タントラとしての太極拳

 王流の楊式太極拳は武当山で修養されていた内丹術としての行でもあります。

天地万物の構成要素としての気を、行気・運気・導引・存思・吐納などを修養し、身中の「内丹」を練り上げ、身心を変容させて、道(タオ)への回帰を目指し、性命を内側から鍛練する東洋の伝統的な修行法です。

『老子』第四十二章の「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」

根源たる「道」すなわち完全なる無。そこから先天の一気が生じ、一気は陰陽の二気と成り、陰陽二気は交わり,解け合い融合するようでふれあいながらの沖和の気を生じ、陰陽と沖和の三気から万物が生じます。
道からすなわちその象徴である神(しん)から気がが生じて,その気が陰陽に分かれながら交わって精を生み出すということです。

原子力の融合と分裂の仕組みと同じですね。また宇宙の化成も同じであると考えます。

内丹術は、人間が生成するときの順序も天地万物が化成するときの順序も当然として同じであると見るのが内丹術の考えです。

何も無いところから、陰も陽も何も無いところから、完全な無からまず神(しん)が純粋に生まれます。
その神から気が生まれます。神は一気。そして陰陽に分かれ二気になり。例えば、男女。陽子と電子。に分かれます。その一気の神と気が融合したところに精が生まれるのです。
精は生成のであり。人間であれば人間が生じて一気。男女として二気(例:アニマとアニムスで男女に混在)です。それが融合して胎児が生まれる。これが三です。胎児はまた神として一気になり。男女として別れ、三の生成を繰り返します。その循環を生むのです。

陰陽のもとは無です。陰陽が変転する太極は、どちらももとは無であるから太極なのです。すなわち人間という以前に自然であり、自然の中で精を得た場合に陰陽の気が生まれ、また自然に戻ろうとするのです。それが人の生死です。
一が二になって世に存在し、その陰陽が癒合しようとするのです。これが内丹で一に戻るということです。
すなわち、男女で言うならば、男女が融合するということです。沖和の気(愛情)をもって、神気精共に融合するのです。
これがタントラです。

このように、陰陽変転の基盤にあるのは、不易。変わらないもの。すなわち一なのです。一は無から生まれた最初の一気であり、元々は一つのものです。
それが分かれたから、一に戻ろうとするのです。変化をしない最も安定した状態に。無為で自然な状態に。
一が、二になって、すなわち神が気を生む。神と気は何も生み出さない。神と気が変換を繰り返すだけです。
純粋な心がエネルギーを生み出す。純粋な揺らぎがエネルギーを生み出す。
ただそれだけです。

無が無であるためには、有を生み出す。これが一です。一気なのです。相対性を生み出す両儀がここで生まれます。
純陽の中に一陰が生まれるのです。この一陰が純陰です。
一気は純陰。すなわち神は純陰です。無の純陽の中に一気が生まれる。宇宙のおこりのビックバーンです。
一気はここで二気になります。一つは神、そしてもう一つは気と呼ばれます。物理学では陽子と電子。すなわち総称して、陰と陽ですが、その変換は神が自らを知るために無を見ると無が陰になり変換するのです。相対性の理論です。

そして、その陰陽が混沌としながら移り変わるのです。これを太極といいます。

この別のものが交換しながら融合して一に戻ろうとする。二でなくなろうとする。完全に一つに戻ろうとする。すなわち沖和。これがタントラの行なのです。密教にもこの思想を簡単に表に出せないので、この部分を秘密にしました。男女の融合を神気精の一致として,二が一に戻ろうとして,三を生み出す過程として説明するには、ただおししようも無く、行に収めようとしたのです。密教のことはこれぐらいにしておきます。

そしてこの神気の二が、この世に現象を起こそうとするのです。新たなものを生み出そうとするのです。すなわち生成です。森羅万象を生み出します。すなわち易です。変化するものです。そして精が生まれます。人間なら、そこで人としての全てを生成します。

このように、太極拳は融合を求めることを重視するのです。それは陰陽和合であり、ひたすら一を求めます。
多くの武術は生成、すなわち精の生成を求めるようです。神と気から生まれ出た結果を鍛えるのです。収斂を続けます。そして後天に蓄えて、また分散します。この三を求めた場合は、充分な肉体鍛錬を欠くことはできません。しかし、最後には三も一に戻ることで武術の完成があります。

太極拳はただ一に戻ります。そして先天を取り戻します。
タントラもただ一を求めます。神気精が一致した融合を目指します。肉体的な鍛錬は、先天にあるものだけで良いのです。

太極拳もタントラも、最初の一気でひとまとまりに神気精を一に戻します。
最後の境地を一挙に得るのです。このような道を、タントラといい、太極といいます。

太極もタントラも、一挙に全てを手に入れます。
一挙に愛し合います。一挙に相手を融合して制すします。

太極拳もタントラ同様、頓法[急速に進む方法]ですが、全てが一致していないと、とてつもなく成就し難いものです。

そこで太極拳にはその成就のために、漸法[ゆっくり進む方法]として内丹術が用意されているのです。内丹術はゆっくりとその無から一・一から二・二から三・三から二・二から一・一から無の修行を理解していきます。

しかし、太極拳は一挙にそれを得ることができます。それを得ないと太極拳にならないからです。
タントラもそうであす。純粋に愛し合うことができれば、すぐに男女は融合できます。そこになんのこだわりがあってはならないのです。そのこだわりを捨てるために、太極拳でも道があるのです。タントラにも法があるのです。それを学ぶのです。

しかし、私たちは学ぶより経験を教えます。それが太極拳の経験です。

太極拳の神明を得るまでは,内丹と道(タオ)を一緒に学べば良いのです。また学ばなくても良いのですが、内丹の理解は経験と共に身につきます。

タントラも、男女が純粋に愛し合えるまでは、まず愛し合うことから始めるのです。なんのこだわりも無くです。タントラは、その中で、法(ヴェーダ)やヨガを学べば良いのです。密教では、空海がそこを明確に説いていますが割愛します。

このように、私たちが学ぶ太極拳は、タントラとしての太極拳でもあるのです。一挙に融合を得る。一に戻る。
それができないのであれば、私たちは太極拳とは言わないからです。

新羅万象を陰と陽から一に戻す力。これを愛と呼びます。凄い力ですね。

太極拳もタントラもこれを修行します。

じゃんけん・易と知られざる三極

じゃんけん。面白いものです。じゃんけんの理合にある、三極という原理、これが太極の易理論にとても重要な位置を占めているのです。

じゃんけんでは無く、こちらが負ければ、相手が勝つだけの場合。これは相対性です。

三極とは,こちらは相手に負けているが、別のものには勝っているということです。

太極の易理論はこの三極(自然の法則)と相対性(現実の現象)を明確に理論化しています。
易は、これらから統計学的アルゴリズムをはじき出して、数値化とその性状を定義したものですが、三極の変化を計算値に加味すると,変数が増える分だけより細かな易を測ることができるのです。
易を使用した占いなど日本でも千差万別にありますが、易を使用しているならその部分はほぼ同じです。

このように易の基本は全て同じなのですが、変数に何を用いるか?手相か?水晶か?タロットか?等々多くあります。それが違っているのです。

太極の易では三極という自然の法則を用いています。現象は0-1-2-4-8-64・・・と増えていきます。それに三極の変数が加わります。

三極を極簡単に説明します。じゃんけん風に。

自分が陰とすると、相手は陽ですね。負けているとします。しかし、勝っているのも別のものであるから陽ですね。自分は陰であり、陽でもあるということになります。

自分が陰とすると、相手は陽です。勝っているとします。しかし、負けているのも別のものであるから陽ですね。自分は陽であり、陰でもあるということになります。

じゃんけんでいうなら、チョキでパーに勝っている。陽陰の関係が、後ろにいる人がグーを出してほらボクの勝ちだといって陽であり、自分が陰に変化しています。このような止めどない循環が実は自然の法則なのです。じゃんけんは自然法則における相対性という現象論を巧みに表してできている完全なゲームなのです。
世界を表していると言っても過言ではありません。

易は、自然現象全てを陰と陽に分けて、その現状を果てしなく測ります。
それは統計学以上の精度をもって世の中の事象を計測することができるのです。
しかし、この三極を理解しないと、現象の状態(勢)を量ることができないのです。
もちろん予測することも不可能です。

まず、易を測るときは起点である測るもの例えば,易を測られる人を設定します。その人の時空ですから、生年月日と生まれた場所なんですが、場所は事象を測るその方角を設定して易を測ります。

そして三極を変数として加えていきます。まず基本は、その人が陽であるとか陰であるとかはしないで三極であるとします。基点だからです。

そして、その人が測りたい現象が陽であれば陽とし、陰であれば陰とします。(五行・八卦に基づきます。)

そして、その人のその時の状態が陽であれば陽とし、陰であれば陰とする。(五行・八卦に基づきます。)

そして時間ですが、過去のことも現在のことも同じであるとします。なわち時間は三極とします。

原理は、過去はその時には現在であって、現在はその時には未来であり。未来はその時には現在であり、現在はその時には過去であるということです。一つの時に三極全てを含んでいるのが自然の法則です。

ですから、易を測るときは、あるときは過去のことを優先し、あるときは現在のことを優先するのです。この原則を間違えると現象は不安定なものになります。すなわち、その人の勢を測ることは不確定になります。

そして空間であるが、内と外も同じである。すなわちこれも三極です。世界は拡張するか縮小していると太極理論では考えています。宇宙物理学でも、その他の宗教でもおおむねそうですね。

原理は、内はその時には中心であって、中心はその時には外であり。外はその時には中心であり、中心はその時には内であるということです。一つの空間に三極全てを含んでいるのが自然の法則です。縮小する場合はそれを全て逆にします。この場合は陰陽を逆転させます。

ですから、易を測るときは、あるときは内を優先し、あるときは外を優先するのです。この原則を間違えると現象は不安定なものになります。すなわち、その人の勢を測ることは不確定になります

これらの三極のお互いの関連は、その範囲を超えること無く、ただ三極でありその間はありません。

過去・現在・未来も、内・中心・外も、全て三極であり完全に空なのです。従って、いつでもどこでも、どのようなものにでもなれるし、またどのようにもなれないということになりますから、運勢は変化を持つことができるのです。

ですから易を測り、過去も未来もどのようにも変化させることができるのです。それが太極の運勢術なのです。勢を運ぶ術、太極拳の技や套路も全てこの理合を含んでいます。

その人の変化(易)と状態(勢)を測ることで、このように現象をまとめていき、その人の周りに起こる事象として易(やさ)しくしてあらわします。すなわち、易という明確なものにもどします。そして易として事象を知り、予測するのです。また、それを変化させる勢を見いだすのです。

そして事象は、起こることは起こり、起こらないことは起こらないので、その時間と空間に応じて抑圧や加速をせずただ自然に無為に、臨機応変に勢を変化させる事ができるのです。それが勢を運ぶ、すなわち運勢なのです。

だからその人の中心と今をとらえ、その人から自然に発生する運勢がわかるのです。

易により運勢を見ることは、その人の人生を和やかにし、安楽にすることができます。
そして不安が無常に移り変わるものになり留まらず、自ら運勢を自由に扱うことができるのです。

これが易で人や物事の変化を知り,自由に扱う方法の大切なことです。

太極一家に伝わる易の運用法の要である三極。内三合。外三合。三節。三尖。全てこれに通じます。

そして、事象の全ての関係法則、因・縁・果も三極です。

太極拳の修行においても、その経験は易と勢の理解を経験として深めることにもなります。
無極から両儀が生まれ、五行・八卦と現象を捉えていくことは、太極拳の技の中にも現れてきます。
それを混沌として移り変わるものを自由に変化させる。それが太極なのです。

太極拳も三極がわかると、太極拳は神明の域に入っていきます。陰と陽に分かれていた勢が新たな第三極が生まれることで円転の循環を生み出します。これが太極拳なのです。

社会も三極を迎えることで、変化を始めます。第三の勢力を第三極といい、対立していたものに円転が生まれます。

運勢も三極で運ぶと自由自在になります。対立していた自分の中のものがあっという間に変化します。
その第三極を自分の運勢に置く,その第三極を示すができるのが太極の易なのです。