相対するものを知る太極拳

強弱とは単に相対するものです。

強弱とは単に相対するものです。
左と右、上と下、女と男などと同じように性質として考えるのが太極拳です。
強いから良い、弱いから悪いのではありません。

強いところはどこか、弱いところはどこかそれを知ります。
何に強いのか、何に弱いのかそれを知ります。

よく観察すると、強いところには弱いものが混在しています。
そして弱いところには強いものが混在しています。

それが太極と呼ばれる混沌とした状態です。

太極拳の強い発勁の発動には、相手の強い反動を吸収できる弱い部分が必要です。
例えば太極拳の発勁による掌などは、相手の身体に当たったときは弱く柔らかく、内部に浸透して行くにつれその弱さが強さに変化し、相手の固い表面は弱く変化していくことで、内部まで食い込み発勁が爆発します。

人生においても楽しいとは、強いことと弱いことのお互いが受け入れあっていることです。
男性と女性、上と下、右と左、善と悪、このように考えると色々と見えてくるものです。

太極拳はこのような融合理論を、攻防という一体の理論の中にも見いだしています。

それを実際に心身の動きとして修練するのが太極拳です。

心も体も、強くて弱い。ある免疫が強すぎるとアレルギー体質になり、又弱すぎるとガンが育つのは、強さと弱さのバランスが崩れているのです。

例えば、文武が一体となると色々な事が楽になってきます。呼吸においても文息と武息といって緩やかな呼吸と意識的な強い呼吸がバランスを保っているときが、最も充実した状態です。

文とは理解であり、己を知ることです。武とは運動であり、己を発することです。
その二つのものが一体になったものが武道です。

武道の高手になると武と道の双方に高手になります。当然のことです。

右の高手は左の高手。男の高手は女の高手。悪の高手は善の高手、これはキリスト教の愛の概念の一部です。

太極拳はこのように、日常の散歩においても、人間関係においても、山で修行するにおいても、生きていくことにおいても、全てにおいて太極であることを見つけていく武道です。

強さに偏ろうが、弱さに偏ろうが、武に偏ろうが、文に偏ろうが、そうなると片方を求めたり、又それに対した無理が生まれるのです。

男に偏るのも、女に偏るのも同じです。

偏ると身体も弱り、無理が生まれ、又弱まるという螺旋の下降を生みます。

努力に逃げることも、無理をすることもせず、現実の中でしっかりと相対するものを見つめていくことだけで、武道としての太極拳の仕組みが見えてくるはずです。

太極拳は虚実、陰陽を見つめて知り尽くしていくことから始まると言っていいでしょう。

このような太極拳であるからこそ、生きていく中で大いに役立ちます。

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