体のさびと気順

 全身に気を巡らしていく。套路をするにも、対錬をするにも、この気順があってこそ太極拳です。

全身の細胞にエネルギーを行き渡らせ、新陳代謝し、酸素を消費し、又供給する。体に呼吸と気がみなぎる。

30代と言わず、20代から、いや子供の頃から、全身に気が巡り、酸素を健康に新陳代謝する能力を維持し続けることは、将来の健康な生活の保険のようなものです。

太極拳を修行するものの心得として、30年前の心身の状況が、現在の心身の状態の基盤を作っていると考え、30年後の未来を想定して、今を生きています。又逆に、30年前の状況が今我が心身の基底であることを認識して、今を生きています。

太極拳は、放鬆(全てをやわらげる)と三節(出発点・中継点・末梢の循環)という技法を用いて、気や勢と共に血や津液、酸素などを巡らします。無理な消費も、無理な取り入れも全てこれで解決していきます。

気順ができるようになると、何も無くても掌が真っ赤になるほど、気血が巡ります。
さびは、油の行き渡らないところに酸素によって酸化されて生まれます。人間の体のさびも同じで、気が行き渡らないところに酸素が滞り酸化します。

滞りの無い純粋な心(神=しん)そして、折れることの無い爽やかな気(真気)そして、健康な身体(精=せい・生理や脳も含む)を取り戻そうとする太極拳の修行は、過去も未来も今ここにある。その精神にもとづき、この瞬間を全ての命をもって生き抜いているのです。これが人生における気順であると、考えています。過去も未来もこの今にある。ここから始まる気順は過去も未来も気が巡り、そして過去のひずみや滞り、未来の心身のひずみや滞りをなめしていくことになります。

年齢に関係なく、過去未来のさびを浄化することを、今すぐに始めること、それをお勧めします。

65歳を超えると、7%の人がアルツハイマー病になります。100人中7人ですから、かなり高い確率です……しかし、「まだアルツハイマー病になる年齢じゃないから関係ないや」と思っていませんか?

それは大間違いです。アルツハイマー病に限らず、多くの病気はある日突然なるわけではありません。

30歳を超えたあたりから、気づかない間に少しずつ少しずつ、しかし確実に、体内に「活性酸素」のサビつきがたまっていき、そのダメージがある限界を超えたとき、症状が出てくるようになるのです。

つまり、症状が出るころには、かなりサビついているということなのです。

引用元: 澤田彰史:30代から始める、アルツハイマー病予防法- 毎日キレイ.

直心是道場

「直心是道場」維摩居士という禅僧の言葉です。

エピソードは、修行者が城壁の中にある町の喧騒の中では修行ができないと、城門を出ようとしたところで、外から入ってくる維摩居士を見つけてどこから来たのか尋ねました。

すると「道場から来た」という返事です。静かな修行の場を探したいと考えていた、修行者は弾んで「道場はどこにあるのですか」と尋ねました。「修行をするという直な心があれば、どんな所でもそれで道場、修行の場だ」と答えました。

静かな場所でなければ修行はできないと考えている修行者の心を観て、その言葉を発しました。

太極拳を修行するのは、何のためでしょうか?太極拳を修行していつかは理想的な世界に到達するのではありません。

今ここに修行する素直な気持ちがあれば、そこにはすでに無為自然の理想的な世界があります。

曹洞宗の開祖である道元も、「修行の先に彼岸というものがあるのではない。修行するその中に彼岸というものが存在する」と言い続けていました。

太極拳の坐道は、ただ何も考えないで、いつかは悟りを得るための静坐ではありません。その静坐をして自らの心身を観察して調整し、その内にある生命力が生み出す気と勢を練り上げていくものです。その座る姿と行為そのものが無為自然の境地、すなわち涅槃そのものなのです。

曹洞宗の坐禅も、何も考えないで悟りを得るための坐禅ではなく、坐禅をする姿こそが仏の姿であるという「黙照禅」(もくしょうぜん)であり、これとも通じます。

ただ、太極拳を練る、そして立つ、座る、動く、伏せる、その全てのその実直な行為と心が、すでに涅槃であり、無為自然であり、そしてその場である、道場なのです。

太極拳を学ぶものは、道場で心と体を、純粋で素直な刹那の命を輝かせることが全てなのです。ただそれだけです。それでそこが道場になり、悟りになり涅槃になります。これがわかれば、神明に達します。

音楽を聴きながら套路をしても良いのですか?

まず結論から言いますが、どちらも良いということです。

引用元: 音楽を聴きながら套路をしても良いのですか? « 王流楊式太極拳.

違和感

違和感。
清々しい命(生命ではなく、刹那の命)、爽やかな性(先天的な人間としての性)、絶対的な理(何の相対的な条件も影響しない理)が丹、それ以外のものを違うと感じる、その違和感です。
美しい真珠を選定するときに、ひたすら美しい真珠を愛でてその命と性、その理を感じ尽くしてから、多くの真珠の中から違和感のあるものを感性で取り除いていく、そして残ったものが高潔な真珠として世に出て行く。

太極拳では、坐道(静坐)や存思(瞑想)でひたすらこの感受性を高めていきます。

武道においては、丹は内勁に有ります。この内勁に違和感のある動きを、武道練習の中で見つけ出し、それを消し去っていきます。

套路においても、この違和感は命を濁らせ、性を蝕み、理が合わず、型を崩し、丹を失い、勢を留めます。
相対練習においても、技を流し、自らが崩れます。自らが崩れると、自らの命、性、理が共に崩れ、内勁は育ちません。

内勁を教わることで、その内勁との違和感を感じ取りながら、自らの内勁を育てていきます。
すなわち、内勁には命と性と理が備わります。丹が備わり技も完成します。

実は、備わるというよりも、ただ思いだしただけです。元々にある先天の能力を。

丹が備わり、人生の日常においても、それに対する違和感を感受すれば、ただ道を歩いているときもあらゆる危険を察知し、人と交わるときも、その邪を見いだし破り、また違和感が無いものとはすぐに融合し、人を活かしていくことは、まるで内勁が備わる太極拳のようです。

このように、違和感というものは、丹を中心にして感受されるものであり、すなわちその丹を極めること、それが大事なのです。

そして、聴勁にしても凌空勁にしてもあらゆる発勁は、その感受によって発せられるのが太極拳です。
宮本武蔵が極めた枕の先。これも全て丹と感受の賜です。

違和感に無意識で動けるようになれば、太極拳も剣術も人生も神明に達することができるのです。

導引法

「小さな池の中にいる鯉。その鯉たちは、原気を解放しているのであろうか?解放したなら、この池をもてあますのだろうか?いや、すさまじい原気を他と融合させる。生き物たちは先天的にその理で生きている。我ら人間も生き物。その生き物たちのように原気の解放を思いだしたなら、同時に融合がある。それを忘れては元も子もない。それを忘れさせてしまうのが後天の病である。我ら人間が陥っている途方も無い病である。」

行き場所の無い解放された気を融合する、そして又新たな気を解放して融合させる、これが導引法です。

例えば息を吸い続けると息を吐きたいという気が生まれます。そして、その気を解放して息を吐くととそこで快感が生まれますが、続けて吐き続けていくと、同時に苦しくなり、今度は吸いたくなります。この繰り返しになります。このような状態は、気が高まれば高まるほど苦しさをただ伴います。これはあたりまえのことです。

そこで内丹は、無極という陰も陽も無い、極が無い世界を元々の源としてます。
呼と吸が一体となった世界、陰と陽が一体となった世界、気が膨張して高まる陽の世界、気が圧縮して静まる陰の世界を一挙にして同化することができるのです。膨張の場合は飽和。圧縮の場合は消滅です。

これをもっとも、素早く身につけるのが、太極拳の武道における発勁なのです。技の中でその発勁をしたときの快感をもって、経験的にその理を実証していきます。

無極における発勁が太極拳の技の完成の到達点です。実物としての相手と技を掛け合い、その発勁の瞬間を自分だけでは無く、他を同化して体験する。これが、内丹を極めるための最も早い方法であり、頓法と言います。

現実的に融合して技を完成させた感覚。これが大事なのです。その感覚を覚えた上で、その感覚を得ながら套路を毎日やる。家で静坐や站椿、内丹術をやる。又他のクラスでもやるも良しです。

内丹を身につけても、それは単なる手段です。我が身が健康になり、気が充実して解放されても、他との融合を得ることが無ければ、悶々ともてあますだけで無く、それらの気は行き所を失います。行き所を失った気は、闇雲に自らを傷つけ苦しめ、他者をも容易に傷つけます。そのようにして解放された気は快感と苦しみを伴いながら、矛盾を繰り返していきます。これを相乗・相侮すなわち乗侮の状態と言います。そして気ばかりが高まり、いつまでたってもその苦しみからは逃れることはできません。お酒を飲みたくなって、お酒をたらふく飲むと一挙に快感が押し寄せ高まり、同時に苦しみも伴うという感覚です。わかりやすいと思います。いつまでもお酒を飲み続け快感も高まり続け、苦痛も高まり続け、いつかは廃人又は病人です。ヨガであれ、内丹であれ多くの人が簡単に陥るところです。

武道で無くても、太極拳でその丹と、そこから発せられる気と勢いを実生活で他者と融合していけるなら、それがもっとも素晴らしいことです。しかしながらその実感はなかなか得ることができません。ですから理論や、知識だけで自らを満たそうとすると、より現実からの逃避と、気の解放の放置に甘んじるしか有りません。そこで生まれたのが太極拳などの武道にある導引法です。
ですから、その実感の積極的な現実として武道としての太極拳があるのです。真の日本の武道もそれらと同じ原理を目指しています。

技が完成すると、とても気持ちの良い快感と楽しさが生まれます。技ができなかったときの違和感や苦しさも無くなります。
ここで積極的にこれを身につければ、現実生活にあるあらゆる事象も同じように融合しながら楽しめます。攻撃してくる相手と融合して自らの勢とするのですから、実生活ならいとも簡単です。武当派では、そのような人法と言うべき陰陽術も太極拳としての武道の体系に組み込んでいますから驚きです。
そして、武道の練習では、何も考えずに、楽しくて気持ちの良い感覚で技が完成することを多く経験すれば良いのです。
あとは、そこで知った感覚を認識していくために色々な理論を知っていけば良いだけです。そこに無為自然があるのを発見するのです。真の日本の武道と同じですね。

又、太極拳の套路だけで丹と勢を得て、その太極拳の型を覚えたなら、それを実際に使って武道をたしなむこともできます。
これはその丹と勢の結果を知ることになります。これが漸法です。どちらにしても武道は、それらの結果を経験しながら実証して行く方法としては最適です。もちろん丹と勢のある套路を身につけて、その丹と勢を生きていくあらゆる事象の中で使っていくのも良しです。
気を全てと融合させる、これが最も大切なことなのです。そしてこれが気功も含む内丹術の行く境地です。太極拳はその地に導く優れた方法の一つ、すなわち導引法なのです。

夜は心身の内を見直す。

 太極拳の夜間クラスでは、7時頃に夕食を終え、その後は感受性を高め、自分の心身の内をことごとく見つめ直す時間です。
この心身の内を見つめ直し、丁寧に練り上げて、丹としていくことで、昼間の活動の中心にしっかりと備えることが狙いです。

武道においても不動心や、強力な胆力、平常心、内勁には無くてはならない丹です。もちろん套路を行うときにもその丹を練り上げながら練習するので、健康効果だけで無く、自信あふれる精神や、精力あふれる整った生理や肉体、まろやかな弾力のある心が育っていきます。健全な丹があれば、ただ無為で自然で人生を謳歌することができるのです。

その心身の内を感受性を高めて観じてみると、身体内には十二経絡の循環というネットワークが存在することを知ることができます。十二経路だけでなくそれらを連携する経絡(奇経八経)もあります。経絡は現在科学でも検証され、経験的に実験された実証を証明しつつあります。経穴はそのネットワークの症が体表に現れる部分でもあり、また、フィードバックできるところです。

夜間クラスでは、まず立禅や坐道・動功を通じて、そのネットワークの流通を感受性を高めながら感じ取り、活性化していきます。

まず、臍下の指二本の幅くらいのところに気海(きかい)という経穴があります。その奥が、臍下丹田(お腹と背中の中間あたり・下丹田)で、元気の源で、丹の元になる場所です。丹田で火が焚かれて、その少し上にある腎臓あたりが温まるイメージです。この場合は、副腎が内分泌器になります。経穴は中脘(ちゅうかん)です。ここで元気によって焚かれた腎にあるエネルギーはわき上がり、波動が始まります。まずネットワークに走るエネルギーの波動(気)はこのようにして始まります。

 そこから、体の中心を走る、衝脈(しょうみゃく)という経絡を通って、会陰という経穴の対応部分(性腺)まで波動は下ります。会陰は肛門より少し前の体の中心です。性エネルギーを高めます。そこから尾閭(びろう)という尾てい骨の先から、脊椎に沿っている夾脊(きょうせき)という経穴のある経路を通過しながら頭の後ろにある、頸椎の最終部分、すなわち背骨と頭蓋骨の結合部分まで到達して、玉沈(ぎょくちん)という経穴を抜けて、頭のてっぺんの百会(ひゃくえ)に到達します。ネットワークは体の表面も含めて内部深くも走っていると考えます。平たく言えば、背骨を通じて、脳の内部にエネルギーの波動が到達すると考えるとより現実的です。

百会はメラトニンという心身にとても有益なホルモンを分泌する松果体の経穴です。そこから顔の前面の眉と眉の間の印堂(いんどう)という経穴に到達します。そこは脳下垂体の経穴であり、百会など頭部の督脈(とくみゃく)を駆け巡りながら、視床下部や、脳の中心部にある泥丸(でいがん)に到達します。ここは上丹田であり、脳の内側と考えればよいと思います。古皮質や旧皮質の脳が活性化する感覚です。吐納法の場合は、ここまでは吸気で運びます。エネルギーの波動の末端は人中という鼻の下の中心です。

上丹田で練られたエネルギーの波動は喉を伝って甲状腺まで到達します。その経絡にある経穴は、口の下の中心の承漿(しょうしょう)、喉の中心にある廉泉(れんせん)です。甲状腺から抜けて、次に、免疫系の要である胸腺に到達します。経穴は天突(てんとつ)を抜けて紫宮(しきゅう)です。ここで、甲状腺と胸腺のあたりのエネルギーが活性化します。ここが中丹田です。

そこから、お腹の第二の脳と言われる太陽神経叢に波動は向かいます。その最上部にある経穴は中脘(ちゅうかん)で、膵臓にある内分泌器を活性化します。そして、腎にエネルギーの波動は戻り、その波動を受けて、臍下丹田にある元気がより焚き上がります。そしてその周辺の太陽神経叢が活性化します。吐納法の場合はここまでが呼気でで運びます。これの連続で、どんどんと各丹田を焚き上げていきます。ここまでが小周天(しょうしゅうてん)と呼ばれる太極拳の内丹術です。

以上が体の中心を走る大きなエネルギーの波動です。その波動により、体中の全経絡に波動が伝わり、あらゆる臓器を活性化します。
夜間クラスでは、いつも他のクラスでの予備運動として行う指龍(手の指を順番に回す運動)をより綿密に、そのネットワークの確認をしながら行っていきます。
わき上がった腎のエネルギーの波動が、左右へ分かれまず肺経に流れます。手の親指が井穴ですからそこを回します。そして大腸経、指龍では手の人差し指を回します。そこから胃経です。井穴は足の第二指へ抜けます。そして、足の親指から脾経に入って、心経に合流して、手の小指の内側の井穴に抜けますので、そこを回します。そこから、小腸経(手の小指の外側が井穴)に伝わり、膀胱経に合流して足の小指の外側の井穴に抜けます。そして足の小指の内側で腎経に伝わり、心臓の周辺の心包経へ合流します。井穴は手の中指にあるのでそこを回します。心包経は三焦経に伝わり、体の支持組織の隅々まで波動が伝わります。井穴は手の薬指にあるのでそこを回します。そこから交感神経のバランスも整えて、胆経と合流して足の第四指の外側の井穴に抜けます。そして足の親指の内側に井穴を持つ肝経に伝わり、また腎に戻ってきて、統合され、この繰り返しが、エネルギーの波動を増幅していきます。これが太極拳の内丹法です。
このように、経絡のエネルギーの波動の循環を活性化して、全経絡に均衡を取り戻すと、原因不明の痛みや各種違和感、不定愁訴、不安や焦りなどを消失させ、体の末端にまである体細胞を蘇生、活性化するような感覚も取り戻すことができます。

内丹法は、動かないところも、エネルギーの波動が行き渡らないところも無いとする、太極拳の勁の理に整合するために、血液や内分泌、神経系統はもとより、そのような導管を持たない腺の循環経路と、その媒体である支持組織まで波動を及ばせることを積極的に経絡学説にもとづき実現しようとするものです。

このような循環を取り戻すと、この感受性は、大周天(だいしゅうてん)という、天と地の気との循環も感じ取れるようになります。大周天については、又、別に述べます。

股関節を内外に円転する歩法

武当派の楊式太極拳の源流を遡ってみると、武当太極拳があります。

武当太極拳から楊式に変化していった当事の套路の歩法には、ほとんどが、武当太極拳にある擺歩(はいほ)という歩法が使用されています。雲手などは套路に何度も出てくるのですが、側行歩においては、右は地震脚と、左は擺歩による進歩の練習でした。

現代太極拳の套路では、見受けたことがありません。

もちろん王流では、古式をそのまま大架式として練習しています。小架式にしても側行歩は擺歩を含んでいます。

翻身撇身捶(ほんしんへいしんすい)の翻身は扣歩であり、玉女穿梭(ぎょくじょせんさ)の歩法は扣歩(こうほ)と擺歩の繰り返しです。これは現代太極拳にも少なからず残っているようですが、重要視はされていないようです。

なぜ扣歩と擺歩は重要かと言うことですが、簡単な理由です。

ウェストを起点として、股関節を内転させるのが扣歩です。そして、外転させるのが擺歩なのです。ですから、股関節を円転させる為の内外の動きだからとても重要なのです。

この歩法の繰り返しが、鬆腰(腰をやわらげる)に伴い運動される鬆跨(股をやわらげる)の修練なのです。

この歩法で股関節が自然に円転します。従ってこれを修得すると、股関節を痛めることも無く、また股関節の強化や、故障の改善になるのです。

近年太極拳で股関節を痛める人が増えていますが、この歩法を習得しないで、太極拳という複雑な動きをするのは危険でしょう。

八卦掌にはこの歩法が重要視されているようですが、それは武術としては当然のことです。

太極拳においてもこの歩法をしっかりと練習しないと、武道として太極拳を健身に生かして行くことなどはできません。

王流の套路は、ふんだんにこの歩法を套路に組み込んでいますから、現代太極拳の方から言わせると歩法が間違っているとよく言われます。

しかし、擺歩や扣歩の重要な股関節の円転を失った套路を続けていると、重要な問題が起こることは確かです。

また、その動きをしっかりと練習すると、股関節の故障も無く、またそれらの問題も改善することも事実です。

歩法をただ直線的に動かすこと無く、このような扣歩と擺歩の理を知り、形や方式、伝聞にとらわれずに、自然の理をもって柔軟に太極拳の套路を楽しまれることをおすすめします。

原因のわからない腰痛

原因のわからない腰痛が、腰痛の80%を占めているという報告があります。 脊椎に起因する腰痛は15%程度です。 原因のわからない腰痛は、すなわち原因のわからないところでおこっている訳であり、わからないとされているところを改善していけばよいのです。 太極拳の内丹術はそのようなわからないところをまず健全にします。 内丹では築基と言い、体の生理から内分泌、肉体と精神のひずみを全て正しく戻すことをいいます。 それらを色々な方法で改善してから、太極拳で本格的に奥義を教えていきます。 これらの内丹を含まない套路や、武術を繰り返していると、そのわからないところはわからないのでより悪化するのは当然です。

《古式の太極拳技法「鬆腰」などの基本技法を満載した書籍》

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套路や武術練習では、必ずこの内丹を調整しながら練習をして、築基が完了したものに、より深い太極拳の動きを教えます。 この時には、原因のわからない腰痛など、又、調子の悪い体や精神などもう有りません。 私のところの太極拳クラスでは、太極拳を深める以前に、この内丹をより専門的に行うクラスを新設しました。 原因のわからない腰痛、原因のわからない不定愁訴、原因のわからない憂鬱などなど。 原因のわからないものはわからないとされているところを徹底的に正常化することが必要です。 内丹はそのわからないところを、遙か昔から経験と実証で、わかるようにしてきたものです。 内丹における精神作用も肉体作用も、現代精神学、現代医学でも科学的に立証されてきています。 原因のわからない。という何かがあれば、騙されたと思って、まず当方の夜間クラスにおいでください。 武当山が源流の太極拳の動きは、内丹技術を欠かしては成り立っていません。 内丹の備わった太極拳をぜひ身につけて、一生涯安心して行える、簡化24式の套路やもっと複雑な套路を生涯の友とすることをお勧めします。

ゆっくり動くことの理と利の一つ

ゴルフの宮里藍の太極拳スイング。
太極拳もこのように套路を練習します。よく見て頂きたいのが、途切れなく一定の速さで動いていることです。呼吸は胎息という呼吸を使うので、動きも乱れません。

いつも気が流れており、スムーズな動きは素晴らしいものです。
少し呼吸と気が途切れているところもありますが、さすがプロですね。

ゆっくり動くことの理と利の一つとして紹介させて頂きました。

太極拳の武器術

武当派の楊式太極拳には多くの武器術があります。

ポピュラーなものは、太極剣、太極刀ですが、これは斬ることが目的の動きになっているので、武器があると素晴らしい武器術になります。しかし、徒手においても掌法を使用して十分使えるのです。この流れは、古式の武当太極拳では、しっかりと八卦掌という型を套路に盛り込み修練していました。今も伝承されています。もちろん王流の套路でもこの流れを失わず、掌法はしっかりと練習します。

従って、徒手を十分修練した後、これらの武器術を習いますが、武器術にある型はそのまま徒手でも使い、また逆に徒手で修行した型は武器術にも使います。

また、太極扎桿、太極棍、太極棒などなど、これはどこかにそれなりの棒が落ちていれば使えます。あとは短剣(ナイフ)、ヌンチャク、その他多くの武器がありますが、その特性に応じて使用法があります。

王流が最も得意であり、これが奥義であると言い切れる武器術があります。

太極針という武器術です。刺法という技術を主に学びますが、手裏剣のように投げる技術もあります。

刺法は、あのつるつるの針を、確実に固定し、真っ直ぐに相手に突き刺さっていくように、独特の方法で持ちます。これは三節という理法を使いますので、十分な修行が必要です。

その上、勢は全て徒手の太極拳の型を使用しますから、その型が武道として完成していないといけません。

約15cmから、18cm程の長さの針は、日本でもコンクリート針として販売されています。

私が持っていたものは、18cm位の長さでステンレス製で、自分で磨きました。

危ないので、最初はゴムをつけたりしていましたが、つい凝ってしまって、同じステンレス製の筒でぴったり合うものを探してさやを作った愛着品でした。ボールペンのように、どこにでも持ち歩くことができます。

しかし、持ち歩くのは違法(?)ですので、丸太杭を使って練習に使う程度でしたから、どこかに消え失せてしまいました。

特に打虎式で、後頭部の急所に刺す技術は、針さえ持っていればいかなる時にも、非力なものでも命を完全に守れます。

しかし、こんなものをもって歩いていると、銃刀法違反で捕まると思います。(よくわかりませんが)要注意です。

太極拳の型を武道として修得すると、あらゆる武器は使えます。

どの武器を選ぶかは、環境次第です。そのようにできあがっているのが武当派の太極拳です。

太極針は、とても荘厳で素朴でかつ美しい武器術です。なぜか、しなやかな女性がよく似合います。

静かな戦闘術・楊式太極拳

楊式太極拳は水の力を使います。沾粘勁(てんねんけい)と言います。

私が王師に一番最初に教えてもらった技は、進歩攔掌(しんぽらんしょう)という技です。

套路にある進歩搬攔捶(しんぽはんらんすい)を練りに練った上で、教わった技です。
何の変哲も無い、相手が顔面を狙うなど手を出してきたら、その手をよけて相手の腹を掌で打つというだけなのです。

その技を私は2度ほど実際に使ったことがあります。言えるのは、相手がある組の組長の用心棒で、少年の時に人を殴り殺したことがある男のことです。相手はその筋ですから、とてもプライドを大事にしていますから、いくらその時逃れても、いつか必ずえらい目に遭わされます。それは、私が若い頃に本当に嫌と言うほど経験済みです。今でもその傷跡でもう取り返しがつきません。
ですから、私の環境を知っているので、王師はこの技を最初に教えてくれました。

相手が殴ってきたら、一応よけた様な感じに見え、実際には技を出しているのですが、見た目は、相手の横後側に抱きついたような格好になり、相手の顔を横目で見ると、ただ蒼白になっています。その後相手にひたすら横に立って、相手の手や足の届かないところから謝るのです。
それからというものは、彼は私に一切手出しをしません。それどころか、なぜか気に入られ、だれの言うことも聞かない人間が、私の言うことなら聞いてくれるようになりました。
この理由は簡単です。私は王師に加減した上で何度も打たれていますからよくわかります。
打たれたら、腹に大きな穴が空いたような気持ちと、何とも言えない生命の危機感がわき上がり、一切の気力が止まります。
その時に謝られたら、見た目優勢のまま、プライドを保ち、何もしたくなくなります。それなりのリスクを感じるので、面倒くさいからです。
臍回りの腹部には人間の生命活動に重要な神経叢と、重要な急所が多数有ります。腹部より少し上にある、水月というみぞおちは上に角度をつけて捶で打ち込むと、相手を気絶させることができます。そこは狙うところは心臓です。この進歩攔掌は腹部全体を打ちますから、打つのは簡単です。

楊式太極拳の技は、多くがこのような生命の危機感を与える技ばかりです。
特に進歩攔掌は、傍から見た目では静かです。また、ダメージは誰にも見えません。
また、採腿という最も楊式らしい技もあります。それは相手の膝を暫く動かなくする技です。加減しないと折れます。
暫く動かなくなったときに謝るのです。これも相手の手出しをよける振りをして、その手を引き込みながら、膝の横の急所を全体重と相手の体重も借りて踏みつけます。傍目は、よけて体がぶつかったように見えます。

しかし、これで済むのは、相手は特に目的も無く、ただ、いじめやたわいの無い暴力の時に限ります。目的(その人たちの経済活動)がある場合は、少々生命の危機でもかかってきますから、その時は話は別です。

いじめや、輩のいやがらせ的暴力には、人が見ている前では、誰にもわからず静かに恐怖を与え、そして見た目では負けてやることです。誰も見ていないところなら、いじめや輩は何もしてきません。もしなめられていて攻撃をしてこられたら、正当防衛として防御すれば、楊式の太極拳の技は防御と攻撃が完全に一体になっていますから、謝る必要もありません。ただ、恐怖を与えたことは誰にも黙ってやることです。

このように、太極拳の技は防御と攻撃が一体になっているので、傍目からみるととても静かです。攻撃されたのをよけているのですから受動的であり、相手の攻撃の結果だと見えるのです。ですから、静かな戦闘術なのです。

この技は、転動の勢(円の動きを使って拳をよけて相手の範囲に入る独特の動き)。欄の理合(拳が絶対に当たることの無い欄という衝立を体で作る技術)。進歩(体重を全て移動する技術)。偶力(並行する力を一点で合致させる技術)が全てできあがっていないとなしえません。

しかし、太極拳を練習すると身につく技です。最近いじめ問題が社会では大きく取り上げられています。
私も、暴力をプロとして使う輩が、弱い一般市民をいたぶるという世界のど真ん中にいました。

かといって、空手やボクシングを習っても、そのようなプロにその場で勝っても、後で執拗にやられます。
また、過剰防衛にもなりかねません。
太極拳には相手に痛みを与える擒拿術がありますが、これも相手の体全体に生命の恐怖を与えるようなものになっています。
また摔角という投げ技も受け身が取れないどころか、投げた後に一緒に倒れながら、不意に相手に生命の危機感を与えるようになっています。
どちらも、相手の攻撃があって始めて、それを防御した結果、弾みでそのようになったとしか見えません。

ですから、太極拳は、見た目では攻撃をしない、静かな戦闘術と言えます。