太極拳のクィックモーション

buto5太極拳の武道練習では、あらかじめ、このような攻撃に対して、このような技をと決めて行う招式対錬を行うので、つい、相手の技がまだ勁道を走っていないのに、あらかじめ動いてしまい、お約束ごとのように技を掛け合うことがあるが、それを戒める。
招式練習は、このような技として、技を練習するのでは無く、その勢を練習する。従って、攻撃される側が勁道が極まる前に動いたなら、攻撃する側はその相手の場所に向かって勁を発すればいいのであり、攻撃される側の防御は、もうすでに動いているので、その勢は見破られ、攻撃をよけることができない。これは当たり前である。
楊式太極拳は、凌空勁や聴勁により相手の気勢を読む枕の先である。相手の気勢を感じたら、自らの内の動力が動き出す、しかし、まだ体は動かない。相手は気勢により勁を発する。その勁は、自分の体に向かって勁道を通り向かってくる。自分に当たる瞬間に、転動や流転の勢などを使用して、又は、様々な勁を発して防御をする。臨機応変にである。
あらかじめ予測して動く癖をつけてしまうと、実戦では役に立たない。あらかじめ気勢を予測して、相手の勁がいよいよ極まろうとしたときに、その勁を化するのが太極拳である。いうなれば、寸前のクイックモーションである。
自転車が向かってきて、それをよけようとして、同じ方に向かってしまいぶつかってしまう。車もそうである。車が真っ直ぐ向かってきたらよけようとした方に、自分も向かってしまう。これは、深層に刻まれた観念が、予測と憶測をして、それが癖になり、こっちに行くであろうと思うと同時に、体が動いた結果である。間違えた招式練習と同じで、あらかじめ決められた動きを深層で判断しているのである。
このようなことにならないために、太極拳は無為自然の拳法であるとしてなりたっている。
歩くときも、自転車が真っ直ぐに向かってきたなら、その気勢を感じて体幹の動力を発すだけにして、そして、目の前に来たときだけ、すっと、倒攆猴の動きで身をよける。大体は自転車がこちらをよけて去って行く、下手に動いたときにのみぶつかる。
車の運転もそうだ。私は未成年の時は暴走族(車の方)だったので、クィックモーションをその時から訓練している。目の前にいる車を追い抜く、または、前でスピンした車を避けるときは、予測ではなく、ぶつかる寸前まで動かず、いざぶつかるときにだけ瞬時に操作する。それにより、今まで事故をしたことはない。一度だけ、コーナーを回ったところに大量の暴走族達の車がクラッシュして山積みに止まって、全路線をふさいでおり、それを避けることはできず、止まっている車達にぶつかったことはあるが、前に急に壁ができたようなものであるので、そのようなこともあるだろうと教訓として、それ以来暴走族は命の危険を感じてやめた。
ただ、今まで、前の車がネコの飛び出しで急ブレーキを掛けたときも、普通なら避けられない衝突も、クィックモーションがあれば、難なく避けられたり、長い間車に乗っているが自宅の駐車場の壁に擦るぐらいで、一切事故はない。「かも知れない」運転は、まだ相手がとびだしていないときに、飛び出してくるかも知れないという運転である。このクィックモーションは、その運転を前提として、もしも人が車の陰から飛び出してきたときに、その動きを予測するのでは無く、相手の動きを正確に捉えて、その動きに合わせ衝突を避けることである。普段から車の運転において、そのような場面に合えば、落ち着いて、勝手な固定概念で予測せず、良く相手の動きを見て衝突を避ける訓練をしておく方が良い。私に同乗している人は、最初は驚くだろうが、クィックモーションで的確に相手を避けることができる。普段から些細な危険もそのように運転して訓練する。太極拳の招式は、そのような実戦的な訓練をするものであり、散手対打においてもカンや反射神経では無く、相手の勢や動きを正確に捉えることができるようになる。カンや反射神経は間違えることもある。有名なボクシングのチャンピオン井岡 一翔選手は、カンや反射神経を使用しているのでは無く、脳の深い部分でしっかりと相手の動きを捕らえていることが、テレビの番組で放送されていた。太極拳の招式のクィックモーションはそれと同じである。私が未成年の頃に修行した柳生新陰流もそうである。
私は、30代の頃、よく渋谷など人混みに行ったときは、人と人の間を早足で走り抜ける訓練をやっていた。相手とぶつかる寸前ですっとよけるのである。楊式太極拳の招式練習は、そのあたりをとても重要にしている。徹底的に、技の概念化を排除する。招式を巧くできるようになっても、それは、お互いが決めた、決められた動きでしかない。多くの技を行い、その勢を感じ、自らの勢を発する訓練をするのが招式の練習である。従って技の手順だけを覚えるというのは推奨しない。技が臨機応変に展開することで、多くの技を身につけることができる。それは勢のなせる業である。従って、套路はその勢を練り上げる。定式や型は技では無く、その勢の結果である。套路には多くの勢が含まれる。招式で、いざ相手の攻撃が極まったところ、その勢が自然に発せられる。普段から道を歩くときも、よく、「かも知れない」という、無意識の凌空の予測や予感の元、危険を事前に察知し、いざ危険に遭遇したら、予測や予感に頼らず、相手の勢を自らの勢として和合して動く。これが大切である。これが武道としての太極拳である。

股関節を内外に円転する歩法

武当派の楊式太極拳の源流を遡ってみると、武当太極拳があります。

武当太極拳から楊式に変化していった当事の套路の歩法には、ほとんどが、武当太極拳にある擺歩(はいほ)という歩法が使用されています。雲手などは套路に何度も出てくるのですが、側行歩においては、右は地震脚と、左は擺歩による進歩の練習でした。

現代太極拳の套路では、見受けたことがありません。

もちろん王流では、古式をそのまま大架式として練習しています。小架式にしても側行歩は擺歩を含んでいます。

翻身撇身捶(ほんしんへいしんすい)の翻身は扣歩であり、玉女穿梭(ぎょくじょせんさ)の歩法は扣歩(こうほ)と擺歩の繰り返しです。これは現代太極拳にも少なからず残っているようですが、重要視はされていないようです。

なぜ扣歩と擺歩は重要かと言うことですが、簡単な理由です。

ウェストを起点として、股関節を内転させるのが扣歩です。そして、外転させるのが擺歩なのです。ですから、股関節を円転させる為の内外の動きだからとても重要なのです。

この歩法の繰り返しが、鬆腰(腰をやわらげる)に伴い運動される鬆跨(股をやわらげる)の修練なのです。

この歩法で股関節が自然に円転します。従ってこれを修得すると、股関節を痛めることも無く、また股関節の強化や、故障の改善になるのです。

近年太極拳で股関節を痛める人が増えていますが、この歩法を習得しないで、太極拳という複雑な動きをするのは危険でしょう。

八卦掌にはこの歩法が重要視されているようですが、それは武術としては当然のことです。

太極拳においてもこの歩法をしっかりと練習しないと、武道として太極拳を健身に生かして行くことなどはできません。

王流の套路は、ふんだんにこの歩法を套路に組み込んでいますから、現代太極拳の方から言わせると歩法が間違っているとよく言われます。

しかし、擺歩や扣歩の重要な股関節の円転を失った套路を続けていると、重要な問題が起こることは確かです。

また、その動きをしっかりと練習すると、股関節の故障も無く、またそれらの問題も改善することも事実です。

歩法をただ直線的に動かすこと無く、このような扣歩と擺歩の理を知り、形や方式、伝聞にとらわれずに、自然の理をもって柔軟に太極拳の套路を楽しまれることをおすすめします。

護身の基本の基本

武器を持とうが、拳銃を持とうが、いくら筋肉をつけようが、巧みな術も精神力もつけようが護身なんてものは簡単にできません。

まず護身の基本の基本は心理にあります。

欧米ではそれが当たり前であり、そのためのプログラムが豊富です。

まず、セルフエスティームを高める、すなわち自らを知り尽くしその尊い自分を思い出すことです。
ですから護身術は生まれたときから、始まっているのです。大人になってからもそれを高める方法もあります。まず、これがとても大切です。これを高めるというのは最も大切な護身術の基盤です。

太極拳では、その心理基盤を思いだし、整える訓練をします。

そして、バウンダリーはしきい値です。しきい値とは、融合と分裂の境を感じる能力です。違和感を危険値を感じ取るのです。いくら親しくても,相手が親でもその中からバウンダリーを感じ取る。
これは感受性なのです。この感受性を高める,しきい値、すなわち自分と他人に境界線が生まれたことをいち早く感じ取る。電話の声一つでも、遠くからの雰囲気でもです。ちょっとした空気の変化も。周りの者が自分と合一していないことを感じる能力です。これがバウンダリーです。この感受性を高めていく。しきい値感受能力です。もちろんこれも子供の頃から高めておきます。大人になってからもそれを高める方法もあります。

太極拳では、聴勁や凌空勁だけで無く、相手の気を読む、感受性を高める訓練に終始します。套路などはその訓練でもあります。

その上で、多くの実戦を想定して、セルフエスティームとバウンダリーの理により技や発勁が出るシミュレーションを多く繰り返します。そこで得た危機に関する情報は正確であり、実戦経験的な情報に匹敵するようになります。
これが、誰にでも、どのような人間にも備わる護身の基本です。これを高めるに尽きます。

精神よりもっと深い、人間の生存からの本質的能力を高めることです。同時に技も身につけてこそ、武器を持ってこそ、また知略を当たり前に使えるようになるのです。 太極拳はそこをとても重視します。

子供のうちから、護身感覚を知っておくことは大切なことです。また大人になっても、身を守ることの意識が芽生えることは、すなわち、セルフエスティームとバウンダリーの発心なのです。

その発心が、護身の基本です。

護身術を体験する人は、それで護身術を知るだけで無く、その発心があったからそれを体験しようとしたのです。

この発心が護身ということにとって、とても大切なことなのです。

欧米では当たり前の護身理論です。

楽観的に

楽観的と悲観的という言葉があります。相反するものです。

経験に対して、どのように観るかと言うことです。

経験はとてつもない情報を含むものです。

その経験をどう解釈するか。どう認識するかで全てのことは大きく変わってきます。

太極拳であろうが、人生の何事もその認識が何もかも変えていくのです。

例えば、経験したことが失敗であると感じたとします。太極拳なら技が流れるときです。
その原因を自分の内的なことに有ると認識するか、または外的なことであると認識するか?

内にあると認識すれば、その根本的な問題が自分にあると考えてしまうわけです。
自分は武道に向いていないなどと。運動音痴とか?不器用であるとか?

このように、何事もうまくいかない経験は、内にあるのだからどうしようもないと考えてしまうのです。
自分は、そのような人間だと落ち込んでいき、うまくいくことなどあり得ないと悲観的になっていきます。

太極拳は、ここで内と外の境界を教えるのです。

内は先天的な本質です。外はそれ以外全てであると教えます。
すなわち自我も、個性も、性格も、努力してつけた筋力、運動能力も、器用、癖、コツ、向き不向きなども全て外なのです。

太極拳は套路も技も全て、その先天の理を使って修練する武道ですから、その差が修練の過程ではっきりしてきます。ですから、熟練してくると経験的に内外のしきい値が見えてくるのです。

だから、人生においても、何事もうまくいかない経験は、無為自然の本質で生きていないからだとちゃんと理解できるようになるのです。技がうまくいくのと同じようにです。

変わることのできる後天的な自分も含め、それを外的な要因と受け止め、その後天的な認識における観念を変化させていく。であるから、楽観的なのです。
変えることができるからなのです。ですから、太極拳は誰でも巧くなります。当たり前の理を使うからです。すなわち内という普遍性をです。

太極拳は真の修行を深めていくと、とても楽観的に技を使える自信が身につきます。
また、その理を人生に生かしていくことにより、楽観的な人生を歩むことができます。外は自由に変化させる事ができる易だからです。

太極拳を学ぶものはこのことをよく理解して,極楽観的に練習を楽しむことが大切です。これが神明への道です。

石の上にも三年

石の上にも三年。ことわざです。

なんでもそうですが、3年もやれば必ず名人になれます。

これは人間の身体の生理成長(新陳代謝)理論と、脳生理学の運動野や側頭葉の記憶メカニズムでも明かです。

しかし、ここが大事なところです。「石の上にも。」ということです。

冷たい石の上でも3年も座りつづけていれば暖まってくるということです。

同じところに座り続けていないと,絶対に暖まりません。

太極拳経では入り口で間違えると、全く違うところに行ってしまうと説いています。

違う石を温め続けるからです。

そして三年とは期間では無く、連続の度数のことです。

週に一度程度の練習であれば、もちろん温め続けることができませんし、いくらそれを7×3年の21年続けても暖まることはありません。力士になりたければ、毎日練習を続けて、プロになるには10年は必要でしょう。

太極拳は先天の勢を使いますから、力士のように後天的な力の積み重ねは必要有りません。

しかし、毎日先天の勢を思い出し、それを温め続けることが石の上に三年です。

プロになろうとする力士は寝ても覚めても相撲のために生きています。

後天的な力を鍛えるために日々努力です。

太極拳は先天的な力を温める為に、日々先天的な力の中で生きていくことです。努力は要りません。

その先天の勢を呼び戻す方法を週1回の練習でも良いので学んだら,毎日その勢を生活の中で温めてくことです。

套路は毎日それを朝に思い出して、空いた時間に学んだ技をゆっくりとやる。五分程度を数回で良いのです。ただ、歩くときも座るときも、パソコンのキーを打つときも先天の勢を使うのです。

そして3年、必ず太極拳が使えるようになります。もしもっと時間を技術を覚えることに割けるのなら、人に教えるほどの名人になります。

これは石の上にも3年の当たり前の理屈なのです。

ただ、それを温めないでやり続けても,毎週1日温めても、また次の週まで冷め切っています。

私のところで太極拳を学ぶものは、その石の上に座り続ける方法を教え続けます。

その理がわかれば、もう名人になったのと同じです。

とてつもなく冷たい石でも,座り続ければ必ず温かくなる。

快拳による練功

太極拳は体の中心部の発動、すなわち呼吸筋やバランス筋の発動を発勁点まで伝えていく、勢と勁道で成り立っています。それを発勁と言います。
その発動を発勁点まで伝えていくのは、無為自然な心意すなわち、意で動くエネルギーの働きである気です。
そこで太極拳は、その発動は沾粘勁という膨らんだり縮んだりする、まるで水が盛り上がっては沈むような動きと、纏糸勁というねじれたり弛んだりする動きが、X軸とY軸の関係で四正、四隅、そして方角である五行を生みだし、太極という無限の動きを生み出しているのです。
 その動きをまずしっかりと生み出せるまでは、鍛錬が必要ですが、その動きができていないうちに,速く動いてしまうと、そのなめらかな動きを知らずして発動を行うようになります。知らずして太極拳の動きをするなら、大概の場合は腰や膝、体中に重大な支障が出ます。
 そして発動ができるようになったとしても、その勢を起こし、勁道に伝えていく中で気の流れを,発勁点まで渋滞させないようにすることも大事です。
 渋滞したところには、ちょうど電気の線が折れ曲がって,そこでショートを起こすような感覚で、違和感と緊張が生まれます。もちろんその部位に支障が出るのは当然です。
 発動は主に経絡を伝わります。ご存じのとおり経絡は多くの内蔵を経由します。太極拳の源流にある坐道はこの勁道の正常化に努めた修行法でもあります。
 このように、発動から発勁点までに伝わる道筋、そしてその勢と、気の流通を壊すこと無く,それを練功して行くには、最初はゆっくりと大きく(大架式)そして、指導者からの指導を受けながら、少しずつ速く小さく(小架式)も取り入れて行っていきます。
 内部で発動された動きが、通過点で消耗すること無く,又勢により増幅しながら発勁点まで伝わるのが太極拳の発勁法です。
 従って型(式)をしっかりとゆっくり練功して、対錬においてもその動きを損なわず、ゆっくりと行い、その勢が本来の動きとして呼び戻されてきたのなら、その感覚のまま快拳を練功するのです。
 楊式の練功法に蓄発快拳があります。蓄勁はゆっくりと発勁は素早く行い(明勁法),又逆に蓄勁を素早く行い発勁をゆっくりと行い(暗勁法)ます。双方とも速くおこな場合には単純に快拳と呼んで修行します。対錬は最終的に小架式の快拳で行うようにします。ただ大架式での単練は勢の円圏範囲の維持と勢と気の増幅、勁道の凌空の修練として絶えず必要ですから、套路というものがあるのです。
 大架式と小架式、練拳と快拳は、それぞれ意味があり大事なのです。

海底針と双龍拉椀

海底針は太極拳における裏勢(りせい)=(体の内側を使って抱き込むような勢)を習得する重要な招式です。

双龍拉椀(そうりゅうらわん)は海底針の示意であり、相手の手首の内側を双龍の上あごで、外側を大小の拳頭を下あごでひしぎ噛んで上あごを裏勢にもとづき内側に引き込み、上あごを前側へ押し噛んでいく手法です。

この裏勢がないと、以上の拉勁は発勁とはならないのであり、重要な練習方法となります。

海底針の裏勢は多くの擒拿術に含まれますが、この双龍拉椀は最も基本的な示意なので、単法として相対で練習をします。

双龍拉椀は相手の手が胸元にある時を想定して練習しますが、相手の冲拳を受けてから拉椀する上臂拉椀・上攔拉椀など多くの技があるので、それらを多く練習することで裏勢の発勁感覚を身につけ、套路において武道としての海底針が行えるように自己修練することが大変望ましいのです。裏勢が生きた発勁を裏勁といいます。

裏勢は転身背摔(てんしんはいそつ)などの摔角の発勁にも、扇通背の勢と合勢にて使用されるなど、多くの技においても練習することができます。

 

太極拳の四隅手における板と棒

太極拳は円の動きで動くと一般では理解されています。確かに十三勢の四正手(しせいしゅ)は円と曲の勢です。

ところが四隅手(しぐうしゅ)は直と伸の勢であり、後は五行の方角で十三勢となっているのです。

四正手は太極拳を聞いたことがある人なら円の柔らかな動きということで理解はできるでしょうが、四隅手は理解しにくいものです。

四正手も四隅手も五行も、相対の武道練習において詳しく学びますが、四隅手の勢を実感できるのは特に拳脚の相対練習になります。

冲捶は拳面で相手に打撃を与えますが、身(靠)からおこった勢は、肘、手腕(列)、尖(採・拳面)と矢のように到達します。

この時の勢の流れが四隅手、理においては三節になるのです。

冲拳では拳面ですので、身から出て肩から拳面までが、固い真っ直ぐな一本の樫の木の棒になり、その棒の先端に全体重と勢が行き着き、勁が飛び出すように突くのです。これが四隅手の勢です。

冲拳の練習においては、小指から中指の先が、手首を輪切りにした中心に突き刺さるような感覚で、拳面にまで気を通します。一本の棒になるのです。もちろん発勁の瞬間だけ棒になるのです。冲拳の練習はサンドバックなどでもできますから、一人でもできるでしょう。

 

しかし、もっと四隅手の高度な練習は、身(靠)と肘と手(列)と尖(採)を直で繋ぎ、伸ばしてしまい板にしてしまうことです。体の薄い部分とそれらを一枚の厚い板のようにしてしまい、その板の角や縁を相手にあてるという発勁です。

板の全ての重みと、その意動力が板の縁や角に集まるのであり、その威力は絶大になります。

このような四隅手の合勁の感覚を実感する技として、攔腕肘挒(らんわんちゅうれつ)があります。

攔腕肘挒は相手からの顔面への冲捶を進歩搬攔捶の欄で受けて、受けたその腕で肘挒を相手の気舎から頸脉へ鑚勁を放ちます。

この時の、発勁は四隅手の合勁となります。体から肘挒までは一枚の板になったような感覚で、そのまま急速に移動して板の縁を相手の気舎から頸脉までに斜めに「ゴン」とたたききるようにぶつける感覚です。

四隅手が理解できると、合勁が理解でき、この攔腕肘挒は完成します。

攔腕肘挒は搬攔捶(はんらんすい)という招式、套路では進歩搬攔捶という型の示意(用法)ですが、相対でこの技の練習をしていると、進歩搬攔捶の套路で前に掌が伸びながら欄勢を描いているときに、かならず四隅手の合勢を感じることができるようになります。

このように、武道の練習をしていると、套路において、とても大切な一瞬を理解できることとなり、套路自体が本物の太極拳の套路となるのです。

進歩搬攔捶にはこのように、太極拳の四隅手の板と棒が含まれていることを知ることが大切です。

太極拳の龍の勢と龍脈

武当派の楊式太極拳では龍の勢(沾粘纏糸の勢)を多用します。

双龍採扌厥(そうりゅうさいけつ)・双龍大扌履(そうりゅうだいり)・双龍斜飛(そうりゅうしゃひ)双龍撇身(そうりゅうへいしん)大纏手(だいてんしゅ)や小纏手(しょうてんしゅ)昇龍纏腕(しょうりゅうてんわん)などの太極拳の擒拿術は、龍の勢を実感するのにとても役立ちます。

とても大切なことですが、龍の勢は龍脈を通ると言うことです。龍脈は聴勁により感じ取り、入り口からしか入ることができません。そして出口からでることにより、龍の勢による発勁は完成します。

途中で龍脈をそれたり、飛び出たりすると龍の勢は消滅します。
例えば、双龍斜飛は相手の右手首を我が左手の龍が上あごの左側でねじりかみます。相手の右肘の折れ曲がったところから、相手の胸元に龍脈が通って、相手の左側の気舎から頸脉をかすめて抜けていくのですが、入り口は相手の右脇腹の後方にあります。
そこから入っていって、龍の勢で龍脈に入っていかないと龍の勢は通りません。

龍は前に向かっていきすなわち、85式套路では倒攆猴から斜飛式の過渡式の抱掌から、完全に後ろへ向いてしまう斜飛式の方向まで、五行の勢を使用して曲がりくねった龍脈を通り抜けます。

双龍斜飛はこの套路における、典型的な龍脈を描く龍の勢ですが、よく、野馬分鬃と混同されるようですが、全く違うものです。

龍脈の複雑ですが、その龍脈を知ればとてもたやすく龍が通り抜けることができることを、相対練習で習得してください。

龍の勢は沾粘勁と纏糸勁という重要な太極拳の勢を兼ね備えた合勢です。全ての技で龍脈を見つけて通ることができれば、太極拳は神明の域に入ります。

そういうことで、この龍の勢をとてもわかりやすく実感できるこのような把式(擒拿・摔角・解法など)の練習は重要なのです。
把式は龍脈を知り、龍の勢を使いこなせた、すなわち巧みな型(技術とその動きの全体像)であるということです。広義では巧

みな型のことを把式と言います。

中国では、成功者の多く住むところには龍脈が通っているとかよく言います。とんとん拍子の成功者は龍脈を通ってきたとも言います。

確かに太極拳を修行して、龍脈を知れば、とんとん拍子に太極拳が聖域に入っていくのも理解ができます。

龍脈を知るには、まず十三勢を思い出して、龍の勢を思い出してからのことです。

龍になって龍脈を駆け巡る太極拳の醍醐味を知れば、きっと世の龍脈も見えてくるでしょう。

太極拳の妙技 2を限りなく1にする

武道において、相手の攻撃を受けて攻撃するという攻防について述べます。

攻防において、相手の攻撃を受けて反撃する。

一般の武道では、相手が息を吐いて撃ってくれば、(実)こちらも息を吐いて受ける(実)というものが多いようです。

それから息を吸い込み、又吐いて反撃する。受け側は、吸って(吐く前に吸っているから)、吐いて、また吸って吐くという4呼吸と考えることとします。

この場合は双方が実、双方が虚、双方が実と一致しているので、お互いに効果的な発勁は行えません。

なぜなら実の時は、身体も防御するだけの緊張をしているので、内部に勁は浸透しにくいからです。

相手が虚であるからこそ、こちらの攻撃が効果的に相手の内部に浸透するのは、武道の常識です。

従って、効果的な技を発するためには、相手の虚を作るための当て身や、何らかの作戦が必要となってくるのです。

または、お互いに実であったとしても効果的な打撃を行うために、双方の実と実の力の優越を、筋肉などの力を増強したり固くしたりして、その力の強い方が相手の実を打ち砕いたり、実と虚の移り変わりの差をスピードで勝り、相手の虚を突くために、スピードを司る筋肉を鍛えていくことに努力するという功夫の修練を行っていくことになります。

功夫はこのように体の外側を鍛えるので、外家拳の性質の一つとして論じられる場合もあるようです。

そこで、太極拳の通常について。

太極拳は、相手が息を吐いて撃ってくれば、(実)こちらも息を吸って受ける(虚)のです。だから太極拳というのであり、これが基本なのです。

それから自然に次の動作として吐いて反撃するのです。吸っているときは蓄勁、吐いているときが発勁です。

この単純な太極理論を武道に発見したのが太極拳法(当事はそう呼ばれていました)であり、道教の僧が創始したのも頷けます。

このように、受け側は、吸って(受けたときに吸って)吐くだけであり、2呼吸と考えることとします。

このように、太極拳は反撃を2呼吸で行えるのです。

そうであるから、相手の動きを受けてから、こちらが動くという、後の先の武道なのです。

このように相手が撃った実の後に、相手は当然に虚に戻りますが、こちらのは受けたときに虚であるので、相手の虚の時に攻撃(実)するのですから、相手は相当なダメージがあり、又、スピードは相手が攻撃を終わらせるのと同時に攻撃を終わらせるのですから、普通の人間の筋力とスピードで十分なのです。ですから老人になっても、ひ弱な女性でも最低限の効果を得ることができ、何も鍛えなくても、力が衰えても、自転車に乗れるように使えるのです。

今までは当たり前の誰でもわかることですが、いよいよ本題です。

実は、太極拳には、その2呼吸を1に近づける吐納技術を用いる技が多くあるのです。

相手が息を吐いて撃ってくれば、(実)こちらも息を吸って受け(虚)る時に、吐納法(丹田呼吸)を使って吸気を圧縮し、その吸気と吐く息を同化させながら反撃するという技術です。

相手は攻撃という実が終わり、虚に戻っていきます。呼吸だけで言うと、相手は息を吐いた後に吸う呼吸が始まると言うことです。

こちらは、相手の攻撃を息を吸って受けて、相手が攻撃を息を吐いて行った後に、息を吸うことを始めるまでに、こちらは息を吐き始めて、相手が実から虚に移り変わる加速に同化して追いかけながら、相手が息を吸い始めて虚になったところにすぐに発勁するのです。

相手は、虚から実に移る間もないだけでなく、実から虚に移る勢いを利用されて、より虚に陥っていくのですから、内部への勁の浸透は加速的で深部までこちらの実が浸透します。

このように、虚の圧縮技術は吐納法という逆腹式呼吸で修練しますが、これは分勁(テイクバック動作の無い発勁)の技術そのものであり、分勁ができるようになると、この技もできるようになります。

分勁はテイクバックをしていないのでは無く、テイクバックを極端に0に近づけているのです。そこで、蓄勁を圧縮して行っているのです。

この技術は套路の起勢などで修練できますが、この勁を悟ると、套路の式全体にある過渡式(普及している一般的な套路には過渡式が無い場合がほとんどです。)などでもいくらでも修練できます。

そうなってくると、あっという間に熟練してきます。

このように太極拳の修練においては、悟るべき多くの事があるのですが、もしそれらを悟らずにして、修行を続けていると、太极拳経の末尾にあるように、最初の少しの間違いは、すぐに何千里もかけ離れてしまう。ということになります。

最初にこのような太極拳の真理を知って、練習をしていれば、套路を練習すればするほど、太極拳が上達します。ですから、武道としての太極拳の修練はとても重要なのです。なぜなら、太極拳は武道だからです。

しかし、武道としての理を経験せずして套路をやり続けていると、どんどん遠くにかけ離れていってしまうのも太極拳です。

王流の套路クラスは、武道としての理を会得した指導者が、武道としての動きでしか構成されていない套路を教えています。一切省いていません。安全域も形も何も制定していません。その代わりに武道の理があるので、套路で思い切りおおらかに動いても、怪我も無くどこも痛めません。それは実証されています。

より武道を極めたければ、武道クラスで相対で武道練習に参加すれば、套路に流れる武道の理がより実戦的に現実的になり、套路の理想がより現実化していきます。

このように武道としての動きでだけで構成された套路であれば、套路だけ行っていても、太極拳の心身の健康効果と、すくなからずの自然な護身能力は呼び戻されます。

武道クラスに参加すれば、套路との相乗効果を生みながら、心身の健康と積極的な護身能力に飛躍的な効果を生みます。

武道クラスも套路クラスも基本は同じですので、太極拳は武道であるということを理解しておくことがとても重要です。