神聖な太極拳《太極拳三昧》

IMG_1281近くの公園の桜は、全く剪定もされず、ただひたすらに自由に伸びている。
迫り来るような、伸び上がるような枝に、たわわと花を咲かせている。
以前住んでいた東京の湯島から、歩いてすぐに上野公園がある。
不忍池の円周を全速力で10周ほど駆け巡ってから、上野公園に入っていく。
公園の広い道の両脇から、伸び出した桜の枝は、道を覆い被している。
その桜のトンネルを走り抜けて、朝のラジオ体操に参加して、そのまま太極拳の套路をするのが日課だった。
暢やかな桜たちは、心身の底にある気を鼓舞させる。
太極拳の気勢は、ただ暢やかに、自由に伸びていく。
心を静めるのではなく、どこまでも自由におおらかに伸ばしていく。
抑えるのではなく、意識で調整するのでもなく、ただ無為に自然に伸ばしていく。
この桜の木の気勢と、自らの気勢が同じものであるなら、太極拳は神明の域に入っていく。
太極拳の形を整えたり、意識的に動きや姿勢を制御したりしていることは、剪定と同じである。
この入り口を間違えると、大きく違ってくる。全く違うところに行ってしまう。
道路脇で剪定された桜か、暢やかに自由に花咲く桜か。
意識と整頓で整えられた太極拳か、自由に伸びやかに伸びゆく太極拳か。
どちらが良いかはいうまでもない。
太極拳は、全てを解放する武道である。
太極瞑想と言われる存思も、本能も自我も全て解放するだけである。
それらを抑え込んで静かにさせるのではない。
無為自然が、それらと融合を取り戻すだけである。
すると暢やかな桜のように、精気溢れる、神聖な太極拳になる。人生になる。
近くの公園の荘厳な桜を見て思う。

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