太極拳のアファメーション「affirmation」

7023 目覚めた直後のポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」は、一日を全く違うものにしてくれます。
武当派の太極拳において、楊式の套路を早朝に行うのは、套路を行う事によって、自分自身を自然との一体として肯定することから始まります。無為自然の自分自身を肯定することで、一日はそのポジティブな自分によって流れていきます。

この毎日のポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」は、その積み重ねにより、科学でも証明されている神経を含む可塑性がある人体の生理を大きく変貌させていきます。人間の心身は可塑性を持ち、その変貌を内丹術では理論化しています。

導引法はその可塑性を踏まえて、ポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」の効果を最大限に高めるものです。

このように、真の太極拳は人間にとって自然との一体である自分に蘇らせるための、最高のポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」なのです。

その効果により、精神は一切の変化(易)に左右されることの無い、無為自然の状態を堅強に維持することになります。

このような効果を得るための、ポジティブ・アファメーション「affirmation(肯定)」は、タオのエッセンスである「愛」が根幹にあります。その「愛」は無極であり、あらゆるものを受け入れることができ、またそれらと一体である自分の自己肯定は、強烈なる歓喜となるのです。

このような太極拳の套路を行うためには、太極思想にある真意を理解する事も必要です。太極拳には本来それらを体現する動きが含まれており、それを読み解くために太極思想やタオがあります。読み解いた真意は太極拳の套路の勢と一致したとき、真の太極拳すなわち導引法となるのです。

その導引法を学ぶには、それら全てが自分の内にあることを知ることができ、またそれを肯定することができるメソッドが必要です。そのメソッドには、套路の型を1つ覚えるにしても、綿密なる蓋然性が必要です。

その蓋然性は、経験と実証、そして、それを表現する理論によって形作られています。

本来このようなことが備わってこそ、武道(武それは道という意味です。武の道ではありません。)であり、太極拳もこれで人生の素晴らしい一部となるものです。

そうでなければ、太極拳という張りぼての代物に頼ることによる害は免れません。

私たちは、そのような太極拳の重く沈む本質を、軽く浮いている流行によって覆い被されて見えなくならないように、日々、真の太極拳を発信していきます。

知られざる手揮琵琶

syukibiwarozen 楊家の三世、楊澄甫氏が演じるこの型は、太極拳の中では最もシンプルな型に見える「手揮琵琶」です。以前に実戦空手の髙段者にこの型を披露したことがあります。その彼は前足の虚歩の場合の構えは、空手の場合は猫足だといい、太極拳の構えとは違うというのですが、とんでもない、太極拳でも虚歩の構えの場合は猫足ですよと説明したことがあります。また、手揮琵琶には弓歩の構えもあり、古式楊式太極拳の実際の套路の過渡式に含まれています。
  実際に手揮琵琶を使って、彼と技で攻防を行ってみると、彼はその効果をとても納得したばかりか、その日から入門して太極拳に深くのめり込んでいきました。
 しかし、近代において太極拳が套路として伝承されてきている中で、太極拳を行っている人たちの中で、手揮琵琶の虚歩の構えが猫足であることや、弓歩の構えがあることをを知っている人に会ったことがありません。私のところの道場では、招式、散手練習における手揮琵琶の虚歩の構えは猫足で、実戦練習では弓歩も多用します。しかし、套路においては一般の套路と同じく踵を地につけた虚歩で行います。この意味がわかると、この手揮琵琶を使った技を強烈な攻防一体の技術として使えるのです。套路においては、その攻防一体の勢いを涵養しているに過ぎません。套路は構えの連続した型ではないのです 。実際の戦闘術における勢を徹底的に練り上げる練習法なのです。従って、この意味さえ知らなければ、套路の本質さえないということになります。なぜ、前足の爪先が上がっているか?楊無敵と言われた楊式太極拳の創始者である、楊露禅の行っていた太極拳の本質に立ち戻ればいいのです。そして、その本質は実際の相対の招式を行って理解できるものです。当道場では、基本を身につけた後は、応用または武道でそれらを涵養していきます。

太極拳の経験を通じて変化する脳

buto 太極拳は、その経験を通じて根本的な生き方が変化します。この変化は、導引法という古代からのタオの修行によって伝承されています。導引法は、人間の心を、人間以前の自然としての生命心のある境地へ連れ戻すことにあります。それは、脳自体の能力を万物の能力に回復させることであり、その生命心の状態を「神=しん」と呼びます。そのような機能と構造をもつ脳は生理である「精=せい」の一部です。その生命心である「神」が万物に存在するエネルギーを使用して「精」を動かします。その時に生まれるエネルギーの動作を「気」と呼びます。「神」が「気」によって「精」を生かせるのです。人間においても、自然においてもそれは同じです。天は天の生命心によって気が動作し自然に宿る精が生きるのです。花の精、石の精、全ては同じ原理です。精は神によって起こされた気の影響を受けて変化していきます。その変化は「易」です。このように、人間は様々な経験をしますが、太極拳の導引は自然の生命心による経験です。その自然の気により精が変化します。すなわち脳や体、血液、リンパなどがその「神」に対応するように変化するのです。体中に巡る神経系も同じように、常に機能的、構造的な変化を起こしていくのです。太極拳はこのような、経験的実証によりそれを古くから発見し、導引術で「神」を、行気で「気」を、房中術で「精」を無為自然に回復します。

最近の科学では、神経の可塑性などが科学によって明らかになりましたが、導引法による太極拳の修行法の根拠の一部が科学的に証明されたに過ぎません。

神経の可塑性
神経系は外界の刺激などによって常に機能的、構造的な変化を起こしており、この性質を一般に“可塑性”と呼んでいる。神経の可塑性は大きく3つに分けられる。1つ目は脳が発生していく時や発達していく段階にみられる可塑性。2つ目は老化や障害を受けた時などに神経の機能単位が消失するが、それが補填・回復されていく場合。3つ目は記憶や学習などの高次の神経機能が営まれるための基盤となっているシナプスの可塑性(synaptic plasticity)である。特に神経科学にとっては3つ目が重要で、その機構についても徐々に明らかにされている。記憶には、短期記憶と長期記憶があるが、短期記憶は主にシナプスでの伝達効率の変化により、長期記憶はシナプス結合の数や形態の変化により達せられると考えられる。

(今西二郎 京都府立医科大学大学院教授 / 2007年)

引用元: 神経の可塑性(しんけいのかそせい)とは – コトバンク.

中国の賈監督「検閲に挑むのは太極拳のよう」独占インタビュー- MSN 最新ニュース|トピックス

太極拳は単に中国武術と言うだけでは無く、中国の道教のメッカである「武当山」にて「宗門の行」として行われていた、総合修養行です。中国の「少林寺」の伝統的修行法「坐道」は、インドのヨガの源流である「アーユルヴェーダ」に端を発し、その精神修養としての「坐」と、肉体修養としての「武」を、菩提達磨が少林寺に持ち込み、中国禅宗の基礎を作りました。しかしながら、少林寺において、「坐」と「武」の分離が著しく、それが信条に反し少林寺から出て行くものも多くいました。その内の一人が太極拳の祖である「張三豊」です。
「張三豊」は「武当山」で「坐」=陰と「武」=陽が融合した、「内家拳法」を創設しました。その思想は、陰陽思想の原本となる「太極思想」にあり、タオの教えと共に内丹を鍛え上げる「宗門の行」として発展していきました。精神を整えて、同時に内丹を練り上げる「坐道」、「武当山」に生きる植物、物質、生物全てを「太極家族」として生を共にする生き方としての「内丹仙術」。このように、本来の太極拳は、この「内家拳法」を祖とするのですから、単なる武術では無く、人生全てにおいてこの精神が宿り、太極拳の術命が行き渡るものです。そこで、賈樟柯監督の「メタファー」が生まれるのです。
このように、人生全てにおいて、このように「太極拳のようだ」と話せるのは、真に太極拳の神髄を覗いたことがあるからでしょう。あらゆる人生の場面において、太極拳の修行は効果的に生かされるはずです。そのような太極拳を私は伝承していきたいと思っています。

中国の賈監督「検閲に挑むのは太極拳のよう」独占インタビュー

コンペティション部門の審査員を務めた第67回カンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)の開催中、現地で取材に応じた中国の賈樟柯(ジャ・ジャンクー、Jia Zhangke)監督(2014年5月19日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News (AFPBB News)

【AFP=時事】中国当局の検閲と対峙(たいじ)することは、太極拳をするのに似ている――中国の著名な映画監督、賈樟柯(ジャ・ジャンクー、Jia Zhangke)氏がAFPのインタビューに語った。

引用元: 中国の賈監督「検閲に挑むのは太極拳のよう」独占インタビュー- MSN 最新ニュース|トピックス.

炎黄の裔《太極拳三昧》

Yellow_Emperor昨日の武道クラスでは、久々に竹林の中にある、厳かな場所で練習を行いました。
そこでの実戦を想定した練習は、王師から聞いたことのある武当山での練習風景を彷彿させました。
そして、思い浮かんだのが、中国の神話です。
中国の神話に登場する炎帝は、多くの経験と実証を重ねていく神です。
医学において、炎帝は「神の鞭で草木を打ち、そしてなめて、その草木が毒か薬かを知った」と伝 えられています。草木をなめて日に何度も毒にあたって死にかけたのです。そして多くの経験を蓄積したのです。
武道においても、人類に徒手の格闘が始まってから、絶えず、経験と実証が積みかさねられました。
太極拳の創始者である張三豊は、古くから伝わる武道を何度も何度も実戦に用い、経験を積みかさね、実証を重ねていきました。
若い頃は何度もそれで死にかけたり、また相手を倒したりしながら、それが使えるものかどうか。また、どうすれば使えるのかを検証し続けました。
医学において、その炎帝の経験の時代が過ぎると、それらの経験を引き継ぎ、経典として纏めます。その役目が黄帝です。
黄帝は『黄帝内経』という医学書を造り上げます。
張三豊の中でできあがった武道は一つの経典となり、彼の内に備わりました。
その後はその内経が自然と働き、その理を太極に見つけ、その後は太極拳と共に生きたのです。
その理のみを書物にしたのは王宗岳です。
その炎黄を引き継ぎ、今太極拳を生涯の友とする人たちは、炎黄の裔であるといえます。
従って、その炎帝の経験を経験し、黄帝の内経を修めることこそ、太極拳の修行です。
ですから、実戦的用法を経験して、その理を知ることを無くして、楊式太極拳の修行を成し得ません。
私たちは、実戦を想定した動きを重点に捉えます。それは、炎帝の意です。
そして、その理を知ります。黄帝の意です。
書物や言い伝えに囚われることなく、炎黄の裔として今太極拳を修行する。
これが最も大切なことなのです。

体のさびと気順

 全身に気を巡らしていく。套路をするにも、対錬をするにも、この気順があってこそ太極拳です。

全身の細胞にエネルギーを行き渡らせ、新陳代謝し、酸素を消費し、又供給する。体に呼吸と気がみなぎる。

30代と言わず、20代から、いや子供の頃から、全身に気が巡り、酸素を健康に新陳代謝する能力を維持し続けることは、将来の健康な生活の保険のようなものです。

太極拳を修行するものの心得として、30年前の心身の状況が、現在の心身の状態の基盤を作っていると考え、30年後の未来を想定して、今を生きています。又逆に、30年前の状況が今我が心身の基底であることを認識して、今を生きています。

太極拳は、放鬆(全てをやわらげる)と三節(出発点・中継点・末梢の循環)という技法を用いて、気や勢と共に血や津液、酸素などを巡らします。無理な消費も、無理な取り入れも全てこれで解決していきます。

気順ができるようになると、何も無くても掌が真っ赤になるほど、気血が巡ります。
さびは、油の行き渡らないところに酸素によって酸化されて生まれます。人間の体のさびも同じで、気が行き渡らないところに酸素が滞り酸化します。

滞りの無い純粋な心(神=しん)そして、折れることの無い爽やかな気(真気)そして、健康な身体(精=せい・生理や脳も含む)を取り戻そうとする太極拳の修行は、過去も未来も今ここにある。その精神にもとづき、この瞬間を全ての命をもって生き抜いているのです。これが人生における気順であると、考えています。過去も未来もこの今にある。ここから始まる気順は過去も未来も気が巡り、そして過去のひずみや滞り、未来の心身のひずみや滞りをなめしていくことになります。

年齢に関係なく、過去未来のさびを浄化することを、今すぐに始めること、それをお勧めします。

65歳を超えると、7%の人がアルツハイマー病になります。100人中7人ですから、かなり高い確率です……しかし、「まだアルツハイマー病になる年齢じゃないから関係ないや」と思っていませんか?

それは大間違いです。アルツハイマー病に限らず、多くの病気はある日突然なるわけではありません。

30歳を超えたあたりから、気づかない間に少しずつ少しずつ、しかし確実に、体内に「活性酸素」のサビつきがたまっていき、そのダメージがある限界を超えたとき、症状が出てくるようになるのです。

つまり、症状が出るころには、かなりサビついているということなのです。

引用元: 澤田彰史:30代から始める、アルツハイマー病予防法- 毎日キレイ.

直心是道場

「直心是道場」維摩居士という禅僧の言葉です。

エピソードは、修行者が城壁の中にある町の喧騒の中では修行ができないと、城門を出ようとしたところで、外から入ってくる維摩居士を見つけてどこから来たのか尋ねました。

すると「道場から来た」という返事です。静かな修行の場を探したいと考えていた、修行者は弾んで「道場はどこにあるのですか」と尋ねました。「修行をするという直な心があれば、どんな所でもそれで道場、修行の場だ」と答えました。

静かな場所でなければ修行はできないと考えている修行者の心を観て、その言葉を発しました。

太極拳を修行するのは、何のためでしょうか?太極拳を修行していつかは理想的な世界に到達するのではありません。

今ここに修行する素直な気持ちがあれば、そこにはすでに無為自然の理想的な世界があります。

曹洞宗の開祖である道元も、「修行の先に彼岸というものがあるのではない。修行するその中に彼岸というものが存在する」と言い続けていました。

太極拳の坐道は、ただ何も考えないで、いつかは悟りを得るための静坐ではありません。その静坐をして自らの心身を観察して調整し、その内にある生命力が生み出す気と勢を練り上げていくものです。その座る姿と行為そのものが無為自然の境地、すなわち涅槃そのものなのです。

曹洞宗の坐禅も、何も考えないで悟りを得るための坐禅ではなく、坐禅をする姿こそが仏の姿であるという「黙照禅」(もくしょうぜん)であり、これとも通じます。

ただ、太極拳を練る、そして立つ、座る、動く、伏せる、その全てのその実直な行為と心が、すでに涅槃であり、無為自然であり、そしてその場である、道場なのです。

太極拳を学ぶものは、道場で心と体を、純粋で素直な刹那の命を輝かせることが全てなのです。ただそれだけです。それでそこが道場になり、悟りになり涅槃になります。これがわかれば、神明に達します。

音楽を聴きながら套路をしても良いのですか?

まず結論から言いますが、どちらも良いということです。

引用元: 音楽を聴きながら套路をしても良いのですか? « 王流楊式太極拳.

違和感

違和感。
清々しい命(生命ではなく、刹那の命)、爽やかな性(先天的な人間としての性)、絶対的な理(何の相対的な条件も影響しない理)が丹、それ以外のものを違うと感じる、その違和感です。
美しい真珠を選定するときに、ひたすら美しい真珠を愛でてその命と性、その理を感じ尽くしてから、多くの真珠の中から違和感のあるものを感性で取り除いていく、そして残ったものが高潔な真珠として世に出て行く。

太極拳では、坐道(静坐)や存思(瞑想)でひたすらこの感受性を高めていきます。

武道においては、丹は内勁に有ります。この内勁に違和感のある動きを、武道練習の中で見つけ出し、それを消し去っていきます。

套路においても、この違和感は命を濁らせ、性を蝕み、理が合わず、型を崩し、丹を失い、勢を留めます。
相対練習においても、技を流し、自らが崩れます。自らが崩れると、自らの命、性、理が共に崩れ、内勁は育ちません。

内勁を教わることで、その内勁との違和感を感じ取りながら、自らの内勁を育てていきます。
すなわち、内勁には命と性と理が備わります。丹が備わり技も完成します。

実は、備わるというよりも、ただ思いだしただけです。元々にある先天の能力を。

丹が備わり、人生の日常においても、それに対する違和感を感受すれば、ただ道を歩いているときもあらゆる危険を察知し、人と交わるときも、その邪を見いだし破り、また違和感が無いものとはすぐに融合し、人を活かしていくことは、まるで内勁が備わる太極拳のようです。

このように、違和感というものは、丹を中心にして感受されるものであり、すなわちその丹を極めること、それが大事なのです。

そして、聴勁にしても凌空勁にしてもあらゆる発勁は、その感受によって発せられるのが太極拳です。
宮本武蔵が極めた枕の先。これも全て丹と感受の賜です。

違和感に無意識で動けるようになれば、太極拳も剣術も人生も神明に達することができるのです。

導引法

「小さな池の中にいる鯉。その鯉たちは、原気を解放しているのであろうか?解放したなら、この池をもてあますのだろうか?いや、すさまじい原気を他と融合させる。生き物たちは先天的にその理で生きている。我ら人間も生き物。その生き物たちのように原気の解放を思いだしたなら、同時に融合がある。それを忘れては元も子もない。それを忘れさせてしまうのが後天の病である。我ら人間が陥っている途方も無い病である。」

行き場所の無い解放された気を融合する、そして又新たな気を解放して融合させる、これが導引法です。

例えば息を吸い続けると息を吐きたいという気が生まれます。そして、その気を解放して息を吐くととそこで快感が生まれますが、続けて吐き続けていくと、同時に苦しくなり、今度は吸いたくなります。この繰り返しになります。このような状態は、気が高まれば高まるほど苦しさをただ伴います。これはあたりまえのことです。

そこで内丹は、無極という陰も陽も無い、極が無い世界を元々の源としてます。
呼と吸が一体となった世界、陰と陽が一体となった世界、気が膨張して高まる陽の世界、気が圧縮して静まる陰の世界を一挙にして同化することができるのです。膨張の場合は飽和。圧縮の場合は消滅です。

これをもっとも、素早く身につけるのが、太極拳の武道における発勁なのです。技の中でその発勁をしたときの快感をもって、経験的にその理を実証していきます。

無極における発勁が太極拳の技の完成の到達点です。実物としての相手と技を掛け合い、その発勁の瞬間を自分だけでは無く、他を同化して体験する。これが、内丹を極めるための最も早い方法であり、頓法と言います。

現実的に融合して技を完成させた感覚。これが大事なのです。その感覚を覚えた上で、その感覚を得ながら套路を毎日やる。家で静坐や站椿、内丹術をやる。又他のクラスでもやるも良しです。

内丹を身につけても、それは単なる手段です。我が身が健康になり、気が充実して解放されても、他との融合を得ることが無ければ、悶々ともてあますだけで無く、それらの気は行き所を失います。行き所を失った気は、闇雲に自らを傷つけ苦しめ、他者をも容易に傷つけます。そのようにして解放された気は快感と苦しみを伴いながら、矛盾を繰り返していきます。これを相乗・相侮すなわち乗侮の状態と言います。そして気ばかりが高まり、いつまでたってもその苦しみからは逃れることはできません。お酒を飲みたくなって、お酒をたらふく飲むと一挙に快感が押し寄せ高まり、同時に苦しみも伴うという感覚です。わかりやすいと思います。いつまでもお酒を飲み続け快感も高まり続け、苦痛も高まり続け、いつかは廃人又は病人です。ヨガであれ、内丹であれ多くの人が簡単に陥るところです。

武道で無くても、太極拳でその丹と、そこから発せられる気と勢いを実生活で他者と融合していけるなら、それがもっとも素晴らしいことです。しかしながらその実感はなかなか得ることができません。ですから理論や、知識だけで自らを満たそうとすると、より現実からの逃避と、気の解放の放置に甘んじるしか有りません。そこで生まれたのが太極拳などの武道にある導引法です。
ですから、その実感の積極的な現実として武道としての太極拳があるのです。真の日本の武道もそれらと同じ原理を目指しています。

技が完成すると、とても気持ちの良い快感と楽しさが生まれます。技ができなかったときの違和感や苦しさも無くなります。
ここで積極的にこれを身につければ、現実生活にあるあらゆる事象も同じように融合しながら楽しめます。攻撃してくる相手と融合して自らの勢とするのですから、実生活ならいとも簡単です。武当派では、そのような人法と言うべき陰陽術も太極拳としての武道の体系に組み込んでいますから驚きです。
そして、武道の練習では、何も考えずに、楽しくて気持ちの良い感覚で技が完成することを多く経験すれば良いのです。
あとは、そこで知った感覚を認識していくために色々な理論を知っていけば良いだけです。そこに無為自然があるのを発見するのです。真の日本の武道と同じですね。

又、太極拳の套路だけで丹と勢を得て、その太極拳の型を覚えたなら、それを実際に使って武道をたしなむこともできます。
これはその丹と勢の結果を知ることになります。これが漸法です。どちらにしても武道は、それらの結果を経験しながら実証して行く方法としては最適です。もちろん丹と勢のある套路を身につけて、その丹と勢を生きていくあらゆる事象の中で使っていくのも良しです。
気を全てと融合させる、これが最も大切なことなのです。そしてこれが気功も含む内丹術の行く境地です。太極拳はその地に導く優れた方法の一つ、すなわち導引法なのです。

流水は腐らない。

私たちは、日常では動かすところが決まっています。
ラジオ体操をしても、スポーツや武術の訓練をしても、その動きの特性に応じた動きがあります。
その部分の流れはスムーズになり、人間の体はほとんどが水でできているのですから、その水が流れるようになります。
もちろん腐らないので、よく動きその部分は健康です。

ところがどうでしょうか?

水の流れは、流れていないところにどんどんとゴミをため、汚れをため、よどみます。
そしてそこの水は腐ります。
特定の流れを作ってしまうと、このような弊害が生まれます。

太極拳は元々は養生の技術です。
どのようにすれば体全体のよどみをなくすことができるのかを経験的に探求し抜きました。

簡単です。水が流れないところを作らないことです。そして太極拳ができあがっています。(古くは内家拳法)
太極拳の運動は、体のうちをどのようにも水が流れる運動です。
それを探求し抜いた結果が、四正手で立体的網羅、四隅手で時間経過的網羅、五行で流れる方向を網羅して、完全に水がよどむところを無くした武道です。十三勢です。

ですから、太極拳の練習では、動きを考えると一挙によどみます。水が流れるように自然に任せて動くから、実戦においても、自然とどのような対応も可能な、対実戦武道なのです。
実戦での対応は、ただ、まるで水が流れるようにです。

よく外家拳が剛だとか、内家拳が柔だと言われますが、そうであるなら太極拳は内家拳ではありません。

水は、岩をも砕く剛の性質と、どのような形にもなる柔の性質を合わせもっています。
よどみの原因となる部分を砕きながらまろやかにして流れるから、よどむところは無くなり、体内の水は腐らないのです。
水の腐りは、病と直結です。腰や膝の痛みなど全てそうです。

太極整体はそのようなことを理解した上で、よどみを発見し、太極拳の技術でそのよどみを取り去り、水を流します。

よく間違われるのが、太極拳はただ柔らかいという風に思っている人がいますが、それは水では無く空気でも無く、柔らかいだけです。

水も空気も剛の性質は恐ろしい力を発します。自然災害を見ればわかるはずです。

空気もよどむと濁ります。腐り、邪気を発します。それらを観じるのも太極拳では護身技術の一つです。
体内は水です。環境は空気で、それらの流れを網羅するのが太極拳なのです。

水の流れる力が無いと、大きな岩も動かせません。一切の力を用いないのでは無く、水のような力(勁)すなわち、楊式では主に沾粘勁を用いて、拙力を使わないと言うことです。
太極拳経の「察四兩撥千斤之句」の四両も千斤を撥くということ、最小の力で大きなものをはじき飛ばすという意味ですから、全く力を使わないと言うことではないのです。

水の力、空気の力のようなものを勁、それ以外の柔軟性の無いものを拙力として分けています。
水も空気も流れますから、体の隅々、環境の隅々までを網羅します。

体内の流水は、筋骨、内臓、脳や神経血管などあらゆる生理に、柔軟な勁を加えながら、よく柔和して、伸びやかで弾性を生み出し、強固で調和したものへと変化させます。

体中に水が流れるような太極拳の修練は、体中の大河や小川せせらぎに至まで、清らかな水が時には柔らかく、時には力強く流れる様をイメージするものです。

太極拳は中国のものですが、インドから流れてきた根本養生の道です。
日本でも剣術の中でも特に柳生新陰流は、行雲流水を理とするものでした。

流水は腐らない。今からでも遅くありません。体の中の水の流れを太極拳で取り戻してください。
剛柔一体を常とする太極拳は、人間の体のうちの水を活き返らせてくれます。

ただ、闇雲に太極拳を柔らかく動いても、その本質部分が理解されて、またそれを行う事ができないのなら、逆に体の中の水のよどみを作ることになります。

剛の性質が無いただ柔らかいだけの太極拳は、流れの無い河です。
最近、太極拳で身体をこわす方が増えています。ですから、私は敢えて言います。
太極拳でより体が衰えていく。膝や腰を痛める。以上の理屈を考えると否定できないことです。

太極拳だけに限らず武道や運動・スポーツも諸刃の剣。これも真実です。
その諸刃の利点を得るには、それらの本質を得ることなのです。
水の本質、空気の本質、太極拳の本質、それらを経験すれば、必ず得ることができるのはあたりまえのことです。

流水は腐らないのです。