今を生きる極意

今日2012年5月21日 午前7時34分。太極拳の套路を終えて、空には薄雲の合間から金環日食が。

デジカメで写真を撮影。まぶしすぎて金環はわかりませんでしたが、肉眼ではしっかりと見えました。

人は一瞬を切り取る写真に心を寄せます。

人生とはこの一瞬に全てがあり、命はここで輝いている。

私は、このように感じて生きています。写真はこの一瞬を切り取る。通じるものです。

インド独立の父。マハトマ・ガンディーの残した言葉がFaceBookで紹介されていました。

「明日、死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。幸せとは、あなたが考えることと、あなたが言うことと、あなたがすることの、調和が取れている状態である。 … 重要なのは行為そのものであって、結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、自分ではどうなるものではなく、生きているうちにわかるとも限らない。だが、正しいと信じることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ、何の結果もないのだ。」

この瞬間に全ての命があり、未来も過去も、ありのままに、あるがままに。

動画は、刹那の写真の連続したものであり、動いているように見えます。

人生も、刹那の命が連続したものであり、命が続いていきます。

太極拳も、刹那の動きが連続したものであり、技になります。

この瞬間の切り取りが、この金環日食のように、感動的に尊く光り輝いている。全てはこのようなものです。それを自覚し、観じていくこと、これが太極拳の極意です。

また人生の極意にも成ると言うことです。

太極拳の套路はゆっくり動けば動くほど、それを観じる刹那が細かく見えてきます。

人生の動画も、刹那の静止画がはっきりと見えるようになってくると、世界が変わってきます。

6 Replies to “今を生きる極意”

  1. 日々の考え・行動が正しいことかどうか。常々思うのですが、世の道徳律・価値観などは所と時代が違えば異なるものでしょう。とするならば、21世紀の日本人の考える正しい事は普遍的なものであるかどうか大いに疑わしい。
    マハトマ・ガンディーの残した言葉「・・・・・正しいと信じることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ、何の結果もないのだ。」
    多分ガンジーさんは「世に生きる人間がその時、その場所での道徳なり価値観を超えたところにある人間が本来持っているだろう何かに従って行動しなさい」と言っているのではないかと思っています。
    そこなんです。太極拳に限らずそれを求めるものはあると思うのですが、私は今のところ太極拳にそれを求めています。

    1. 信じると言うことは認識です。思考です。認識の以前に感受があります。言うならば「正しいと感じることを、ただありのままに無為自然に行う」これが太極思想です。
      普遍的なものは、絶対的とも言えます。
      「世に生きる人間がその時、その場所での道徳なり価値観を超えたところにある人間が本来持っているだろう何かに従って行動しなさい」これもそのとおりかも知れませんが、やはり彼は政治家です。有為があるから行動する。無為であるなら、自ずから発するのです。これが無為自然です。無意識に人間を越えた感覚(普遍的実感)が感じたことをそのまま何もしないでおく。何もしないから、無為にしているのです。なぜなら生きて存在している限りには、何も有為に意識を持たなくても、人間は営みを続けます。生存を終えても存在の世界があるだけです。太極拳は武道を通してその無為自然の世界を経験し、その普遍性をもって人生を生き抜くことを無為自然に刹那を命輝かせることの本質を見つけ出すための、素晴らしいツールの一つです。そして太極拳を通じて、自らの先天にあるそれを見つけてください。いや思い出してください。

  2. 信じると言うことは認識です。思考です。認識の以前に感受があります。言うならば「正しいと感じることを、ただありのままに無為自然に行う」

    人間は、生活している場所と時代に多かれ少なかれ影響され、染まっている様に思います。普通の人間はその時々の社会を支配している価値観なり、道徳観と自らの経験を通して考え認識し、行動してきたのだと思います。感じる事もそれを誰はばかることなく表わす事が出来る時、そうでない時があるでしょう。自分が問題としているのは「何を持って正しいと感じるか」です。ガンジーさんが政治家である事はあまり関係ないと思う。彼が学者、商人であろうが気候風土・時代が支配する価値観を基準として発した言葉ではないでしょう。

    自然と言う言葉に対して、私は「自然には二通りあると思っています。ひとつは人間を取り巻く環境(物理的自然とでもいいましょうか)であり、もうひとつはと物理的自然の中で生活している人間の行動・思考に関する自然さです」。
    物理世界における自然は単純。万有引力とエネルギー保存則に支配される世界であり、人々はそれを受け入れなければ生きてゆけないので“ごく自然に受け入れている”。
    もうひとつの自然はあまりにも多様で厄介です。その厄介さを通り越したところにあるであろう自然・・・・・これを求めています。

    1. 人間は、生活している場所と時代に多かれ少なかれ影響され、染まっている様に思います。

      「多くの人はそうですね、影響されるも良し、染まっても良しです。」

      普通の人間はその時々の社会を支配している価値観なり、道徳観と自らの経験を通して考え認識し、行動してきたのだと思います。

      「全くそれで良いと思います。」

      感じる事もそれを誰はばかることなく表わす事が出来る時、そうでない時があるでしょう。

      「それも全く自由だと思います」

      自分が問題としているのは「何を持って正しいと感じるか」です。

      「しかし、何をもって正しいと感じるか言う時点で、もう感じているのでは無く考えていますから、もう感じているのではありません。感じることに正しいも正しくないもありません。」

      ガンジーさんが政治家である事はあまり関係ないと思う。彼が学者、商人であろうが気候風土・時代が支配する価値観を基準として発した言葉ではないでしょう。

      「もちろんそうでしょうが、彼の人生など計り知れません。しかし、ガンジーさんは政治家です。これは確かです。ある為(ため)が有って行為を起こす。政治家の基本的な行動規格です。これも確かです。それらの客観性から、◯◯に従って行動する。という彼の言葉に政治家としての彼らしい言葉を見ただけです。そして無為自然としての相対的な見解として有為を指摘したのです。無為で行動することと、有為で行動することの、先天と後天の違いを示したつもりです。後天的世界はまさしく社会。その政を治めるのが政治です。彼がどのような価値観でその言葉を発したなどわかるはずがありません。彼の経験は膨大であり、そのほんの一部が発露しただけです。その価値観をはかるのは、規格だけで十分です。今回の場合は無為自然と有為という相対性の規格です。それを太極拳を学ぶ中でも、ただ経験していくだけですから、主観的な価値観は相対性を帯びていると言うこともわかるようになります。」

      自然と言う言葉に対して、私は「自然には二通りあると思っています。ひとつは人間を取り巻く環境(物理的自然とでもいいましょうか)であり、もうひとつはと物理的自然の中で生活している人間の行動・思考に関する自然さです」。

      「太極思想では、自然とは自分のありのままと言うことです。漢字のとおりです。物も人も、有機物も無機物も分けていません。難しく考えないことです。字のとおりです。人間の作り出した自然という観念は人間から観た自然という言葉です。相対性で捉えると色々な自然が生まれますが、自然とは絶対的感覚で考えるものです。」

      物理世界における自然は単純。万有引力とエネルギー保存則に支配される世界であり、人々はそれを受け入れなければ生きてゆけないので“ごく自然に受け入れている”。
      もうひとつの自然はあまりにも多様で厄介です。その厄介さを通り越したところにあるであろう自然

      「とてもやっかいですね。無為自然を見つけ出せば全て解決します。考えない感じることです。経験ほど膨大な情報はあるでしょうか?有りません。経験で人間の脳に刻まれた情報は誰も計り知れないほど膨大です。それを思考に取り出し、いくら表現にしても、宇宙にある砂粒くらいの表現しかできずとてつもなく不完全です。人間の認識に浮かぶ観念は、受想行識のうち最後の識だけです。その識の内、後天的な価値観にもとづき全てを判断するしかできません。感じることは、それらを越えた、智慧にアクセスするコミュニケーション能力です。太極拳は徹底的にその部分を制覇します。そして、真の絶対的な自然に到達し、そこにある完全なる無を見つけ出します。還虚という世界です。太極拳という武道の全ての理にある原点ですから、ゆっくりと歩んでいけばそこに到達します。」

      ・・・・・これを求めています。

      「自然が多様ではありません。多様に見えるのはその人が見る自然です。主体と客体があるだけです。自然はただあるがままに、ありのままにそこに存在するだけです。多様はカオスすなわち、陰陽の混沌です。陰陽が分かれ融和するのが太極、その太極は無極から生まれています。無極は太極の母、すなわち多様の親は陰陽であり、そのクリエーターは無極なのです。そこに到達するには、人間の狭い後天的価値観で物事を考えないことです。深い感性の奥にあるものに直接つながる事が必要です。太極拳はそこにつがっていくことができる素晴らしいツールの一つです。経験で多くの智慧を得てください。言葉など何の意味もありません。太極拳には、何千万年かかっても言い切れないほどの経験と実証があります。」

  3. adminさんのコメントから

    「・・・・人間の作り出した自然という観念は人間から観た自然という言葉です。相対性で捉えると色々な自然が生まれますが、自然とは絶対的感覚で考えるものです。」

     人間の作り出した自然という観念(私の言っている物理的自然でない方の自然が対応するとして)は人間から観た自然と言う言葉です。・・・・この人間から観た自然とは何を指しているのでしょうか。

    「・・・・感じることは、それらを越えた、智慧にアクセスするコミュニケーション能力です。・・・・」
     同感です。

    「自然が多様ではありません。多様に見えるのはその人が見る自然です。主体と客体があるだけです。自然はただあるがままに、ありのままにそこに存在するだけです。・・・・」
     ここで主体=人間、客体=物理的自然(地球そのもの)とすると、ただあるがままに存在する自然(地球)を見る見方は多種多様でしょう。adminさんの言っている事は「人間の多様な見方につながっている根っこにあるのが“陰陽が融和する太極”と言う事でしょうか。
    そんなに単純ではないかもしれませんが・・・・。

    地球は常に変化しながら如何様な人間行為を持受け入れ存在し続けるのでしょう。その地球で生きる人間は環境から受ける刺激から勉強し、生活の中に「自然=地球 の在り様・状態や、その猛威・安らぎ等々から」表現するようになった“自然”と言う言葉を様々な形で溶け込ませてきたのではと思います。人口が増え、社会が複雑になると人間が本来持っている何かが見えなくなっている、多分社会が形成される前の大昔の人間も程度の差こそあれ同じようなものであったのではと思っています。

    adminさんの言われる事のほんの一部分しか解っていないと思うのですが、追い追い太極拳を勉強してゆけばもう少し理解が進むものと思っています。

    1. 「・・・・人間の作り出した自然という観念は人間から観た自然という言葉です。相対性で捉えると色々な自然が生まれますが、自然とは絶対的感覚で考えるものです。」

       人間の作り出した自然という観念(私の言っている物理的自然でない方の自然が対応するとして)は人間から観た自然と言う言葉です。・・・・この人間から観た自然とは何を指しているのでしょうか。

      *********何かを指しているのではなく、言葉のままです。これが相対性です。人間というものが、あるもの(人間が自然と概念化・観念化したもの)を見て、自然という概念を作り出した。そして観念を持っている。そういうことです。とてもシンプルなことです。**************************

      「・・・・感じることは、それらを越えた、智慧にアクセスするコミュニケーション能力です。・・・・」
       同感です。

      「自然が多様ではありません。多様に見えるのはその人が見る自然です。主体と客体があるだけです。自然はただあるがままに、ありのままにそこに存在するだけです。・・・・」
       ここで主体=人間、客体=物理的自然(地球そのもの)とすると、ただあるがままに存在する自然(地球)を見る見方は多種多様でしょう。adminさんの言っている事は「人間の多様な見方につながっている根っこにあるのが“陰陽が融和する太極”と言う事でしょうか。
      そんなに単純ではないかもしれませんが・・・・。

      ********現象は全ては陰陽という両儀でまとまります。相対性です。太極はそれがはっきりと分かれ融和した状態です。陰陽不二、陰陽和合・・太極をまず目指して太極拳を修練します。その先には無極があります。**********************

      地球は常に変化しながら如何様な人間行為を持受け入れ存在し続けるのでしょう。
      *********それはわかることもありません。***************

      その地球で生きる人間は環境から受ける刺激から勉強し、
      ********刺激はその個人の受けるものです。ですから勉強も千差万別ですし、勉強するとも限りません。*****

      生活の中に「自然=地球 の在り様・状態や、その猛威・安らぎ等々から」表現するようになった“自然”と言う言葉を様々な形で溶け込ませてきたのではと思います。
      *******それも人それぞれです。*******

      人口が増え、社会が複雑になると人間が本来持っている何かが見えなくなっている、
      *******そんな理由だけではないと思いますよ。****************

      多分社会が形成される前の大昔の人間も程度の差こそあれ同じようなものであったのではと思っています。
      ***************そんなものも、わから無いと思いますが?色々と考えることも楽しいですが、結局、その当事者は膨大な経験の内で生きていますから、それをはかるのは誰もできません。それよりも自分という、自分で内観と弁証をしっかりできる対象に目を向けるべきです。その当事者と同じ人間であるのですから。又森羅万象の一部でその一体でもあります。結局、このような遠い客体に目を向けるのは、主体であるあなたです。このところをよく観じながら太極拳を修行されることをお勧めします。これが太極を思い出すための第一歩です。*********

      adminさんの言われる事のほんの一部分しか解っていないと思うのですが、追い追い太極拳を勉強してゆけばもう少し理解が進むものと思っています。
      ***************私のいおうとしていることはとても単純です。ありのまま、あるがまま、無為自然に、何があっても消え去ることがない楽しく気持ち良くです。全て遊戯三昧(http://www.masawaka.com/?p=147 )、太極拳の極意です。*************

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