太極拳とストレッチ・柔軟運動

本来の太極拳は、中国北派の武当山中心に修行されていた武当派といわれる拳法です。楊式太極拳を普及したとして有名な楊澄甫も、南京中央国術館の武当門門長として太極拳の普及に努めました。

このように太極拳などの武当門の拳法は内家拳と呼ばれ、少林門といわれる少林寺を中心とした門派を外家拳と呼んでいました。
内家拳と外家圏の違いは、史実からなど見ると、内家拳の創始者といわれる張三豊が道家の内家にいて創始した拳法であり、少林寺をを外家と呼んだこととか、色々説があります。
しかし、大きな違いは拳法の攻防理論にあるといわれています。
外家は功夫(鍛えて訓練すること)にて、肉を鍛えて、腹式呼吸での虚実(運動のオンとオフの切り替えのようなもの)を育て、打つときには緊張を高めます。内家は勢という自然な勢いを修練して、筋を俊敏にして、逆腹式呼吸での虚実を育て、打つときには緩和します。
このように、一つの拳法理論をしても相対した理論を示すことができるのですが、外家と内家で厳密に分けてしまうことはナンセンスであり、ただ、自ら修行する拳法の仕組みを知るための一つの考え方であるものであると思います。
そこで、最近ストレッチは有害という情報をよく目にします。
多くのスポーツ選手にとってストレッチは有用だとされていて、ほとんどの人が疑いもなく運動前や後には柔軟やストレッチ運動をしていました。しかし、現在のスポーツ研究ではもはや議論の必要すらないぐらいにストレッチは有害だというのです。
実際にストレッチを行った事が運動のパフォーマンスに与える結果を調べてみると、全然効果がないどころでは済まず、ストレッチを行った方がむしろパフォーマンスは低下し、怪我も起こしやすいという衝撃的な調査研究結果が2000年前後から次々と発表されているのです。
このようなことでも、今になって実は有害で効果がなかったという事になるぐらいですから、拳法の理論も伝統的なことをただ引き継ぐだけでなく、色々と疑問を持って研究することも大切だと思います。
さて、内家拳では身体の柔軟運動や筋をのばす運動は行わないというのが伝統です。
これには、ちゃんと理由があって伸びすぎ、固すぎを嫌うからです。
単純に伸びすぎているものはすぐに切れるし、固すぎるものはもろいということです。ストレッチは伸びすぎの部類として考えられているからです。又、人間の身体は固すぎというのはなく、太極拳の技法で相手を固めてしまうことで、固くしてしまうと考えています。採勢(採り固める)や擠勢(押し固める)などの勢で相手を固くして、壊すという考え方です。又、相手の関節の筋をのばして無力化して壊してしまう技も太極拳の擒拿術には多く有ります。擒拿術の練習で筋が伸びてしまうと良くないので、その都度、整体で伸びたところを固めて元に戻すほどです。伸びた状態を経験した人はわかりますが、その部分の脱力感と脆弱感(脆く、傷つきやすい、攻撃に対して弱いよ
うな感覚)は身をもって理解できます。
このような経験的研究から、太極拳では柔軟やストレッチをしません。
現在の研究では、伸びすぎた筋はもろく運動効率が悪いこと、エネルギー効率は、関節が硬く可動範囲が狭いスポーツマンの方が優れていて、関節が柔らかく可動範囲が広いほどエネルギー効率が悪化してゆくことも発表されています。
内家拳はもともとは道家の内丹術という、健康法と合わせて発展していったものですから、このような健康効果については相当な経験的研究が行われました。
仙人になっていつまでも若く健康に生きようと考えるほどですから、医武同源を武道に求めていったのです。
拳法の修行をして健康になり、身体もこわさず、本来の身体能力を取り戻して、有事に身を守ることができるという経験的研究に成り立った武道が太極拳です。
可動範囲を広げることで、套路などで足を高く上げるなどの動きを演出できますが、そのために無理にストレッチを行ったり、身体を柔らかくすることはお勧めできません。
それよりも、緊張する部分を解き放して、リラックスしていると、いざというときには、驚くほど身体は自然でおおらかにしなやかに動きます。
太極拳は身体を抱きかかえられていても、発勁が出せる武道です。可動範囲を得てバネを失うことよりも、バネを失わないことの方を選んでいます。もちろん、可動範囲も広くバネがあることがベターです。その修行には、まず心身をこわさないことが大切だということを本来の太極拳は考えているのです。

練習記録 高探馬帯穿掌

高探馬帯穿掌の穿掌の打ち方は手法でやります。主にに点穴で使いますが、この場合の穿掌の場合は龍の勢の一つ竜頭を使いますので、特別な打ち方が必要です。筒の中に槍が仕込んであって、筒を鞭のようにのように差し出すて、急に止めると中の槍が勢いよく飛び出します。これが高探馬帯穿掌です。

大事なのは、この高探馬帯穿掌の過渡式勢です。高探馬帯穿掌は高探馬からの過渡式に重要な勢があります。これを練習します。高探馬から左足が前に進みながら、急激に止まります。その勢は差し出した穿掌の先から飛び出ます。

高探馬帯穿掌は、穿掌ではなく冲拳など他の手法でも使えますが、高探馬帯穿掌での練習で何を練習しているかというと、この勢です。

点穴で鑚勁を用いるときに有効な勁であり、相手の経穴に深く早く鋭く入り込みます。この勁は一般に走られていない発勁ですが、射勁と呼ばれるものです。

練習記録 散手 把式(解法)

散手 把式(解法)

両者手揮琵琶-甲・右手揮琵琶・乙左手揮琵琶

  1. (正上手把靠挒)乙が左手で甲の右手首を下からつかみ引き寄せ、乙の右拳で甲の顔面を打ってくる。甲は乙が引き寄せる勢に合わせ、撇身捶の勢により左に入りながら、乙の右拳を受けて、甲は右手を龍の勢を扌履勢と採勢にて後部右に解くと同時に、右靠勁を乙の胸部や顎に、できるなら頭部を相手の顔面の急所に発勁を放ち、抜いた右手は扌履勢から採勢の円圏を翻して、腰腿の勢で乙の後頭部などへ挒勢をもって発勁を放つ。
  2. (逆上手把托挒)乙が右手で甲の右手首を下からつかみ引き寄せ、乙の左拳で甲の顔面を打ってくる。甲は乙が引き寄せる勢に合わせ、撇身捶の勢により左に入りながら、乙の脇部や顔面側面に攻撃や、上腕を托すなどを行って、甲は右手を扌履勢と採勢にて後部右に解き、抜いた右手は扌履勢から採勢の円圏を翻して、腰腿の勢で乙の首や顔面の側面の急所などへ挒勢をもって発勁を放つ。(逆上手把托頸摔)又は、首に腕をかけてそのまま後ろへ摔角を行い、乙を後頭部から地面にたたきつける。

相対するものを知る太極拳

強弱とは単に相対するものです。

強弱とは単に相対するものです。
左と右、上と下、女と男などと同じように性質として考えるのが太極拳です。
強いから良い、弱いから悪いのではありません。

強いところはどこか、弱いところはどこかそれを知ります。
何に強いのか、何に弱いのかそれを知ります。

よく観察すると、強いところには弱いものが混在しています。
そして弱いところには強いものが混在しています。

それが太極と呼ばれる混沌とした状態です。

太極拳の強い発勁の発動には、相手の強い反動を吸収できる弱い部分が必要です。
例えば太極拳の発勁による掌などは、相手の身体に当たったときは弱く柔らかく、内部に浸透して行くにつれその弱さが強さに変化し、相手の固い表面は弱く変化していくことで、内部まで食い込み発勁が爆発します。

人生においても楽しいとは、強いことと弱いことのお互いが受け入れあっていることです。
男性と女性、上と下、右と左、善と悪、このように考えると色々と見えてくるものです。

太極拳はこのような融合理論を、攻防という一体の理論の中にも見いだしています。

それを実際に心身の動きとして修練するのが太極拳です。

心も体も、強くて弱い。ある免疫が強すぎるとアレルギー体質になり、又弱すぎるとガンが育つのは、強さと弱さのバランスが崩れているのです。

例えば、文武が一体となると色々な事が楽になってきます。呼吸においても文息と武息といって緩やかな呼吸と意識的な強い呼吸がバランスを保っているときが、最も充実した状態です。

文とは理解であり、己を知ることです。武とは運動であり、己を発することです。
その二つのものが一体になったものが武道です。

武道の高手になると武と道の双方に高手になります。当然のことです。

右の高手は左の高手。男の高手は女の高手。悪の高手は善の高手、これはキリスト教の愛の概念の一部です。

太極拳はこのように、日常の散歩においても、人間関係においても、山で修行するにおいても、生きていくことにおいても、全てにおいて太極であることを見つけていく武道です。

強さに偏ろうが、弱さに偏ろうが、武に偏ろうが、文に偏ろうが、そうなると片方を求めたり、又それに対した無理が生まれるのです。

男に偏るのも、女に偏るのも同じです。

偏ると身体も弱り、無理が生まれ、又弱まるという螺旋の下降を生みます。

努力に逃げることも、無理をすることもせず、現実の中でしっかりと相対するものを見つめていくことだけで、武道としての太極拳の仕組みが見えてくるはずです。

太極拳は虚実、陰陽を見つめて知り尽くしていくことから始まると言っていいでしょう。

このような太極拳であるからこそ、生きていく中で大いに役立ちます。

太極拳は筋と骨を使う

太極拳は神気精の一致で発勁となります。

精とは人間が人間として持っているものです。肉体と精神の全てです。

それは、老若男女であっても、持ってる物はなにも変わりません。

精とはその人間の基本的構造、例えば、筋繊維の数や細胞の性質、骨の数やその性質、脳の造りやその性質,その他の生理的性質など全てのことです。

この基本的構造はたとえ赤ん坊であっても、老人であっても、男性であっても女性であっても変わりません。

厳密に言えば、多少の差があったり、病気やけがでの差異はありますが、根本的なところでは なにも変わらないのです。

そのような変わらないところを使った武道が太極拳なのです。自分の変わらないところの構造や性質を精として,森羅万象にて変わらない神(しん)をエネルギー伝導の気を遣って一致させるのです。そこで相手の精も同化して、自らの神気精で相手の精を凌駕するのが、太極拳の技です。

鍛えて太くなった筋肉の肉の太さや長さを精としてとらえて、それをどうにかしようとすると、同じような筋肉の太さと長さが必要になってきます。
年齢でも男女差でも筋肉の太さは変わってきます。そのような変わる物を使えば、男女、身長、体重などで差がでてきて有利や不利が生まれてくるのは当然です。

太極拳では、精の中心には年齢や男女によって差のない筋と骨の構造と性質を使うのです。 その筋骨を使って勢を精に伝えていく気順を練習します。

筋骨は一体になって、筋は気により神からの波動を受けます。それが差異なく一致したとき神の波動は筋骨を動かすのです。それが発勁です。

神は人間の生命力以前の生理のようなものです。生命が生まれるときの発現のような純粋無為な意(い)です。

よく鍛えた筋肉の肉の方に精を伝えていると、骨を筋で動かすことがおろそかになります。太極拳では拙力と言ってこの力を区別します。遅くて固い弱い力としています。骨を使うようにするには、筋肉の収縮によって起きる力を筋肉に感じていては、骨を実感することが出来ません。 套路などでそれを確認してみるとよくわかります。

太極拳では放松という言葉を使いますが、このように力を抜くためには、骨に勁を感じることが大切です。骨には神経も筋肉もないのは当たり前で、そこはもともと硬い骨であり、それ以外のものを解き放すことで放松というのです。筋骨の力は勁として早くて柔らかい強い力としています。

筋は衝撃などの吸収や、安全のために備え付けられた、綿布団のようなものであると考えます。綿の中に筋骨という針があるのです。筋骨には意が備わっています。

太極拳は綿拳とも呼ばれることがありますが、これは太極拳がそのような性質を持っているため,一部のものがそのように呼んだのですが、綿拳は独立して新興中国武術の中に育っているようです。

どちらにしても、太極拳では意識を捨てて、骨に力をもたせ、筋により発勁を起こします。これが一体になって身体を動かすことになります。

勁の通る道は勁道であり、勁道は経絡と経穴に通り抜けるエネルギーを使って勁が通る道です。

そのしっかり通る道を太極拳の套路などで思い出しておくと、肩こりや腰や膝の故障とは無縁になります。

自分自身の放松や,経絡や経穴の気の通り、そして勁道にある勁の強弱などを,太極拳の経験により多く思い出しておき、本来の己を知っておくと、相手の己も一目見るだけでわかるようになります。

どのような環境で、例えば、自分が静であろうが動であろうが,陽であろうが陰であろうが、虚実のどちらであろうが、放松と、勁道、そして変わらないものは変わりません。

このように、太極拳は、どのような状況でも、そして老若男女同じように武道として使えるのです。

年を取っても太極拳が武道として成り立つのは、このような理由です。

太極拳の源流

太極拳は少林寺の内家で修行されていた宗門の行で、世に出て長拳となりスポーツ化されました。記録はインダス文明の時から発展した、カラリパヤットが原型と言われています。その内家の本質を維持するために、武当山などの道教の寺院内家で宗門修行されていて、攻防理論などは道教の太極理論と全く一致しているので太極拳と名付けられました。そして、禁武政策でこの強烈な武術は完全に骨を抜かれて、新たに制定又は伝統とされ、全く武術要素のない、積極的に武術になり得ないものとして再生されました。それが今普及している太極拳です。現在の太極拳の多くの老師は禁武政策の後に生まれた人ばかりです。

いち早く海外に出て、その道教寺院などで修行されていた太極拳を守り抜いたものは、今や華僑の人の中ぐらいにしかいません。

又は、道教寺院と特別に関わりを持った日本人などです。代表的な人物は少林寺拳法の宗家の宗道臣などです。本人は太極拳と言っていませんが、道教の寺院で修行したのは事実です。道教寺院で行われていた武術は太極思想による理論と一致していたのは間違い無く、僧達が太極拳と呼んでいたかどうかは知りませんが、それが今は太極拳(普及している太極拳とは違います)と呼ばれているものです。

伝説によれば、達磨大師がインドからこの格闘技を中国に伝道し、それが外家すなわち外部に流出し修行され、現在の少林拳になったと言われています。

内家で修行されていたものは、僧達によって外部に流出して、道教などの寺院において内家拳として修行されています。

逆に外家で修行されていたものが、現在において崇山少林寺に環流して少林拳として修行されているというのが本当のところです。

日本における少林寺拳法などは、宗家がもともと中国の道教の寺院(道院)で教わったものであると本人が自ら言っていることからも、少林寺拳法の源流が少林寺の本流であるというのが歴史から見ると最も納得できる説でしょう。

少林寺拳法の宗家が行っていた術は、相当、道教寺院で修行されていた太極拳の技が多く含まれていますが、日本で独自に柔術などと組み合わせて、日本人の精神(例えば、交感神経優位的な精神)や身体動作に合わせて体系化したため、既に全く違うものになっているということは少林寺拳法が紹介しているとおりです。発勁理論なども全く逆の理論を使っています。そのことからも日本独自の拳法と言えるでしょう。

このように太極拳とはとても歴史の古い、仏陀までもが修行していたと言われるような武術で、中国において少林寺の内家で発達して、様々な武術抑圧によって、少林寺内部から外に出て、僧達が道教寺院などに潜みその内家を修行したものが太極拳と呼ばれるようになり、少林寺の周辺の外家により、内家の比較的修行がわかりやすい部分すなわち功夫として修行できるものが外家拳として発展していったものが太極拳などとは全く違う外家拳です。

内家拳は逆に中国国内では、殺人的な威力を持つ拳法とされ、相当な抑圧をされていて、清の時代には禁武政策がとられほとんどが外国に渡る中国人によって持ち出されました。又中国人にとって、外国で生きていくためには必然的に身を守る強烈な術が必要だったからです。特に日本においては相当に必要なものだったと聞かされています。

古い時代でも少林寺の内家で修行された内家拳は、強烈な殺傷効果があるので、時の政権に都合が悪いと判断されれば、抑圧されたため、日本における古い時代においても、仏教や道教などと一緒に、僧などに持ち出されて、日本の武道に大きく影響を与えています。

このように、中国国内で、太極拳を伝承することは至難の技で、中国国内から出たことのない中国人には、逆にその本当の太極拳に巡り会う機会が少ないというのが現実です。これはとても皮肉な結果ですが、このことを知る人は少ないでしょう。

太極拳の大師は中国外にいる中国人、又は、そのものから伝承を受けたものにいるのは確かなことです。

今の制定太極拳や伝統太極拳といわれているものが太極拳だと信じて修行している老師は、戦後の中国の政府が伝統として整理したり,又は制定した太極拳の老師たちです。

戦時中に実在した多くの太極拳の師は、相当実践的な攻防術を持っており、道教の寺院などで僧として隠れて禁武政策に接触することがないように、信用の出来る弟子達に太極拳(太極拳とは名付けていませんでしたが)を伝承していました。

弟子達は逆に外国人か、海外で生活圏を広める華僑達でした。

外家拳という、身体の内部まで勁を及ぼすことのない拳法については中国は寛大ですが、内家拳については中国人のその道の人にはその強烈な威力が認識されており、できるだけ、少林寺に伝わってきたような殺傷力の高い武道すなわち、のちに太極拳と呼ばれた内家拳が、本来の姿を取り戻すことには消極的にならざるを得なく、又、積極的に武術になど到底なり得ないものを太極拳として現在に伝統として残し、又は制定し普及させたことは国策として成功であり、そして、それが武術としてもスポーツとしても一般化したことで、既に、真の武術としての太極拳はその大きな潮流の中においては、太極拳ではあるが一般的に知られている太極拳の形や姿勢そして動きなどとは違っていると、今は多くの人に認識されているのです。これで中国においては多くの人たちが太極拳という武術を真に身につけることは全くなくなったということであり、既に太極拳は全く違うものとして生まれ変わったのです。

はっきり言えることは、武道としての太極拳を身につけて、真の内丹を営み、健康と幸福を取り戻すなら、普及している太極拳をもう一度、一歩下がって見つめ直してみることが大切です。

それが、本当に武道なのか?そう考えることも、大切な一生をかけて付き合っていくものとして太極拳を考えるなら、とても大切なことだと思います。

色々な情報を「なぜ?」と突き詰めていくと色々なことが見えてきます。その中の違和感から目を背けなければ、必ずその違和感の元も見つかります。太極拳の套路は、その滔々とした動きの中に違和感を見いだし、その源流を探り、自らの中にその原因を見いだし、それを解決していくことで、素晴らしい無為自然の動きを思い出すことです。

無為自然には違和感はありません。

皆さんは、今普及している太極拳を武道として考えて違和感がないでしょうか?

もしあれば、それは真の太極拳ではありません。

ごくせんの仲間由紀恵のような拳法って本当に使えるんですか?

ごくせんの仲間由紀恵のような拳法って本当に使えるんですか?

YouTubeの動画を見た人から、こんな質問がありました。

あの動きは内家拳のように思います。

内家拳は平常心、副交感神経での動きが最も大切です。

そこから考えると、平常心と、生死を超えても守りたいものがあるときには、使えます。

太極拳は、この様な攻撃にはこの技というものはありません。

そんな難しいことをいちいち考えていては、山ほどその技術を覚えないといけません。又、いざとなるとそんな難しいことは出来ません。

無意識に動ける動きを思い出し、それを修練をするだけです。

無意識の動きは円運動です。子どもが何かをよけるときや、転んだときなど全て円運動になっています。

呼び水のように、元々体の奥底が知っている動きを思い出すための修練です。

散手はその動きをひたすら相対して練ります。

推手は相手の動きの全てを自分の動きとする訓練です。

套路は、無意識に近いところまで意識をおろして、そこにある動きを練って練って練り、気や勁道を思い出しておく練習です。

太極拳の発勁は無意識で発せられる場面になると、相手の命を奪いかねません。動物の本能のような動きだからです。潜在能力、先天の気が平常心と生死の境に最大限に発揮されます。

そんな場面がこないようになるのも、太極拳の心意です。枕の先と言います。相手が敵意や殺意を抱く前の感受の起こりを受けて、融和に化すのです。

太極拳の擒拿術も無意識で使われると、相手の骨を折ったりする事になります。擒拿術はとても痛く体がロックしますので、意識的に使うと相手を制すことが出来ます。又、関節を固めないとそのまま抜身術になります。そこから扌率角等投げ技もあります。当て身も意識を持って発勁を発することになるわけで、相手を制します。 しかし、発勁も、点穴術で発せられた鑚勁だと相手の命を奪いかねません。

人間は自分の急所を無意識に全て知っているのです。だから、無意識の時、相手の急所を的確に打てます。太極拳の点穴術を意識で覚えるのも単にフィードバックのためです。無意識下にある情報との呼応です。 いざとなると、いちいちどこの急所を突くなどとは考えられません。 無意識の時というのはどの様なときでしょう。生死の境です。

太極拳は相手が本気でないと使えません。

しかし、その無意識の動きを思い出すための修練は出来ます。

その動きを出来るだけ、護身術として技術化することも出来ますが、あくまで技術です。理の理解です。運動神経の逆利用や、関節の理解、てこ、遠心力、反射神経の逆利用、崩しなどなどありますが、全ては単なる理です。 しかし、その理をしっかり練習しておくと、意識化でも太極拳は有効に使えますが、無意識下に比べると比ではありません。護身術程度にはなりますが、意識があると平常心を保つことが最重要です。すなわち、理も潜在にある能力の呼び水とするために、数多く練習するのです。

無意識下にあるときは、その動きが自然に起こりどの様な動きになるかは予想がつきません。予想して練習するのは、あまり意味がありません。相手の動きはその場その場で同じものはありません。

意識して練習すると、意識的にしか体が動きません。 出来るだけ意識しないで動けるようになる。これが大切です。

その点古式の套路は優れた練習法と言えるでしょう。

ひたすら、深層にある人間が動物以前の自然の気と動きを思い出す事のみを修練するからです。

毎日欠かさず、良い先生について套路を練っていると、いざ死ぬ目にあったときに、間違いなくその動きが自然に起こります。実証済です。その本体上に技術があるときは、それが作用として有効に働くわけです。

又、その套路の動きは目に見えないところで日常的に、我が身に備わり動いているので、そうやたらに危険な目にも合わなくなります。

以上から、「ごくせん」。仲間由紀恵のような拳法は使えるのか。

答えは、ドラマ「ごくせん」の世界の中の仲間由紀恵だから使えるのです。

その人が、どこまで自分の本質を思い出したかと言うことです。

野生のライオンに無手の人間は簡単に食べられてしまいます。

提手上勢の用法

** [#w416c93a]***上中二連突きに対する、連続受け [#pe66a60a]上中二連の最初の上段を提手の前の手で外へ粘糸勁を発し、中段を後の手で外から内へ粘糸勁を発すると同時に、右足で蹬脚を相手の水月へ発し、擠勢にて相手の胸元へ発勁

ろう膝拗歩の用法

***相手が差し込んでの右上段と右中段を連続で行ってきたときの用法 [#f9dbad1b]
右手の転動の勢で相手の左圏を後ろへ、左手の転動の勢で中段を右へ流し、右圏で相手の顔面へ発勁を出す(体制が崩れたらここで左蹬脚を出し、続けて擠勢を相手の脇に打つ)。左手は相手の蹴りに備える。
**ろう膝拗歩 [#je8440ee]***相手が差し込んでの右上段と右中段を連続で行ってきたときの用法 [#f9dbad1b]右手の転動の勢で相手の左圏を後ろへ、左手の転動の勢で中段を右へ流し、右圏で相手の顔面へ発勁を出す(体制が崩れたらここで左蹬脚を出し、続けて擠勢を相手の脇に打つ)。左手は相手の蹴りに備える。

提手上勢

***上中二連突きに対する、連続受け [#pe66a60a]
上中二連の最初の上段を提手の前の手で外へ粘糸勁を発し、中段を後の手で外から内へ粘糸勁を発すると同時に、右足で蹬脚を相手の水月へ発し、擠勢にて相手の胸元へ発勁