太極拳の用意不用力の『意』は『意念』だと教えられたのですが?

意念ですか?全く違います。意は意です。心の働きですから厳密には心意の内の「意」です。意だけでも『心』という意味がありますが、意の場合は働きの方をさします。太極思想においては、無為自然ですから念があると有為になります。

念は中国語では、「思う,気にかける,懐かしく思う,何度も思い起こす,忘れられない」などの意味です。日本語でも、それを少し強く意識するくらいで意味は変わりません。
虚霊頂勁は無念無想の意味です。「頂勁」頭の頂上の勁、すなわち心は、無念無想「虚霊」にしてと言っているのです。
意念で太極拳を行う事は全く逆の事を行う事になります。
武道は無念無想が常です。思うな!考えるな!です。ブルースリーのDon’t thinkです。
意識や意念は有為です。
無念無想の太極拳の用意不用力は、実際に経験してみないとそうたやすくわかるものではありません。
宮本武蔵も、柳生も、「弓と禅」の師も、すべて無念無想を目指しました。
思う、強く思うという「念」の力は、強い有為の力です。認識という認め識別する力も、強い有為の力です。
強い力を鍛え、念じることを鍛え、意識を強めて行うことは太極拳ではありません。
用意不用力、いかに無念無想にて、無為自然の心と意により、無念無想に勢を運ぶことができるのかそれに尽きます。
意念だと教えられたのであれば、それでいいと思いますが、少なくともこちらの太極拳の心構えとは全く逆です。
念力と言うほど、念は力であるのです。
王宗岳の太極拳論の末尾を示しますので、よくこのことを考えてみてください。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、學者不可不詳辨焉!是為論。
「本来は、心を無にして相手の出方に応じるべきものだが、多くの人は誤って近きをすて、遠きを求めている。心構えのわずかな差が、修練に千里の隔りをもたらす。太極拳を学ぶ者は、このことをしっかりわきまえなければならない。」

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