私の師がしきりに同じ流れから派生した拳法だといっていた文聖拳というものがあります。文聖拳はは17世紀中葉の明末、清朝の初期の時期に劉奉天(1617―1689)を創始として起源します。彼は元々は武当山で幼少から修行道家として張三豐の内家拳を修行していましたが、思想が孔子(文聖)の儒教に傾き始めその思想を元に文聖拳を興しました。張三豐の内家拳が少林寺の禅宗から袂を分かち道教で育ち、又その中から、袂を分かち文聖拳に育っていったのも理解ができます。… 続きを読む
歴史4:王師が楊式太極拳を武当山で修行
楊家太極拳の楊露禅は1840年ごろ、40才を過ぎて北京で王朝の武術指南役となりますが、優雅な生活の長い王朝の中では、武術のような鍛錬を好むものは少なく、彼自身も思う存分練習もできないため、絶えず武当山へ修行のためと称して入山していました。
武当山の太極拳法(武当派太極拳)の套路は多種多様有り複雑ですが、楊露禅は貴族達に教えるために108式を採用または整理し、(同時期に武当山でも武当太極拳として108式を套路としてよく行っており、現在も武当山で伝承されています。武当山と楊露禅は同じ套路をこの時点では行っていたことは事実です。)そしてその套路は子らに受け継がれ楊澄甫が85式の大架式を整理して、貴族達でも練習を楽しめる套路として王朝や貴族に教えていました。… 続きを読む
中国の禁武政策
- 589年-960年の隋唐五代の371年間隋末の農民大決起(農民一揆)により、これを鎮圧できなかった煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われていました。618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及兄弟らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺されてしまい隋は滅んでしまいます。そこで618年5月、煬帝が殺されたと知ると李淵がこの一揆を鎮圧して、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となり。新たに唐王朝を興しました。この時に李淵がとった政策が、隋を滅ぼす要因になった民間武術を廃絶すると云うものでした。そして、唐の後の五代までこの政策は、続く事になるのです。
神(しん)
かみとは読まずしんと読みます。
道教における三宝(神・気・精を天・地・人。天は一となり、地は二となり、 人. は三となる道教思想です)
従って、神に近いかもしれませんが、もっと自然的に森羅万象の存在そのものの理由のようなものであり、自然意思又は純粋意思みたいなものです。
無意識の奥底にある、人間以前の全てのものすなわち森羅万象との一体感と、その活力みたいなものです。
無為自然において,完全なる無によって全てとつながっている強い意思的感覚とでもいいましょうか、到底言葉では言い表せないものですが、人間として天と地の間に存在する時、天と地と一体になった感覚が、三位一体的な,道教でいうと三宝合一的な状態です。… 続きを読む
太極拳の源流
精
精は精神、神経、肉体、生理全てを含む人間の生命体の仕組み全てです。かたち有るものです。
道教の三宝(神気精は天地人)の内の人であり、人そのものを表します。
人としての存在意思のことを指します。… 続きを読む