柔らかくなろうとする堅さ。リラックスしようとする緊張。

 例えば柔らかい。または、膨らむ。形が自由に変化するなどなど、このようなものは何かの性質を言い表したものです。
私の知っている太極拳はこのような性質をとらえることはしません。
柔らかく動く、水のように流れる、または形を変える、風船のように膨らみ縮むなどは、全て太極拳に現れる一つの性質です。このように、柔らかい動きを求める事、膨らむこと、形が自由に変化することなどの性質を意識すること自体、私の知っている太極拳の場合は双重の病として考えます。
双重とは、双方が重いと言うことです。言うなれば膠着状態です。
例えば太極拳の十訣もそうです。1・沈肩垂肘(沈肩墜肘) (ちんけんすいちゅう)2・含胸抜背 (がんきょうばっぱい)3・虚靈頂勁 (きょれいちょうけい)4・鬆腰胯 (しょうようこ)5・分虚實 (ぶんきょじつ)6・上下相隨 (じょうげそうずい)7・用意不用力 (よういふようりょく)8・内外相合 (ないがいそうごう)9・相連不断 (いきそうれん)10・動中求靜 (どうちゅうきゅうせい)
これはこれが必要と言うことでは無く、自然とこのようになるだけのことで、私の知っている太極拳を熟練した結果のことです。この十訣を意識的に拘ろうとすれば、すなわちそこに留まろうとするわけですから、これが双重の病なのです。もともと十訣としているところから間違いが始まっているのです。
リラックスを意識すること自体が緊張であり、柔らかさを意識すること自体が堅さであると言うことを理解する事が私の知っている太極拳の始まりです。
リラックスしようという緊張が体の表面の動きを柔らかく保とうとするのです。例えば、体の筋肉を細かく鍛えて、その細かい動きができる筋肉を駆使して柔らかい動きができると、ヒップホップダンスなどをうまく踊れるようになります。ダンスとしてはいいかもしれませんが、このような柔らさに拘ることができるダンスは、筋肉は衰えますので、若いうちだけであることはあたりまえのことです。バレエやEXILEなどのダンスがそうです。このように、パフォーマーやアスリートとして常人より卓越するのもいいでしょうが、この拘りこそが一般的なアスリートへの道なのです。

 一般的な功夫もそうです。鍛える人、どこに拘り鍛えるかが功夫です。
例えば、私の知っている形意拳は、意をもって形をなす形に拘りました。形は壊れるものです。私の知っている八卦掌は勢いのディテールに起こる変化(八卦)に拘りました。変化はディテールだけでは無く、源からディテールまでに起こるものです。私の知っている少林拳は、拳術に必要な身体能力の増強に拘りました。太極拳の祖であるとされている張三豊は、この武術に見切りを付け武当山で内家拳法を興しました。私の知っている陳式太極拳と呼ばれている武術は、勢いが軟らかさや豪快さなどとして表面に現れる発勁と蓄勁に拘りました。本来は勢いが起こす蓄勁や発勁は心身の奥深くで無限に発生しています(暗勁)。それが表面に現れた明勁にこだわると、眼に見えた動きが癖になります。マニュアルとして備えるためには、多くの動きを学ぶことになりますが、これもマニュアルに留まります。
そして、私の知っている現在の楊式太極拳もただ軟らかさや流暢さに拘っているものがほとんどです。私の知っている太極拳と呼ばれている多くの流派の内でも、身体の運用と実戦的側面にこだわったものや、呼吸との調和を重視したもの、太極拳の勢いの内、水勢が起こす水の性質だけに拘りその拘りを身体でうねるように表現するものなど、流派によって色々あります。身体の運用に拘ると身体の条件に左右され、呼吸に拘ると呼吸に左右され、水の性に拘ると水の性質に左右されます。また勢いであっても開合勢だけに拘ったり、快速な活歩を特徴としたり、気を合わせるや、内功だけに拘るのもすなわち癖なのです。そのような性に囚われることになります。
しかし、柔らかい、うねるような、また、剛力な、発勁の現れ、流れるような変化など、その一つに拘っているからこそ、その流派の特徴が有るようです。癖の積み重ねで独自のテリトリーを造り上げていくのです。多くの私の知っている中国武術が独自の拘りにおいて、その必要性と場面にて歴史において表面に出てきました。多くの場合、そこから、健康的な幸福な状況が生まれるとは言いがたいものです。孤高の太極拳の高手、陳炎林氏も、太極拳の集大成とも言える素晴らしい書籍を出版しながら、太極拳家は当然ながら一切の武術家と徹底して付き合いをしませんでした。一般的な太極拳の歴史に一切名が出てきませんが、彼の強烈な太極拳は、当時の上海で裏世界にいたもの、また上海の日本軍などには響き渡っていました。私の祖父もそれを知る一人です。

 太極とは、大きな手で水を掬うように、陰陽両極の果てまで受け入れる姿です。すなわち端の端まで全て受け入れるのです。何でもありなのです。ありのままにあたりまえにただ動き鎮まるのです。それが太極ということなのです。

王宗岳が書き残した太極拳論は、太極拳の理論です。すなわちこの時代にすでに太極拳という名前があったのです。どこの誰がどのようにこじつけようが、これが事実です。太極拳という名を拳術に付けたのは、楊氏でも無く、陳氏でもありません、この人です。太極拳を法として備える、すなわち、その実際として行うのが太極拳法であり、内家拳法を太極拳法と名付けたことから、この時代に太極拳が名付けられたのです。すなわち、太極拳とは、太極拳論にある、深遠な太極思想を読み解き、無極から太極までの理合が法として現れるものが私の知っている太極拳なのです。難しい話をしているかも知れませんが、この世の中の変化「易」はすべてこの陰陽によって変化し、それを解決する太極と、その源による無極、すなわち、あるもない、ないもあるという全てに留まることのない世界なのです。
このように、どのようなものにも留まらない、拘らないのが私の知っている太極拳なのです。
拘りは言うなれば癖です。性(さが)といってもいいでしょう。そのような性が有るかぎり、そのくせや性が他のものより特化して研ぎ澄まされ、その世界に引き込むことができれば、相手に勝ります。
例えば、柔道のオリンピック選手に柔道で挑めば負けてしまいます。剣道の高段者に剣道で挑むのがおかしいのです。あることに拘っている武術なら、その世界に引き込めないと相手に勝ることなどできません。
例えば太極拳の練習法としてある推手は、一定の軌道で一定の動作をします。その世界に相手を引き込み、その中で自分の得意とする拘りの技を繰り出せばいいのです。相手を推手に固定しておいて、その技をふいに出せば柔道選手にも元横綱にも勝てます(実証済みです)。しかし、自由な散手であるとか、推手の軌道を外して技をかけるよと言ってしまえば、それなりの武術家はそれにかかりません。推手をやるという宣言が「みそ」なのです。推手は、一定の動きをさせることを前提としているからです。その一定の動きが分かっているので、いとも簡単に相手を飛ばしたりする技をかけることができます。近代の太極拳の推手を表演している人たちがこのような騙しをしているのをよく見かけますが、このようにすることで、自らの研ぎ澄ました癖(技)が優位であることを表現するのです。推手は決められた軌道上に起こる、基本功を練るものですから、推手をやっているつもりになっているときに技をかけられれば、たまったものではありません。私の知っている太極拳も高手になると、このような変化はイレギュラーな圧力であると聴勁しますから、自然とその圧力に陰陽の反応が起こり、その圧力のある場所にはもういません。すなわち、飛ばされるどころか、相手の圧力が相手に巡ることになります。これが太極なのです。しかし、ほとんどの場合は知らず知らずのうちに飛ばされてしまいます。推手で投げ飛ばされたと錯覚するでしょう。違います。単に決められた軌道上に手を出して、あたりまえに技をかけられたのです。技を教えれば、今日始めた人もできます。このことは次回に詳しくご紹介します。
太極拳は癖を全て捨て去り、人間という癖さえも捨てた上で(四正四隅=時空)すなわち、己を捨て、その上に人間にあるあらゆる癖や性(五行)すなわち人に従うを使用する武道です。
太極拳はただ太極であると言うことです。太極拳ですからこの留まらない流転のみがあります。水とて溜めれば留まります。そうではないのです。この理合と太極拳が一致しない限り太極拳では無いはずです。太極拳と呼ぶのは自由ですが、太極拳であるというなら、太極という理合をしっかり自分の中に見つけて、その根源にある無為自然に立ち戻ることを目指してほしいものです。

 陳炎林氏の「太極拳刀劍桿散手合編」の論勁の項に記された文言です。
原文「勁與力。在未學拳擊之時。固無從分別。但已學拳擊。不可不分析了然。嘗見學習武藝數年之久者。仍莫明所以。殊屬憾事。須知力。由於骨。陷於肩背。而不能發。勁由於筋能發。且可達於四肢。力為有形。勁則無形。力方而勁圓。力澀而勁暢。力遲而勁速。力散而勁聚。力浮而勁沉。力鈍而勁銳。此力與勁不同也。」
「勁と力。拳撃を学んでいないときは、何の区別もない。しかし、拳撃を学んだなら、分析してはっきりと分かっておかなければならない。武芸を数年も習っているにも関わらず、まだまだ明らかになっていない人もよく見かけるが、誠に遺憾なことである。
力を知るべきである。(力は)骨に由り肩背に陥没して、発することができない。拳は筋に由り発し、四肢に達することができる。力は有形であり、勁はすなわち無形。力は方であり、勁は円である。力は渋り、勁は暢やかである。力は遅く勁は早い。力は散じて、勁はその場その場に集まる(聚)。力は浮き勁は沈む。力は鈍く勁は鋭い。このように力と勁は同じではない。」
このように、結果としての勁も四肢に達し、無形で、円転し暢やかに、その場その場に集まり(聚)、重力に随い沈み、矢のように走る鋭さを持っている。これが太極の勁の性質なのです。だからといってこうで無いといけないのではなく、太極拳であればこうなると言うことなのです。
円転で留まらないという太極の性質だけがあるのです。太極拳はただ太極であり、これは万物の生成を全て含むだけのことです。
全て含む、また全て含まないのですから、流転するのです。この理合がこのような勁として現れるのです。そして、これはただ勁だけの話です。

 王宗岳の太極拳論の最後には「「本是捨己従人、多誤捨近求遠。」と記されています。
「本来、己を捨てて人に従うであるべき筈なのに、多くの人は近くを捨てて遠くを求めるという過ちを犯している。」
ということです。太極拳の技は己を捨てて本来の無為自然に戻ってから身につくものです。技を身につけるために、ある癖(性)を反復練習し身につけても、その癖に長けただけであり、そのくせが使用できるときにしか役に立ちません。例えば推手などと称して、相手の動きを固定するなどをしてです。
今まで多くの人に太極拳を教えてきました。空手や柔道、多くの拳法、そしてアスリートなどがやってきましたが、その努力で造り上げた癖は相当な実力です。それを一度捨てないと、その癖の範疇に相手を引き込むことで勝るしか有りません。多くの癖を身につければ、多くの事に対応でき、また新たな癖を身につける楽しみも生まれます。だから、いつまでも、その癖を身につけるための反復練習に明け暮れ、その癖の世界で長けようとするのです。その癖を忘れるまで苦労するので多くの人が去って行きました。何も知らない全くの初心者が、彼らよりも強くなってしまうのです。心身も癖に応じて色々な障害が起こります。しかし、その癖を捨てることができて、本来の無為自然を思いだしたものは、癖というものがどのような事かを身をもって経験できたので、何も知らないで太極拳を始めたものが知らない世界を知っていますから、その時には一挙に神明に達します。もちろん武術経験のない人にも拘りとはどのようなものかを、日常生活などを参考にして教えますから、その相対的な理解もありますが、武道経験者は武道としてその違いを経験できることになります。癖を捨てるのに苦労しますが、癖がないすがすがしさは、あれこれでいいのかというような爽やかさです。軽やかで、少ない力で滑るように全てが変化します。一度癖のない自然な状態を思い出せば、これが本来の自分の能力ですから、自転車を乗るように忘れることはありません。あたりまえです。なにも意図せずとも自然に、生死の境に無意識に近いあたりまえにおいて癖や意識にとらわれず身を守れます。

 太極拳は、まず無為自然に戻り、人間の潜在能力だけで無く、自然に存在する能力をも思い出すためのものです。だから癖の現れない、十三勢という時空と現実の太極だけで動くことができるように套路という緩やかな練習を行うのです。だから自然な生命力が思い出された養生となるのです。
私の知っている太極拳は、人間ならあたりまえに存在する能力を使うだけです。癖は無意識の拘りです。性(さが)です。万物の生成である太極という理で生きて死ぬ人間のありのまま全てをあたりまえに発揮するのです。その中で自分が拘るくせに依存し続ける限りは、その近きを捨てたと言うことです。
己を捨てる。そこに始めて無為自然があります。その太極で人に従うことができれば、どのような人も自分の一部です。沾粘で貼り付き粘り、それにより随い連なり、自分と一体になれば走らせることも化すこともなすがままです。
くせは独りよがりです。すなわち己のたまものです。このようなことに見切りを付け武当山で内家拳法という武道を起こしたのが張三豊であり、道教の根底にある太極理論との整合性を極めた拳法が太極拳法であり、それを論じたのが王宗岳のこの太極拳論なのです。

(以上は、当門の門下のために私の知っている太極拳について解説したものです。門下以外の方でご意見がある場合は、是非お知らせ下さい。深い議論を交わすことを望みます。もちろん責任ある批判も否定も大歓迎です。それで、太極拳について話し合うことができれば楽しい限りです。但し、議論を最後まで行う事を目的とし、ただ暴言を吐くだけで去って行ったり、何らかのたんなる強迫はどうしようも無いのでおやめ下さい。
また、この内容に不満や不都合があって、このサイトやサーバーに対する破壊工作を行うなどは卑劣であり、不満や不都合があるなら、是非、ここにコメントにて意見を述べて下さい。しっかりと議論させていただきます。
私の知っている素晴らしい太極拳が、私が知っている真の姿を取り戻し、メソッドとして世の人々に行き渡り、多くの人がただ無為に自然にしているだけで幸せで生命に溢れて強靭であることを思い出すことができるように願っているだけです。これもただ、私が知っているということだけで、これが完全に正しいなど知りません。ただ自分では間違っているところが見当たらないだけです。だから、間違っていると思われるところを見つけ出していただき、ぜひご指摘ください。言葉は不完全な表現方法ですが、より詳しい説明で真意がご理解いただけるものと思っています。以上です。)

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