道を楽しむ

 世間には、色々な常識があります。
古くから続くもの、宗教の常識。科学の常識。武道の常識。などなど。

しかし「道」には常識がありません。
「道」には常識が無いから、道なのです。

常識とは辞書のとおり「ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断。」ということです。
ですから「道」の常識と説く時点で、おかしな話になります。

その常識に縛られてしまうと、「道」から遠ざかります。
しかし「道」の常識を知識として構成していると、あたかも「道」を説いているようにも見えます。

この違いが、「道」と合一して生きているのか。「道」を常識をよく知っているだけかの大きな違いなのです。
道家という社会でのみ、その人々に承認され、当然持っているはずの知識や判断。これが教えと称され、それ以外の人にはわからないだろうとなるのです。交わることも無いという風にしてその常識を秘伝などとして示します。老子もそれを嘆いているぐらいです。

「道」の知識を知れば知るほど、その経典にしがみつき、その内容を抽象的にひけびらかします。
そしてそれが道の考え方であり、常識であると人に伝えていきます。

しかし、よく考えてみますと。道には常識が無いのです。
もっと考えていくと、道は伝えるものでも無いのです。教えでも無いのです。

道とはその社会も、常識も構成できないものであり、それを包括するものであることは老子が言っていることです。
私もそう思います。

道とはすでにあり、それと合一しているのが全ての森羅万象です。
その道と合一なのかを自覚するか、自覚しないか。また、その道を主として生きているのか、主としていないのか。
自覚して主として生きている人を道と合一して生きている人。そう言うのです。

「道」の世界は「道楽」という言葉に最も表れています。

「道」をただ楽しんでいるのです。この社会にある諸行無常の森羅万象の現象も全て「道」の中にあるのです。

道楽は一般の人に理解しがたい境地などではありません。理解しがたき境地を老子は説いているのでしょうか?
そうではありません。心から無常で無く楽しく生きていれば道楽なのです。

太極拳は道楽を地でいく武道です。

道楽とは別に好きなことをして生計を立てると言うことでもありません。これは、もとの意味が忘れ去られ一般的な世俗語として定着しただけです。

道楽とは道を楽しむ。ただそれだけのことです。
道とは無為自然、それを楽しいと思える、純粋なかわいらしい境地です。

太極拳の勢や技がただ気持ちよくておおらかに、いうなれば楽しく動く。この道楽を思い出します。
人生も同じ、ただ生きているだけで、おおらかであり気持ちよくて楽しい。汗が出ようが、努力しようが、涙が流れようが、一生懸命苦労しても、そして苦しいことがあっても、そして悩んだり考えたりしても、全ては道の中で楽しんでいるのだと見えてくるのが人生の悟りです。
太極拳も、色々な技を繰り返しながら、その悟りの境地に向かっていきます。

全てが道の中であり、もちろんそれを楽しめる。これが道楽です。

諸行無常の世俗にあふれる人の人情も全て、道と共にあります。
この人間として生まれてこの諸行無常の社会に生きる全てのことがあるからこそ、そこで、それらにとらわれず、自由気ままな境地に遊ぶことができるのが「道」の価値観です。その現実生活の中の考えも道の中にあり、交わるどころか合一であるのですから、考えが似て来ることも交わることも無いというのは本末転倒になってしまいます。私たちが知る「道」は人生における全てが「道」と合一であり、その価値観も考えも全て包括して生きていけるものです。

そのような排他的な、また差別的な「道」を私たちは知りません。
「道」を学ぶものが何も特別ではありません。太極拳を学ぶものが何も特別ではありません。

「道」も太極拳も、生きている中にあるのです。一般社会も道家の社会も、武家も何も関係ありません。

「道」も太極拳もこの一般社会の価値観も考えも全て含んで、森羅万象と融合して、生きていくからあるのです。

道楽。「道」を楽しむ。これはただ人生を楽しむことです。
道楽。太極拳も武の道として楽しむことです。武の道。武は人生の一コマに過ぎません。そして人生の全てでもあります。

太極拳は「道」と共にあります。人生も「道」と共にあります。
太極拳を学ぶものは、全ての諸行無常、陰も陽も、虚実も、苦しみも嘆きも、どのような考えも価値観も全て和合できることを知ることとなります。
それが「道」の力なのです。それで、太極拳は武道になるのです。

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