路で健康になったり、又武術の練習の一つになる域に到達するはずがないのです。

王流 楊式太極拳の歴史

最近、王流楊式太極拳でも、自立厚生運動の広報の一環として、話題のツィッターやFaceBookなどに実名で自動的に記事が投稿されるように設定しています。

そのためか、数人の武術家の方達から、当王流の歴史を教えてほしいという要望がありました。

もちろん、私の師の王征(又は宗)家からきいていた歴史はとても明確で、近代中国史と共に、又私のつじつまを求める質問に答えるように、ことごとく違和感のない、つじつまのあった答えをいただいていたのでその歴史は知っています。

あえてここに掲載する必要もないと思っていましたが、大阪で師の代理で教えているときには、プリントしたものを配っていたときもあります。

しかしながら、私の師の武術は武道としてあり、又私もその歴史がどうであれ、又それが真実であるか真実でないかよりも、先人達の心がどのようなものであって、その源流が今どのようにこの今ある王流楊式太極拳の中にあるのかが大切です。

一番わかりやすいのが、王宗岳の太極拳経ですが、私の師は彼を祖先として持つともいっていましたが、彼自身も明確な系図も知らないし、もしかしたら、道家特有の血縁のない太極一家としての祖先観かもしれないといっていました。ですから、私の師が王宗岳の血縁であるかどうかは、彼自身も気にとめていませんが、しかし、完全に私の師の拳法そして、王流楊式太極拳は太極拳経の理論に完全に一致しています。

そんなこともあって、又、色々とネット上でも議論されている情報と、私の師から聞いていて明確に答えがあるものと、史実などと照合して、王流楊式太極拳の歴史を記載することにしました。新たな事実がわかりましたら改編することもありますが、みなさんも気軽に参考程度にお読みください。

歴史1:王流の源祖は張三豐

元・明代に生きた遼東(遼寧省)出身の道士で仙人。字は君宝、幼名は全一。張三豐(1247年 – ?)が技を学ぶために少林寺に入門しています。

張三豐はとても文武とも優秀であったため数年を経ずして首席になりました。

彼は道教の道を求めて、少林寺を出ていきました。

彼は、湖北の武當山に至ると、そこは天の柱のような峰が奥深く静まり返り、しかも清冽であり、無為自然な心身を求める神仙の道がある龍の峰であるとして、中でも3つの峰がずば抜けていて、青々として素晴らしいものであったと記しています。

彼は、神仙の道を求めてここに隠居して十段錦などの内丹術や、動功として内家拳法(太極拳法)を創始しました。

このことは黄宗羲が書き残した『王征南墓誌銘』で記されています。王征南は明末の1617年に生まれ、清初の1669年に亡くなった人物で、内家拳法の他に弓術もこなしたので、彼は明軍の武官となりました。やがて、明朝が滅亡すると清朝に仕えることを嫌い、隠居して失意のうちに亡くなったといわれています。この生涯に同じ志を持った黄宗羲が共感し、墓誌銘を書きました。(黄梨洲)【黄梨洲は雅号で、本名は黄宗羲といい、明末・清初の大学者として知られ、「考証学」の祖です。専制君主制を批判した《明夷待訪録》は、当時としては民権を論じた進歩的な書で、近代になって彼は〝中国のルソー〟と呼ばれるようになり、前記の本は〝中国の民約論〟と称されたほどの人です。)その彼の書いたことを伝説で事実ではないというものも多いのは、色々な歴史的事情があるのですが、ここでは割愛しますが、彼のような現実主義者がこのような嘘を書くことはないものと考えるのが自然です。その中で太極拳の祖といわれる張三豐を「少林は外家に至る。その術は精なり。張三豐は既に少林において精なり。後にこれを改変して、これを内家と命名す。それを得た一,二の者は十分少林に勝る」と記しています。

このことは崇山少林寺の内家で修行されていたものを内家拳、外で修行されていたものを外家拳と呼んでいたことにも通じます。(宗門との意味合いで、禅宗の教えにて修行するものを内家、そのような教え以外のものを外家と呼んでいただけです。)少林はその教えに反するようになったが、その精なる術を張三豐は完全に会得して、道教を求めこれを改編して今度は、道教内において内家と呼び始めたものであり、これからすると少林寺はこの時点で外家であるということになっているのです。そして、張三豐が道教理論と融合させて編み出した拳法は少林寺に勝ると記しています。それを後に会得したのが王征南であり、その弟子達を武当山に残し亡くなりました。

このように武当山という道教の聖地で、崇山少林寺のように、宗門の行として始まって錬磨されてきたのが王流楊式太極拳の最初の源です。

歴史2:太極拳経の著者・王宗岳

太極拳経の著者、王 宗岳(おう そうがく、生没年不詳)は、清・乾隆年間に活躍した武術家です。張三豐が始めた内家拳法をより実戦的に道家内でしっかりと技術体系化した太極拳法という武術と、剣法と陰符槍法を得意としていました。

清朝は禁武政策の中でも、道教を保護していましたから、 山西人で乾隆56年から60年(1791年 – 1795年)にかけて、若き道士を集めるため河南、洛陽、開封などに滞在し太極拳法の宣伝に努めることができました。その時に、河南省温県にある長拳・砲捶の武術が盛んな陳家溝を訪れて滞在し太極拳法を教えました。逸話によると、一夜その土地に留まりその土地の武術を学ぶもの達と武術談義になり、翌日王 宗岳が陳家溝を離れようとして出発したところ、昨夜の論議に飽き足らなかった村人達は腕の立つもの数名を選んで王 宗岳を襲わせたところ、王 宗岳はやむなく立ち会いその数人をことごとく打ち負かしたといいます。村人達は王宗岳の太極拳法の強さを知り、逆に王 宗岳に教えを求めました。これは清朝の禁武政策の中、思うように武術練習ができなかった若者達の欲求に合致し、王宗岳はそのまま陳家溝に留まり、素質の良いものを選んで太極拳法を教えました。その中で一番上達したのが蒋発というものであり、後に陳 長興(ちん ちょうこう、チェン・チャンシン、1771年 – 1853年)に太極拳法の奥義を伝えました。陳 長興は、清朝時代の実在した武術家で、中国武術のひとつである太極拳の陳氏十四世で陳家太極拳の中興の祖です。

陳家溝において陳王廷(ちん おうてい、生没年不詳。約1600年~1680年)が陳家太極拳の創始者といわれていますが、この頃は三十二勢長拳と呼ばれていて、後に陳 長興のころに王 宗岳の影響を受けて太極拳法と呼ぶようになりましたが、清(1616ー1912)296年間の時代の複数の皇帝たちは、その帝位の間、ほぼおなじ理由で民間武術など一切を禁止していて、陳家溝では、家の窓に厳重にカーテンをしたうえに、部屋の明かりを消して1人で型練習するしか方法がありませんでした。従って、この状況下で拳法を学ぶことは難しく、太極拳法を真に学びたいものはほとんど王宗岳と共に道家に入山しましたので、陳家溝での太極拳法は名ばかりで従来通りの長拳・砲捶の武術が主体になっていたうえに、ほとんど武術の練習ができなくなっていました。

そのような中で、一人で練習する陳 長興に武術の教えを乞うたがが断られ、こっそり盗み見して武術を覚えたのが楊露禅(1799年 – 1872年)であり、楊家太極拳の創始者です。その後武当山に入り彼も太極拳法を修行しました。そこで行われていた套路が後の大架式になっています。

このように王 宗岳は武当山で行われていた内家拳を、完全に道教理論と一体化させたものとして大成させ、その強力さを諸国漫遊で当時の清の王朝の保護を受けながら流布しました。ここで多くの道士が太極拳法を学ぶことを魅力として武当山に入山をしてきました。王 宗岳は自らの役割を成功させたのです。このことはTaichiMasterというジェットリー主演の映画で、王 宗岳とその師である張三豐を重ね合わせた映画を作っていますが、このような史実に基づいて創作されたものでしょう。

王流の楊式太極拳は、この王 宗岳の太極拳法を中興の祖としています。

歴史3:王流楊式太極拳と文聖拳

私の師がしきりに同じ流れから派生した拳法だといっていた文聖拳というものがあります。文聖拳はは17世紀中葉の明末、清朝の初期の時期に劉奉天(1617―1689)を創始として起源します。彼は元々は武当山で幼少から修行道家として張三豐の内家拳を修行していましたが、思想が孔子(文聖)の儒教に傾き始めその思想を元に文聖拳を興しました。張三豐の内家拳が少林寺の禅宗から袂を分かち道教で育ち、又その中から、袂を分かち文聖拳に育っていったのも理解ができます。

その後、清朝の文武進士であった楊士海は文聖拳を承継して大成させ、离卦義和拳(門)と称していました。武術民武色が強かったため、楊士海は1782年に禁武政策下において捕まりました。

その後、歴史の中で文聖拳は秘密結社などと交差しながら民衆の中で育っていきました。そして、文聖拳や梅花拳が中心となって1898「義和団」が蜂起します。そして1900年に義和団の乱が起こるのですが。西太后は王朝のお留め武術の楊家太極拳の楊 露禅が生前に実力を認めていた義和団(文聖拳と梅花拳)を支持しました。文聖拳と梅花拳は、あまりにも強い徒手殺戮拳法であると聞いていたため、列強の外国勢など肉弾戦で勝利できるはずと確信したといいます。

その文聖拳がもっとも王流楊式太極拳と似ているのは、王流楊式太極拳が張三豐の内家拳を源として王宗岳などの道家によって伝承されたように、同じく劉奉天によって武家思想としての儒家の中で伝承されていったのも、根本が同じものであるからです。

楊家の楊露禅は1840年ごろ、40才を過ぎて北京で王朝の武術指南役となりますが、武術家達をことごとく打ち負かして「楊無敵」といわれました。その楊露禅が生前に西太后に義和門の徒手拳法の実力を何よりも実戦的であると評価していたので、西太后が義和団を利用して諸外国を排除しようと考えたのも頷けます。ただ、一説には楊無敵と言われたのも、朝廷が民間や武士から恐れられるように、楊露禅の実力を持ち上げたためとも言われています。しかし、武当山で修行した楊露禅はそれなりの太極拳法の実力を持っていたのでしょう。だから、義和拳の実力も見抜いていたと言えます。

楊露禅は王族や貴族以外に武術を教えてはならないと王朝から留められており、子らにも王族や貴族に教える武術と同じものを教える事になりますが、きらびやかな衣装を着て、武術をあまり好まないもの達には、ゆっくりとした套路や推手程度しか行うことしかできず、その套路や推手だけに限ってしか、子たちにも教えることができませんでした。
楊露禅が義和団などに助けを求めて諸外国に対抗するように西太后に訴えたのも、このような王朝の武術の実態を知っていたからです。

文聖拳は義和団の乱と密接な関係があり、中国ではタブー視されていましたが、最近になって三代目文聖拳として王安林氏がブログを立ち上げています。

そしてYouTubeでもその拳法を見ることができます。確かに、相当王流楊式太極拳と酷似しています。これほど私の師と近い拳法を見たことがありません。確かに師のいうとおりこれこそ同じ源流だと思います。

ここにYouTube動画を一つ紹介しますが、他のものもぜひ見てください。

歴史4:王師が楊式太極拳を武当山で修行

楊家太極拳の楊露禅は1840年ごろ、40才を過ぎて北京で王朝の武術指南役となりますが、優雅な生活の長い王朝の中では、武術のような単練を好むものは少なく、彼自身も思う存分練習もできないため、絶えず武当山へ修行のためと称して入山していました。

武当山の太極拳法(武当派太極拳)の套路は多種多様有り複雑ですが、楊露禅は貴族達に教えるために108式を採用または整理し、(同時期に武当山でも武当太極拳として108式を套路としてよく行っており、現在も武当山で伝承されています。このように、楊露禅が整理したものか古くから武当山に伝承されていたものを楊露禅が採用したものかは不明ですが、どちらにしても武当山と楊露禅は同じ套路をこの時点では行っていたことは事実です。)そしてその套路は子らに受け継がれ楊澄甫が85式の大架式を整理して、貴族達でも練習を楽しめる套路として王朝や貴族に教えていました。楊澄甫の父健侯が套路を健康運動化と簡素化したいと考え、澄甫がまだ若い頃に85式を考えさせたといいます。
楊澄甫は1912年に清朝が滅び、諸外国の監視下の元、北京市長が設立した北平体育研究社で楊氏三世として太極拳を広めることになります。その時に一挙に85式の大架式が貴族の残党やブルジョア達の中で人気を得て広まります。義和団の蜂起などで痛手を被った諸外国がこれを暗黙したのも、この太極拳を見て武術ではなく健康体育であると判断したということが理由です。

1900年の義和団鎮圧の後と清朝崩壊の後には、多くの王朝や貴族の残党や義和団の残党が道教寺院に逃げ込みました。特に道教の十方叢林(宗教専門学校)には多くの武術家が逃げ込んできて拳法を修行しています。その頃に楊式の85式の大架式套路が武当山に環流(元々は武当山の108式の套路を楊露禅が採用または整理したものであるから)し、複雑な武当派の套路をより整理した楊式の85式を取り入れて太極拳法の練習をするものが増えました。(108式の時と同じように武当山でも85式をよく行うようになりましたが、朝廷でお留め武術となったため、武当山内では伝承されませんでした。)その頃から、武当派の太極拳が楊式太極拳とも呼ばれ始めました。楊家ではないので楊式という呼び名です。又、清朝崩壊後に楊澄甫は何度が武当山を訪れていますが、体重が増えていたため、套路を披露する程度であったといいます。

しかし楊澄甫は、そのようなことから、中国国民党の指導の下で、1928年に南京中央国術館武当門長となり、内家拳を統括するのと同時に、武当山武術をも事実上監視することになりました。
又これまで清朝では迫害されていたため、陳家溝から表に出ることがなかった陳家の長拳なども、武当山の王宗岳の伝授を受けた太極拳であると名乗り初めて南京中央国術館の武当門部門に統制されることになり、陳家太極拳と呼ばれるようになりました。17代目の 陳発科(ちん はっか、1887年 – 1957年)41才でした。

その監視下の元で、太極拳法は武当山で楊式太極拳と呼ばれながらも、今までどうり内家拳としての内丹と精神修養、そして実戦武道として門外不出で独自の道を歩みました。

楊 澄甫は1937年に54才でなくなります。(糖尿病などを患っていたという話もあります。)

このような中で、王師は清朝が滅ぶ少し前に道家の子として武当山付近で生まれ、武当山で幼い頃から修行して、武当派の楊式太極拳を身につけたというのは、この史実にぴったりと整合します。王師は毎日が美しい自然と楽しい生活の中で、武道を無我夢中で遊びながら身につけている感覚だったと子供の頃のことを回顧しています。