歴史5:王師は戦後の中国から逃れ日本へ

その後、1939年〜1945年の第二次世界大戦後急激に他の武術メッカと同じく、武当山へも弾圧が強まります。その時に40才を超えていて武当山で太極拳の指導者であった王師は不穏な動きを察して、知り合った日本社会の裏世界の人間の紹介で、混乱期にすぐに神戸にやってきたということです。

そこで、大阪で老舗任侠団体の組織の代貸であった私の祖父や、神戸の裏組織などと懇意になり、特に大阪では私の祖父には恩を受けたと王師はいっていました。私の祖父は戦後に大阪難波を中心に縄張りを広め、大阪歌舞伎座などでプロレスなどの興業を仕切っていた人物です。その時に、王氏の実戦的太極拳はとても役に立つと言って、色々と一緒に仕事をさせてもらったと王師から聞いていました。中国人が日本で生きていくのは大変だったと言うことですが、戦後の裏社会もいかに縄張りを広げるかというときに、又興業や博打場や遊郭などを持つ祖父の組織の用心棒的存在として、徒手武術の秀でる高手の力を借りたのもその当時なら当然のことでしょう。

それからすぐに、1949年に中国では「社会主義革命」が起こり「中華人民共和国」が成立します。

中華人民共和国成立と同時に、主席の毛沢東は「新民主主義的国民体育」として、国防、生産、労働に役立つ、大衆的な体育を展開して人民の健康を増進することを重要課題として、それを基盤として全面的な共産主義社会を実現することを提唱し、国家体育運動委員会が設立されて、様々な改革を積極的に行ってきました。そして、共産主義社会を実現するにあたり、民衆の武術蜂起でことごとく痛手を被ってきた歴史もあり、一つの州でも100や200も門派がある驚くべき民衆武術の底辺にある武術を、いかに抑制消滅さえるかということが命題でした。そこで、中華人民共和国成立の翌年すぐに、政府による武術工作会議が開かれました。そこで毛沢東らは、中国にまだ残っている伝統武術を管理統制できない「武術」から管理統制の容易で殺傷能力のない「スポーツ」へと転換されることこととしました。

中華人民共和国成立と同時に、少林門などの外家拳と、太極拳などの武当門などを中心に全国の武術を中国国民党で統制管理していた南京中央国術館が消滅します。この時既に楊澄甫は病死しており楊家の太極拳はすでに終結していまました。ただ、近代になって楊澄甫の子だといわれる楊守中などが套路を覚えて表演して、楊家四代目だと表明していますが楊澄甫は子には太極拳を教えていないといわれています。ただ多くのものに国術館で套路を教えたため、多くのものが伝承者であると名乗っていますが、楊澄甫は国術館の実務や折衝に追われていたのでほとんど教える時間はありませんでした。そして、陳家太極拳の17代目 陳発科は62才で、子の18代目陳照旭は40才でした。陳照旭は社会主義革命の中、右派に傾きますが、1960年に収容施設の脱獄に失敗し射殺されました。ここで陳家太極拳といわれるものは消滅したように思われますが、陳家溝がその伝統的名称を引き継いでいるものだと思われます。

そして、国家体育運動委員会は楊家の套路を元にして、体操化して過渡式などを除いた「楊式太極拳88式」や、1954 年に「簡化太極拳」を発表して、正式にそれを1956年8月に「国家制定拳」として発表しました。
この国策で、すべての伝統武術を、套路はもとより、武器などの技法も全て表演化して、基本功を体操化し伝統拳として再編成しました。この時伝統拳として制定された太極拳は陳家太極拳/楊式太極拳/呉式太極拳/武式太極拳/孫式太極拳/鄭子太極拳で、このように太極拳を始めすべての中国拳術は「表演競技」として行なわれるようになり、散打は武術性が高いということで禁止されて、拳術、器械、対練、集団演武を競技スポーツの正式種目としました。そこから徹底して武術のスポーツ化が進められます。

(注釈:現在の中国の武術は体操という意味に近いのは、こちらの参考映像「リンクが切れているようです。また見つかりましたらご紹介します」をみれば明かです。)

王師は、いち早くこのような状況になることを予測して国外に退去したため、後に起こる1965年文化大革命による武当山や少林寺に残存する真の武術家の大虐殺からは逃れることができました。伝統太極拳は前述のとおり国策に協力して伝統拳と呼ばれ保護されることになり迫害を免れましたが、武術のスポーツ化に協力をしなかった、又はあまりにも武術性が高く殺傷能力を持つような徒手武術は根絶する以外にないという考えが大多数になりました。最後まで討論したそうですが、義和団や武当山の武術を見て恐ろしくなり、根絶することに決定したといわれています。そしてこの文化大革命の終結の1976年までの間の12年間に、武当山の太極拳の高手などを含む多くの友人が殺害され、武当山の太極拳は中国においては壊滅したと言っていました。武術家を含む全ての中国人で最大3000万人が殺されました。

武当山における武術太極拳は、義和団などが逃げ込んでいることでも知られ、又その源流であることもあり、そこにある武術は、戦場における殺傷技術の要素が非常に強いものと認識されていました。今までの王朝が倒されたときや、義和団の乱の時のように、武術は徒手格闘の軍事技術としての性質が濃厚であり、特に武当派の武術は文聖拳が義和拳と名乗っていたことからも共産党にとってはスポーツ化するなどではとても手に負えない存在でした。

ただ戦後にいち早く将来を予測して国外に逃げた武当山の太極拳の高手は、世界中でその武術を活かして華僑の人たちを守る要となって生き抜いたといっていました。もちろん王師もそうでした。その人達は年齢的に武当山でも流行った楊澄甫の85式の套路を行うため、すぐに武当派であることがわかるそうです。又その套路も武当山伝統の過渡式や運歩法などを備えているので、楊家の85式と比べると見る人が見れば違いがわかるといいます。

このように、武当派の太極拳はかろうじて海外に生き延びたものによって伝承されたのでした。このようなすさまじい中国の歴史ですが文化大革命は、日本人が高度成長時代に沸き立つ時代のまっただ中のつい最近の事なのです。

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