脱力

本来人間は、健康な体を維持できる恒常性を持って生きています。

そのバランスが崩れたときに、病気にかかってしまうわけです。

例えば、体の中では常にガン細胞が作られていますが、発生する場合としない場合があります。

発症する原因は、心的ストレスや暴飲暴食、肉体疲労など何らかの原因からくる自然治癒力の低下にあります。この自然治癒力の維持こそ、最近話題となっている予防医学と繋がってくるところでしょう。

この自然治癒力とは、東洋医学で言う『気』(生命が活動するためのエネルギー)が全身を流れてクリーニング&メンテナンスをしてくれる活動のことです。

『気』は、緊張している部分は避けて通る習性があります。つまり、筋肉・内臓・脳の全てが脱力していることが自然治癒力を高める最大のポイントになるということです。

ところで、『気』には二とおり有ります。病を作るような悪い気と、自然界や宇宙と繋がっている良い気です。

脱力により全身のツボが開かれていると、そこから自分の中の不要な気『邪気』を排泄し、自然治癒力を助ける宇宙自然からの気『生気』が入ってくるのです。

◎筋肉の脱力◎

太極拳でも、『用意不要力』という言葉があります。『意を用いて、力は要らず』という意味です。早起きして公園に行った日は、その言い伝えどおり体の力を抜き、ゆっくりした動きの中でエネルギーを全身にめぐらせ宇宙の気と繋がる感覚で太極拳を行うと、体があったかくなり、自然と一体になった体感ができます。これこそ、本来の人間の姿なのでしょう。しかし、普段の生活では、いかに無意識で慌ただしく動いていることが多いことか。知らぬ間に心や体を緊張させてしまっているのですね。そこで、縮んでいる筋肉に体重をかけ、ねじったり伸ばしたりして筋肉や関節を元の脱力した状態に戻すことのが太極拳を使った自力整体なのです。つまり、体が脱力して初めて整体が行われ、ゆがみやこり、痛みを無くせるということです。

■自然な脱力状態をつくる

体のゆがみは人それぞれで、そのゆがみによって全体のバランスがとれている場合もあります。

しかし、単なる生活習慣による癖で起きたゆがみは、体に不調をもたらします。

その一番の原因は、急いだり、頑張って力んでしまったりすることです。急ぐと、上半身に力が入って緊張し逆に下半身の力が抜けてしまいます。この様な無意識の習慣が、ゆがみになってしまうのです。背骨を中心とした体の中心軸を保ち、しなやかでありながらどっしり地に足のついた下半身に重心がある脱力状態を作り出すには、先のことをあれこれ気にもまず、今この瞬間に焦点を当てて楽しむこころ構えが一番大切です。そして普段の行動においても、次のように少し意識することで脱力状態を増やすことができます。

<歩き方>

代表的な歩き方としては、二とおりあります。一つは、腕を前後に振りながら腕と足を逆方向にして歩く『行動型股関節歩行』で、西洋型とも言われています。

もう一つは、腕を振らずに同じ側の腕と足を同時に出して歩く『ナンバ歩き型骨盤歩行』で、日本型と言われるものです。この歩き方の違いは、西洋人と日本人の体型の違いからきたものなので、日本人にとって一番緊張のない歩き方としては『ナンバ歩き』なのでしょうが、結果的にその人にあった長く歩いても疲れない歩き方が理想です。

そう言われてみると、日本の時代劇では、みんな上半身が板のようにまっすぐな状態で歩いていました。初めは着物が着崩れないための楽な歩き方でそうなったのかと思いましたが、体型的な理由があったのですね。また数年前、陸上競技の短距離走オリンピック選手が、今まで腕を前後に振っていた走り方のフォームをナンバ走りに変えたところ、タイムがグッと縮まったといったドキュメント番組を見たことを思い出しました。

<荷物の持ち方>

疲れない荷物の持ち方は、できるだけ体に近いところでものを持つことです。特に、ウエストポーチやリュックサックのように体の中心部に密着させている荷物ほど、軽く感じられます。確かに、山歩き用の大きなリュックを背負うときは、重量30㎏くらいあるものなのに、ウエストベルトを締めて荷物と体を密着させると、ほとんど重みが感じられなくなります。重いものを持ち上げる場合も、荷物を体に引き寄せて体の中心と荷物の中心を合わせると持ち上げやすいです。

逆に、体の末端つまり手先に持っている荷物ほど、重く感じられます。買い物袋をぶら下げて持つときは、小指と薬指で袋を引っかけるようにして持つと、肘がしまって肩に力が入らないので脱力して持つことができます。私も実験してみましたが、肩と肘は張らないので楽な感じです。しかし、普段あまり使わない指に力が入るので、そこが少しつらいところでした。

◎内臓の脱力◎

体の筋肉の脱力は分かりやすいですが、自然治癒力を高めて健康を維持するには、内臓の脱力も欠かせません。それには、空腹状態で脱力した睡眠時間が重要になってきます。快眠・快便によって内臓を脱力させ、食事に関しては、栄養のとりすぎは体調不良の元であると言う考え方です。実際、人間の体は空腹には強いけれど、過食や満腹には弱くできています。長い歴史をさかのぼって、狩猟生活の時代を想像すればわかることです。人間の内臓は、一日のうち2時間くらいが腹八分目で、あとは空腹であることが当たり前として作られているのです。現代人は、昔の人と比べて約3倍の内臓エネルギーを浪費しているそうです。私たちの老化や死は、老廃物の蓄積によるものです。体内で発生する老廃物の処理が出来ずに溜まると毒素に変化し、その毒素が体内組織の細胞分裂を阻害していくと死に至ります。多く食べるから内臓が疲れて老廃物や毒素が溜まり、少なく食べることで老廃物や毒素が排出されやすくなるのです。

◎こころの脱力◎

普段の生活で感じる様々な不安、恐怖などは、素直に受け入れ、それにとらわれない生き方が重要です。先のことを不安がって妄想したときには、何かしら心の動きが生じているはずです。それをしっかり自覚して受け入れることによって、新たな選択が生まれてきます。そしてやると選択したものは覚悟して楽しんでやることが、脱力したこころの生き方です

「涵蓄」(かんちく)

「動之則分、静之則合」

陰と陽とが分かれて最初に動きがあっても、太極拳の勢を静かに使えば陰と陽が合して一体化させることができます。

この言葉を単純に、動けば別れ、静かになれば陰陽が合一するなどと訳すのは、中国の古文の文字文化の思推方式ではありません。

動いていても、静かであっても、太極は混沌としていて、いつも離れることが無く合一です。

それが太極なのです。

陰陽が分かれる以前に太極があり、太極から陰陽が生まれます。陰陽が分かれた後を動。分かれる前が静です。静から生まれるのが太極拳の勢であり、動をも含みます。
太極の前には無極があり、そこには何もなく、ゆらぎ(1/fなど)が始まると太極になるというものです。

太極拳はこの相対性の世界(自分という主体と、それ以外の客体の存在する世界)で使われるものであるので、太極拳です。

無極から揺らぎをおこし、太極という静かな勢に、動を包括して戻していく運用法です。

動けばすなわち分かれという言葉のとおり、太極拳を知らないものは陰陽がはっきり分かれます。虚実の境目が大きいのです。

静まればすなわち合すという言葉のとおり、太極の状態は虚実が分かれていても、融合しているのです。

通常は動きだした瞬間に「分」に至り、するとすぐさま、逆に、静止しようとする意思が表れて「合」の状態になろうとします。太極拳は太極を離れませんからその境目がありません。太極を離れないためには、意識を持たず意で動くということです。

意は心、識は認識です。心のままで動くことを用意不要力といい、決してちまたの太極拳で言われているのような、意識で動くことではありません。

意識は心を顕在していることです。そこには、顕在した人の自我が働きますので、純粋な心ではありません。ですから、心を顕在しないことを無意識と言います。それは意識では表せない深いものです。完全なる無である無極と、このような太極の心で無意識で動けるのが太極拳です。

套路を意識を持って動くと日本語で教えられているのは、日本に入ってきたときの翻訳の誤りです。にもかかわらず、多くの太極拳を教える人たちは、いつの間にか意識で動くと間違って解釈して、そして実際に太極拳を運用しています。

認識という意識は、左脳の言語脳を使って脳内の言語で考えますから、次は手をこうだして、足はこう出す、教典の要求はこうだからこうする、実戦なら敵がこうきたらこう受けるという具合に考えることになりますから、そうしていたのでは間に合うはずもなく、太極の勢など出るはずがありません。意識になっていると、もう既にその主体者の後天的な条件まみれなのです。ですから、太極拳の套路で多くの人が身体をこわすのは、高度で純粋な太極拳の動きを、自分が今までに知っている条件の下で、太極として完成された姿勢や形をすぐさまに要求され、相当な無理がかかるからです。

五感・六感から得た感受で、すぐに動くことができなければ、遅れをとることになるどころか、後天的に人間のシステムで構成された、狭い条件の元でのみしか身体が動きませんから、相手の攻撃を融合させることなどできるはずがありません。条件と条件がぶつかり合い、とんでもないことになります。その条件を強化したものが、同じ条件下で勝るだけのことです。いつまでたっても、相手の条件に勝るためにその部分を追いかけ、追い越し、年をとって衰え、若い者には負け、男女の身体の違い、筋肉のつけ具合を追いかけていくしか有りません。このような有形のものはいつかなくなるものです。

太極拳は、人間の単細胞生物の時代から遺伝子に蓄積された膨大な情報を使います。感受と同時に動き、脳の中心部にある本能よりも前の脳の情報です。

これを、太極拳では「涵蓄」(かんちく) といいます。涵蓄は人間の最も奥深いところでの生命力を養い、その勢いを内に秘めて蓄積することをいいます。この涵蓄を練るのが太極拳の本来の套路です。意識を使えば使うほど涵蓄は衰え、意識を使わないで動くほど涵蓄は勢いを増します。套路を覚える段階はもちろん意識的に覚えないといけませんが、意識的よりも大切な深層からわき出る意を感じながら勝手に動く勢と、教えられた太極拳の動きが同じであるという感覚で、套路を覚えていかないと、何の意味もありません。

套路は最終的に瞑想と同じような働きを生み、最終的には三昧と同じような還虚を迎えます。武当派の高手の套路が瞑想太極拳と呼ばれたのもこのような理由からです。

このような涵蓄が太極拳の神髄であり、生命力が活発になり、若返り、本能的以前に自分の心身を守るだけの能力が思い出され練られるのです。

心息動と神気精

心と息と動きが一致して動くの太極拳であると一般に言われています。

武道としての太極拳は、心を神(しん)といい、意識される前の心のようなものをさします。

そして、息ですが、意識した呼吸をしません。意識した呼吸は気功を訓練する場合におこないます。

ちまたに言われる気功太極拳は、この息を重視して、気を動かすものです。

武道の太極拳では、先ほどの神(しん)からダイレクトに発せられる純粋な気により、無意識に呼吸する息をとらえます。無意識の呼吸ですから、深い瞑想のような太極拳によってその営みをとらえることが出来ます。

そして動ですが、それは動きです。武道における太極拳ではそれを精ととらえます。精は精神、神経、肉体、生理全てを含む人間の生命体の仕組み全てです。かたち有るものです。それは、見えない又は動いていないと見えるところでも動いています。ですから、精ととらえます。精力と言われるところの精です。

従って、一般の太極拳教室で心息動と教えられ、それをそのまま理解してしまうと、心を意識し、息をとらえ、身体を動かしてしまいます。

神気精で結果として、心息動が一致するだけです。それは意識ではなく、無為です。

一般の太極拳が意識で動くと言われているのは、用意不要力の要求からでしょうが、用意の意は神(しん)です。意識のことではありません。意識はその神(意)を認識することです。

例えば、仏教の心理学である唯識論では受想行識と最後にあるところで、最も動きとしては遅いところです。神は受といわれる感覚を受動して反応する感受の部分の基礎にある部分であり、感じると同時に働きます。その神が意であり、用意といって意を用いるのです。そして不要力ですが、力を使わないと単純に理解するのではなく、思考力を含む考えの力も力になります。

太極拳は唯物論(物質で全てのことを説明する考えかた)ではなく、唯物も唯識(物質以外のものを認識することで全てのことを説明する考え方)も合わせて考えます。

力とは精神力などと言われるように、それを動かそうとする有為(何かを目的にする)なものを表す言葉です。

意はそれとは逆に何をも目的にしていないで、ただそれに反応することです。

意識があるとは、その意を認識することが出来る状態で有り、無意識はその意を認識できることの出来ない状態です。

このように、意はどちらにもちゃんと存在していることがわかります。

一般的な太極拳では、この意を意識と教え、套路などを練習させているようですが、全くの間違いであることはおわかりいただけたでしょうか。

意は単純に意です。意識として認識したなら、用意識不要力になります。

意識で太極拳の套路を動いている限りは、太極拳が本来求めるところには到達もせず、又、随意運動は、人間の心身の不随意の自然な動きに無理な要求を行い、心身の正常なホメオスタシス(ニュートラルに戻ろうとするバネみたいなもの)をも狂わせることとなります。

このように、太極拳に要求される、用意不要力などの言葉が、全く都合良く解釈されて広められ、それを信じて太極拳を健康によいとして運動されている方には、特に楊式の太極拳は武道として武と医は同じ源にあるという内丹術であることを深く理解されることをお勧めします。