套路の過渡式が太極拳の神髄

現在行われている太極拳の套路で、型の姿勢、ひどい場合には手の形や足の裏の形などを正しく行うように要求があるとされていますが、実はその套路の型自体は、他の武道と同じく、構えもしくは、残心という、技の始まり部分と終了部分だけなのです。

もちろん構えと残心は大切ですが、その途中にある過渡式が実は技なの… 続きを読む

練習記録 高探馬帯穿掌

高探馬帯穿掌の穿掌の打ち方は手法でやります。主にに点穴で使いますが、この場合の穿掌の場合は龍の勢の一つ竜頭を使いますので、特別な打ち方が必要です。筒の中に槍が仕込んであって、筒を鞭のようにのように差し出すて、急に止めると中の槍が勢いよく飛び出します。これが高探馬帯穿掌です。

大事なのは、この高探馬帯穿掌の過渡式勢です。高探馬帯穿掌は高探馬から… 続きを読む

練習記録 劈身捶

  1. 劈身捶

    撇身捶の勢を使って劈拳を打つ。用法として、相手の右手で右肩を押さえられて、背勢にされ、相手が左打虎を我が後頭部に放つ場合。撇身捶の勢にて腰腿で右にうねり、右腕の抱掌にて打虎を防御しながら、我が左腕は相手の右腕をしたからすくい上げ、右腕で上から下へ劈拳を放つ。

    招式 打虎劈身捶(その他)上冲劈身捶

  2. 摺叠劈身捶

    扇を閉じて広げるようにして打つ劈拳。

    用法としては、劈身捶のように背勢に拳を受けない場合、例えば我は右前で相手の右劈身捶を左胸

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練習記録 散手 把式(解法)

散手 把式(解法)

両者手揮琵琶-甲・右手揮琵琶・乙左手揮琵琶

  1. (正上手把靠挒)乙が左手で甲の右手首を下からつかみ引き寄せ、乙の右拳で甲の顔面を打ってくる。甲は乙が引き寄せる勢に合わせ、撇身捶の
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王流 楊式太極拳の歴史

最近、王流楊式太極拳でも、自立厚生運動の広報の一環として、話題のツィッターやFaceBookなどに実名で自動的に記事が投稿されるように設定しています。

そのためか、数人の武術家の方達から、当王流の歴史を教えてほしいという要望がありました。

もちろん、私の師の王征(又は宗)家からきいていた歴史はとても明確で、近代… 続きを読む

歴史1:王流の源祖は張三豐

元・明代に生きた遼東(遼寧省)出身の道士で仙人。字は君宝、幼名は全一。張三豐(1247年 – ?)が技を学ぶために少林寺に入門しています。

張三豐はとても文武とも優秀であったため数年を経ずして首席になりました。

彼は道教の道を求めて、少林寺を出ていきました。

彼は、湖北の武當山に至ると、そこは天の柱のような峰が奥深く静まり返り、しか… 続きを読む

歴史2:太極拳経の著者・王宗岳

太極拳経の著者、王 宗岳(おう そうがく、生没年不詳)は、清・乾隆年間に活躍した武術家です。張三豐が始めた内家拳法をより実戦的に道家内でしっかりと技術体系化した太極拳法という武術と、剣法と陰符槍法を得意としていました。

清朝は禁武政策の中でも、道教を保護していましたから、 山西人で乾隆56年から60年(1791年 – 1795年)にかけて、若き道士を集めるため河南、洛陽、開封などに滞在し太極拳法の宣伝に努めることがで… 続きを読む

歴史3:王流楊式太極拳と文聖拳

私の師がしきりに同じ流れから派生した拳法だといっていた文聖拳というものがあります。文聖拳はは17世紀中葉の明末、清朝の初期の時期に劉奉天(1617―1689)を… 続きを読む

歴史4:王師が楊式太極拳を武当山で修行

楊家太極拳の楊露禅は1840年ごろ、40才を過ぎて北京で王朝の武術指南役となりますが、優雅な生活の長い王朝の中では、武術のような単練を好むものは少なく、彼自身も思う存分練習もできないため、絶えず武当山へ修行のためと称して入山していました。

武当山の太極拳法(武当派太極拳)の套路は多種多様有り複雑ですが、楊露禅は貴族達に教えるために108式を採用または整理し、(同時期に武当山でも武当太極拳として108式を套路としてよく行っており、現在も武当山で伝承されて… 続きを読む

歴史5:王師は戦後の中国から逃れ日本へ

その後、1939年〜1945年の第二次世界大戦後急激に他の武術メッカと同じく、武当山へも弾圧が強まります。その時に40才を超えていて武当山で太極拳の指導者であった王師は不穏な動きを察して、知り合った日本社会の裏世界の人間の紹介で、混乱期にすぐに神戸にやってきたということです。

そこで、大阪で老舗任侠団体の組織の代貸であった私の祖父や、神戸の裏組織などと懇意になり、特に大阪では私の祖父には恩を受けたと王師はいっていました。私の祖父は戦後に大阪難波を中心に縄張りを広め、大阪歌舞… 続きを読む