楽しけりゃいい

今生さえ楽しければ良い。
死んだ後も、生まれる前も気にしなくても良いと言うことです。

この瞬間を精一杯楽しもうというのが「道」の価値観です。それが滔々と続く。絶対的に。

「道」とは人間にそれを教えるものです。

今生さえ楽しければ良いと、自分(個人)さえ楽しければよいは違うことです。

この瞬間が楽しいと言うことは、実は全てと楽しさを共有していることになります。
「道」にも光り輝いているから楽しいのです。

太極拳の套路はこの瞬間を輝き続けながら、いつまでもいつまでも輝いていきます。これが套路です。

「道」では自分(個人)さえ楽しければ良いということと、今生さえ楽しければ良いということが並び立つ論理は成り立ちません。
もしそれが成り立つのであれば「道」ではありません。

今生きることが楽しければ、個人も森羅万象も周りも楽しいのです。
これがありのままの楽しさです。「道」の楽しさです。

ですから、太極拳はただ楽しめば良いのです。
心の底から、何にも頼ることも無く壊れることも無い楽しさなら。

「殺しに来た相手を味方にする。」太極拳の境地です。
この境地は、今生さえ楽しければ良いという価値の共有です。これがタオです。
ここに自分(個人)さえということは成り立ちません。
今生きていることが楽しいとは、自分(個人だ)けでは成り立たず、相手も森羅万象も全てを味方として成り立ちます。
「道」と合一して生きている人は、今生さえ楽しければよいのです。そして、自分(個人)さえとは思うことなどあり得ないのです。

太極拳は楽しければ良いのです。そしてその楽しいとは壊れないものです。自分(個人)だけなら壊れます。
ここに陰陽和合があるのです。だから、套路は周りとの一体感を求めるのです。気持ちがよい、楽しいと感じるのは自分です。だから、気持ちが良い楽しいと心の底から感じることで良いのです。もちろん対錬の練習でも何でも同じです。

人生も同じです。今生がただ楽しければいいはずです。しかし絶対に壊れることの無い楽しさは、全てと一体で有り、道と合一であり壊れることの無いものです。套路でその感覚をシミュレーションできます。これが私たちが想念太極拳と呼ぶ、存思太極拳の一部です。

神明を得る。今この瞬間(今生)が輝くように楽しい。これだけでいいのです。
これに気づけば、太極拳も人生もタオも完全になります。

道を楽しむ

 世間には、色々な常識があります。
古くから続くもの、宗教の常識。科学の常識。武道の常識。などなど。

しかし「道」には常識がありません。
「道」には常識が無いから、道なのです。

常識とは辞書のとおり「ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断。」ということです。
ですから「道」の常識と説く時点で、おかしな話になります。

その常識に縛られてしまうと、「道」から遠ざかります。
しかし「道」の常識を知識として構成していると、あたかも「道」を説いているようにも見えます。

この違いが、「道」と合一して生きているのか。「道」を常識をよく知っているだけかの大きな違いなのです。
道家という社会でのみ、その人々に承認され、当然持っているはずの知識や判断。これが教えと称され、それ以外の人にはわからないだろうとなるのです。交わることも無いという風にしてその常識を秘伝などとして示します。老子もそれを嘆いているぐらいです。

「道」の知識を知れば知るほど、その経典にしがみつき、その内容を抽象的にひけびらかします。
そしてそれが道の考え方であり、常識であると人に伝えていきます。

しかし、よく考えてみますと。道には常識が無いのです。
もっと考えていくと、道は伝えるものでも無いのです。教えでも無いのです。

道とはその社会も、常識も構成できないものであり、それを包括するものであることは老子が言っていることです。
私もそう思います。

道とはすでにあり、それと合一しているのが全ての森羅万象です。
その道と合一なのかを自覚するか、自覚しないか。また、その道を主として生きているのか、主としていないのか。
自覚して主として生きている人を道と合一して生きている人。そう言うのです。

「道」の世界は「道楽」という言葉に最も表れています。

「道」をただ楽しんでいるのです。この社会にある諸行無常の森羅万象の現象も全て「道」の中にあるのです。

道楽は一般の人に理解しがたい境地などではありません。理解しがたき境地を老子は説いているのでしょうか?
そうではありません。心から無常で無く楽しく生きていれば道楽なのです。

太極拳は道楽を地でいく武道です。

道楽とは別に好きなことをして生計を立てると言うことでもありません。これは、もとの意味が忘れ去られ一般的な世俗語として定着しただけです。

道楽とは道を楽しむ。ただそれだけのことです。
道とは無為自然、それを楽しいと思える、純粋なかわいらしい境地です。

太極拳の勢や技がただ気持ちよくておおらかに、いうなれば楽しく動く。この道楽を思い出します。
人生も同じ、ただ生きているだけで、おおらかであり気持ちよくて楽しい。汗が出ようが、努力しようが、涙が流れようが、一生懸命苦労しても、そして苦しいことがあっても、そして悩んだり考えたりしても、全ては道の中で楽しんでいるのだと見えてくるのが人生の悟りです。
太極拳も、色々な技を繰り返しながら、その悟りの境地に向かっていきます。

全てが道の中であり、もちろんそれを楽しめる。これが道楽です。

諸行無常の世俗にあふれる人の人情も全て、道と共にあります。
この人間として生まれてこの諸行無常の社会に生きる全てのことがあるからこそ、そこで、それらにとらわれず、自由気ままな境地に遊ぶことができるのが「道」の価値観です。その現実生活の中の考えも道の中にあり、交わるどころか合一であるのですから、考えが似て来ることも交わることも無いというのは本末転倒になってしまいます。私たちが知る「道」は人生における全てが「道」と合一であり、その価値観も考えも全て包括して生きていけるものです。

そのような排他的な、また差別的な「道」を私たちは知りません。
「道」を学ぶものが何も特別ではありません。太極拳を学ぶものが何も特別ではありません。

「道」も太極拳も、生きている中にあるのです。一般社会も道家の社会も、武家も何も関係ありません。

「道」も太極拳もこの一般社会の価値観も考えも全て含んで、森羅万象と融合して、生きていくからあるのです。

道楽。「道」を楽しむ。これはただ人生を楽しむことです。
道楽。太極拳も武の道として楽しむことです。武の道。武は人生の一コマに過ぎません。そして人生の全てでもあります。

太極拳は「道」と共にあります。人生も「道」と共にあります。
太極拳を学ぶものは、全ての諸行無常、陰も陽も、虚実も、苦しみも嘆きも、どのような考えも価値観も全て和合できることを知ることとなります。
それが「道」の力なのです。それで、太極拳は武道になるのです。

タントラとしての太極拳

 王流の楊式太極拳は武当山で修養されていた内丹術としての行でもあります。

天地万物の構成要素としての気を、行気・運気・導引・存思・吐納などを修養し、身中の「内丹」を練り上げ、身心を変容させて、道(タオ)への回帰を目指し、性命を内側から鍛練する東洋の伝統的な修行法です。

『老子』第四十二章の「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」

根源たる「道」すなわち完全なる無。そこから先天の一気が生じ、一気は陰陽の二気と成り、陰陽二気は交わり,解け合い融合するようでふれあいながらの沖和の気を生じ、陰陽と沖和の三気から万物が生じます。
道からすなわちその象徴である神(しん)から気がが生じて,その気が陰陽に分かれながら交わって精を生み出すということです。

原子力の融合と分裂の仕組みと同じですね。また宇宙の化成も同じであると考えます。

内丹術は、人間が生成するときの順序も天地万物が化成するときの順序も当然として同じであると見るのが内丹術の考えです。

何も無いところから、陰も陽も何も無いところから、完全な無からまず神(しん)が純粋に生まれます。
その神から気が生まれます。神は一気。そして陰陽に分かれ二気になり。例えば、男女。陽子と電子。に分かれます。その一気の神と気が融合したところに精が生まれるのです。
精は生成のであり。人間であれば人間が生じて一気。男女として二気(例:アニマとアニムスで男女に混在)です。それが融合して胎児が生まれる。これが三です。胎児はまた神として一気になり。男女として別れ、三の生成を繰り返します。その循環を生むのです。

陰陽のもとは無です。陰陽が変転する太極は、どちらももとは無であるから太極なのです。すなわち人間という以前に自然であり、自然の中で精を得た場合に陰陽の気が生まれ、また自然に戻ろうとするのです。それが人の生死です。
一が二になって世に存在し、その陰陽が癒合しようとするのです。これが内丹で一に戻るということです。
すなわち、男女で言うならば、男女が融合するということです。沖和の気(愛情)をもって、神気精共に融合するのです。
これがタントラです。

このように、陰陽変転の基盤にあるのは、不易。変わらないもの。すなわち一なのです。一は無から生まれた最初の一気であり、元々は一つのものです。
それが分かれたから、一に戻ろうとするのです。変化をしない最も安定した状態に。無為で自然な状態に。
一が、二になって、すなわち神が気を生む。神と気は何も生み出さない。神と気が変換を繰り返すだけです。
純粋な心がエネルギーを生み出す。純粋な揺らぎがエネルギーを生み出す。
ただそれだけです。

無が無であるためには、有を生み出す。これが一です。一気なのです。相対性を生み出す両儀がここで生まれます。
純陽の中に一陰が生まれるのです。この一陰が純陰です。
一気は純陰。すなわち神は純陰です。無の純陽の中に一気が生まれる。宇宙のおこりのビックバーンです。
一気はここで二気になります。一つは神、そしてもう一つは気と呼ばれます。物理学では陽子と電子。すなわち総称して、陰と陽ですが、その変換は神が自らを知るために無を見ると無が陰になり変換するのです。相対性の理論です。

そして、その陰陽が混沌としながら移り変わるのです。これを太極といいます。

この別のものが交換しながら融合して一に戻ろうとする。二でなくなろうとする。完全に一つに戻ろうとする。すなわち沖和。これがタントラの行なのです。密教にもこの思想を簡単に表に出せないので、この部分を秘密にしました。男女の融合を神気精の一致として,二が一に戻ろうとして,三を生み出す過程として説明するには、ただおししようも無く、行に収めようとしたのです。密教のことはこれぐらいにしておきます。

そしてこの神気の二が、この世に現象を起こそうとするのです。新たなものを生み出そうとするのです。すなわち生成です。森羅万象を生み出します。すなわち易です。変化するものです。そして精が生まれます。人間なら、そこで人としての全てを生成します。

このように、太極拳は融合を求めることを重視するのです。それは陰陽和合であり、ひたすら一を求めます。
多くの武術は生成、すなわち精の生成を求めるようです。神と気から生まれ出た結果を鍛えるのです。収斂を続けます。そして後天に蓄えて、また分散します。この三を求めた場合は、充分な肉体鍛錬を欠くことはできません。しかし、最後には三も一に戻ることで武術の完成があります。

太極拳はただ一に戻ります。そして先天を取り戻します。
タントラもただ一を求めます。神気精が一致した融合を目指します。肉体的な鍛錬は、先天にあるものだけで良いのです。

太極拳もタントラも、最初の一気でひとまとまりに神気精を一に戻します。
最後の境地を一挙に得るのです。このような道を、タントラといい、太極といいます。

太極もタントラも、一挙に全てを手に入れます。
一挙に愛し合います。一挙に相手を融合して制すします。

太極拳もタントラ同様、頓法[急速に進む方法]ですが、全てが一致していないと、とてつもなく成就し難いものです。

そこで太極拳にはその成就のために、漸法[ゆっくり進む方法]として内丹術が用意されているのです。内丹術はゆっくりとその無から一・一から二・二から三・三から二・二から一・一から無の修行を理解していきます。

しかし、太極拳は一挙にそれを得ることができます。それを得ないと太極拳にならないからです。
タントラもそうであす。純粋に愛し合うことができれば、すぐに男女は融合できます。そこになんのこだわりがあってはならないのです。そのこだわりを捨てるために、太極拳でも道があるのです。タントラにも法があるのです。それを学ぶのです。

しかし、私たちは学ぶより経験を教えます。それが太極拳の経験です。

太極拳の神明を得るまでは,内丹と道(タオ)を一緒に学べば良いのです。また学ばなくても良いのですが、内丹の理解は経験と共に身につきます。

タントラも、男女が純粋に愛し合えるまでは、まず愛し合うことから始めるのです。なんのこだわりも無くです。タントラは、その中で、法(ヴェーダ)やヨガを学べば良いのです。密教では、空海がそこを明確に説いていますが割愛します。

このように、私たちが学ぶ太極拳は、タントラとしての太極拳でもあるのです。一挙に融合を得る。一に戻る。
それができないのであれば、私たちは太極拳とは言わないからです。

新羅万象を陰と陽から一に戻す力。これを愛と呼びます。凄い力ですね。

太極拳もタントラもこれを修行します。

胡蝶の夢

胡蝶の夢は、道教の始祖の1人とされる荘子による有名な説話です。

巨匠フランシスコッポラがこの説話をモチーフにした文学作品から映画を造り上げました。

私も見ましたが、その思想がよく表されています。

胡蝶の夢は、荘子が夢の中で蝶として、楽しくおおらかに飛んでいたところ、目が覚めたら人間に戻っていた。人間としての私が、蝶になった夢をみていたのか、それとも今の私が蝶が見ている夢なのかという説話でです。

太極拳では無為自然を教えます。

無為自然と考えたとき「あるがまま」と言う言葉がまず浮かびます。

あるがままは意識が覚醒しているときであれ、またリラックスしているときであれ、もっと言うと寝ているときであれ、もっと言うと、形而上的な世界、私たちの知らない世界においてもあるがままなのです。

ですから、寝ているときに意識する世界、すなわち夢です。これは現実では無いのか?
また、目が覚めているときが意識する世界、これが果たして現実なのか?

夢と現実をわけるのは、実は私たちの単なる意識レベルに過ぎないのです。

意識レベルの程度によって、自分の世界が変わっている。そう考えると、どちらも私たちが生きている世界であり、その分化は夢とうつつという一つの区切りなのです。

太極拳の無為自然は、ただあるがままではなく、その分化するものは単なる人間の認識だけの問題であり、その認識も有為と捉えます。すなわち意識も有為となるのです。

荘子の胡蝶の夢は,全てのものは同じ。一切斉同という考えです。太極拳の融合も、虚実も陰陽も強弱も左右も上下も全て同じであり、融合していると捉えています。そしてそれを分ける事ができるということです。
融合していて同じものであるとして、それを分けることができるということで、技が使えます。

仏陀の遊戯三昧。あらゆる世界でただ遊び戯れるだけという、荘子の逍遥遊と同じであり、夢であろうが現実であろうが、生きているときの一瞬として何ら変わりが無いと考えるのです。

そう考えると、どのような境遇にあろうが、また意識がどのようなレベルであろうが、また、今がどのようなときであろうが、夢の中にいようが、それが生きているという一瞬なのであり、そのどれにも区切りなど無く同じものというふうに捉えます。

夢の中にいるときさえ生きている時間である。よく考えると当たり前ですね。
現実逃避で、酒の世界に浸る。薬の世界に浸る。しかしそれも、現実であり、生きているのです。
酒を飲もうが薬をやろうが、覚めた世界が夢で、その夢は苦しいから、早く夢から覚めたいとして,薬と酒をまた飲む。同じことですね。
夢の世界が楽しければ、起きているときもその夢の中にも戻ろうとします。現実から逃れるために。現実は夢だと思うことで、夢なんだから現実では無いと安心しようとします。しかしそれは無理です。

夢も現実も区切りが無い。それが真実ですから、そのように真実を捉えると、夢も現実も同じものになり、自由になります。どちらが夢でも現実でも良いのです。

どちらかが苦しい、それは現実ではないと思っても,人生の一瞬です。夢を描いてその夢が達成できないとして,その夢が苦しくても、その夢から逃れても捨てても,それは夢では無く現実と同じなのです。

思っていることが現実として起こるなら現実。思っていることが夢の中にあっても現実なのです。

意識レベルでどう捉えていて、他のものへどのように影響を及ぼしていくかと言うことも、全て価値判断で行われるだけです。

ある人が夢を思うだけで、その人の行動も変わるでしょう。またある人が夢を実現しても、その人の行動は変わるでしょう。そしてそれを受ける環境も同じように変化はあるでしょう。

目で見える世界と、意識の世界が人の世界を形成しています。

胡蝶の夢はその経験を私たちに伝える説話です。荘子がとても現実的に生きる世界を感じます。

コッポラの胡蝶の夢は,雷に当たって若さと能力を手に入れて夢のような世界で生きていく男性は、それが夢であろうが、うつつであろうが、また雷に打たれる前の老人と、また老人に戻った自分の時が、夢であろうがうつつであろうが、どちらも自分の生きていた瞬間であるとしてこの荘子の感覚を捉えながら終わっていきます。
エンドロールが無いというめずらしい終わり方であり、人の人生の終わりを暗示するような終演でした。

無為自然・一切斉同・逍遥遊、夢とうつつさえの区別も無い、より極めると生と死の区別もない、有為や条件に縛られない自然で自由奔放な境地です。

善と悪、是と非、生と死、左右大小、美醜、苦楽、生滅、清汚など、世の中にまた自意識に見えるものは全て相対性(両儀相対)であり、人間の認識が生み出した世界であり、それを絶対と感じるところに苦しみがあり、またそれが見せかけであることを知らないと惑わされるのです。

太極拳のゆっくりゆっくりとした套路は,存思(瞑想)の世界へ誘います。
そこで得る変性意識は夢うつつの同化した世界です。

その世界は生死の境とよく似ています。その感覚を思い出すと、人生も太極拳ももちろん一変します。
虚の時が夢なのか、実の時が現実なのか?その双方が同じものであると感じたとき。
陰陽和合の太極拳の技は完成しています。

あるがままに

本当は最も簡単なはずなのに、難しいものです。

本当は最も楽しいことなのに、不安で苦しい。

しかし、本当は最も簡単で、楽しいことであることを。見つけ出すことが出来ればこの世を「あるがままに」生きることが出来る。

人間があるがままに生きることが出来れば、ほとんどの他のものはあるがまま生きているので、とても素晴らしいあるがままの世界が必ず戻ってくる。

太極拳を真に修練するものは、そのようなビジョンを心の中に描いている人が多い。

達磨大師はそのような世界を現世に蘇らせるために、中国に入ってきて、少林寺で神気精の収養法を説き、同時にその収養法として拳法などを教えた。
このエピソードは、達磨大師の神(しん)と気と精が完全に一致していることを示すものである。

心が認識する現象は、その人の認識情報によって描かれた現象である。色とりどりである。
神が知る現象は「あるがまま」である。中には何もない。空っぽである。
色とりどりに見えるシャボン玉は、中は何もない。
しかし、中は何もなくても、人間が見ると色とりどりで美しいシャボン玉にもなる。美しいか悲しいかも自由である。自由であるから、何もない。
全ての現象は実際に有るものではなくて、空である。

強姦強盗が見えているシャボン玉はどの様なものか?
しかし、それは空である。

その見えている色も、その中の空洞も、全ては神(しん)から生まれている。

神(しん)を親とすれば、色も空も神の子どもである。

神(しん)すなわちあるがままでいることが出来れば、とてつもなく大きく、強盗や強姦でも、それらの全てを包括し融合することが出来る、その感覚は確かに経験するとよく分かるが、普通は生死をさまよう目にそう簡単にはあえない。

それを修練するツールの一つが太極拳であり、とても優れている。
実際「あるがまま」に、この条件だらけの現世を生き抜くことが、最も優れた修練法であるが、普通ならたぶん大変な目に遭って、へこたれる人がほとんどでしょう。太極拳をやりながら、実生活であるがままに生きてみる。

実生活を戦いと見て楽しんでみるのもとても面白い。
私は子どもの頃から「あるがまま」を掲げて戦い抜いているが、今はそれがとても楽しい。
太極拳の戦いはすなわち和合である。宮本武蔵の戦いと同じである。
自分のあるがままで、相手を包括融合するのである。すなわち戦い=親子のように仲良くなるである。敵と思ったときにお互いが傷つき。親子と思ったときにお互いが融和する。

楽しくて、簡単で、人間としてあたりまえに存在できる。
「あるがままに」だからこそである。
「あるがまま」以外のものは「必要!!」ではなくなる。

太極拳と長寿遺伝子サーチュイン « 淳子のホームページ

 

 

武当派の太極拳は、不老長寿を極めていくという内丹術を、武道と一体化したものであることは有名です。医武同源ということです。

不老長寿を研究する仙学というと、現在においては何か神秘的な、それよりも怪しいものにまで変化して伝わっているところが多いようですが、もともとは内丹とほぼ同じ意味で、本来は道教の僧が自己確立のための予防医学や健心・健身術として極めていったものであったのです。ところが、安易に素早く長寿や健康を望む一部の者が、仙薬を作ったり特別な修行や荒行を行ったりしたものなどを仙術と名乗っているものが今やほとんどです。

内丹術としての太極拳は、心身のホメオスタシス(恒常性維持機能)を取り戻し、長寿と心身の健康を促進するもので、太極拳の攻防理論や、太極理論と完全に一致し、漢方や黄帝内経などの理論にも通じているものです。

そこで今回は、最近注目されている健康と長寿の遺伝子「サーチュイン遺伝子」に注目してみました。

引用元: 太極拳と長寿遺伝子サーチュイン « 淳子のホームページ.

太極拳の妙技 2を限りなく1にする

武道において、相手の攻撃を受けて攻撃するという攻防について述べます。

攻防において、相手の攻撃を受けて反撃する。

一般の武道では、相手が息を吐いて撃ってくれば、(実)こちらも息を吐いて受ける(実)というものが多いようです。

それから息を吸い込み、又吐いて反撃する。受け側は、吸って(吐く前に吸っているから)、吐いて、また吸って吐くという4呼吸と考えることとします。

この場合は双方が実、双方が虚、双方が実と一致しているので、お互いに効果的な発勁は行えません。

なぜなら実の時は、身体も防御するだけの緊張をしているので、内部に勁は浸透しにくいからです。

相手が虚であるからこそ、こちらの攻撃が効果的に相手の内部に浸透するのは、武道の常識です。

従って、効果的な技を発するためには、相手の虚を作るための当て身や、何らかの作戦が必要となってくるのです。

または、お互いに実であったとしても効果的な打撃を行うために、双方の実と実の力の優越を、筋肉などの力を増強したり固くしたりして、その力の強い方が相手の実を打ち砕いたり、実と虚の移り変わりの差をスピードで勝り、相手の虚を突くために、スピードを司る筋肉を鍛えていくことに努力するという功夫の修練を行っていくことになります。

功夫はこのように体の外側を鍛えるので、外家拳の性質の一つとして論じられる場合もあるようです。

そこで、太極拳の通常について。

太極拳は、相手が息を吐いて撃ってくれば、(実)こちらも息を吸って受ける(虚)のです。だから太極拳というのであり、これが基本なのです。

それから自然に次の動作として吐いて反撃するのです。吸っているときは蓄勁、吐いているときが発勁です。

この単純な太極理論を武道に発見したのが太極拳法(当事はそう呼ばれていました)であり、道教の僧が創始したのも頷けます。

このように、受け側は、吸って(受けたときに吸って)吐くだけであり、2呼吸と考えることとします。

このように、太極拳は反撃を2呼吸で行えるのです。

そうであるから、相手の動きを受けてから、こちらが動くという、後の先の武道なのです。

このように相手が撃った実の後に、相手は当然に虚に戻りますが、こちらのは受けたときに虚であるので、相手の虚の時に攻撃(実)するのですから、相手は相当なダメージがあり、又、スピードは相手が攻撃を終わらせるのと同時に攻撃を終わらせるのですから、普通の人間の筋力とスピードで十分なのです。ですから老人になっても、ひ弱な女性でも最低限の効果を得ることができ、何も鍛えなくても、力が衰えても、自転車に乗れるように使えるのです。

今までは当たり前の誰でもわかることですが、いよいよ本題です。

実は、太極拳には、その2呼吸を1に近づける吐納技術を用いる技が多くあるのです。

相手が息を吐いて撃ってくれば、(実)こちらも息を吸って受け(虚)る時に、吐納法(丹田呼吸)を使って吸気を圧縮し、その吸気と吐く息を同化させながら反撃するという技術です。

相手は攻撃という実が終わり、虚に戻っていきます。呼吸だけで言うと、相手は息を吐いた後に吸う呼吸が始まると言うことです。

こちらは、相手の攻撃を息を吸って受けて、相手が攻撃を息を吐いて行った後に、息を吸うことを始めるまでに、こちらは息を吐き始めて、相手が実から虚に移り変わる加速に同化して追いかけながら、相手が息を吸い始めて虚になったところにすぐに発勁するのです。

相手は、虚から実に移る間もないだけでなく、実から虚に移る勢いを利用されて、より虚に陥っていくのですから、内部への勁の浸透は加速的で深部までこちらの実が浸透します。

このように、虚の圧縮技術は吐納法という逆腹式呼吸で修練しますが、これは分勁(テイクバック動作の無い発勁)の技術そのものであり、分勁ができるようになると、この技もできるようになります。

分勁はテイクバックをしていないのでは無く、テイクバックを極端に0に近づけているのです。そこで、蓄勁を圧縮して行っているのです。

この技術は套路の起勢などで修練できますが、この勁を悟ると、套路の式全体にある過渡式(普及している一般的な套路には過渡式が無い場合がほとんどです。)などでもいくらでも修練できます。

そうなってくると、あっという間に熟練してきます。

このように太極拳の修練においては、悟るべき多くの事があるのですが、もしそれらを悟らずにして、修行を続けていると、太极拳経の末尾にあるように、最初の少しの間違いは、すぐに何千里もかけ離れてしまう。ということになります。

最初にこのような太極拳の真理を知って、練習をしていれば、套路を練習すればするほど、太極拳が上達します。ですから、武道としての太極拳の修練はとても重要なのです。なぜなら、太極拳は武道だからです。

しかし、武道としての理を経験せずして套路をやり続けていると、どんどん遠くにかけ離れていってしまうのも太極拳です。

王流の套路クラスは、武道としての理を会得した指導者が、武道としての動きでしか構成されていない套路を教えています。一切省いていません。安全域も形も何も制定していません。その代わりに武道の理があるので、套路で思い切りおおらかに動いても、怪我も無くどこも痛めません。それは実証されています。

より武道を極めたければ、武道クラスで相対で武道練習に参加すれば、套路に流れる武道の理がより実戦的に現実的になり、套路の理想がより現実化していきます。

このように武道としての動きでだけで構成された套路であれば、套路だけ行っていても、太極拳の心身の健康効果と、すくなからずの自然な護身能力は呼び戻されます。

武道クラスに参加すれば、套路との相乗効果を生みながら、心身の健康と積極的な護身能力に飛躍的な効果を生みます。

武道クラスも套路クラスも基本は同じですので、太極拳は武道であるということを理解しておくことがとても重要です。

練神還虚

内家拳の武術家の中には、心の赴くままに意識を練っていくと、心と意識と一つになっていく状態を「練神還虚」と教える人もいます。しかし、武当派でそうではありません。

「練神還虚」とは、「神(しん)」という人間の深層奥深くにある、人間が生まれる前から持つ存在の為のあらゆる情報で、生物以前の例えば素粒子の時代からの、人間の個性以前の本質と考えられているもので、その無為自然の本質に併せ練っていくことで、自分の心身、個性などが虚という無為自然の本質と一体に成っていくという段階のことをいいます。道教や神道、インディアンなどと同じアミニズムの思想と同じです。

心と意識が一体であることは儒教にある誠(せい)と言って大切ですが、その心という人間の一部、そして心身一如として、体も含めて虚に還ることを目指すのが、「練神還虚」の段階であり、太極拳の修練でもあるのです。

決して、心の赴くままに意識を練っていくことそのものが、「練神還虚」ではないのです。この基本的な理解がないと、全く修行を間違えてしまいます。太極拳の修行の基本は人間の心以前にある、儒教で言えば仁という愛の精神の源にあります。ちなみに仁丹とは、その源の未知なるものの物質化への象徴でもあるのです。

すなわり、「練神還虚」とは、心身を練って心身を無為自然と一体に戻すことを言うのです。

意識とは、その上でのことであり、考えてみれば分かりますが、意識もその意識する人間の心次第なのです。すなわち有為なのです。

「練神還虚」は元々は内丹の修行段階の言葉です。

まず最初の段階では、精という人間の生存を構成する基本的な物質を、気に融合させていくことを練精化気といって元気が出てきます。

その気を、無為自然の神(しん)に融合させていくことで、万物と一体になったような気力がみなぎってきます。そこでは、気があること自体が楽しくなってくる。練気化神の段階です。

そして、元気な心身と、楽しい無為自然が一体となって、元気で楽しい、精力あふれ、気力あふれ、万物と一体で楽しい不安も不満もないおおらかな、練神還虚の段階に向かうのです。

このように、心の赴くままに意識を練っていくと、心と意識と一つになっていく状態を「練神還虚」というのとは全く違っているのです。

心がどの様に赴くか、全て意識にかかっているのであれば、本末転倒になります。

「練神還虚」とは、その心の動きの元になる陽神(気で意識される肉体)を練り還虚することであり、そこで始めて心がどの様に赴くかということになのです。いうなれば修行の結果、意識がそのようになるだけです。

心は、多様性があり、先天も後天も含んでいます。陰も陽も、全ての現象に関わる情報そのものです。それを精と神によって動かす。それを精神といいます。精と神が一致していれば、心もその一致した心。 精と神が一致していなければ、整合性のない心。 気はそれをつなぐ重要な役目と、それを融合させるものとなるのです。

精神で動かされた心が「意」です。心は素材であり、基礎であり、ありとあらゆるものを含んでいるのです。仏教ではその動きを知ることを「識」といいます。その心の動きを自分で認めた部分を認識といいます。

修行はまず、基本。そして、練精化気・練気化神という段階を経て、練神還虚があるのです。

その段階も知らず、心の赴くまま意識を練っていくという考えは、自我にまみれる金欲 や虚栄などの無常に染まり赴く心に、有為で自我の意識が融合していく姿を想像すれば目に浮かぶように、あまりにも安易としかいいようがありません。

意識を心に合わせる前に、まず無為自然になることが大切です。意識すら捨てるのです。無為自然になれば、自然と心も意識も無為自然になるのです。それが太極拳の意識であり、そして単なる結果です。

練神還虚とはあるがままに全てが戻ることです。それから、その心の赴くまま意識を練っていかないと、全く武道でも健康術でもない逆のものと大欲拳は化してしまいます。

これが太極拳を始めるための基本なのです。基本を間違えると、気がついたときには手遅れになるのです。 有為な意識がふくれあがって、重たくなり、手がつけられなくなり、心身を病むのであり、これも、心の赴くまま意識を練っていくことによる悲しい現実なのです。 これを練神還虚とはとんでもないことです。

煉神還虚は、心静かにすれば分かるとか、分かるものには分かるとかというものではありません。心の赴くまま意識を練っていくなど、意識が修行されていない結果であるのに、その意識を使って太極拳を動けなどというのは全くの誤魔化しと言い切ることもできます。

しかし、言葉は単にその経験やもっと言葉に出来ないものを、説明するために字という記号や音を使って意味を持たせているだけに過ぎないのです。

意識という言葉がどのような現実なのか、煉神還虚とは、意とは?など言葉ではなく、その理解と共に多くの経験を繰り返していくことが、太極拳の修行なのです。

 

無用の用・不易流行と太極拳

太極拳は道教の理念を武道の中に多く取り入れています。

道教の祖師は老子ですが、彼の「無用の用」という概念は有名です。

例えば、太極拳の套路で、広い公園で大きな大地に立っていますが、大地の内で使っているのは足で踏んでいる部分だけです。だからといって、足が踏んでいる部分だけを残して他が無くなってしまったらどうでしょうか?奈落の底に脱落ですね。このように踏んでいるところは用、踏んでいないところは無用、次に踏んだところが用であり、踏み終えたところが無用に変化するのです。これが太極拳の歩法です。

このように、一見役に立たないように見えるものが実は役に立っているということが、「無用の用」なのです。

そして、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した「不易流行」という概念です。不易とは変わらないものです。それを知ることがなければ、大地すなわち基礎の部分がわからないと言うことです。流行は変化です。変化を知らないと新たな風が吹きません。しかも松尾芭蕉は「その本は一つなり」即ち「両者の根本は一つ」であるといっています。太極拳の套路が滔々と流れるように、変化が不易となり、又新たな変化が生まれ、過去の変化は不易となるのです。このような動きを套路の中に求めていきます。

以上のどちらも太極思想の陰陽和合の考え方なのです。

不易とは変わらないものです。太極拳は不易を滔々と延々と繰り延べていきます。それで攻防を行うのです。

とてもわかりやすくいうと、例えば年をとっても普通に人間として健康であれば歩けます。これが不易です。

ところが、走り回れとか、重いものを持ち上げろとかいわれても、誰もができるわけもありませんし、若い頃はできたけど、できなくなったということになります。これは不易ではありません。

太極拳はこの不易を変化させて不易を生む運動理論です。不易流行を磨きに磨いていく武道なのです。

諸行無常という言葉もありますが、諸行は移り変わります。太極拳の套路や攻防もそうです。

その一つの場所や時代にこだわったときは、そこに留まりその場所を変化させていくしかありません。

それが次の流行に移ることなく、不易に留まりその不易を鍛えて変化させる事になります。

そこのその場所その時代にある、筋肉や運動能力、それをただ鍛えて変化させることで、その場所と時代に留まろうとしますが、時代は移り変わり、その場所に有った諸行は無常に消え去っていきます。

太極拳は死ぬ間際まで使える武道です。年をとると健康であっても、重い剣や刀は持てないかもしれませんが、自分の身体にある年相応の骨や筋や肉は使うことができます。

このように太極拳は、対錬や散手などの一見相当激しく見える練習も、実際にやってみると相当な年齢を召されている方でも疲れることも怪我もなく練習ができるのです。

そして一度思い出した不易な動きは、心身が忘れることがないのが太極拳の大きな魅力なのです。

歴史1:王流の源祖は張三豐

元・明代に生きた遼東(遼寧省)出身の道士で仙人。字は君宝、幼名は全一。張三豐(1247年 – ?)が技を学ぶために少林寺に入門しています。

張三豐はとても文武とも優秀であったため数年を経ずして首席になりました。

彼は道教の道を求めて、少林寺を出ていきました。

彼は、湖北の武當山に至ると、そこは天の柱のような峰が奥深く静まり返り、しかも清冽であり、無為自然な心身を求める神仙の道がある龍の峰であるとして、中でも3つの峰がずば抜けていて、青々として素晴らしいものであったと記しています。

彼は、神仙の道を求めてここに隠居して十段錦などの内丹術や、動功として内家拳法(太極拳法)を創始しました。

このことは黄宗羲が書き残した『王征南墓誌銘』で記されています。王征南は明末の1617年に生まれ、清初の1669年に亡くなった人物で、内家拳法の他に弓術もこなしたので、彼は明軍の武官となりました。やがて、明朝が滅亡すると清朝に仕えることを嫌い、隠居して失意のうちに亡くなったといわれています。この生涯に同じ志を持った黄宗羲が共感し、墓誌銘を書きました。(黄梨洲)【黄梨洲は雅号で、本名は黄宗羲といい、明末・清初の大学者として知られ、「考証学」の祖です。専制君主制を批判した《明夷待訪録》は、当時としては民権を論じた進歩的な書で、近代になって彼は〝中国のルソー〟と呼ばれるようになり、前記の本は〝中国の民約論〟と称されたほどの人です。)その彼の書いたことを伝説で事実ではないというものも多いのは、色々な歴史的事情があるのですが、ここでは割愛しますが、彼のような現実主義者がこのような嘘を書くことはないものと考えるのが自然です。その中で太極拳の祖といわれる張三豐を「少林は外家に至る。その術は精なり。張三豐は既に少林において精なり。後にこれを改変して、これを内家と命名す。それを得た一,二の者は十分少林に勝る」と記しています。

このことは崇山少林寺の内家で修行されていたものを内家拳、外で修行されていたものを外家拳と呼んでいたことにも通じます。(宗門との意味合いで、禅宗の教えにて修行するものを内家、そのような教え以外のものを外家と呼んでいただけです。)少林はその教えに反するようになったが、その精なる術を張三豐は完全に会得して、道教を求めこれを改編して今度は、道教内において内家と呼び始めたものであり、これからすると少林寺はこの時点で外家であるということになっているのです。そして、張三豐が道教理論と融合させて編み出した拳法は少林寺に勝ると記しています。それを後に会得したのが王征南であり、その弟子達を武当山に残し亡くなりました。

このように武当山という道教の聖地で、崇山少林寺のように、宗門の行として始まって錬磨されてきたのが王流楊式太極拳の最初の源です。