王流 楊式太極拳の歴史

最近、王流楊式太極拳でも、自立厚生運動の広報の一環として、話題のツィッターやFaceBookなどに実名で自動的に記事が投稿されるように設定しています。

そのためか、数人の武術家の方達から、当王流の歴史を教えてほしいという要望がありました。

もちろん、私の師の王征(又は宗)家からきいていた歴史はとても明確で、近代中国史と共に、又私のつじつまを求める質問に答えるように、ことごとく違和感のない、つじつまのあった答えをいただいていたのでその歴史は知っています。

あえてここに掲載する必要もないと思っていましたが、大阪で師の代理で教えているときには、プリントしたものを配っていたときもあります。

しかしながら、私の師の武術は武道としてあり、又私もその歴史がどうであれ、又それが真実であるか真実でないかよりも、先人達の心がどのようなものであって、その源流が今どのようにこの今ある王流楊式太極拳の中にあるのかが大切です。

一番わかりやすいのが、王宗岳の太極拳経ですが、私の師は彼を祖先として持つともいっていましたが、彼自身も明確な系図も知らないし、もしかしたら、道家特有の血縁のない太極一家としての祖先観かもしれないといっていました。ですから、私の師が王宗岳の血縁であるかどうかは、彼自身も気にとめていませんが、しかし、完全に私の師の拳法そして、王流楊式太極拳は太極拳経の理論に完全に一致しています。

そんなこともあって、又、色々とネット上でも議論されている情報と、私の師から聞いていて明確に答えがあるものと、史実などと照合して、王流楊式太極拳の歴史を記載することにしました。新たな事実がわかりましたら改編することもありますが、みなさんも気軽に参考程度にお読みください。

歴史1:王流の源祖は張三豐

元・明代に生きた遼東(遼寧省)出身の道士で仙人。字は君宝、幼名は全一。張三豐(1247年 – ?)が技を学ぶために少林寺に入門しています。

張三豐はとても文武とも優秀であったため数年を経ずして首席になりました。

彼は道教の道を求めて、少林寺を出ていきました。

彼は、湖北の武當山に至ると、そこは天の柱のような峰が奥深く静まり返り、しかも清冽であり、無為自然な心身を求める神仙の道がある龍の峰であるとして、中でも3つの峰がずば抜けていて、青々として素晴らしいものであったと記しています。

彼は、神仙の道を求めてここに隠居して十段錦などの内丹術や、動功として内家拳法(太極拳法)を創始しました。

このことは黄宗羲が書き残した『王征南墓誌銘』で記されています。王征南は明末の1617年に生まれ、清初の1669年に亡くなった人物で、内家拳法の他に弓術もこなしたので、彼は明軍の武官となりました。やがて、明朝が滅亡すると清朝に仕えることを嫌い、隠居して失意のうちに亡くなったといわれています。この生涯に同じ志を持った黄宗羲が共感し、墓誌銘を書きました。(黄梨洲)【黄梨洲は雅号で、本名は黄宗羲といい、明末・清初の大学者として知られ、「考証学」の祖です。専制君主制を批判した《明夷待訪録》は、当時としては民権を論じた進歩的な書で、近代になって彼は〝中国のルソー〟と呼ばれるようになり、前記の本は〝中国の民約論〟と称されたほどの人です。)その彼の書いたことを伝説で事実ではないというものも多いのは、色々な歴史的事情があるのですが、ここでは割愛しますが、彼のような現実主義者がこのような嘘を書くことはないものと考えるのが自然です。その中で太極拳の祖といわれる張三豐を「少林は外家に至る。その術は精なり。張三豐は既に少林において精なり。後にこれを改変して、これを内家と命名す。それを得た一,二の者は十分少林に勝る」と記しています。

このことは崇山少林寺の内家で修行されていたものを内家拳、外で修行されていたものを外家拳と呼んでいたことにも通じます。(宗門との意味合いで、禅宗の教えにて修行するものを内家、そのような教え以外のものを外家と呼んでいただけです。)少林はその教えに反するようになったが、その精なる術を張三豐は完全に会得して、道教を求めこれを改編して今度は、道教内において内家と呼び始めたものであり、これからすると少林寺はこの時点で外家であるということになっているのです。そして、張三豐が道教理論と融合させて編み出した拳法は少林寺に勝ると記しています。それを後に会得したのが王征南であり、その弟子達を武当山に残し亡くなりました。

このように武当山という道教の聖地で、崇山少林寺のように、宗門の行として始まって錬磨されてきたのが王流楊式太極拳の最初の源です。

歴史2:太極拳経の著者・王宗岳

太極拳経の著者、王 宗岳(おう そうがく、生没年不詳)は、清・乾隆年間に活躍した武術家です。張三豐が始めた内家拳法をより実戦的に道家内でしっかりと技術体系化した太極拳法という武術と、剣法と陰符槍法を得意としていました。

清朝は禁武政策の中でも、道教を保護していましたから、 山西人で乾隆56年から60年(1791年 – 1795年)にかけて、若き道士を集めるため河南、洛陽、開封などに滞在し太極拳法の宣伝に努めることができました。その時に、河南省温県にある長拳・砲捶の武術が盛んな陳家溝を訪れて滞在し太極拳法を教えました。逸話によると、一夜その土地に留まりその土地の武術を学ぶもの達と武術談義になり、翌日王 宗岳が陳家溝を離れようとして出発したところ、昨夜の論議に飽き足らなかった村人達は腕の立つもの数名を選んで王 宗岳を襲わせたところ、王 宗岳はやむなく立ち会いその数人をことごとく打ち負かしたといいます。村人達は王宗岳の太極拳法の強さを知り、逆に王 宗岳に教えを求めました。これは清朝の禁武政策の中、思うように武術練習ができなかった若者達の欲求に合致し、王宗岳はそのまま陳家溝に留まり、素質の良いものを選んで太極拳法を教えました。その中で一番上達したのが蒋発というものであり、後に陳 長興(ちん ちょうこう、チェン・チャンシン、1771年 – 1853年)に太極拳法の奥義を伝えました。陳 長興は、清朝時代の実在した武術家で、中国武術のひとつである太極拳の陳氏十四世で陳家太極拳の中興の祖です。

陳家溝において陳王廷(ちん おうてい、生没年不詳。約1600年~1680年)が陳家太極拳の創始者といわれていますが、この頃は三十二勢長拳と呼ばれていて、後に陳 長興のころに王 宗岳の影響を受けて太極拳法と呼ぶようになりましたが、清(1616ー1912)296年間の時代の複数の皇帝たちは、その帝位の間、ほぼおなじ理由で民間武術など一切を禁止していて、陳家溝では、家の窓に厳重にカーテンをしたうえに、部屋の明かりを消して1人で型練習するしか方法がありませんでした。従って、この状況下で拳法を学ぶことは難しく、太極拳法を真に学びたいものはほとんど王宗岳と共に道家に入山しましたので、陳家溝での太極拳法は名ばかりで従来通りの長拳・砲捶の武術が主体になっていたうえに、ほとんど武術の練習ができなくなっていました。

そのような中で、一人で練習する陳 長興に武術の教えを乞うたがが断られ、こっそり盗み見して武術を覚えたのが楊露禅(1799年 – 1872年)であり、楊家太極拳の創始者です。その後武当山に入り彼も太極拳法を修行しました。そこで行われていた套路が後の大架式になっています。

このように王 宗岳は武当山で行われていた内家拳を、完全に道教理論と一体化させたものとして大成させ、その強力さを諸国漫遊で当時の清の王朝の保護を受けながら流布しました。ここで多くの道士が太極拳法を学ぶことを魅力として武当山に入山をしてきました。王 宗岳は自らの役割を成功させたのです。このことはTaichiMasterというジェットリー主演の映画で、王 宗岳とその師である張三豐を重ね合わせた映画を作っていますが、このような史実に基づいて創作されたものでしょう。

王流の楊式太極拳は、この王 宗岳の太極拳法を中興の祖としています。

歴史3:王流楊式太極拳と文聖拳

私の師がしきりに同じ流れから派生した拳法だといっていた文聖拳というものがあります。文聖拳はは17世紀中葉の明末、清朝の初期の時期に劉奉天(1617―1689)を創始として起源します。彼は元々は武当山で幼少から修行道家として張三豐の内家拳を修行していましたが、思想が孔子(文聖)の儒教に傾き始めその思想を元に文聖拳を興しました。張三豐の内家拳が少林寺の禅宗から袂を分かち道教で育ち、又その中から、袂を分かち文聖拳に育っていったのも理解ができます。

その後、清朝の文武進士であった楊士海は文聖拳を承継して大成させ、离卦義和拳(門)と称していました。武術民武色が強かったため、楊士海は1782年に禁武政策下において捕まりました。

その後、歴史の中で文聖拳は秘密結社などと交差しながら民衆の中で育っていきました。そして、文聖拳や梅花拳が中心となって1898「義和団」が蜂起します。そして1900年に義和団の乱が起こるのですが。西太后は王朝のお留め武術の楊家太極拳の楊 露禅が生前に実力を認めていた義和団(文聖拳と梅花拳)を支持しました。文聖拳と梅花拳は、あまりにも強い徒手殺戮拳法であると聞いていたため、列強の外国勢など肉弾戦で勝利できるはずと確信したといいます。

その文聖拳がもっとも王流楊式太極拳と似ているのは、王流楊式太極拳が張三豐の内家拳を源として王宗岳などの道家によって伝承されたように、同じく劉奉天によって武家思想としての儒家の中で伝承されていったのも、根本が同じものであるからです。

楊家の楊露禅は1840年ごろ、40才を過ぎて北京で王朝の武術指南役となりますが、武術家達をことごとく打ち負かして「楊無敵」といわれました。その楊露禅が生前に西太后に義和門の徒手拳法の実力を何よりも実戦的であると評価していたので、西太后が義和団を利用して諸外国を排除しようと考えたのも頷けます。ただ、一説には楊無敵と言われたのも、朝廷が民間や武士から恐れられるように、楊露禅の実力を持ち上げたためとも言われています。しかし、武当山で修行した楊露禅はそれなりの太極拳法の実力を持っていたのでしょう。だから、義和拳の実力も見抜いていたと言えます。

楊露禅は王族や貴族以外に武術を教えてはならないと王朝から留められており、子らにも王族や貴族に教える武術と同じものを教える事になりますが、きらびやかな衣装を着て、武術をあまり好まないもの達には、ゆっくりとした套路や推手程度しか行うことしかできず、その套路や推手だけに限ってしか、子たちにも教えることができませんでした。
楊露禅が義和団などに助けを求めて諸外国に対抗するように西太后に訴えたのも、このような王朝の武術の実態を知っていたからです。

文聖拳は義和団の乱と密接な関係があり、中国ではタブー視されていましたが、最近になって三代目文聖拳として王安林氏がブログを立ち上げています。

そしてYouTubeでもその拳法を見ることができます。確かに、相当王流楊式太極拳と酷似しています。これほど私の師と近い拳法を見たことがありません。確かに師のいうとおりこれこそ同じ源流だと思います。

ここにYouTube動画を一つ紹介しますが、他のものもぜひ見てください。

歴史4:王師が楊式太極拳を武当山で修行

楊家太極拳の楊露禅は1840年ごろ、40才を過ぎて北京で王朝の武術指南役となりますが、優雅な生活の長い王朝の中では、武術のような単練を好むものは少なく、彼自身も思う存分練習もできないため、絶えず武当山へ修行のためと称して入山していました。

武当山の太極拳法(武当派太極拳)の套路は多種多様有り複雑ですが、楊露禅は貴族達に教えるために108式を採用または整理し、(同時期に武当山でも武当太極拳として108式を套路としてよく行っており、現在も武当山で伝承されています。このように、楊露禅が整理したものか古くから武当山に伝承されていたものを楊露禅が採用したものかは不明ですが、どちらにしても武当山と楊露禅は同じ套路をこの時点では行っていたことは事実です。)そしてその套路は子らに受け継がれ楊澄甫が85式の大架式を整理して、貴族達でも練習を楽しめる套路として王朝や貴族に教えていました。楊澄甫の父健侯が套路を健康運動化と簡素化したいと考え、澄甫がまだ若い頃に85式を考えさせたといいます。
楊澄甫は1912年に清朝が滅び、諸外国の監視下の元、北京市長が設立した北平体育研究社で楊氏三世として太極拳を広めることになります。その時に一挙に85式の大架式が貴族の残党やブルジョア達の中で人気を得て広まります。義和団の蜂起などで痛手を被った諸外国がこれを暗黙したのも、この太極拳を見て武術ではなく健康体育であると判断したということが理由です。

1900年の義和団鎮圧の後と清朝崩壊の後には、多くの王朝や貴族の残党や義和団の残党が道教寺院に逃げ込みました。特に道教の十方叢林(宗教専門学校)には多くの武術家が逃げ込んできて拳法を修行しています。その頃に楊式の85式の大架式套路が武当山に環流(元々は武当山の108式の套路を楊露禅が採用または整理したものであるから)し、複雑な武当派の套路をより整理した楊式の85式を取り入れて太極拳法の練習をするものが増えました。(108式の時と同じように武当山でも85式をよく行うようになりましたが、朝廷でお留め武術となったため、武当山内では伝承されませんでした。)その頃から、武当派の太極拳が楊式太極拳とも呼ばれ始めました。楊家ではないので楊式という呼び名です。又、清朝崩壊後に楊澄甫は何度が武当山を訪れていますが、体重が増えていたため、套路を披露する程度であったといいます。

しかし楊澄甫は、そのようなことから、中国国民党の指導の下で、1928年に南京中央国術館武当門長となり、内家拳を統括するのと同時に、武当山武術をも事実上監視することになりました。
又これまで清朝では迫害されていたため、陳家溝から表に出ることがなかった陳家の長拳なども、武当山の王宗岳の伝授を受けた太極拳であると名乗り初めて南京中央国術館の武当門部門に統制されることになり、陳家太極拳と呼ばれるようになりました。17代目の 陳発科(ちん はっか、1887年 – 1957年)41才でした。

その監視下の元で、太極拳法は武当山で楊式太極拳と呼ばれながらも、今までどうり内家拳としての内丹と精神修養、そして実戦武道として門外不出で独自の道を歩みました。

楊 澄甫は1937年に54才でなくなります。(糖尿病などを患っていたという話もあります。)

このような中で、王師は清朝が滅ぶ少し前に道家の子として武当山付近で生まれ、武当山で幼い頃から修行して、武当派の楊式太極拳を身につけたというのは、この史実にぴったりと整合します。王師は毎日が美しい自然と楽しい生活の中で、武道を無我夢中で遊びながら身につけている感覚だったと子供の頃のことを回顧しています。

歴史5:王師は戦後の中国から逃れ日本へ

その後、1939年〜1945年の第二次世界大戦後急激に他の武術メッカと同じく、武当山へも弾圧が強まります。その時に40才を超えていて武当山で太極拳の指導者であった王師は不穏な動きを察して、知り合った日本社会の裏世界の人間の紹介で、混乱期にすぐに神戸にやってきたということです。

そこで、大阪で老舗任侠団体の組織の代貸であった私の祖父や、神戸の裏組織などと懇意になり、特に大阪では私の祖父には恩を受けたと王師はいっていました。私の祖父は戦後に大阪難波を中心に縄張りを広め、大阪歌舞伎座などでプロレスなどの興業を仕切っていた人物です。その時に、王氏の実戦的太極拳はとても役に立つと言って、色々と一緒に仕事をさせてもらったと王師から聞いていました。中国人が日本で生きていくのは大変だったと言うことですが、戦後の裏社会もいかに縄張りを広げるかというときに、又興業や博打場や遊郭などを持つ祖父の組織の用心棒的存在として、徒手武術の秀でる高手の力を借りたのもその当時なら当然のことでしょう。

それからすぐに、1949年に中国では「社会主義革命」が起こり「中華人民共和国」が成立します。

中華人民共和国成立と同時に、主席の毛沢東は「新民主主義的国民体育」として、国防、生産、労働に役立つ、大衆的な体育を展開して人民の健康を増進することを重要課題として、それを基盤として全面的な共産主義社会を実現することを提唱し、国家体育運動委員会が設立されて、様々な改革を積極的に行ってきました。そして、共産主義社会を実現するにあたり、民衆の武術蜂起でことごとく痛手を被ってきた歴史もあり、一つの州でも100や200も門派がある驚くべき民衆武術の底辺にある武術を、いかに抑制消滅さえるかということが命題でした。そこで、中華人民共和国成立の翌年すぐに、政府による武術工作会議が開かれました。そこで毛沢東らは、中国にまだ残っている伝統武術を管理統制できない「武術」から管理統制の容易で殺傷能力のない「スポーツ」へと転換されることこととしました。

中華人民共和国成立と同時に、少林門などの外家拳と、太極拳などの武当門などを中心に全国の武術を中国国民党で統制管理していた南京中央国術館が消滅します。この時既に楊澄甫は病死しており楊家の太極拳はすでに終結していまました。ただ、近代になって楊澄甫の子だといわれる楊守中などが套路を覚えて表演して、楊家四代目だと表明していますが楊澄甫は子には太極拳を教えていないといわれています。ただ多くのものに国術館で套路を教えたため、多くのものが伝承者であると名乗っていますが、楊澄甫は国術館の実務や折衝に追われていたのでほとんど教える時間はありませんでした。そして、陳家太極拳の17代目 陳発科は62才で、子の18代目陳照旭は40才でした。陳照旭は社会主義革命の中、右派に傾きますが、1960年に収容施設の脱獄に失敗し射殺されました。ここで陳家太極拳といわれるものは消滅したように思われますが、陳家溝がその伝統的名称を引き継いでいるものだと思われます。

そして、国家体育運動委員会は楊家の套路を元にして、体操化して過渡式などを除いた「楊式太極拳88式」や、1954 年に「簡化太極拳」を発表して、正式にそれを1956年8月に「国家制定拳」として発表しました。
この国策で、すべての伝統武術を、套路はもとより、武器などの技法も全て表演化して、基本功を体操化し伝統拳として再編成しました。この時伝統拳として制定された太極拳は陳家太極拳/楊式太極拳/呉式太極拳/武式太極拳/孫式太極拳/鄭子太極拳で、このように太極拳を始めすべての中国拳術は「表演競技」として行なわれるようになり、散打は武術性が高いということで禁止されて、拳術、器械、対練、集団演武を競技スポーツの正式種目としました。そこから徹底して武術のスポーツ化が進められます。

(注釈:現在の中国の武術は体操という意味に近いのは、こちらの参考映像「リンクが切れているようです。また見つかりましたらご紹介します」をみれば明かです。)

王師は、いち早くこのような状況になることを予測して国外に退去したため、後に起こる1965年文化大革命による武当山や少林寺に残存する真の武術家の大虐殺からは逃れることができました。伝統太極拳は前述のとおり国策に協力して伝統拳と呼ばれ保護されることになり迫害を免れましたが、武術のスポーツ化に協力をしなかった、又はあまりにも武術性が高く殺傷能力を持つような徒手武術は根絶する以外にないという考えが大多数になりました。最後まで討論したそうですが、義和団や武当山の武術を見て恐ろしくなり、根絶することに決定したといわれています。そしてこの文化大革命の終結の1976年までの間の12年間に、武当山の太極拳の高手などを含む多くの友人が殺害され、武当山の太極拳は中国においては壊滅したと言っていました。武術家を含む全ての中国人で最大3000万人が殺されました。

武当山における武術太極拳は、義和団などが逃げ込んでいることでも知られ、又その源流であることもあり、そこにある武術は、戦場における殺傷技術の要素が非常に強いものと認識されていました。今までの王朝が倒されたときや、義和団の乱の時のように、武術は徒手格闘の軍事技術としての性質が濃厚であり、特に武当派の武術は文聖拳が義和拳と名乗っていたことからも共産党にとってはスポーツ化するなどではとても手に負えない存在でした。

ただ戦後にいち早く将来を予測して国外に逃げた武当山の太極拳の高手は、世界中でその武術を活かして華僑の人たちを守る要となって生き抜いたといっていました。もちろん王師もそうでした。その人達は年齢的に武当山でも流行った楊澄甫の85式の套路を行うため、すぐに武当派であることがわかるそうです。又その套路も武当山伝統の過渡式や運歩法などを備えているので、楊家の85式と比べると見る人が見れば違いがわかるといいます。

このように、武当派の太極拳はかろうじて海外に生き延びたものによって伝承されたのでした。このようなすさまじい中国の歴史ですが文化大革命は、日本人が高度成長時代に沸き立つ時代のまっただ中のつい最近の事なのです。

歴史6:王師との出会い

その後、1980年に文化大革命が誤りだったとされました。民衆の怒りを収めるために、政府の体育機構は中国人の数千年の文化の中にあった伝統武術の復興を救済すると発表して、武当山周辺にも武術学校を設立して、武当山の武術を復興させようとしましたが、当たり前ですがもう既に武当山に太極拳などの武術は残っていませんでした。そこで、しかたがなくスポーツ化された武術指導家達に武当山周辺の武術学校を運営させ面目をはかりましたが、結構これが成功し、民衆は新しい政府に対し怒りの矛先を少し納めたようです。

そしてその成功をもって、1986年3月に「国家体育武術研究院」が設立し、伝統武術の発掘や国際化を本格的に行なうことになりました。中国の民衆が民族武術に対する思い入れがあることを再認識したのでしょう。しかし、それはより民族蜂起につながる懸念であるので、より市民的なスポーツ競技として武術を定着させるために、1990年には中国が初めて主催した「アジア競技大会」で武術 ( Wu-shu )を公式競技種目として加えて、国民に対する民族武術への振興を大きく示しました。

その状況の中で 楊式太極拳を含む伝統太極拳は套路など万人に親しみやすく、又制定された太極拳の套路は民間の健康体操として世界中に流布されており、太極拳は新生中国を象徴する、神秘的な近代中国武術体操として、気功を含め世界中にアピールするための道具として大いに用いられるようになったのです。

しかし中華人民共和国成立から文化大革命の30年間のすさまじい徹底的な破壊により、全ての中国武術は中国国内において一世代に相当する伝承期間を抹消されました。伝統太極拳などの国策に協力した流派は、政府に迎合して現代スポーツ武術にしておいたので形だけは残りましたが、武術が既にスポーツや万人向けの健康運動に変貌するだけの十分な期間でした。

ちょうど、文化大革命が中国で終焉を迎える頃の1977年頃、大阪ミナミの繁華街の裏世界はまだまだ無法地帯でした。そんな中で、私は王師と巡り会いました。毎日起こる修羅場の中で王師は私に身を守る術だといって太極拳を執拗に教え始めました。

そして1990年まで王師に師事し、大阪で王師の代理で太極拳を教えることになり印可を受けました。この時に私は1年ほど仕事などを一切辞めて、王師と共に武当派の楊式太極拳を系統的に整理しました。この時既に王師は80才を超えたところでした。

その後私が東京に移住した後、1995年の阪神淡路大震災のあと王師は行方不明となっています。

中国の禁武政策

  • 589年-960年の隋唐五代の371年間隋末の農民大決起(農民一揆)により、これを鎮圧できなかった煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われていました。618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及兄弟らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺されてしまい隋は滅んでしまいます。そこで618年5月、煬帝が殺されたと知ると李淵がこの一揆を鎮圧して、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となり。新たに唐王朝を興しました。この時に李淵がとった政策が、隋を滅ぼす要因になった民間武術を廃絶すると云うものでした。そして、唐の後の五代までこの政策は、続く事になるのです。
  • 1271年-1368年の元の97年間

    (げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配したました。モンゴル族にとっては、中国古来の民間武術は政権を揺るがす要因になるとして、中国にある民族武術を撤廃する政策を展開しました。 当時、武術云々をしている事がばれると、死刑に処せられたほどです。この時期に、迫害によって武術民族は僻地へ追いやられたのですが、武当山や少林寺にも多くの武術家が流れ込みました。そこに流れ込んだものの一人が張三豊です。

    その後明が元朝を押し出しますが、その時に陳一族が元朝に加担したため、明の太祖・洪武帝によって「犬の子一匹、生きて残すな」という殺戮によって無人地帯と化していた河南省温県常陽村(現・陳家溝村)に1374年、一族の長老、陳ト(これを陳氏初世とする)に率いられ強制移住させられました。そこが陳家溝です。その時に陳氏一族に家伝として伝えられていた武術が陳家太極拳の起源であるとされています。

  • 1644年-1912年の清の296年間

    (しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝です。しかし、中国の歴史上では、元と同じく征服王朝の一つに数えられます。このように清朝は元と同じように、中国古来の特に漢族の民間武術は政権を揺るがす要因になるとして、中国にある民族武術を抑圧管理する政策を展開しました。そのため、多くの民族武術は地下に潜ったり、又は、根絶されたりしたのです。中国には武術のメッカとして少林寺がありました。一つは河南省の嵩山にあり、今一つは福建省の九蓮山にあり、ともに禅宗の聖地であり、少林拳で有名でした。ここに多くの明朝時代の武士達が集まり、反清復明の基地となったため、河南少林寺は3回大きな災厄に見舞われました。福建少林寺は清朝によって焦土と化して完全に消滅させられました。明朝では玄天上帝信仰を国家鎮護としていましたので、その聖地である武当山は大切に保護されていましたが、清朝においては国家鎮護とはしませんでしたが、民衆の信仰も厚く、この武当山を粗末に扱うことは、民衆の不満を買うものと考えから制限・管理・保護の政策をとりました。
    武当山はその後、清朝の政権の仏教と道教の融合思想を尊重する意識形態に習い、道教の聖地としての色彩を強めていきます。
    王 宗岳が(1791年 – 1795年)の間に武当山から出て、周辺に太極拳法を流布し漫遊、武当山に戻るなどの活動を禁武政策の中で行えたのも、このように道教が制限・管理・保護されていたからです。
    それよりも、清代の最も大きな社会問題は、民間の秘密宗教と秘密会党が起こったことです。そこで、清朝は自分たちが管理制限している道教を民間に推奨し、又その中で修行されている王宗岳の太極拳法である内家拳を保護しました。王宗岳は清の朝廷に大変協力的な道教の実力者でした。その反面、清朝は民間武術に対してははばかることなく包囲討伐・虐殺・凌遅[体をばらばらにして殺す酷刑]・流刑などを行い、その極まらないところはなかったというほどのものでした。このようにこの時代の複数の皇帝たちは、その帝位の間、ほぼおなじ理由で民間武術など一切を禁止したのです。
    しかし結局、野蛮な統治は野蛮な反抗を招き、八卦教・黄天教・紅陽教・羅教・三一教・大乗教・青蓮教・黄崖教などにある武術は禁じれば禁じるほど盛んになり、封建政権とは別の地下秘密王国ともいえるものを構成しました。思想において、清はたびたび白蓮・焚香・混元・竜元・紅陽・園通などの「邪教」を禁じる詔を下しましたが、道教に対しては依然として保護を加えました。その中で、武当山は公に堂々と武術修行できる場所として多くの武術の純粋な高手が、張三豐が始祖し、王宗岳が体系化した太極拳法を修行しました。そのような中で、王宗岳の太極拳経を信仰しており、太極拳法の事を陳家溝で知った楊露禅などが武当山で修行し、後に恐ろしいほど強いと有名になりました。そして楊露禅は40才になった頃、清朝のお留め武術として指南役に採用されたのです。