胡蝶の夢

胡蝶の夢は、道教の始祖の1人とされる荘子による有名な説話です。

巨匠フランシスコッポラがこの説話をモチーフにした文学作品から映画を造り上げました。

私も見ましたが、その思想がよく表されています。

胡蝶の夢は、荘子が夢の中で蝶として、楽しくおおらかに飛んでいたところ、目が覚めたら人間に戻っていた。人間としての私が、蝶になった夢をみていたのか、それとも今の私が蝶が見ている夢なのかという説話でです。

太極拳では無為自然を教えます。

無為自然と考えたとき「あるがまま」と言う言葉がまず浮かびます。

あるがままは意識が覚醒しているときであれ、またリラックスしているときであれ、もっと言うと寝ているときであれ、もっと言うと、形而上的な世界、私たちの知らない世界においてもあるがままなのです。

ですから、寝ているときに意識する世界、すなわち夢です。これは現実では無いのか?
また、目が覚めているときが意識する世界、これが果たして現実なのか?

夢と現実をわけるのは、実は私たちの単なる意識レベルに過ぎないのです。

意識レベルの程度によって、自分の世界が変わっている。そう考えると、どちらも私たちが生きている世界であり、その分化は夢とうつつという一つの区切りなのです。

太極拳の無為自然は、ただあるがままではなく、その分化するものは単なる人間の認識だけの問題であり、その認識も有為と捉えます。すなわち意識も有為となるのです。

荘子の胡蝶の夢は,全てのものは同じ。一切斉同という考えです。太極拳の融合も、虚実も陰陽も強弱も左右も上下も全て同じであり、融合していると捉えています。そしてそれを分ける事ができるということです。
融合していて同じものであるとして、それを分けることができるということで、技が使えます。

仏陀の遊戯三昧。あらゆる世界でただ遊び戯れるだけという、荘子の逍遥遊と同じであり、夢であろうが現実であろうが、生きているときの一瞬として何ら変わりが無いと考えるのです。

そう考えると、どのような境遇にあろうが、また意識がどのようなレベルであろうが、また、今がどのようなときであろうが、夢の中にいようが、それが生きているという一瞬なのであり、そのどれにも区切りなど無く同じものというふうに捉えます。

夢の中にいるときさえ生きている時間である。よく考えると当たり前ですね。
現実逃避で、酒の世界に浸る。薬の世界に浸る。しかしそれも、現実であり、生きているのです。
酒を飲もうが薬をやろうが、覚めた世界が夢で、その夢は苦しいから、早く夢から覚めたいとして,薬と酒をまた飲む。同じことですね。
夢の世界が楽しければ、起きているときもその夢の中にも戻ろうとします。現実から逃れるために。現実は夢だと思うことで、夢なんだから現実では無いと安心しようとします。しかしそれは無理です。

夢も現実も区切りが無い。それが真実ですから、そのように真実を捉えると、夢も現実も同じものになり、自由になります。どちらが夢でも現実でも良いのです。

どちらかが苦しい、それは現実ではないと思っても,人生の一瞬です。夢を描いてその夢が達成できないとして,その夢が苦しくても、その夢から逃れても捨てても,それは夢では無く現実と同じなのです。

思っていることが現実として起こるなら現実。思っていることが夢の中にあっても現実なのです。

意識レベルでどう捉えていて、他のものへどのように影響を及ぼしていくかと言うことも、全て価値判断で行われるだけです。

ある人が夢を思うだけで、その人の行動も変わるでしょう。またある人が夢を実現しても、その人の行動は変わるでしょう。そしてそれを受ける環境も同じように変化はあるでしょう。

目で見える世界と、意識の世界が人の世界を形成しています。

胡蝶の夢はその経験を私たちに伝える説話です。荘子がとても現実的に生きる世界を感じます。

コッポラの胡蝶の夢は,雷に当たって若さと能力を手に入れて夢のような世界で生きていく男性は、それが夢であろうが、うつつであろうが、また雷に打たれる前の老人と、また老人に戻った自分の時が、夢であろうがうつつであろうが、どちらも自分の生きていた瞬間であるとしてこの荘子の感覚を捉えながら終わっていきます。
エンドロールが無いというめずらしい終わり方であり、人の人生の終わりを暗示するような終演でした。

無為自然・一切斉同・逍遥遊、夢とうつつさえの区別も無い、より極めると生と死の区別もない、有為や条件に縛られない自然で自由奔放な境地です。

善と悪、是と非、生と死、左右大小、美醜、苦楽、生滅、清汚など、世の中にまた自意識に見えるものは全て相対性(両儀相対)であり、人間の認識が生み出した世界であり、それを絶対と感じるところに苦しみがあり、またそれが見せかけであることを知らないと惑わされるのです。

太極拳のゆっくりゆっくりとした套路は,存思(瞑想)の世界へ誘います。
そこで得る変性意識は夢うつつの同化した世界です。

その世界は生死の境とよく似ています。その感覚を思い出すと、人生も太極拳ももちろん一変します。
虚の時が夢なのか、実の時が現実なのか?その双方が同じものであると感じたとき。
陰陽和合の太極拳の技は完成しています。

このコンテンツはサイトメンバーに限定されています。 あなたが既存のユーザであれば、ログインしてください。新しいユーザは以下のように無料で登録することができます。

既存ユーザのログイン

CAPTCHA


17 − 8 =

   
新規ユーザー登録
*必須項目