倒攆托臂とその解法から散手対打

2016/6/19武道クラス
20160619_4 相手が右捶を我の顔面に打ってきたら、右足を退歩し倒攆猴の勢で、その捶勢に随勢で随いながら、我の右手は相手の右腕に外から沾勢で貼り付き、我の左手は相手の上臂に下から受けるようにして沾勢で貼り付きながら、倒攆猴の退歩の勢で右足に重心を移しながら、左手を托勁、右手を採勁で粘勢で粘ると連勢で沖和し、沖和したところから相手の捶勢をそのまま借勢して、化勁として発した倒攆猴の天秤勁(十字勁の一種)の発勁を行うと、相手は上方に飛び上がる。その時に同時に左足で相手の右脇腹に倒攆猴脚などの踢脚を発したり、摔角や擒拿術などの各種攻撃を行う。我の中心に我の両手の勢が交差するまで化勁を行う擒拿術は交差勁の発勁であり、そのまま相手を上方に固定しながら連行できる。これは懐中抱柱。(ここでは踢脚と懐中抱柱だけを示範した)
倒攆托臂の解法は、解法を行う側を我として説明する。
相手が倒攆托臂の天秤勁の発勁を行おうとして我の捶勢を走らせ行く勢いに沾勢で貼り付いたときに、その沾勢に沾勢で貼り付き、随勢で随うと、相手は倒攆猴の勢に粘勢を発揮するので、その粘勢を走らせて沖和して連勢で連なれば、当然ながら我も倒攆猴の勢に変化する。相手の勢と一体になっているからである。その沖和の時に、我の左手を相手の托勁を発しようとする左手の外側下から、我の右臂と相手の左腕の間に差し入れ倒攆猴の採勁の鼓蕩勁(その場で太鼓を打ち沸騰するように発する勁)で粘勢で粘ると、相手は我の右腕を相手の後方に連れて行くので、その勢を借りて借勁とし、我の左手を我の後方へ開合勁の開勁を発すると、簡単に倒攆托臂は解かれる。この時に我の左手は相手の右手首を龍口で咬む。この時に大事なのは、相手の倒攆猴の勢に完全に融和し、我も相手の勢の方向と一枚板になる感覚を得ることである。すると、板の上を滑るように開合勁が発せられるから、するっと抜け、我の左手は相手の右手を後方へ開勁で連れて行く。その開勁の発勁は環流勁により合勢を発するので、すぐに合経の蓄勁となり、同時に環流勁により開勁により、強烈な肘撃を相手の左脇腹急所に発することができる。これは野馬分鬃の勢であり、靠勁でも挒でも行える。間合いや、肘撃を避けられたときなどは、そのまま伸びて挒により相手を後方に倒すなどの摔角が行える。このように、伸びて発勁を行える発勁を長勁と言うが、古式太極拳は全て長勁により套路などの練習を行う。ここでは肘撃を練習した。

●倒攆托臂とその解法から散手対打を練習で行う。
相手は我の右肘の肘撃を左摟膝拗歩の勢により、相手の左臂摟膝で左方にさばき、拗歩勢を進歩して走らせて右足を差し込んで順勢に変化させ、我の顔面急所に右掌で掌撃を放ってくる。我は相手がさばいた勢いを借勢で借りて、我の右臂の勢を円滑勁(旋風勁の一種で窓を円で拭くように滑らせる勢い。下勢の勢でもある。)で走らせる。最初の半円の走らせる勢は虚であり蓄勁となり、後の半円は円滑勁の発勁となり実に変化する。この虚実は陰陽であり、太極拳は一(太極)の中に二(陰陽)を含み、太極により動くことをよく修得する。今回の重要点である。(映像の最後で下勢撃を示範して練習しているので、そちらも参照)その円滑勁の発勁は我の顔の前に上がり、そのまま相手の掌撃の勁道へ円を描いて降りていく。我の頭部はその円滑勁により満から空となり、そこには既に頭はなく、相手の掌撃を待ち受けるのは我の螺旋劈拳(劈拳は撇身捶参照)である。螺旋拳は円滑勁と腰腿を組み合わせて発生する螺旋勁を使用し、我の手を握拳にして拳面を上になるように螺旋してなたを打ち下ろすように打つ。そのまま円滑系を止めずに相手の右臂を巻き込み扌履勢摔角を行う。これは長勁であり、このように円滑勁が伸びていき(長勁)、裏勁に変化していくような発勁を合勁という。その転換にも一(太極)の中に二(陰陽)を含み、太極により動くという太極の理を修得する。套路は全てこの太極の理によって動いている。(扌履勢摔角は基本を示範しているので、詳しくは映像参照。扌履勢摔角の詳しい解説は今までにも何度か行っているので省く)

■詳細及び記録動画

※本日の練習の相対招式の技術を詳細に記載しています。要訣など、随時加筆していきます。

■記録動画

武道クラスのみ、下記より動画が閲覧できます。
最近の武道クラスの動画を掲載しています。(掲載期間約1〜2ヶ月)

動画の配信方法が変わりました。YouTubeで非公開で配信しています。

動画の閲覧の方法は下記のとおりです。

①閲覧するには、事前にYouTubeのアカウントを作成し(無料)、ログイン用のメールアドレスを下記メールアドレスまで知らせて下さい。(武道クラス生のみ)

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②閲覧が可能になればメールで知らせますので、閲覧して下さい。

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散手対打 進歩捶拳-倒攆摟膝拗歩-左攔-如封似閉

2016/6/19武道クラス
20160619_2 相手との間合い。一足一拳の距離を保ち、相手の圏内に一足入り込み拳を打つ技法(進歩捶拳)
相手が左前、我も左前の場合、相手は右進歩で我の円圏の左側に入り、我の顔面急所に右捶拳を打ってくる。その右圏捶に随勢で随い、相手の拳を走勢で走らせる。構えているとき我の左前の円圏は満である。その満に向かって相手が入り込んできたときに、即座に左足を退歩して空にする。相手の捶拳はこの空で発勁が終わる。この退歩の勢は倒攆猴の流転の勢である。これも分虚実の勢であり、陰陽転換の術である。これは、主に倒攆猴のの退歩で稽古する。
我の走勢で消滅した、相手の捶拳はその場所で浮くのでそれに同時に我の右費で左から沾勢で貼り付きながら、相手の拳が相手の円圏内に戻っていくのに沾勢で貼り付きながら、随勢で随いながら我の左足を進歩し、同時に相手の捶拳の環流勁の引きを走勢で走らせ、粘勢でやや下方にやや圧力を加え、同時にその圧力を引き継ぐようにして我の左手でを相手の右腕を搂膝拗歩の搂膝採で捕らえ連勢を以て沖和し、搂膝採により下方に相手の右臂を抑え流しながら、相手の身体の右側面に我の左手の採勁の発勁により相手の右腕を貼りつけると同時に、我の右掌は左搂膝拗歩の発勁を相手の顔面急所に打つ。採勁と右掌撃は同時であり、この時には、身体の左右に十字勁がある。解説として、相手を一時的に麻痺させる唖穴としては鼻の頭の素髎(そりょう)穴が有効であり、その他鼻の下の人中穴や眉間の印堂穴などは死穴であり、日本においての護身術としては打つべき場所ではない。
相手はそれを攔で、左側頭部から右側頭部へ相手の拳を流す。我の掌撃は既に相手も目前にあるので、まず頭部を左にずらす勢いと同時に左手の攔勢が発生するように稽古する。急遽と無意識を要する防御である。
我は右掌撃を相手の攔で後方に走らされた勢いを借勁で借りて、左右相随の勢にて我の左手を右上方に進め、相手の左臂の肘を下から龍口で咬む、同時に我の右掌は相手の左腕に貼り付く(両臂とも沾勢)。この勢は抱虎十字手(如封似閉の前過渡式)の交差勁である。我の右掌撃の環流勁を発揮して我の右手が引かれていく勢を、我の右手の甲、左手の龍口にも働かせ(両臂とも粘勢)、我の右手は相手の左手と、我の左手は相手の左肘親指側の内側急所に上顎を引っかけて沖和して連勢で連なり(両臂とも連勢)、如封似閉の発勁(化勁)にて、我の右手は相手の左手を我の右脇腹に甲で抑えながら、我の左手は龍口の上顎で引っかけながら我の左脇腹に引き込むことで、相手は左膝を着いて崩れるので、ここでは崩れるまでしか行っていないが、そのまま地面に栽法などで固定などをする。

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無用の用・不易流行と太極拳

太極拳は道教の理念を武道の中に多く取り入れています。

道教の祖師は老子ですが、彼の「無用の用」という概念は有名です。

例えば、太極拳の套路で、広い公園で大きな大地に立っていますが、大地の内で使っているのは足で踏んでいる部分だけです。だからといって、足が踏んでいる部分だけを残して他が無くなってしまったらどうでしょうか?奈落の底に脱落ですね。このように踏んでいるところは用、踏んでいないところは無用、次に踏んだところが用であり、踏み終えたところが無用に変化するのです。これが太極拳の歩法です。

このように、一見役に立たないように見えるものが実は役に立っているということが、「無用の用」なのです。

そして、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した「不易流行」という概念です。不易とは変わらないものです。それを知ることがなければ、大地すなわち基礎の部分がわからないと言うことです。流行は変化です。変化を知らないと新たな風が吹きません。しかも松尾芭蕉は「その本は一つなり」即ち「両者の根本は一つ」であるといっています。太極拳の套路が滔々と流れるように、変化が不易となり、又新たな変化が生まれ、過去の変化は不易となるのです。このような動きを套路の中に求めていきます。

以上のどちらも太極思想の陰陽和合の考え方なのです。

不易とは変わらないものです。太極拳は不易を滔々と延々と繰り延べていきます。それで攻防を行うのです。

とてもわかりやすくいうと、例えば年をとっても普通に人間として健康であれば歩けます。これが不易です。

ところが、走り回れとか、重いものを持ち上げろとかいわれても、誰もができるわけもありませんし、若い頃はできたけど、できなくなったということになります。これは不易ではありません。

太極拳はこの不易を変化させて不易を生む運動理論です。不易流行を磨きに磨いていく武道なのです。

諸行無常という言葉もありますが、諸行は移り変わります。太極拳の套路や攻防もそうです。

その一つの場所や時代にこだわったときは、そこに留まりその場所を変化させていくしかありません。

それが次の流行に移ることなく、不易に留まりその不易を鍛えて変化させる事になります。

そこのその場所その時代にある、筋肉や運動能力、それをただ鍛えて変化させることで、その場所と時代に留まろうとしますが、時代は移り変わり、その場所に有った諸行は無常に消え去っていきます。

太極拳は死ぬ間際まで使える武道です。年をとると健康であっても、重い剣や刀は持てないかもしれませんが、自分の身体にある年相応の骨や筋や肉は使うことができます。

このように太極拳は、対錬や散手などの一見相当激しく見える練習も、実際にやってみると相当な年齢を召されている方でも疲れることも怪我もなく練習ができるのです。

そして一度思い出した不易な動きは、心身が忘れることがないのが太極拳の大きな魅力なのです。

練習記録 散手 把式(解法)

散手 把式(解法)

両者手揮琵琶-甲・右手揮琵琶・乙左手揮琵琶

  1. (正上手把靠挒)乙が左手で甲の右手首を下からつかみ引き寄せ、乙の右拳で甲の顔面を打ってくる。甲は乙が引き寄せる勢に合わせ、撇身捶の勢により左に入りながら、乙の右拳を受けて、甲は右手を龍の勢を扌履勢と採勢にて後部右に解くと同時に、右靠勁を乙の胸部や顎に、できるなら頭部を相手の顔面の急所に発勁を放ち、抜いた右手は扌履勢から採勢の円圏を翻して、腰腿の勢で乙の後頭部などへ挒勢をもって発勁を放つ。
  2. (逆上手把托挒)乙が右手で甲の右手首を下からつかみ引き寄せ、乙の左拳で甲の顔面を打ってくる。甲は乙が引き寄せる勢に合わせ、撇身捶の勢により左に入りながら、乙の脇部や顔面側面に攻撃や、上腕を托すなどを行って、甲は右手を扌履勢と採勢にて後部右に解き、抜いた右手は扌履勢から採勢の円圏を翻して、腰腿の勢で乙の首や顔面の側面の急所などへ挒勢をもって発勁を放つ。(逆上手把托頸摔)又は、首に腕をかけてそのまま後ろへ摔角を行い、乙を後頭部から地面にたたきつける。

相対するものを知る太極拳

強弱とは単に相対するものです。

強弱とは単に相対するものです。
左と右、上と下、女と男などと同じように性質として考えるのが太極拳です。
強いから良い、弱いから悪いのではありません。

強いところはどこか、弱いところはどこかそれを知ります。
何に強いのか、何に弱いのかそれを知ります。

よく観察すると、強いところには弱いものが混在しています。
そして弱いところには強いものが混在しています。

それが太極と呼ばれる混沌とした状態です。

太極拳の強い発勁の発動には、相手の強い反動を吸収できる弱い部分が必要です。
例えば太極拳の発勁による掌などは、相手の身体に当たったときは弱く柔らかく、内部に浸透して行くにつれその弱さが強さに変化し、相手の固い表面は弱く変化していくことで、内部まで食い込み発勁が爆発します。

人生においても楽しいとは、強いことと弱いことのお互いが受け入れあっていることです。
男性と女性、上と下、右と左、善と悪、このように考えると色々と見えてくるものです。

太極拳はこのような融合理論を、攻防という一体の理論の中にも見いだしています。

それを実際に心身の動きとして修練するのが太極拳です。

心も体も、強くて弱い。ある免疫が強すぎるとアレルギー体質になり、又弱すぎるとガンが育つのは、強さと弱さのバランスが崩れているのです。

例えば、文武が一体となると色々な事が楽になってきます。呼吸においても文息と武息といって緩やかな呼吸と意識的な強い呼吸がバランスを保っているときが、最も充実した状態です。

文とは理解であり、己を知ることです。武とは運動であり、己を発することです。
その二つのものが一体になったものが武道です。

武道の高手になると武と道の双方に高手になります。当然のことです。

右の高手は左の高手。男の高手は女の高手。悪の高手は善の高手、これはキリスト教の愛の概念の一部です。

太極拳はこのように、日常の散歩においても、人間関係においても、山で修行するにおいても、生きていくことにおいても、全てにおいて太極であることを見つけていく武道です。

強さに偏ろうが、弱さに偏ろうが、武に偏ろうが、文に偏ろうが、そうなると片方を求めたり、又それに対した無理が生まれるのです。

男に偏るのも、女に偏るのも同じです。

偏ると身体も弱り、無理が生まれ、又弱まるという螺旋の下降を生みます。

努力に逃げることも、無理をすることもせず、現実の中でしっかりと相対するものを見つめていくことだけで、武道としての太極拳の仕組みが見えてくるはずです。

太極拳は虚実、陰陽を見つめて知り尽くしていくことから始まると言っていいでしょう。

このような太極拳であるからこそ、生きていく中で大いに役立ちます。

素に戻っていく太極拳

太極拳の面白いところは、道を歩むように一歩一歩踏みしめて根本的なところに戻っていくところにあります。素に戻っていくという表現が適当かもしれません。

套路などの基本練習は、例えば、生きていくことに置き換えると、人間として動くための自然な動きの練習です。

人間は動くのに、いちいち練習しなくても動けるようになります。

これは当たり前です。

太極拳も実は、自分の身を当たり前に守るための、人間の根本を思い出すためのものなのです。

道を一歩一歩進む、すなわち武道としての太極拳の高手になっていくことに必要なのは、人間が歩くのと同じように、その根本的な動きなのです。

それを套路で思い出すのです。

ですから、套路は無意識で意識を用いず、ただ歩いているように、自然呼吸で出来るようになるまでその動きを求めていきます。

太極拳は意識で動くということを、一般的に普及している太極拳教室では教えられるようですが、動きを意識的に行うことを必要だとするときは、どのようなスポーツでも習い事でも必ず通る道ですが、太極拳の套路はその道を最初から逆に進む、すなわち戻っていきます。意識を遠ざけていくという表現がいいかもしれません。

これがわかるようになると、太極拳の套路は瞑想のような立って動く禅のような域にも入っていきます。

例えば、まず動くことが出来るようになるということで、人間は生きている中で色々なことが出来るようになります。それと同じです。いつも、日常的に動くために色々と意識して、考えて動いているわけではありません。

太極拳も套路にある勢が当たり前に自然に発せられるようになってこそ、武道として太極拳が当たり前に使えるようになるのです。

意識を使った套路をやっている内はいつまでたっても、武道としては成り立ちません。散手対打などをしていて、いちいち身体の動きや姿勢、かたちなどを考えていて、技が身につくわけがありません。

基本は基本でしっかりとやり、完全に勢を自然に思い出しておくことが大切なのです。そしてその勢は無意識のうちに応用されているのです。

その無意識に応用された技を武道として教わるのが太極拳です。

自分で自分の中にある根本的なものを思い出して、それが自分の中にあるのを知り、その感覚を忘れずに武道の練習をする。これが本当に楽しいのです。

自分で感じて会得して技を使っていく。そこには裏も表もなく丸裸の自分がいます。その根本的な自分に近づいていくことで、元気な自分がよみがえってくる。

これは自己だけが感じる、誰も言い訳がきかない世界です。

これが武道の良さです。

太極拳を武道として取り組むことは、このような簡単な単純明快な領域に足を踏み入れていくことにもなります。

きっと単純明快な自分に気づいたときには、さわやかな空が目の前に広がるはずです。

太極拳は、不老長寿に役立つ医武同源

太極拳は、不老長寿に役立つと一般的に考えられています。

健康にいいというだけの理由ではなく、太極拳の運動のしくみが,人間の根幹部分の生理を使うところから、現実的に若返り,病気から遠ざかり元気になり、又事故や怪我を未然に防げる危険を察知して防衛する本能的な能力をより思い出して練るところにあります。

例えば、心と健康の関係にしても、副交感神経を優位にして,穏やかなストレスに強い心身を育て、放松というとらわれのない根幹的な人間の心の太極拳の意で、そのまま精神や身体が動くように、繰り返し毎日運動します。

意は身体の生理である血流や神経に人間の根本的な元気ある活動を思い出させます。

無意識な動作は、心のちりを取り、滞る身体の邪を取り除きます。

呼吸筋や身体の緩やかな動きは、バイオフィードバックで、相乗効果を生みます。

普段では意識することのない、深い心すなわち太極拳でいう意は、脳の一番深いところの原始脳に位置する部分が活性化しています。

その周辺には、生命活動を維持する生命の根幹部分と、感情や愛情などと深く関係する本能的部分が隣接しています。

放松すなわち、リラックスした純粋な心(意)は生命力の根幹部分ととても密接に働きます。このような状態になることを太極拳では放松といい不老長寿への効果があると見いだしているのです。

穏やかな自然な呼吸は、木々のような営みを人間の心身に思い出させます。又、自然と一体になる感覚や、そのリズムとも合致していきます。

本来の人間として生まれ持っている仕組みである、腰の動きや,血流、呼吸、脳の働き、脊椎の場所や形、筋繊維の数、生命エネルギーである気、六感、中心感覚、ホメオスタシス、そのような全てが本来の能力を思い出し動き始めます。

太極拳はゆっくりゆっくりと動くことで、それを感じることが出来るようになります。

武道として太極拳をやるにしても、健康としてやるにしても、その本来の自分の全てを知ることから太極拳は始まるのです。

その全てを知った上で、早く動いてもその感覚がなくならないときこそ、早く動く武道としての太極拳が成り立ちます。

早く小さく動いても,大きく遅く動いた套路と何ら変わりがない動きが出来るようになります。前者は小架式、後者は大架式の動作の性質です。

太極拳は医武同源であると言えます。ですから、本当の太極拳をやっていると若返り、元気になります。病気や故障怪我とも無縁です。

太極拳の本来の仕組みを知り、そして、それを実際に実践しているからこそ、不老長寿がかないます。

結論を言うと、本当の套路を毎日繰り返し行っていると,武道としての太極拳の高手になれる基礎はできあがります。

そして、それを一度でもいいので実際に散手などで現実に応用する技を経験することで、現実とつながる事を経験します。

それでその技の技術を使える技能が持てるのが太極拳です。

そして、そこには、すでに健康で若返った元気な心身がよみがえっているはずです。

太極拳は基本のみを反復練習する

太極拳とは基本の基本の勢という勢いを反復練習する武道です。

勢はもともと人間が備えている先天の理であり、人間であれば全ての人が備えているものです。そして人間は動物であり、生き物であり、森羅万象の一部であると深めていくことで、もっと基本的な勢を知るのですが、それが太極であるということで太極拳なのです。

太極は陰と陽が混沌としており、分かれ目がない状態のことです。

そのような万物が持つ性質を思い出して活かしていこうとする武道です。

十三勢といわれる基本的な勢は套路で反復練習をします。毎日毎日自分の奥底にあるこの勢を思い出して練っていくのです。

その勢の仕組みは,気により動かされていることを知り、その気が生まれる場所は神(しん)で有ることが見えてきます。

そしてその神と気と精が一致したところに,勢が現れることがわかるようになってくると,どのような場面でもその勢を応用することが出来るようになります。

その勢の応用は、散手などの単練や対錬で実際に使ってみます。

それが太極拳の技です。

多くの技を使える高手は、ただ、そのような場面で勢を使っているだけで、とてつもなく多くの技を教えることが出来ます。

勢が相手の動きによって動くときに、相手の動きの違いに応じただけの技があります。

人間が生まれてから後天的に身につけたものは,その人人によっての努力などにより、様々違います。

それに対して後天的に積み上げたものを使用して対応しても、その後天的なものと後天的なものが合致するときにしか、その技が使えないのはわかるはずです。

太極拳は、包括的な十三勢を基本として、もっと深くにある太極の勢、これは相対性、そして無極の勢、これは絶対性と深めていくことで、あらゆる後天的な動きに対して対応できる武道として完成させていくものです。

後天的な技は反復したりすることでその状態を高めていきます。そして、新たな技術の積み重ねです。結果、反復練習していない分野には全く応用が利かないのです。

先天は生まれ持ったものであり、生命の営み全てに通じる能力です。

一般的には、後天的積み重ねの中に、それを極めたものの一部がそれの先天的な部分に気づくのですが、後天的なものを使うときの理にしかならなければ意味がありません。

一つの武道を極めた人はまれに、先天的なものに気づき、一からその先天的部分すなわち基本の基本に立ち戻り、その反復練習をやり直します。

それしかやらない人がいます。そして完全に思い出した時に、今まで積み重ねた技がただその勢の一部であることを知り、全ての技の応用が始まり、達人となるのです。

どちらから入るも極めると同じですが、太極拳は最初からただ基本の基本のみを反復練習し、その応用を千差万別な技として,散手対打などで行います。

基本練習をしっかりやっておけば、全ての技は当たり前に勢により動きます。

技を覚えることも必要ないですが、技に名前をつけて練習法として確立することもいいでしょう。技には必ず基本勢がありますから、その基本勢を明確に説明することで、説明を受けたものはその基本勢を毎日の套路の中でより実感しながら、反復練習を行うことが出来ます。

毎日の套路は、その勢を実際に使った感覚をもって、基本を反復練習するものです。套路は、気を練るものではなく、先天的な人間の生理の意である神(しん)、そこから発せられるエネルギーの流れである気、そして人間として生まれて持っている心身である精が一致するように、そしてその一致した経験を積み重ねるものです。

ゆっくりやればやるほど、その一致の維持が難しくなります。後天的なものの影響をより長く受けるからです。

早くやるのも大切ですが、一致の維持は意識のみで、ある程度無理矢理出来ますが、これも後天的なものであることに気づいていない人は多いと思います。

太極拳の套路はどこまでもゆっくり動ける人のみが、今の一般的な套路の速さで行うものです。

大架式はおおらかに動きます。そしてゆっくり動くことでマクロを無限に求めています。

小架式は、そのマクロの一部として小さく早く動きますが、マクロがあっての一部であり、小架式だけなら、マクロは含まれません。

大架式は小架式を含み、小架式は大架式の一部であり、又その個性です。

これを見てみると人間と同じで、人間は大架式と同じく森羅万象であり、そして個である小架式は,立派に独立した個性ですが、森羅万象の一部には違いありません。小架式がそれを忘れたり、又ただ個であった場合は、完全に全てと分裂するということがわかるはずです。

このような、総合的な理が太極拳には備わっているのです。ですから、太極拳と名付けられたのです。

このように、太極拳は基本のみ反復練習する。これは生きることと同じです。生きるのはだれしもが毎日やっています。

そして、技を練習する。これは反復しなくてもいいのです。その時に、やりたいときに,やる必要があるときに、色々な場面に対応できる能力で、ただそれが技となっているだけです。

経験しておけば、理がわかり,勢がわかり,すなわち生きる能力がわかります。それと同じなのです。

火事場のくそ力を思い出して備える。

現代人は、無意識で生まれる力(勁)、例えば、親が子を助けるときに出るような、又は火事場のくそ力のような力、それが普段から自然と備わっていません。
都会に住む人はさらにさらにその力が備わっていません。

農家や山で仕事をする人,酪農などをする人は、都会人と比べると無意識の力を絶えず使っています。都会に住む人とそのような人とは、力の出し方の違いが顕著に表れます。都会にすむ成人男性のほうが力がない,農家で働く女性よりも力がないときもあります。

農耕は沾粘勁といわれる粘りのある自然な力を、狩猟は纏糸勁と言われる瞬発力のある自然な力を主に備え育てます。

武道は、その双方を巧みに備えておく修練です。力の出し方も思い出さなければいつまでも忘れたまま備わりません。

その思い出した自然な力を発見して知っておかないと、様々な環境によってつい不自然な力に頼ってしまうことになります。
都会では、人間の本能的な動きを超えた動きが、様々な条件によって襲ってきます。

その条件にそのまま対応していると、その動きに呑まれてしまいます。本来の人間の本能的な動きから遠ざかる動きが条件として身についていきます。

例えば、ずっと椅子に座ってパソコンをしていると,本来の本能的に要求される動きに逆らって、知らず知らず指先と鼻先に大きな力がかかっていて、すなわち頭が浮き上がっている状態になります。その時に人間の身体は,その浮き上がりで腰に負担がかかるのですが、それを本来は本能的なホメオスタシス(恒常性維持)により、元に戻そうとしますが、一生懸命パソコンに集中しているときはその要求を無視して、つい浮き上がったまま,その内、脳はその要求すら行わなくなり、歩いているときなどのなんてことないときに頭が浮き上がり腰や膝を壊します。条件付けされた不自然な力が生き方の主体になってしまうのです。そうなってしまうと、不自然さすらもう気づかなくなります。

残念な事に、武道をやっている人でも、日常の自然な力を中心にした生活をしていないと、武道の練習の時に色々な故障が生まれます。

武道に携わる人はより、自らの自然な力(勁)を思い出していて、それを知っていて,それを中心に動いている感覚を持つことが大切です。

太極拳では、「力を抜く」といいますが、それは『不自然な力』を抜くということです。自然な力は『勁』と呼んで区別しています。
不自然な力は筋肉を癒着させるので筋繊維は少ない束になって固まって動きます。自然な力は筋繊維の動因数を増やすので、しなやかに柔らかく動きます。

自然な力の場合は火事場のくそ力のように,筋肉の最小限の動員での軽い動きでも大きな力が出ます。
太極拳は、その自然な力の動きを実践して経験し,そして自分の中にあることを見つけ出していく作業です。

太極拳は無意識にある動きを,顕在化して套路や散手にして、その動きを知り、意識しないで無意識にある動きで動けるようになる練習です。わき上がる気持ちよさで身体が動くという感覚です。

実際やってみないとなかなかわかりませんが、やってみると子供の時のはつらつとした生き生きとした感覚に近いものであることを発見します。太極拳はそのような力を使うための洗練された方法なのです。

ごくせんの仲間由紀恵のような拳法って本当に使えるんですか?

ごくせんの仲間由紀恵のような拳法って本当に使えるんですか?

YouTubeの動画を見た人から、こんな質問がありました。

あの動きは内家拳のように思います。

内家拳は平常心、副交感神経での動きが最も大切です。

そこから考えると、平常心と、生死を超えても守りたいものがあるときには、使えます。

太極拳は、この様な攻撃にはこの技というものはありません。

そんな難しいことをいちいち考えていては、山ほどその技術を覚えないといけません。又、いざとなるとそんな難しいことは出来ません。

無意識に動ける動きを思い出し、それを修練をするだけです。

無意識の動きは円運動です。子どもが何かをよけるときや、転んだときなど全て円運動になっています。

呼び水のように、元々体の奥底が知っている動きを思い出すための修練です。

散手はその動きをひたすら相対して練ります。

推手は相手の動きの全てを自分の動きとする訓練です。

套路は、無意識に近いところまで意識をおろして、そこにある動きを練って練って練り、気や勁道を思い出しておく練習です。

太極拳の発勁は無意識で発せられる場面になると、相手の命を奪いかねません。動物の本能のような動きだからです。潜在能力、先天の気が平常心と生死の境に最大限に発揮されます。

そんな場面がこないようになるのも、太極拳の心意です。枕の先と言います。相手が敵意や殺意を抱く前の感受の起こりを受けて、融和に化すのです。

太極拳の擒拿術も無意識で使われると、相手の骨を折ったりする事になります。擒拿術はとても痛く体がロックしますので、意識的に使うと相手を制すことが出来ます。又、関節を固めないとそのまま抜身術になります。そこから扌率角等投げ技もあります。当て身も意識を持って発勁を発することになるわけで、相手を制します。 しかし、発勁も、点穴術で発せられた鑚勁だと相手の命を奪いかねません。

人間は自分の急所を無意識に全て知っているのです。だから、無意識の時、相手の急所を的確に打てます。太極拳の点穴術を意識で覚えるのも単にフィードバックのためです。無意識下にある情報との呼応です。 いざとなると、いちいちどこの急所を突くなどとは考えられません。 無意識の時というのはどの様なときでしょう。生死の境です。

太極拳は相手が本気でないと使えません。

しかし、その無意識の動きを思い出すための修練は出来ます。

その動きを出来るだけ、護身術として技術化することも出来ますが、あくまで技術です。理の理解です。運動神経の逆利用や、関節の理解、てこ、遠心力、反射神経の逆利用、崩しなどなどありますが、全ては単なる理です。 しかし、その理をしっかり練習しておくと、意識化でも太極拳は有効に使えますが、無意識下に比べると比ではありません。護身術程度にはなりますが、意識があると平常心を保つことが最重要です。すなわち、理も潜在にある能力の呼び水とするために、数多く練習するのです。

無意識下にあるときは、その動きが自然に起こりどの様な動きになるかは予想がつきません。予想して練習するのは、あまり意味がありません。相手の動きはその場その場で同じものはありません。

意識して練習すると、意識的にしか体が動きません。 出来るだけ意識しないで動けるようになる。これが大切です。

その点古式の套路は優れた練習法と言えるでしょう。

ひたすら、深層にある人間が動物以前の自然の気と動きを思い出す事のみを修練するからです。

毎日欠かさず、良い先生について套路を練っていると、いざ死ぬ目にあったときに、間違いなくその動きが自然に起こります。実証済です。その本体上に技術があるときは、それが作用として有効に働くわけです。

又、その套路の動きは目に見えないところで日常的に、我が身に備わり動いているので、そうやたらに危険な目にも合わなくなります。

以上から、「ごくせん」。仲間由紀恵のような拳法は使えるのか。

答えは、ドラマ「ごくせん」の世界の中の仲間由紀恵だから使えるのです。

その人が、どこまで自分の本質を思い出したかと言うことです。

野生のライオンに無手の人間は簡単に食べられてしまいます。